わき道をゆく第275回 現代語訳・保古飛呂比 その98

▼バックナンバー 一覧 NEW!2025 年 11 月 26 日 魚住 昭

一 (慶応三年)十一月十二日、晴れ、敬吉・敬助・小太郎・安兵衛・才七が来た。長崎のフランス語通訳平井義十郎が来訪。小太郎が来て言った。「時久逸衛が紀州藩に、受け判(※保証人として判を押すことだが、ひょっとしたら金銭授受を意味しているかも)のことで大いに迫ったようです。その使者は海野道次郎・濱田幸十郎とのことですが、この二人はまだ素性がわかりません。どうしましょうか」。至急(素性を)調べるよう安兵衛に言いつけたところ、すぐにわかった。海野は大谷義庵が変名で迫ったという経緯がはっきりした。 その夜、(大谷に)「御預ノ立リヲ以」(注①)牢屋入りを命じ、時久逸衛を召し寄せ、入牢を申し付けることにした。
 右の一件につき、運吉の職務をいったん解いて、御目付方御用を命じた。そのほか書生へも(御目付方御用を)命じ、召し捕り等の手筈を整えさせた。
 同夜、以前から、伊藤俊輔と別れの盃を交わすはずだったが、右のような事情のため、ようやく五ツ半(午後九時)ごろ玉川に行ったところ、みな帰っていて、一人二人残っていたので、談話し、四ツ半(午後十一時)ごろ帰宿した。伊藤は英国船に乗り込み、兵庫の方へ行く筈である。時久は同夜、途中で召し捕り、前述の通り処置した。ただし時久逸衛は又者(家臣の家臣。陪臣のこと)であるが、当今の情勢のため、紀州藩等へ何かと内通の恐れがあるので、厳重に取り調べさせることにした。彼のような者は、一身の利害のために勤王家の害となると考えたためである。(注②)

【注①。選版日本国語大辞典によると、御預は「江戸時代、逮捕された被疑者が軽罪の場合、審理中に入牢させないで、特定の宿屋、町または村に預けて監禁させること」。立リ(たてり)は高知の方言で「建て前」「原則」の意と思われるが、正確なところはわからない。】

【注②。時久、大谷の一件はイロハ丸沈没事件をめぐって土佐藩と紀州藩の談判が進む最中に起こったようだ。『佐佐木老候昔日談』にその経緯が書かれているので引用する。「之はホンの一寸した事ではあるが、この際藩の時久逸衛と大谷義庵が藩の使者と称し、偽名して金銭授受を迫り、小細工を施して金儲けをしやうと懸つたことがあつた。で安兵衛に命じて真相を調べさせ両人とも入牢を申付けた。時久はなかなかの悪奸で、一身の利害に依つては紀州藩へ内通する懼があると思うたから、厳重に糺明しやうとした處が、十二月になつて、破牢して唐津方面へ逃走した。かういふ男であるから、窮すればどんな悪事でもやる。若し幕府や他藩の手を煩はして、藩の名を汚すやうな事があつてはと、直に其の後を追かけさせ、十二月十一日になつて逮捕して来たから、羽衣船に乗せて国許へ差送つた。かういふ獅子身中の蟲が居るから、油断出来ぬと思うた事であつた」。】

[参考]
一 同日、朝廷の国事掛より大政一途(権限を朝廷に集中させる)、綱紀確立についての策問(諸侯に対するご下問という意味か)二通、および太政官八省(注③)以下の再興の議案を上程した。

【注③。百科事典マイペディアによると、八省(はっしょう)は「古代律令制度における中央行政組織。太政官(だいじょうかん)下の八つの政務分担機構で,中務(なかつかさ)省・式部省・治部省・民部省は左弁官局,兵部(ひょうぶ)省・刑部(ぎょうぶ)省・大蔵省・宮内省は右弁官局に属し,四等官(しとうかん)は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)。」】

一 十一月三日、晴れ、出勤して(時久)逸衛の訊問をさせた。また、土佐商会内に仮牢を設けさせた。小太郎が来て、大村からの受取を受け取った。
 夕方から敬助・安兵衛・真齋・運吉を同伴して、藤屋で四、五人に、時久逸衛の件で尽力したので馳走して、夜四ツ時(午後十時)前に帰宿した。

一 十一月十四日、風雨、慶助が来た。用談。それより出勤、夕方、小太郎・安兵衛が来た。

一 同十五日、晴れ、出勤、安兵衛・小太郎が来た。
 夕方、海援隊が寄留する新町の屋敷に行き、帰途、野崎(傳太)の下宿に立ち寄り、夜五ツ時(午後八時)ごろ帰宿した。

[参考]
一 ご隠居さま・太守さまが藩士を高知城三ノ丸に集め、次のように訓戒した。
 皇国の成りゆきを案ずるに、往古からその変革があったといっても、鎌倉(幕府)の時より天下の政権は覇府(幕府)に帰した。これは大変革の一つだった。世の中の道義の気運にしたがって転換したというより、その機に応じた処置がそういう結果をもたらしたものである。徳川氏に至り、封建のなりゆきになって二百六十年の今まで、大将軍の職をもってこれを統治されたが、このたび世界の情勢を考えられ、政権を天朝に返し、帝室隆盛の昔の戻り、ひろく万国の公法まで考慮に入れて、光明正大の政務が行われる基礎をつくろうということになった。これは当今の気運や世の中の道義の機会に応じた大変革というべきである。わが土佐の国も今日のように旧例に因循した政(まつりごと)では、一途に皇室を守り、皇威が光り輝くように輔翼することが覚束ない。よって、現在の「不弁」(※精選版日本国語大辞典によると、「都合の悪いこと。能力や財力などがなくて物事が思うようにいかないこと。不足がちなこと」)は祖宗の法度といえども、今日から事始め一新をして、現在の事態にふさわしい改革を申し付ける。いずれもこれに基づき、我らが朝廷のために忠誠を尽くすたすけとなるよう、力を合わせることがきわめて大事である。
 一 諸政は簡易を主として、世界の公法に基づき、以後政法を改正すべきこと。
 一 過去の是非曲直を問わず。もちろんこれまでの罪跡は、人を殺した者の罪を咎めて死刑にするほか、ことごとく赦すべきこと
 一 軍制は現在の急務であるので、一日も速やかに調査研究すべきこと。
[参考]
 十一月十五日、これに先だち、浦上の異宗徒の取り扱いについて、岡士(コンスル。領事のこと)ならびに教師らが、その苛酷であったことを公使に訴えた。公使は憤って、平山圖書頭が命令をねじ曲げて囚徒を拷問させたということで、小笠原壱岐守に迫った。このため、(壱岐守は)その事情を朝廷に上告して、一応圖書頭を訊問すべきだということを、監察の原十郎を使者にして急報した。その途中、十郎は圖書頭に会見したが、圖書頭は直ちにフランス公使に会って話すので、ご心配には及びませんという文書を十郎に持たせて上京させ、フランス公使が在留中の伊豆の熱海に赴き、事情顛末を説明し、ことはまったく円満に解決した。ここにおいて、右の事情を京都に説明して承認を求め、この月に至り、公使の申し立てのように、板倉伊賀守よりの書簡に平山圖書頭の建言書を添えてフランス公使に送った。公使は初めて欣謝(相手の処置を喜び、謝罪するという意味か)し、この日、浦上異宗徒処分問題はまったく落着したという。

一 十一月十六日、晴れ、出勤。大谷義庵を訊問した。「ブルベッキ」(注④)を訪問したが、留守だった。
 夕方、長府人の梶山傳左衛門の招きで藤屋に行き、よる五ツ時(午後八時ごろ)帰宿した。

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、フルベッキ Guido Herman Fridolin Verbeck 1830―1898)は「アメリカ改革派(オランダ系)の宣教師。オランダ生まれ。モラビア派の信仰の影響を受けて育ち、ユトレヒトの工業学校で土木技術を学んでアメリカに移住。コレラにかかった体験が契機となりオーバン神学校を卒業して宣教師となる。シモンズDuane B. Simmons(1834―1889)、S・R・ブラウンと来日(1859)した。佐賀藩の学校致遠館(ちえんかん)で教えた青年たち(大隈重信(おおくましげのぶ)、副島種臣(そえじまたねおみ)ら)が明治政府の枢要な地位についたため、東京の大学南校(現、東京大学)の教頭に招かれ(1869)、破格の待遇を得る。明治政府のために開港、開国、開教(信教の自由)、教育の各領域にわたって宣教師の役割を超えて力を尽くす(1875まで)。その後は全国各地を旅行してキリスト教の伝道に専念し、りっぱな日本語で説教と講演を行い、明治学院で教え、聖書の翻訳では『旧約聖書』の「詩篇(しへん)」を植村正久と担当した。68歳で東京で死去。[川又志朗 2018年8月21日]『高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』(1978/オンデマンド版・2007・新教出版社)』」】

一 眞邊氏よりの書簡、左記の通り。[本文は喪失]
 別啓(本文とは別に申し上げる)します。森澤清五郎がそちらへ派遣されておるとのこと。御当地(大坂のことか)の土佐商会は(山崎)直之進一人ではいろいろとやりくりが難しいため、なにぶん清五郎は御当地の事情も知っているので、ちょっとこちらへ寄越してください。ご都合により、お返ししますので、ひとまずしばらくの間、寄越してください。詳しいことは松井(周助)よりお聞き取りください。以上。
 十一月十六日  眞邊栄三郎
 佐々木三四郞様

[参考](次の英公使書簡は、福沢諭吉訳すとある)
 一 同十六日、英国公使が小笠原閣老に送った書簡、左記の通り。
 一千八百三十七年(1867年の誤記か)十二月十二日、[別の本では十二月十六日]江戸で。
 小笠原壱岐守閣下に差し上げる。
 島村雄次郎の件で昨日、閣下より送られた書簡を受け取りました。この雄次郎は今月[誤記か]八日、長崎で英人「アンデルソン」、米人「ワルレン」を白刃で切りつけた者です。
 閣下は雄次郎の取調が終了したら、そのことを報告させていただくとのことなので、私が思うに、ことを正しく決断するには、双方の説を同じように用いるべきだと思いましたので、この事件に関して長崎在留の「女王陛下のコンシュル(領事)」より私に届いた報告と、「アンデルソン」「ワルレン」の聴取結果、ならびに「女王陛下のコンシュル」および長崎奉行両人の立ち会いの上で日本人より聞き糾した証拠をも合わせて閣下の一覧に供します。[前に掲載した]。私は改めて恭敬を表します。
 ブリテン女王陛下の特派公使全権ミニストル ハルリエス・パルクス

一 十一月十七日、晴れ、出勤。
 小太郎・安兵衛が来た。西川の婦人が来て、鶏肉を贈られた。
 夕方、傳太・慶助・安兵衛を同伴して釜屋に行く。渡邊・佐々木が来て用談、夜四ツ(午後十時)前に帰宿。

一 十一月十八日、晴れ、出勤、大谷を訊問した。夕方、新町屋敷(海援隊の拠点)に行き、夜五ツ半(午後九時)ごろ帰宿。森田晋三より「キニフル」の一件について、是非出勤してくれるよう言ってきた。そういうこともあって、本日は早勤した。「キニフル」とは商人で、(土佐商会と)取引があり、支払いが延引しているためである。

一 同十九日、雨、出勤。小太郎・安兵衛が来た。同夜、野崎方に行き、五ツ半ごろ帰った。

一 戸田氏(注⑤)よりの書簡、左記の通り。
 寒さが日々ます折り、いよいよご清祥のこととお喜び申し上げます。さて、先ごろは(私が)長崎に出ました際、いろいろとご厄介になり、深く感謝しております。そのみぎりに(佐々木様が)少々ご病気であられましたが、その後いかがなされたかと、とても心配しておりましたが、最近はますますご壮健とのことを拝承しまして、遠方から悦んでおりました。なおますますのご療養が専一と存じます。あれ以来、あちこち漂白しまして、尊藩(土佐藩)ではいろいろとご厄介になり、ありがたく存じ奉ります。その後は久しくご無沙汰しまして、失敬の至り、何とぞお許しください。今般、幸い(長崎への)便がありましたので、取り敢えず右の御礼御伺いかたがた乱筆で記しました。他は再会を期しまして、草々頓首、拝啓。
 慶応三年冬至 戸田雅楽
 佐々木三四郞さま

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、尾崎三良(おざき-さぶろう1842-1918)は「幕末-明治時代の官僚,政治家。天保(てんぽう)13年1月22日生まれ。三条実美(さねとみ)につかえ,慶応4年実美の子公恭(きみやす)にしたがいイギリスに留学する。太政官大書記官,元老院議官,法制局長官などをつとめ,23年貴族院議員。大正7年10月13日死去。77歳。京都出身。名は盛茂。幼名は捨三郎。変名に戸田雅楽。号は四寅居士。」】

[参考]
一 同二十日、小笠原閣老が英公使に送った書簡、左記の通り。
 大ブリタニア特派全権
 ミニストル兼コンシュルゼネラール
 エキセルレンシー
シエルハリエスパルクスケシビへ
書簡をもって申し上げます。先ごろ、長崎で松平土佐守の家来である島村雄次郎が貴国人ならびに米国人と口論に及んだ一件で、長崎奉行が貴国の領事と談判の際、雄次郎が抜剣したのは当然のこととのことを申したということを貴殿の手紙で初めて知りました。しかしながら、士分の者がやむを得ざる事情があって抜剣するのは別として、みだりに抜剣すべき理(ことわり)はありませんから、長崎奉行より貴国領事に申した内容は相当とは思えません。よって、さらに取り調べた上で、罪名が確定したならば、その段を申し上げますが、まずこの段を申し上げておきます。拝具謹言。
 慶応三年十一月二十日 小笠原壱岐守

 右の書簡の内容では、いまだ落着していないようだが、長崎ではもはやことが済んだ様子で、島村・田所の両人とも帰国するよう指示を受けた。そのあたりはどうなっているのか。後日、この書簡を見て、不審に思ったが、維新後もこの事件はなんとも沙汰がなかったので、たぶんそのままで、つまり我らの勝利になったと思われる。

一 十一月二十一日、風雨、出勤。野崎傳太・森田晉三・小田小太郎・高橋安兵衛・堀内慶助・大住春吉らが来た。それぞれ用談。

一 同二十二日、曇り、出勤。小太郎・慶助が来て、時久の一件を相談した。中島作太郎の書簡が下関から来た。薩摩が持参したとのこと。すぐさま慶助に渡し、小太郎に見せるように言いつけた。
 同夜、渡邊昇を同伴して小島屋に行く。安兵衛も来た。

一 同二十三日、晴れ、野崎が(病気で)引き籠もりのため、下宿へちょっと用談のため立ち寄った。慶助・小太郎が島屋事件について用談に来る。森田晉三より外国人談判のことで通知があった(との連絡あり)。長府人梶山傳左衛門を藤屋に招き、返礼した。渡邊昇より迎陽亭に招かれたので、藤屋での会食を終えて迎陽亭に行き、夜四ツ(午後十時)前に帰宿。

一 十一月二十四日、晴れ、早朝、慶助・運吉・春吉が来る。時久のことである。出勤の上、小太郎・慶助と用談を済ませ、夕方、大村人を迎陽亭に招き、夜五ツ半(午後九時)ごろ帰宿。

一 同二十五日、晴れ、体調が優れないので引き籠もり。小太郎は下関行きを延引した。
 御国より飛脚が到着。呼び返し(本国への帰還のことか)を命じられる。このため、病を押して野崎(傳太)のところへ行き、相談した。

一 金子氏以下の参政四氏よりの書簡は左記の通り。
 一筆啓上します。さて、貴殿は御地(長崎)での御用を早々に引き払い、帰国されたい。また、野崎傳太はしばらく(長崎に)とどまり、近いうちに眞邊栄三郎が長崎行きを命じられるので、その際に引き払うよう、かれこれ調整すべき旨を奉行衆が命じられた。以上。
十一月十六日 参政 金子平十郎
同  由比猪内
同  森権次
同  大脇興之進

一 十一月二十六日、晴れ、出勤。小太郎が下関へ出発した。慶助・安兵衛が来た。松井周助が持参した後藤象二郎の覚え書き。
 一 象二郎、出崎(長崎に行く)のこと。
 一 長崎に屋敷を買い入れること。
  このことは彌太郎にも言っておきました。
 一 海援隊の扱いのこと。
これは近いうちに
老公が上坂の折、評決の上、それよりお答え申し上げる。
 一 紀州藩うんぬんは
これは岩崎(彌太郎)に言っておきました
 一 岩崎弥太郎の「身前」(※意味がよく分からない。身の振り方?)のこと。
これは松井君の口述にあり。なお越人(?)はお申し越しの通り取り扱いのこと。
 一 外国人雇い入れのこと。
(土佐藩)の国運次第であります。
 一 佐々木君の金策のこと。
これは彌太郎に言っておきました。
以上はこの日に受け取った。

一 十一月二十七日、晴れ、慶助が来た。松岡が内談のため来た。松井周助・岩崎彌太郎・橋本喜之助が長崎に帰ってきた。空蝉船が入港して、坂本龍馬・石川誠之助(中岡慎太郎のこと)が害されたとの報知あり。すぐさま海援隊に知らせた。また後藤象二郎より海援隊あての書簡を渡邊剛八に届けさせた。渡邊が来て、大いに憤怒し、すぐさま上京して仇討ちをすると言う。そのとき自分が言った。今日の天下、一人の仇討ちの時ではない。大仇討ちの策が必要なのだと。理をもって諭し、剛八はようやく承服した。松井から眞邊栄三郎の書簡、後藤象二郎の覚え書きなどを受け取った。夜、藤屋に集会して、上国(京都の近くの国々)のことを相談した。

一 眞邊氏よりの書簡。
 浪華(大坂)より一筆差し上げます。さて、崎陽商会(崎陽=長崎。藩営の土佐商会のこと)の商取引のことにつき、このたび本国において詮議があり、なるだけ(商取引の規模を)手狭(縮小するという意味)にし、(後藤)象二郎が長崎に行くまでは、なおさら(厳しく)監督するように言い聞かせることになり、野崎傳太が先ごろ長崎へ派遣されたという知らせを聞いて、愕然としました。長崎の商会の件はご承知の通り、象二郎に委託されたことで、同人は実に苦心尽力して、長崎の富商らは言うに及ばず、海外の富裕な国へも働きかけ、数万の金策を成就し、蒸気船数艘といろいろな器械などを買い入れました。わが国(土佐藩)の三、四千円の手形が外国にまで通用するくらいにこぎつけて、現在はもっぱらその支払いなど八方に応じるのに種々様々の策略を尽くしているときに、いきなり(商取引の規模を)手狭にしろといってもできるわけがありません。現在はこれまでと同じように手広にし、よくよく利害を計り、そのうちしかるべく監督して(収支のバランスをとるようにすべきです)。最初に結んだ信義を貫徹するようにしなければ、異人らに必ず疑念が生じ、たちまち不融通千万となり、どうにもならぬことになってしまいます。この件について、象二郎ととくと相談したところ、同人が言うには、土佐商会のことは自分が藩より委託されて運営していたのに、中途で本国より趣向替えになってはとてもやっていけず、のみならず、現在ただただ手狭にということになっては、たちまち不融通となり、どうにもならなくなることは明らかです。自分の最初からのやり方はたびたび詳しく岩崎彌太郎に言い聞かせ、同人はよくよく腹に入れていて、幸い今度上京しているので、これからすぐに長崎に行かせます。なおまた詳しく言い含めるので、これまでの扱い方の規則が変わらぬよう精々彌太郎に相談され、象二郎が長崎に行くまではなにぶんこれまでの取り扱いのやり方が変わらぬようあれこれとしかるべく取り計らってください。以上のことを私より貴兄によろしく伝えるように言ったので、そのように承知してください。象二郎も今度、折り返してすぐ本国に帰り、今月五日、夕顔船に乗り込み、出帆したので、土佐商会の件を本国においてなおまた詮議し、(手狭にせよという)決議について交渉に及ぶはずなので、それまでのところは、前述のように、私からも彌太郎に詳しく言い聞かせておいたので、彼から聞いて下さい。ただ手狭にといっても、にわかにそのようになるわけではないと思います。
一 このたび空蝉船で故障が起き、兵庫で修復することになりましたが、十分の修復ができず、それだけでなく全体の器械が大ゆるみで、ことに商取引などに便利が悪いため、ただ今のうちに、買い換えた方がいいという決議になり、まず長崎にまで差し向けました。詳しいことは周助ならびに彌太郎がよくよく心得ていますので、彼らに聞いて下さい。そのようなわけで、いずれ空蝉船は本国には帰帆にはなりません。しかしながら、替わりに買い上げる船も早速手に入れることは難しいでしょう。また、替わりに買い入れる船は商会船(土佐商会所属の船という意味か)になった方がいいだろうとの評議結果もあるので、いずれにしても空蝉船乗り組みの船長はじめ士官らをいま(長崎に)置いておくのは無益だということであれば、ひとまず本国へ帰国させるよう指示していただきたい。いずれ帆前船(風の力を利用して進む洋式帆船。幕末期に和式帆船に対していった=デジタル大辞泉)が本国から樟脳を積み込んでそちらに行くはずなので、その際に乗り込ませて送り返してもらえばよろしいと思います。もっとも空蝉船の替わりになる船は土佐商会付きになるなどということは、乗り組みの士官らに言うのは無用です。必ず大不平を生じることになるので、乗り組みの人々に対しては、空蝉の替わりにお買い入れになったら、本国に乗り回すことになるので、その際にお呼び立てになるので、まずは帰国してよろしいぐらいに言っておいて送り返してください。あれこれと塩梅よく処理してください。私は今月にわかに上京し、ただいま乗船掛をつとめています。京都に置いて変事が生じました。いまだ京都詰めの同役からは言ってきていませんが、確かな情報がありました。才谷梅太郎(坂本龍馬)の下宿に数人が斬り込み、ついに梅太郎はじめその他が斃れたとのことです。石川誠之助も同席していて、同人もたぶん斃れたと思いますが、はっきりしません。いずれ明日には詳しく分かるでしょうが、当地の乗船掛から聞いたことを記します。昨夜のことです。嗚呼、惜しむべし惜しむべし。ひとまず筆を擱きます。以上。
 十一月十六日  大坂にて  眞邊栄三郎
 佐々木三四郞様
(続。嗚呼、惜しむべし惜しむべしというのは、まさに現代のわれわれの感慨でもあります。龍馬のように自由な発想ができる人が生きていたら、明治以後の日本のありようも大きく変わっていたのではないかと思わざるを得ません。)