わき道をゆく第272回 現代語訳・保古飛呂比 その95

▼バックナンバー 一覧 2025 年 10 月 14 日 魚住 昭

(岡内俊太郎の手紙のつづき)
それから大坂に着き、上陸して、野本平吉殿は直に京都に出るということで、私・(坂本)龍馬・(中島)作太郎らは、薩摩藩邸の前に薩摩屋という小家があるので、この家に行きました。そこに高松太郎(注①)・ 白峯駿馬(注②)・菅野覚兵衛(注③)・長谷部卓爾らが居合わせていたので、将来のことを戒め、言い含めておき、(我々は)大坂を発って京都に登りました。龍馬は作太郎とともに木屋町に宿を取り、戸田(雅楽)は知人の宅に行き、私は(土佐)藩邸内に止まりました。翌日、龍馬・作太郎・私の三人ともに白河邸(土佐藩が借りていた屋敷)に参り、石川誠之助(中岡慎太郎のこと)を訪問し、昨今の情勢を聞き、いろいろ話もしました。薩長は兵力によって(事を)なすの論、土佐は後藤殿がもっぱら建言論で、すでに建白書の提出までこぎつけています。龍馬もそれからいろいろ尽力周旋し、もっぱら薩長藩士に会い、また後藤殿にも諭し、とかく土佐は建言をもってし、薩長は兵力をもってするという間のことなのでいろいろ事情がこみ入っていますが、薩長とてたちまち今すぐに挙兵するというわけにいかず、そのうち建言の方もすでに事が進みはじめている模様が顕れている事情もあって、私どもも一面で建言の成りゆきに注意し、一面で薩長挙兵の時機を探り、石川らももっぱら挙兵の方策に周旋し、私どももいろいろその他の成りゆきについて参画しています。また長岡謙吉(注④)はもっぱら筆をとって坂本の意見、手紙の草稿などいろいろと文書(を書くの)に忙しく、追々時勢は切迫し、建言は深く進んでいるとのことです。建言を差し出した日は十月四日だそうです。坂本より後藤殿へ手紙を出して、(大政奉還の)模様を問い合わせておいたところ、次のように急使をもって言ってきたそうです。その写しは左に、[私が持っています]

お手紙は届いた。僕が一切謹んで受け取った。文中の政権を朝廷に帰還うんぬんが行われざる時は、もちろん生還しようというつもりはありません。しかし、今日の形勢により、あるいは後日に挙兵することを謀り、飄然として下城するかもわからないが、たぶん必死で廷論(※朝廷で議論することだが、この場合は将軍の面前で議論することを指すと思われる)するつもりだ。もし僕の死後、海援隊が一手うんぬんは、君の見る時機に投ずるに任せる。ゆめ軽挙に走ることなかれ。もはや登城の時間が頃合いに迫ってきた。大意をこれに書く。奉答頓首。
十月十三日  後藤元燁
坂本賢契(貴君の意)

この日、このように後藤より言ってきたので、今日の城中の模様はいかがと、一刻を待ち、夕刻になったところ、また次のように使いを送って言ってきました。その写しは左に、

ただいま下城、今日の出来事をとりあえず申し上げる。大樹公(将軍のこと)は政権を朝廷に帰すという号令を示した。このことを明日、天皇に奏聞し、明後日の参内勅許を待って、すぐさま政事堂を仮に設け、上院・下院を創業することになった。実に千載の一遇、天下万民のために大慶これに過ぎず、この段のみ取り敢えず申し上げる。忽々頓首。
十月十三日  後藤象二郎
才谷梅太郎様

このような形勢になりましたが、これは果たしてうまくいくのでしょうか。何か必ず大変事が起きることもあるだろうと、龍馬もいろいろと苦心しております。果たして変事も起きるにちがいない、またこの大英断に対しては、必ずやこれに異論を唱える者も出てくるにちがいない、徳川幕府の家臣たちの間でも必ず内輪の争いが生じるだろうと、あれこれ打ち合わせのうえ、中島作太郎は以前、紀州船・明光丸のために被害を受けたイロハ丸の償金の残金を受け取るために、その方に着手し、紀州にも赴き、またその他にも行って、とにかく残金を至急取ってくることにかかることになりました。また先日、京都に出てきた戸田雅楽は太宰府滞在中の三條卿へ、右の形勢を言上するため出発することになりました。また私は龍馬と打ち合わせをした結果、到底変事が起きぬことは考えられないので、是非ともこの形勢を詳細に国許の同志たちに知らせ、誰もがもはや必死の決心で京都に出て、変が生じた時に応じる事の謀をするにしかずということになり、龍馬と別れ、急ぎ国許へ帰ることになりました。今日はそれぞれ用意をし、明日の十五日には京都出発の事に取り決めましたので、このことを申し上げておきたく、まず高知を発って京都滞留中のことから、また京都を発って、ひとたび右の事情により帰国することになるまでの事情を申し上げました。このうえを何も無事になるとも思われず、必ず一大変事が起きるにちがいないので、そのおつもりでいてください。長崎での御用の都合によっては、早々にひとたび兎にも角にも国許にお帰りになられ、ご尽力なさることをひとえに希望いたします。また龍馬よりも、この形勢を詳しく私より貴方様に申し上げ、なにぶん早々に帰国され、またはそのままご都合によっては京都ヘお出でになるよう願いますとのことです。以前に京都に滞在されていて、石川誠之助(中岡慎太郎のこと)らと会われたとき、途中で海援隊士の英国軍艦水夫殺害(疑惑)のために一時出崎(長崎に行くこと)になられたことは、たいがい片付いたでしょうが、さらにイギリス人・アメリカ人両人を傷付けたことはどうなっていますか。これまたもはや済んだのでしょう。ついては長崎での御用が片付き次第、早々にご出京(京都に出ること)のご都合にもなるようひとえに龍馬よりの希望ですので、このことを私より申し上げます。とにかくお繰り合わせなさるよう邦家(この場合、国家を指すか)のために申し上げます。私はいよいよ明日十五日に京都を発ち、ひとまず帰国しますので、なお変事は後から申し上げることにしますが、まずは右のみご報告したく、以上の通りです。恐惶頓首。
慶応三年
十月十四日   岡内俊太郎
佐々木三四郞様
御左右

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、坂本直(さかもとなお。1842-1898)は「幕末-明治時代の武士,官吏。天保(てんぽう)13年11月1日生まれ。高松順蔵の長男。母は坂本竜馬の姉千鶴。土佐高知藩の郷士。土佐勤王党にはいるが,脱藩して小野淳輔(じゅんすけ)と名のり,海援隊で活躍。慶応4年箱館府権(ごんの)判事。明治4年坂本竜馬家の家名をつぐ。のち東京府典事,宮内省舎人などを歴任した。明治31年11月7日死去。57歳。本姓は高松。初名は清行。通称は太郎。」】

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、白峯駿馬(しらみね-しゅんめ1836-1909)は「明治時代の造船家。天保(てんぽう)7年生まれ。越後(えちご)(新潟県)長岡藩を脱藩,江戸にでて勝海舟に入門。のち坂本竜馬の海援隊にくわわる。維新後アメリカに留学して造船学をまなび,帰国して海軍,開拓使につとめる。明治10年白峯造船所をおこした。明治42年4月1日死去。74歳。本姓は鵜沢。」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、菅野覚兵衛(すがの-かくべえ1842-1893)は「明治時代の軍人。天保(てんぽう)13年11月23日生まれ。坂本竜馬の海援隊にくわわり,竜馬の妻の妹君子と結婚。明治2年アメリカに留学,7年帰国し海軍省にはいる。9年少佐。鹿児島造船所次長,横須賀鎮守府建築部長などを歴任。明治26年5月30日死去。52歳。土佐(高知県)出身。初名は千屋(ちや)寅之助。名は孝訓,孝義。」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、長岡謙吉(ながおか-けんきち1834-1872)は「幕末-明治時代の医師,官僚。天保(てんぽう)5年生まれ。土佐高知で開業後,シーボルトらに学ぶ。海援隊の書記となり,坂本竜馬(りょうま)が後藤象二郎にあたえた「船中八策」を起草。三河県知事。明治5年6月11日死去。39歳。本姓は今井。名は恂(じゅん),敦美。字(あざな)は子行。通称は別に純正。号は懐山。著作に「閑愁(かんしゅう)録」。】

[参考]
一 同十四日、将軍が政権返上を(天皇に)奏上した。
臣慶喜、謹んで皇国の歴史的な沿革を考えるに、昔、朝廷の権力が衰え、藤原家が政権を執り、保元・平治の乱で政権が武門に移ってから、祖宗(徳川家康)に至り、さらに(皇室の)寵愛を受け、二百余年、父祖が政権を受け継いできました。臣(慶喜)もその職につきましたが、その政刑(政事と刑罰)の当を失うこと少なからず、今日の形勢に至ったのも、畢竟不徳の致すところで、全く恥ずかしく、恐れ入る次第です。ましてや最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、朝廷に権力をひとつにしなければ、もはや国の根本が立ちがたいので、従来の旧習を改め、政権を朝廷に返し、広く天下の公論を尽くし、(天皇の)聖断を仰ぎ、心を一つに協力し、共に皇国を保護すれば、必ず海外万国と並び立つことができます。臣慶喜、国家に尽くすところはこれに過ぎません。さりながら、なお、(これについて)意見があるならば、言ってくるように諸侯に通達してあります。これにより、このことを謹んで奏上します。以上。
慶喜
慶応三年十月十四日

一 十月十五日 陰晴(曇りと晴れ)、早朝、調べ役の安藤鈔之助方に行った。(土佐藩士の島村)雄次郎の身上のことにつき、見込みを聞くためである。なお明日、立山役所に行くということを伝えておき、帰途、西川(に立ち寄り、そこに)(小田)小太郎が仏国戦士の図を持参した。紀州の岩橋轍助が留守に来訪したとのこと。高橋七右衛門が土佐商会より来て用談した。萩原真齋が来た。書物お買い上げのことである。早速承諾した。平野富次が暇乞いに来た。由比も同じ。「モンブラン」より受け取った原書ならびに聞き書きとも大村候がご覧になられたいとのことなので、渡邊昇の所望(ある物がほしい、またこうしてほしいと、望むこと=デジタル大辞泉)に任せた。

[参考]
一 同日、将軍が(皇居に)参内した。
朝廷が将軍の政権奉還の願いを認めた。ここにおいて大いに国是を議論しようと、十万石以上の諸侯を召す。特に松平慶永・鍋島齊正・伊達宗城・島津久光および老公(容堂のこと)を召す。
この日、将軍が、藩の留守居役某を二条城に呼び、目付役を介して次の文書を下付された。
一 さる十三日に渡した書面の内容を、
上奏されたところ、昨日の十五日、別紙の通り御所よりお命じになったので、それを知らせる。
十月
祖宗(徳川家康)以来、ご委任され、厚くご信頼されていたが、最近の天下の形勢を考察すると、建白の趣旨はもっともと思し召されている。今後も天下とともに同心尽力をいたし、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るようにとのご沙汰である。
また
大事件・外夷(外国人)に関する件は衆議を尽くし、そのほか「諸大名伺」(※諸大名からの上奏案件という意味か)や(天皇の)命令などは朝廷の議奏(注⑤)・伝奏(注⑥)が取り扱い、それ以外の件は、お召しの諸侯が上京の上、決定される。それまでの徳川の支配地、市中の取り締まりなどは、これまでの通りで、追ってお沙汰が出される。
十月十五日

【注⑤。デジタル大辞泉によると、議奏は「江戸時代、朝廷に置かれた職。天皇の側近として口勅を伝え、上奏を取り次いだ。清華せいが・羽林の両家から四、五人が選ばれた。」】

【注⑥。デジタル大辞泉によると、伝奏は「平安後期以降の朝廷の職名。親王・摂関家・武家・社寺などの奏請を院や天皇に取り次ぐことをつかさどった。その中でも室町時代以降の武家伝奏は、特に江戸時代において公武間の意思の伝達にあたる重職であった。」】

一 十月十六日、曇り、岩崎弥太郎が用談に来る。雄次郎が帰国するので、御用向きを聞きに来る。芸州藩の石津蔵六が来訪。小田小太郎より「モンブラン」へ書物を取りに人を遣わすように言ってきたので米次を遣わした。四ツ半(午前十一時)ごろ、立山役所に出勤、雄次郎の事件について証人二、三名ならびに丸山遊女の申し立ての写しを安藤鈔之助より借り受けた。仏国人三人が来訪。安藤より借りてきた文書を小太郎が写し取って、早速小太郎が立山役所へ(文書を)返却に行く。
雄次郎が帰国するので、取り締まり(※よくわからないのだが、監視役として付き添うことか)を溝渕広之丞に申し付けた。
「モンブラン」より受け取った原書二冊、ほかに書籍十七冊を広之丞に託し、御国へ送る。
由比畦三郎・本山武三郎・馬場鉛子が暇乞いに来る。戸梶俊泉(医師)より容体書(ようだい‐がき。物事の状況を記した書き付け。特に、病状を書いたもの=デジタル大辞泉)を受け取る。
同夜、岩村左内が来訪。五ツ半(午後九時)ごろ帰る。英吉も来る。夕方である。

[参考]
一 同十六日、(朝廷が)伝奏・飛鳥井雅典をして、別に添え書きをもって命を伝え、老公に上京を命じた。添え書きの文に、
別紙の通りご命令になったのについては、御用がおありになるので、容堂は早々に上京せよ。もし所労(疲れ。病気=デジタル大辞泉)であっても、押して早々に上京せよというお沙汰である。

一 十月十七日、末松亨・雄次郎が暇乞いに来る。広之丞・七右衛門・安兵衛・英吉・小太郎・剛八・栄が来る。証拠人の謝礼金十五両を新屋藤助に渡す。(国許にあてた)御用の書簡二通を書く。留守宅へも書状。「智環啓蒙塾報」十七冊ならびに仏人「モンブラン」の著述書二冊ならびに右の聞き書き四冊とも、広之丞に託し、御国ヘ送る。御用の書簡は広之丞に、留守宅への書状は雄次郎に渡す。
八ツ(午後二時)ごろより夕顔船に暇乞いに行く。夕七ツ(午後四時)すぎより今魚町の初村芳三郎宅に転宿した。剛八・小太郎・英吉・安兵衛が来る。初村より酒肴を出す。

一 後藤ほか両氏よりの書簡、次の通り。[十月十六日受け取り]
今般、ご隠居様が早々に上京するよう勅命を受けられ、また、このたびの(大政奉還の)建白の際、ご採用が迅速に運びました。ついては早々に(ご隠居様が国許を)出発されるように、夕顔船を至急国許へ乗り帰るよう取り計らっていただきたい。もしまだ故障箇所の修復がすんでいなければ、なるだけ迅速にすませ、一日も早く帰帆の首尾を整えるよう、「此段為御掛合如此御座候」(※正確な意味がわからないので原文引用)。以上。
十月十七日記す
京都より
後藤象二郎
福岡藤次
神山左多衛

佐々木三四郞さま

追伸。もし修復に手間取っても、来月五日より十日ごろまでに(夕顔船が)国許に着くようにお取りはからいいただきたい。
大樹公(将軍)が反正(「正しい状態にかえすこと。また、正しい状態にかえること=デジタル大辞泉)され、政権を朝廷に返上することを上奏されたところ、早速勅許になったため、早々に(ご隠居様が)上京する必要があるためです。

一 後藤氏よりの書簡、次の通り。
先日来は、たびたびお手紙をいただきながら、始終お答えも申し上げず、失敬万々をお許しください。まことに長期にわたるご奉職のご苦心を察し奉ります。僕ことも再度の上京以来は、ことのほか繁忙で、母体を出てからこれほど苦心したことはなく、結局そのような訳でその都度お答えも申さず、万々お許しくださるよう願い奉ります。このたびは長崎での商取引担当を受任されたとのこと、ご苦心千万と存じます。なにぶんとも悪しからずご周旋ください。山崎直之進も、ようやく四、五日前に大坂に着き、御地(長崎)の状況は承りました。「商法償金」(※いろは丸の償金の件か)の件については、だんだん解決に近づいていることも承知しました。これは是非適切な処置なくてはとても参らぬことと存じ、一策を思いついたのですが、書簡では説明しがたいので、このたび松井周助に言い含めて御地に差し向けました。それまでのところは、万々ご配慮よろしくご処置をお願いします。思いがけなくも国許で(大政奉還の)建策を採用になり、政権はことごとく朝廷に帰すということになり、老公にも速やかにご上京ということになり、万々天下の為に感激の至りに堪えません。この件で僕もいま二カ月ばかりはどうも出崎(長崎に行くこと)は難しく、これよりまたまた国許に馳せ帰り、老公のお供をして再上京し、その上で(老公の)許しをもらって、出崎するつもりですので、万々ご承知ください。そのうえで万々ご相談申し上げますが、右の事情を悪しからずご承知くださり、英人「ヲールト」ほかの人々によろしくお伝えくださり、(私の)近々の出崎のこともお知らせください。いずれ松井も遠からず長崎に着いたら、まずこの策について貴兄の同意を早々に得たいと思います。この(手紙の)便は小松らが帰国し、隅州公(島津久光)の上京を促すためです。その便のついでにこのことを申し上げておきます。かれこれと万々ご配慮をくだされたく、まずは以上のことだけを慌ただしく申し上げます。頓首。
十月十七日 象二郎
三四郞兄

御国の建白書をご覧のため差し上げ奉ります。密かに流行させるのは、先生のご判断しだいです。
勅許を幕府が求める奏聞書は、薩人より借りてお読みください。
勝って兜の緒をしめよ。先日来、風邪で、今日もまだ熱がひきませんが、客の訪問が多く、人を待たせておいてこの手紙を書いてます.再読の暇はありません。お察しください。
(続。手紙というのは、その人の個性を鮮やかに映し出すものだと今さらながら思いました。この後、龍馬・慎太郎の暗殺、王政復古、戊辰戦争と大事件がつづきます)