わき道をゆく第273回 現代語訳・保古飛呂比 その96

▼バックナンバー 一覧 NEW!2025 年 10 月 28 日 魚住 昭

一 十月十八日、晴れ、夕顔船が少々釜に故障が起きたため、海上から引き返したと、由比畦三郎より報告を受けた。用向きができたとして、石田英吉・渡邊剛八・佐々木栄・小田小太郎が来訪、相談に預かる。萩原真齋が来た。八ツ(午後二時)ごろから夕顔船を見に行った。今日、太宰府の土方楠左衛門より書簡が届いたと言って、小太郎が持ってくる。聞書(奏聞書のことか)伊藤俊助(伊藤博文のこと)・薩人・朝倉省吾(注①)へ送る。渡邊昇(注②)から干し鮑を贈ってきた。

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusのよると、田中静洲(たなか-せいしゅう1842-?)は「幕末-明治時代の武士,鉱山技術者。天保(てんぽう)13年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。元治(げんじ)2年藩の留学生にえらばれ,朝倉省吾の変名でイギリスとフランスに留学。朝倉盛明と改名し,明治元年フランス人技師コワニーの通訳をつとめて生野鉱山の調査にかかわる。鉱山司生野出張所長,生野鉱山局長などをつとめた。」】

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、渡辺昇(わたなべ-のぼる1838-1913)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年4月8日生まれ。渡辺巌の次男。肥前大村藩(長崎県)藩士。江戸の安井息軒に漢学をまなび,斎藤弥九郎の練兵館にはいり塾頭となる。剣を通じ近藤勇と親交をもった。兄の清とともに尊攘(そんじょう)運動につくし,維新後は大阪府知事,元老院議官,会計検査院長。子爵。大正2年11月9日死去。76歳。名は武常。号は東民,其鳳。」】

一 土方氏よりの書簡、次の通り。[十月十八日受け取り]

 一筆啓上します。時下寒さに向かう折り、まずもってますますご安康であられ、このうえなくめでたく、お祝い致します。さて、先日は思わぬことで英国より嫌疑を受けたことについて、わざわざ出崎され、鎮台(長崎奉行所)ならびに英人らにしきりに談判されたことを伝え聞きまして、はなはだ懸念しておりましたが、(貴兄の)いろいろなご尽力により氷解したとのこと。私も(貴兄と)同様に安心しました。かつまた、中原(京都のこと)一挙も非常に切迫しており、日夜(太宰府から)東を望んで、(京都からの)一報を待っておる次第です。このため、五公(太宰府にいる尊攘派五卿のこと)のお方には右の一挙までに当地を出られるように薩摩藩で取り計らうはずで、近いうちにお迎え船を差し向けるはずです。表向きは、今春五藩(五卿の預け先の五藩のこと)より朝廷・幕府へ願い出て、ご帰洛(京都に帰ること)の運びになっているので、ご帰洛と唱えて、四藩(佐幕派の高松藩など四藩のことか)を愚弄しておき、途中で長州に立ち寄り、大膳さま父子に面会し、それから上京して、必死のご尽力をされるお考えです。当方の近況はほかには一事もありません。この後のところはますます大事件が起きるでしょうから、申し上げるのは恐れ入りますが、(貴兄の)平生のご節操かつご重任柄、ひとえにご尽力をお願いします。まずは以上のことだけを申し上げたく、早々にこのような(手紙を書いた)次第です。恐惶頓首。
 十月十三日
 ご覧の後、火中に投じてください。百拝。
 土方楠左衛門

 佐々木三四郞様

一 渡邊氏よりの書簡、次の通り。
 拝啓、その後はご無沙汰しておりましたが、ますますのご壮健を謹んでお祝い申し上げます。私は所用があって昨晩また長崎に来ました。今朝ちょっと(お宅を)お訪ねしましたが、転宿されたとのことだったので、他の用事に赴きました。いずれ明朝までのうちにお訪ねしようと思っています。さてこの品は軽微の至りではありますが、国産の品にまかせ、拝呈します。ご笑納くだされば大慶の至りです。草々頓首。
 十月十八日  渡邊昇
 佐々木三四郞さま
 呈上品添

[参考]
一 次の書簡は小笠原圖書(注③)より英国公使へ贈ったものである。この写しはこの月の二十一日、二十九日および翌月二十日の(手紙)とともに、後日他から借り受けたので、参考のためここに記す。
 長崎表において、イギリス水夫殺傷
 大英帝国特派公使全権
 ミニストル兼コンシュル
 ゼネラールエキセルレル
 シエルハリエスパルケスシビへ

 書簡をもって申し上げます。今日三時半、そちらの公使館へ行こうとしたところ、気分が悪くなってどうにも行けなくなりました。ついては、(閣下に)来ていただくようお願いしようかとも思いましたが、次のような次第でわざわざ来ていただくのも、閣下のご多忙中にお気の毒に思いますので、以下の内容をご了解の上、ご回答ください。いったい長崎表において、貴国人が殺傷された件は、犯罪人召し捕り方の疑案(真相がはっきりしない事件)のため、その取り調べなどは長崎表において取り扱い、詳しい顛末をも実地で取り調べるということで、土佐において閣下の懇請により、平山圖書頭がわざわざ彼の地(長崎)へ出張しました。閣下の方からは「サトー」氏を名代として差し向けられ、また幕府においては、鄭重な処置をもって兵隊を派遣し、新規に奉行を選任し、これまでの奉行の呼び戻し命令を下し、そのほか彼の地でも警衛の兵隊を取り立てました。そうしたところ一昨日、平山圖書頭が江戸に帰ってきたので、「サトー」氏が長崎を離れてから後、新たに取り計らった件をも圖書頭同席で閣下に面談し、委細をご相談したいと思っていたところ、同人(平山圖書頭)には面会できないとのこと、遺憾の至りです。また、わが国の高官の者一人を長崎表に派遣するようにとのことを昨日言ってこられました。その理由は何も言ってきておられません。そのようなことでは閣下のご意思は徹底しがたく、不本意ながら即答もいたさぬ次第ですので、(閣下の)趣意を承知したい旨を繰り返し懇請におよびましたが、何らご回答もなく、ほとんど当惑しております。右の事柄を了解しなくては、確答もできませんので、「サトー」氏と圖書頭が詳しいことを検討し、直接話し合えば情実が徹底するでしょう。もしお互いに心中を明らかにし、事実を弁明しないようなことになっては、双方の意思が齟齬をきたし、ついに閣下の深意にかなわぬこともあろうかと、憂慮のあまり申し上げます。拝具謹言。
 慶応三年十月十八日
 小笠原壱岐守 花押

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、小笠原長行(おがさわらながみち[生]文政5(1822).5.11. 唐津[没]1891.1.25.)は、「東京江戸時代末期の幕府老中。安政4 (1857) 年,唐津藩主小笠原長国の養嗣子となって図書頭と称した。唐津藩政にすぐれた業績を上げ,文久2 (62) 年閏8月,難局を控えた幕府に登用され,若年寄となる。翌9月,老中格。同3年生麦事件の賠償問題では,独断でイギリスに償金支払いを決定。次いで兵を率いて京都に上り,弁明に及ぼうとしたのをとがめられて幽閉された。まもなく許され,慶応1 (65) 年1月老中となり,第1次長州征伐の指揮をとり,フランスに軍事・財政上の援助を要請。同3年外国事務総裁。同4年1月辞官。箱館五陵郭に拠ったが,明治5 (72) 年9月東京に帰った。」】

一 十月十九日、曇り、西川・萩原が来た。十一時より、安兵衛・真齋を同伴して、朝倉省吾の下宿を訪ね、それから朝倉も同伴して、「モンブラン」の宿所に行き、仏国人三名と英軍艦に乗り込み、早速出発した。風雨が波立つ。七里ばかり出た海上で、磯山厳石(磯辺にある山、大きな石のかたまり)を的にして発砲した。船中の動揺が激しく、水夫二人が大砲に触れて少々怪我をした。四時、帰港した。船中で食事が出た。その席で英仏人が中国攻撃戦の話をした。あるいは曰く。中国人は弱い。恐るるに足らず。あるいは言う。弱兵ではあるが多人数が入れ替わり出てきたのには随分困却した。互いに議論した。夕方、帰宿した。
 ただしこの軍艦は薩摩藩が買い入れる予定で、試運転することを朝倉より内々聞いている。[軍艦は二百馬力、一時間に十六マイル出るとのことである]
[追加]この船は後に春日丸と言い、献上となる。(※薩摩藩から朝廷に献上されたという意味か)。安兵衛・真齋は五ツ時(午後八時ごろ)すぎに帰る。西田屋より雨笠を取りに来た。

一 十月二十日、曇り、早朝、小太郎が来た。英吉・剛八より手紙が来た。使いは「シン」である。[シンは中国人の子どもで、海援隊で養っている。時々使いなどをさせている]。高橋七右衛門が用談に来た。渡邊昇ほか一人が用談のために来た。同夜、安兵衛・英吉と用談した。

[参考]
一 十月二十日、将軍が参内、諸侯の上京前に施行すべき政治全般のことについて(朝廷に)お伺いした。次の通り。
 召集の諸侯が上京するまでの間、取り計らい方について伺う事々。
 一 当地(京都)に三カ月駐留し、(京都の)各地点で警衛にあたる各大名への割り振りは、御両役(伝奏と議奏)において取り調べのうえ、それぞれにお達しになるのでしょうか。またはこれまでの旧手続きに基づいて(幕府の方で)取り調べをし、伝達は御両役のほうでなされるのでしょうか。
 一 禁裏御料(朝廷の所有地)ならびに御入用筋(朝廷の経費)の件、御料所のほうは(京都代官の)小堀数馬が取り計らい、御入用筋はこれまで通りの扱いにまかせておくべきでしょうか。
 一 大宮御所(注④)造営の国役金(注⑤)のことは、すでに伝達済みではありますが、このあとの収め方など取り扱いの事は、これまでの手続きでよろしいか。そうであるならば、そのことを諸大名へ御両役よりお達しがあるようにしたいと思います。
 一 五街道(注⑥)・脇往還(注⑦)の宿に人馬(を配置する)ことは、まずこれまでの通りになされおかれるのであれば、そのことを御両役より(沿道の)諸藩に通達されるのでしょうか。
 一 山城・大和・近江・丹波の四カ国、ならびに摂家(注⑧)・宮門跡(注⑨)・堂上方(注⑩)の家領、そのほか寺社領・大名領地に関係する公事出入(注⑪)、京都町奉行所で取り扱ってきた事どもは、これまでの通りに取り扱い、呼び出しなどはその主人へ掛け合いに及ぶべきでしょうか。
 一 刑法のことは、召集の諸侯が上京のうえ、お取り扱いになるべきと思いますが、それまでのところはしきたりの通りでよろしいでしょうか。
 一 兵庫開港につき、金札(政府紙幣)を発行するのは町人・百姓の融通のためで、すでに申し上げ済みであり、実際に実現に向けて動いているので、通用するようにしたいと思います。
 十月二十日

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、大宮御所(おおみやごしょ)は「太皇太后(たいこうたいごう)または皇太后の御座所」をいい、「京都仙洞(せんとう)御所の北西に廊下で続いているのを京都大宮御所という。寛永(かんえい)年間(1624~44)後水尾(ごみずのお)天皇の中宮源和子(かずこ)(東福門院、将軍徳川秀忠(ひでただ)の女(むすめ))のために江戸幕府が造営、代々女院の御所となっていた。この間火災炎上数度、安政(あんせい)の焼失は1867年(慶応3)再興された。」】

【注⑤。デジタル大辞泉によると、国役金(くにやく‐きん)は「江戸時代、河川・道路の修築などに際し、国役として徴収された税金。」】

【注⑥。精選版 日本国語大辞典によると、五街道(ご‐かいどう)は「江戸時代、幕府の道中奉行の管轄下にあって、江戸を起点とする主要な五つの街道。東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道をいう」】

【注⑦。精選版 日本国語大辞典によると、脇往還(わき‐おうかん)は「江戸時代、本街道である五街道以外の支街道。日光御成街道・例幣使街道・水戸路・伊勢路・佐渡路・中国路・北国路などは、その主なもの。脇街道。」】

【注⑧。精選版 日本国語大辞典によると、摂家(せっ‐け)は「摂政・関白に任ぜられる家柄。平安時代には藤原氏北家の嫡流をさし、鎌倉時代にそこから近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家が分立して以後はその五摂家をさす。」】

【注⑨。精選版 日本国語大辞典によると、宮門跡(みや‐もんぜき)は「仏語。門跡の一つ。法親王、または入道親王が住職として居住する寺院。仁和寺・青蓮院・知恩院・輪王寺・大覚寺または一乗寺・妙法院・聖護院・照高院・勧修寺・三千院(円融院)・曼珠院・毘沙門堂・円満院の一三か寺を称するが、実際には親王家に限って入寺するのは輪王寺・仁和寺・大覚寺の三門跡で、その他は摂家からも入寺できた。」】

【注⑩。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、堂上(とうしょう)は「昇殿を許された公卿・殿上人(てんじょうびと)の総称。昇殿を許されない地下(じげ)に対する称。院政期以降,昇殿を許される家格が固定化し,堂上家が成立した。堂上家には,摂関家,天皇の外戚になる機会が多かったため太政大臣に至る官途を開いた清華(せいが),上流貴族の庶流で頭中将(とうのちゅうじょう)をへて昇進する官途を形成した羽林(うりん),文筆などの実務能力から頭弁(とうのべん)をへて昇進する官途を確立した名家などの家格があった。」】

【注⑪。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、出入筋(でいりすじ)は「江戸時代の訴訟手続の一つ。吟味筋に対するもので,訴訟人 (原告) が目安 (めやす。訴状) をもって相手方 (被告) を訴えると,裁判機関 (町奉行など) はこれに相手方を某日に召喚する旨の裏書を加えて,訴訟人をして相手方に送達せしめ,相手方より返答書 (答弁書) を提出させて,原=被双方を対決 (口頭弁論) させ,糺 (ただし。審理) を行い,裁判 (判決) を与える手続である。しかも,手続の進行は,当事者の処分にゆだねられ,内済によって解決することが望ましいとされていたから,出訴以後も役人によって内済が繰返し勧奨され,ときには訴訟人の申立てだけでそれが成立することもあった。そして,この手続にかかる事件を出入物,あるいは公事出入または単に公事といい,これには国郡村田畑境論,山野秣場用悪水論,立木伐採,理不尽,口論,疵附 (傷害) ,不義誘引,出奉行人,婚姻,家督,商売,貸借などがあった。」】

[参考]
一 この日、参内の公卿および十万石以上の藩主に、次の件のご諮詢があった。
 一 近々上坂(大坂に行くこと)するといわれる(三條)實美以下の脱走人のこと。
 一 外国のこと。
 右はこれから諸侯が上京し、公論衆議の上、ご決定になられるのだが、まずさしあたりの処置をどうするか尋ねてくださっている。
今日尋ねてくださった件については、明二十一日中に両役のところに必ず返答するように。
一 明後日の二十二日、
 御用の件があるので、今日の通り、巳刻(午前十時)に参内すること。
 十月二十日

一 十月二十一日、晴れ、英吉・小太郎・真齋が来た。
 海援隊のことにつき、森田晋三を呼び寄せた。
 小太郎が長州人のことにつき、再度来た。
 安兵衛が来て、大谷義庵の商取引のことを言ってきたが、許可せず。「モンブラン」の招きで、英吉・小太郎・安兵衛・真齋を同伴、薩摩人・五代才助(注⑫)・朝倉省吾も同席した。夜五ツ半(午後九時)ごろ帰宿した。

【注⑫。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、五代友厚(ごだいともあつ。1835―1885)は「実業家、政商。薩摩(さつま)藩士で儒者兼町奉行(まちぶぎょう)の五代直左衛門秀堯(ひでたか)の次男として生まれる。幼名を徳助、才助といい、松蔭と号す。長崎で航海、砲術、測量などの技術を習得、薩英戦争(1863)に参加し捕虜となるが脱出した。1865年(慶応1)藩命により留学生を引率しヨーロッパを視察、武器、船舶、紡績機械などの輸入を行い、薩摩藩の産業振興に大きく寄与した。維新後、官界に入るが、1869年(明治2)会計官権判事を最後に退官した。その後実業界に転じ、大阪を本拠として活躍。金銀分析所の設立によって巨富を得、1873年弘成館(買収鉱山の統括機関)、1876年朝陽館(製藍工場)を設立するなど、大阪の産業の近代化に貢献。また大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立、指導に尽力し、大阪財界の組織化にも貢献した。1881年開拓使官有物払下げ事件の中心人物として非難されたが、大阪の経済的発展、近代産業の開拓・移植などに果たした指導的役割は高く評価されている。なお、大久保利通(おおくぼとしみち)とは富国強兵・殖産興業などの点で意気投合し、征韓論争後大久保暗殺までの時期、関係は緊密であり、外交・財政問題について大久保の「智恵袋」として活躍した。[石川健次郎]『宮本又次著『五代友厚伝』(1981・有斐閣)』」】

[参考]
一 同二十一日、三藩連署の上書(意見を述べるために主君・上官などに書状を奉ること。また、その書状=精選版日本国語大辞典)。
 このたび幕府が政権を朝廷に奉還したことは、まことにもって復古の御業(みわざ)、数百年来の英断でありまして、国体を変革し、宇宙間に独立されようという基本でありますので、微賤の私どもまでも深く天下のためと恐悦しております。ついては、衆庶議事(庶民が会合して事を議すること)の意をもって、諸藩士どもまで召し出され、ご下問された事項について謹んで言上いたします。
一 徳川家が扱いかけていた案件については、現在(徳川家から)伺い出ている通りに命じておかれ、それぞれの諸侯が合議の上、確定されてしかるべきと存じます。
 一 脱走の公卿方はやがて上坂するといわれているようですが、自ら進んで脱走の次第になったのではありません。召集された諸侯の合議の初めにご裁断を命じられ、長防のご処置と「同貶」(※意味不明のため原文引用)になってしかるべきと存じます。
 一 外国の取り扱いは、しばらくこれまでの通りにおかれ、召集された諸侯の合議の上、皇国一体をもって朝廷の取り決めを結ばれるべきです。もっとも兵庫開港については、このたびの大改革が国本(国家の基本)変換の次第に及んだという事情により、延期してしかるべしと存じます。
 右の各件について在京の三藩の者どもが同意しましたので、恐れながら連名で申し上げます。もっともこの文書のほかさらにまた口頭で言上します。誠煌誠恐、頓首謹言。
 十月二十一日[藩政録には二十五日とある]
 松平修理大夫(薩摩藩主・島津忠義のこと)内  関山糺
 松平安芸守(広島藩主・浅野 長訓のこと)内 辻将曹(注⑬)
 松平土佐守(土佐藩主・山内豊範のこと)内 後藤象二郎 福岡藤次 神山左多衛

【注⑬。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、辻将曹(つじしょうそう。1823―1894)は「幕末維新期の政治家。諱(いみな)は維岳(いがく)。芸州藩上士の家に生まれる。ペリー来航を機に家老浅野遠江(あさのとおとうみ)ら改革派と藩政刷新を図るが失敗。浅野長訓(あさのながみち)襲封後は改革派が台頭、1862年(文久2)年寄役となって藩政改革にあたり、2年後年寄上座となる。第二次征長の際、長州藩への寛大な処分を主張、幕府から謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)秋冬の間、薩長芸三藩同盟締結、大政奉還建白の衝にあたり、小御所(こごしょ)会議で紛糾したときは後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を説得して王政復古を成就させた。同年12月参与、翌年内国事務判事、さらに大津県知事に任ぜられた。1869年(明治2)功により永世禄(えいせいろく)400石を賜る。1890年元老院議官に任ぜられ、男爵を授けられる。墓は広島市の誓願寺。[頼 祺一]」】

[参考][次の英公使書簡は、福沢諭吉が訳すとある]
一 同二十一日、英公使より小笠原壱岐守への書簡、次の通り。
 第百二十三号
 一八六七年十一月十六日、江戸ブリテンマゼスチー公使館において、小笠原壱岐守閣下に差し上げます。
 余は閣下の昨日付の書簡を受け取りました。ただし、その文中には、英国の「マゼスチーノ」の「イカリユス」船の二人を殺害した者を召し捕って、罰する方法を確かにするのに必要な諸手続を指図するため、平山圖書頭がすぐに長崎へ出発することに関して、閣下と余との間になした処置を記したものです。
 その事件が解決するのを余が好む証を閣下より得ることは、余においてはなはだ愉快であります。
 この事件(への対処)は、ただ日本政府より大ブリテン政府に対して正直に行うのみならず、なおかつ日本国の人民にも関係する事だということを考慮して、これを行うことが肝要です。上述の閣下の書簡では、平山圖書頭が何日ごろに出発するのでしょうか。また、事件の手続きが完全に終了するまでは、圖書頭が長崎に留まるように命じていただきたい。また、必要であれば、国内の他の所までも吟味に行くべき、特別な身分の高い士官を彼に付き添わせておられるのか、これらのことを定めていません。
 これゆえに、余はこれらのことを別の書簡で告げていただくことを閣下にお願いします。
 また余は、去る十三日付の貴兄の書簡では、前の長崎奉行の能勢大隅守および徳永石見守の両人を退役させたことを、どのように理解すべきでしょうか。これをも告知してくださることをお願いします。その訳は、右の両人のうちただ一人が(長崎を)発っていて、かつ、これは右の両人の怠慢を罰するためではなく、公務の当然な「経然」(ママ※意味不明)だとのことを長崎で一般にいわれているためです。余は、自分が格別な恭敬を表明する証を得る機会を望みます。
 ブリテンヒスマゼスチーノ
 特派公使ミニストル  ハルリエス・パルクス
○上記の閣老小笠原壱岐守と英公使とのやりとりを見ると、去る九月六日、長崎において、両奉行能勢大隅守・徳永石見守より、英人殺害の件は、わが土州人には疑いが晴れた旨の達しがあったが、なお英公使より下手人を詮索するよう迫ったようだ。しかしながら、幕府が大政を返上し、引き続き争乱となったため、英公使からもその間は中止となっていたところ、明治元年五、六月になって、さらに土州人に相違なく、まったく後藤象二郎・佐々木三四郞が隠しておいたのだと朝廷に申し立てたが、大いにその手続きが分明でなく、この件は再び長崎表で探索となり、ついに(下手人は)筑前藩人と決したこと、明治元年の項にある。参照してほしい。
(続。今回は公用文書が多く、難解な表現が多数あったので、きちんとした訳ができませんでした。曖昧なところ、意味の分かりにくいところが随所にあるかと思いますが、どうかご容赦ください)