わき道をゆく第274回 現代語訳・保古飛呂比 その97

▼バックナンバー 一覧 NEW!2025 年 11 月 12 日 魚住 昭

一 十月二十二日、晴れ、小太郎を同伴して渡邊昇を訪問、「途中にて面会す」(※途中の路上で行き逢ったという意味だろうか)。八ツ(午後二時ごろ)前より西川に行き、七ツ(午後四時)前より藤屋に至る。今日、藤屋で会食の約束あり。待っている間に若宮に参詣した。のちほど薩摩人・前田杏齋(注①)長州人・伊藤俊助(伊藤博文のこと)が来た。石田・小田・渡邊剛八・高橋安兵衛も同席。五ツ半(午後九時)ごろ帰宿した。同夜、(海援隊で養われている中国人少年の)シンが来た。[ただし、前田杏齋は、浦上村の耶蘇の件で長崎に出て来た人である]。

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、前田元温(まえだ-げんおん1821-1901)は「江戸後期-明治時代の医師。文政4年3月15日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。坪井信道に蘭方をまなび,長崎でモーニッケからまなんだ牛痘接種を鹿児島藩で実施した。慶応4年鳥羽・伏見の戦いの際,戦傷者の治療のため英医ウィリスを招聘(しょうへい)。のち警視医学校を設立し,法医学の基礎をきずく。明治34年9月6日死去。81歳。通称は信輔。号は杏斎。」】

一 同二十三日、晴れ、真齋が来た。午後、前田杏齋・朝倉省吾を訪問、二人とも留守。よって大浦まで散歩、同所で真齋と別れ、帰宿した。七ツ半(午後五時)ごろより小太郎を同伴して、藤屋に行った。七右衛門・晉三の両人が来た。酒宴。四ツ(午後十時ごろ)前に帰宿。
 今日、野崎傳太より手紙が来た。「安心之事」(※手紙を読んで安心したという意味か)。

一 同二十三日、(土佐藩から)お仕置き役の兼務を命じられる。[十一月九日受け取り]
お手前は従来の役をそのままに、お仕置き役を仰せつけられたので、その旨を承知されたい。以上。
 十月二十三日 深尾左馬之助

 佐々木三四郞殿

一 同二十四日、晴れ、小太郎が用談があるといって早朝に来た。
 橋本久太夫[他藩人、海援隊の者である]が玉川屋で酒に狂って乱暴したとのことである。よってすぐさま剛八・英吉・小太郎に通知した。久太夫のことで榮太郎が来た。
 午後、真齋を同伴して、「英国三階之軍艦」(※内部が三階建てになっている軍艦という意味だろうか)を見物に行く。六百馬力という。乗り組み人数は百人という。それから「アメリカ」国の軍艦に行く。小艦であるが七百馬力という。右の両艦ともとても親切に、器械等を説明し、見せてくれた。夕七ツ半(午後五時ごろ)より、七右衛門・晉三の案内で、花月楼に行く。のちほど剛八・英吉が来る。帰途、宿元[初村芳三郎(若亭主)]に出会い、藤屋で馳走し、九ツ(午前零時)ごろ帰宿した。

一 下村ほか五氏よりの手紙、次の通り。[十一月九日受け取り]
 一筆啓上します。まずもって貴方様のますますご機嫌よくあそばされ、恐悦至極に存じます。ところで先日(野崎)傳太・(岡内)俊太郎が帰国の際、(持参した貴方様からの)お手紙に記された諸点は、このたび参政よりそれぞれ(太守さまに)報告しましたのでご承知ください。例の下手人の一件は勝利疑いなしとは存じますが、証人となった者たちは婦人等のことですので、この上どういう結末になるだろうかという懸念が少なくありません。万端のご配慮をお願いします。海援隊の魁首(坂本龍馬のこと)が国許に来る件は、貴方様のお考えの通り非常に工面が難しいので、くれぐれもしかるべきようにご尽力をお願いします。さて京都の情勢が大いに切迫してきて、今月五日の出発で、寺村左膳が国許に帰着しましたが、彼の大勢の見方では、薩長がほとんど兵を発しようとしていたところ、薩摩藩内部では議論が紛糾し、また長州の兵も遅滞し、芸州もそれに協力していない。それゆえ勢いも少し力が抜け、わが藩の(大政奉還の)建白は幕府において採用されるなどの見込みとのことです。一方、今月十五日、京都から野本平吉が国許に着きましたが、(彼がもたらした情報では、幕府がわが藩の)建白を採用した上、二条城において諸藩重役を呼び立てて、そのことを言明されたとのことです。しかしながら、朝廷がその採用を勅許されるかどうかのところが今もって分からず、また、(幕府が)政権を返しただけで、征夷大将軍の地位についてはなんとも言明されていない。このため薩摩藩などではきっと建白は行われないとの見込みもあるようです。もし幕府が諸侯の列に入らないということになったときは、兵力によって実行する策もある模様で、薩摩藩の内部分裂などということは決してなく、かつ、芸州・長州もこれに同意していて、スワと言えば一挙にことを起こす策がある形勢だということで、左膳の報告とは裏表になっていて、上下の議論もまちまちになっています。お察しください。いずれ建白の成否にかかわらず、どういうことになっても、兵端は開けるでしょう。もはやこの節またまたどのような変動が起きるかもわからず、京都から重役一人が引き続き来るはずなので、一同指を折ってそれを待っています。旧習がいまだ残っていて、勤王の有志たちはとかく嫌われる形になり、それを取り繕うことに力を尽くし、いまは切羽詰まっていますが、近日中にはねじ返そうと一同決心しており、実際にはいたって面白い状況で、暗にお互い競い合っています。
 前述しましたように、重役が(京都から)国許に帰ってくる筈なので、その報告によっては(貴方様に)上京の命令が下されることになるでしょう。このたびは格別貴方様のご了解を得なければならぬ事項はありませんので、まずは以上のことのみをお知らせします。ほかのことは後便に託します。以上。
 十月二十四日記す
 大監察 下村銈太郎
 同   前野久米之助
 同   林勝兵衛
 同   西野彦四郎
 同   本山只一郎
 同   小笠原唯八[致道館御軍備係である]

 佐々木三四郞様

 引き続きいよいよご安全にお勤めなされるよう祈っております。さぞかしご心配のことと察します。御国の事情のところは、傳太・敬助より直にお聞きください。一同変わりなく勤めておりますので、そのことはご放念ください。
 先生は近ごろ持病のほうはいかがでしょうか。風土が異なっていますので、厚いご自愛が肝要と存じます。ほかのことは追ってお知らせします。
○右の書簡中、中老の寺村左膳(注②)が帰藩云々は(次のような事情による)。同人は元は佐幕論だった。この春に上京してから勤王論になったが、帰藩後、佐幕に戻ったという。門地家には特に佐幕論があるためである。よって遂に辰年(慶応四年=明治元年のこと)厳しく責任を問われ、放逐され、後に罪を許され、日野春草と改名した。
 伏見戦争で大坂城が落城するまでは、始終勤王と佐幕がせめぎ合って、十月ごろは内輪で干戈を交えるほどの情勢であったが、容堂公の大権力によって鎮圧したのである。自分は長崎でその情勢を聞くごとに、薄氷を踏む心地がした。この書簡のほか、より多くのことを口頭で聞いた。

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、寺村左膳(てらむら-さぜん1834-1896)は「幕末-明治時代の武士。天保(てんぽう)5年6月24日生まれ。寺村成相(しげみ)の3男。土佐高知藩士。公武合体論をとなえ,山内豊信(とよしげ)の大政奉還建白副書に後藤象二郎らと署名。鳥羽・伏見の戦いへの参戦に反対し,蟄居(ちっきょ)となる。のち日野春草と名のり山内豊範(とよのり)の家令などをつとめた。明治29年7月27日死去。63歳。名は成範,道成など。」】

一 海援隊からの書簡、左記の通り。
 今夜例のところに御出浮き(ふらふらと出歩くこと)になるとのこと、隊の者も二、三人ほど参るはずです。もしお出でになるのなら、打ち合わせをしておきたいことがありますので、一筆のお知らせを願い上げ奉ります。
 十月二十四日
 佐々木様

[参考]
一 同二十四日、将軍が辞職の文書を(朝廷に)提出した。二十七日、(朝廷が)辞表を承認し、当面は従来通りとし、諸侯が朝廷に参会して公議決定する日を待つように命じた。

一 十月二十五日、曇り、石津蔵六の下宿である酒屋町の大賀方に行き、しばらく談話。それから初村芳三郎を同伴して小舟に乗り、港内を遊行し、横笛船に行き、夜の五ツ(午後八時)ごろ帰宿。「ケンシン」(?)が来た。

[参考]
一 十月二十五日、朝廷が諸侯に対し、左記の通り命令を下した。
  御用のことがあって召集する。来月中を期限に必ず上京すること。
 ただし用意ができた者は、期限にかかわらず、早々に上京すること。

一 十月二十六日、晴れ、真齋・安兵衛が来た。要助が来て、国許の話を聞く。小太郎・英吉が来て言う。久大夫は禁酒を命じ、船中に留め置くことを申し出た。
 午後、小太郎を同伴して岩下佐次右衛門を訪問。留守だった。前田杏齋を訪ね、談話した。帰途、土佐商会に行く。八ツ半(午後三時)ごろ、西川で宴会をした。同夜の五ツ時(午後八時)ごろ、中島作太郎が長崎に帰ってきたと運吉が知らせてきた。早速、西田に行く。国許・京都の情勢を聞く。夜半に帰宿。作太郎・小太郎・栄が同伴した。
 京都のことを聞いて、

 百千年棚引雲の晴れそめて
さやけき月の影を見るらん

 前田杏齋が明日出発のため暇乞いに来る。作太郎・小太郎・栄吉が藤屋に集まった。安兵衛・剛八も後から来て、夜四ツ半(午後十一時)ごろ帰宿。
 京都から後藤象二郎・福岡藤次・神山左多衛の書簡ならびに象二郎の私信、建白の写し[前にあり]を廻してきた。御国あての書簡も来たので、預かっておいた。

一 十月二十八日、晴れ、早朝、小太郎が来た。今日、杏齋が出発するので、「モンブラン」の聞き書きを田中から受け取り、太宰府に送る。
 宿毛人(土佐宿毛の者という意味)の岩村精一郎(注③。岩村高俊のこと)・齋原治一郎[大江卓のこと。注④]が来た。御国の状況を聞く。二人は歎息して言う。乾氏(板垣退助のこと)も都合悪く外国行きを命じられたとのことである。どうなることか云々。
 半股引きを藤次より受け取る。安兵衛が来た。時久の一件の詮議のため、玉川屋に行く。策を施すうち、折悪しく帰った。(※誰が帰ったのかいまひとつわからない。もしかしたら相談の最中に時久本人が帰ってきたということか)。それから上野彦馬(注⑤)方で写真を撮った。中島作太郎が紀州の一件で、イロハ丸の償金のことについて、談判してきたので、同道することを言い聞かせた。(※誰が誰に同道するのかいまひとつわからない)。イロハ丸の一件は、なにぶん双方(の言い分)がまとまらなかったのだが、追々切迫した状況になったので、(償金の額を)値引きして、金を取る方がいいだろうと中島に委任したもので、ようやく(解決に向けて)動いた。
 喜多村又八の家来の時久逸衛の行状のことについて、安兵衛を同伴して玉川屋で探索した。夜の五ツ半(午後九時)ごろ帰宿。シンが来た。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岩村高俊(いわむら-たかとし1845-1906)は「幕末-明治時代の武士,官僚。弘化(こうか)2年11月10日生まれ。岩村通俊(みちとし),林有造の弟。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争では軍監として北陸・東北に転戦。明治7年佐賀県権令(ごんれい)となり佐賀の乱を鎮圧。のち愛知県令,福岡・広島県知事などを歴任。貴族院議員。明治39年1月4日死去。62歳。通称は精一郎。」】

【注④。改訂新版 世界大百科事典によると、大江卓 (おおえたく。生没年:1847-1921 弘化4-大正10)は「明治の政治家,のち実業家。土佐幡多郡宿毛(すくも)に生まれる。名ははじめ斎原治一郎,のち土居卓造と称す。1867年(慶応3)土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。68年伊藤博文の推挙により兵庫県判事試補となる。71年〈穢多非人廃止建白書〉を民部大輔大木喬任に提出。72年神奈川県権令となり,外務卿副島種臣の命をうけて,横浜に寄港したペルー国汽船マリア・ルース号の中国人苦力虐待問題の裁判長となり,奴隷売買は人道に反すと判決して苦力231名全員を本国に送還さす(マリア・ルース号事件)。74年大蔵省に出仕したが翌年辞職。77年土佐立志社の一員として西南戦争に呼応しようとして林有造らとともに捕らえられ禁錮10年の刑に処せられ,84年出獄。87年大同団結運動に参加,90年立憲自由党創立に参画して代議士に当選。92年選挙に落選して政界を退き実業界に転ず。1909年まで東京株式取引所会頭,京釜鉄道株式会社重役などを務め,09年実業界も退き,14年僧籍に入り天也と号す。同年帝国公道会を創立して未解放部落の融和事業に専念。執筆者:後藤 靖」】

【注⑤。改訂新版 世界大百科事典によると、上野彦馬 (うえのひこま。生没年:1838-1904 天保9-明治37)は「江戸末期から明治初期の写真家。島津藩で日本最初のダゲレオタイプを試みた上野俊之丞の四男として長崎に生まれ,豊後日田の広瀬淡窓の下で学んだ後,長崎でオランダ語と化学を学び,1862年(文久2),堀江鍬次郎と共著の《舎密局必携》を出版,近代的化学を紹介した。化学と写真術はオランダ政府派遣の海軍医ポンペvan M.から学び,写真機や薬品を自製,62年長崎に日本最初の営業写真館を開設し,コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し,坂本竜馬,高杉晋作,伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を撮影した。執筆者:友田 冝忠」】

一 十月二十九日、雨、安兵衛に土佐商会に出頭するよう言いつけておいた。
 時久逸衛に左記の通り言い渡すこと。
 喜多村又八の家来の時久逸衛、右は御目付方のご詮議により、往来を差し止められ、当分の間、旅宿に留め置かれる。
 十月二十九日
 右の通り、安兵衛より言い聞かせた。右について土佐商会に出勤し、時久の一件を処理し、それから商会のことを聞き、九ツ(正午)ごろ帰宿。西川易次が来て、野崎の金百五十両を要助に渡してくれるよう言ってきたので、晉三に言いつけ、晉三より要助に「引合候筈ニ致候事」(※どういう意味かよくわからない)。小太郎が来た。紀州人に返礼として鶏を連名で送った。

[参考]
一 小笠原壱岐守(幕府の外国事務総裁)より英公使への返書、左記の通り。
 大ブリタニア特派公使全権
 ミニストル兼コンシュルゼネラール
 エキセルレンシー
 シュルバリエスパルケスケシビへ
 西暦十一月十六日付の閣下からの書簡を受け取りました。長崎で貴国の水夫を殺害した者の召し捕り方に関し、平山圖書頭(外国総奉行)が長崎に発つ時期を承知なされたいとの旨、ご趣旨は承知しました。平山は閣下もご承知の通り、ただいま京都(朝廷のこと)より言ってよこした件もありますので、折りから翔鶴丸が帰船次第、それに乗り込ませ、至急出帆させ、京都のお指図を伺って、長崎へ行くよう命じました。なお、事件が落着するまでは長崎に滞在させます。(平山に)付き添わせる高位の士官は別紙の者です。(閣下の手紙の)最後にあった長崎奉行のことは、交代等ではなく、呼び戻しの命令を下しておきましたので、帰着の上、処置するつもりです。閣下の書簡への再度のご返事は以上の通りです。拝具謹言。
 慶応三年十月二十九日
小笠原壱岐守 花押

[別紙] 目付 古賀筑後守

一 十月三十日、曇り、石津蔵六より書簡が来た。早速、石津の下宿に行った。すなわち芸州用達の達島屋武平方である。芸州広島藩の寺尾精十郎に面会、文書三通を借りて写し取り、早速、運吉に持たせて返却した。寺尾は薩州・土州等への(広島藩の)使者である。
 栄吉・小太郎・安兵衛・作太郎が来た。今夕、薩・長・大村の三藩およびわが藩などが丸山の小島屋で一堂に会した。これは大政返上の吉報に関して祝宴を開いたのである。伊藤俊助と渡邊昇(注⑥)が酒宴の席で大議論した。五ツ半(午後九時)ごろ小太郎と帰宿。今日、寺尾に託し、御国(土佐藩)へ書簡を送った。

【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plus渡辺昇(わたなべ-のぼる1838-1913)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年4月8日生まれ。渡辺巌の次男。肥前大村藩(長崎県)藩士。江戸の安井息軒に漢学をまなび,斎藤弥九郎の練兵館にはいり塾頭となる。剣を通じ近藤勇と親交をもった。兄の清とともに尊攘(そんじょう)運動につくし,維新後は大阪府知事,元老院議官,会計検査院長。子爵。大正2年11月9日死去。76歳。名は武常。号は東民,其鳳。」】

[参考]
一 寺尾氏よりの書簡、左記の通り。
 ご用立てした文書三通、ご返却くださったのをそれぞれ受け取りました。以上。
 十月晦日  寺尾精十郎
 佐々木三四郞様

[参考]
一 この月、河津伊豆守祐邦、両奉行に替わり長崎に到着した。

保古飛呂比 巻二十   慶応三年十一月より同年十二月まで

慶応三年丁卯  佐々木高行三十八歳

十一月

一 この月一日、両長崎奉行の能勢大隅守・徳永石見守ならびに調べ役等が出発するので暇乞いに行った。
 夕方、肥後人中川丈之助の招きで、小太郎・作太郎を同伴して玉川に行く。剛八・栄も来る。長崎人木下鹿之助、肥後人数人が来て大宴会。夜四ツ(午後十時ごろ)前に帰る。

一 十一月二日、雨、早朝に中川丈之助が来た。益田藤三郎・小太郎が来た。今日、霰が降り、寒気強く、昼夜外出せず。
 さらでだに旅寝の床のわびしきに
まどの戸寒くあられうつなり

一 十一月三日、曇り、夕方風雨、終日体調不良のため往来せず。安兵衛・小太郎・作太郎・栄が来た。

一 同四日、晴れ、岩村が来た。安兵衛・真齋が来た。
 京都詰めあての御用状ならびに横山勘蔵[横山勘蔵は石川誠之助のことである。本名は中岡慎太郎である]への書簡を岩村に渡すよう安兵衛に託した。肥後人を招待したところ断ってきたのであるが、事前に用意していたので、小太郎・作太郎・剛八・安兵衛を同伴して藤屋に行く。中川丈之助一人が挨拶に来た。夜五ツ(午後八時ごろ)すぎ帰宿した。

一 同五日、晴れ、五代才助(注⑦)へ挨拶に行く。帰途、土佐商会に立ち寄り、横笛船の出港のことを話しておく。大洲藩の後藤勘左衛門・田牆愼六が来訪したが、折りから五代より帰宿してから頭痛がはなはだしく、床に伏せっていたので面会せず。同夜、安兵衛・作太郎・剛八が来て、酒を出す。小太郎が止宿した。

【注⑦。百科事典マイペディアによると、五代友厚(ごだいともあつ)は「幕末・明治初期の政治家,実業家。薩摩(さつま)鹿児島藩士。幼名才助。24歳で水夫として上海に行きドイツ汽船を購入。薩英戦争の時には寺島宗則とともに英艦に捕らえられたが脱走。1865年藩命で留学生を率いて渡欧し,帰国後藩の洋式工業,貿易振興に努める。維新後大阪で造幣寮と特約の金銀分析所を設立して巨利を得る。殖産興業を進める大久保利通,大隈重信らと交わり,1881年の開拓使官有物払下事件に関与して非難をあびた。大阪の商法会議所・株式取引所の創設等,広く関西財界で政商として活躍。著書《薩摩辞書》。」】

一 同六日、晴れ、小太郎が太宰府の用向きで来た。南部より頼んだ品代について相談があり、承諾した。横笛船の出港届け出のなかったことについて、調べ役より通達があった旨を晉三から報告があり、早速、小太郎・英吉に通知した。
 同夜、宿元の亭主のおごりで、義太夫語りが来た。早速、剛八・作太郎・西川の婦人二人を呼ぶ。安兵衛が来て止宿。

一 石津氏よりの書簡、左記の通り。
 先日はおいでくださり、ありがとうございました。その際、寺尾精十郎より、京都・摂津等の事情についての書類をご覧に入れ、写し取りになられたので、御同方(この場合は佐々木方を指す)の写しを皆で見るようにとのことです。あまりに精十郎が出港を急いでとんとしまい込んでしまったものですから、先生の方の分を拝借してくれと言い置いていきましたので、ご都合がよければ、直にこの(手紙を持参した)者へ拝借をお願いします。先日は「モンブラン」の文書をありがたく(お借りしました)。今少し皆で見たいので、はなはだ延引して恐縮ですが(借用を)お許しください。その後はお伺いもせず、さてさてご無沙汰しています。できるだけそのうちにお伺いするつもりです。まずはよろしく拝借をお願いしたく申し上げます。早々頓首。
 霜月六日  石津
佐々木様

一 同七日、岩下へ示談のために行く。中島作太郎より、昨夕相談したことは愚慮(この場合は佐々木の考えという意味か)の通りに決めた旨を言ってきた。安兵衛を「モンブラン」に名代として遣わした。真齋・安兵衛が五ツ時(午後八時)ごろ帰る。英吉が来て、四ツ時(午後十時)ごろ帰る。

一 十一月八日、雨、安兵衛・真齋・小太郎、作太郎が来たが、床に伏せっていたので何も話さなかった。

一 同九日、晴れ、病気のため引き籠もり。今朝、医師が来診。若紫船が着港。野崎傳太、下横目の堀内敬助が来崎(長崎に来た)。森澤清五郎・上山禎七が土佐商会の役目で来崎。士官三人が来崎。公用の書簡、私信とも受け取った。公用書簡はお仕置き役の兼務を仰せつけられる云々の通達である。[前出][お仕置き役は、他藩では参政と言わないと通用しない]、夜、敬助が来て談話、五ツ時(午後八時ごろ)帰る。

一 同十日、晴れ、病気のため引き籠もり。宿毛人のために安兵衛が来る。岩村精一郎・斎原治一郎[岩村は後に高俊と名乗り、斎原は後に大江卓と名乗る]が旅費にひどく困っている(とのこと)。金十円を斎原に贈る。作太郎・英吉ならびに久太夫が今日出港すると言ってきた。よって、西川易二に届けをするように言った。小太郎が再び来る。時久の一件。早速敬助・安兵衛に言いつけ、両人を玉川へ探索に行かせた。アンコウトウ(?)が見舞いに来る。

一 十一月十一日、晴れ、(伊藤)俊助へ詩集一冊を返す。小太郎に託した。
 田所安吾より、海援隊に紀州より受取償金六千何百両を渡すと連絡があった(とのこと)、聞き置いた。作太郎が用事でちょっと上陸、早速帰船した。真齋が来て、洋酒を出す。
(続。今回もいろいろ分からないところが出てきて申し訳ありません。いずれは専門家の助けを借りて修正するつもりです。どうかご容赦を)