わき道をゆく第276回 現代語訳・保古飛呂比 その99
一 中島(作太郎。注①)氏よりの書簡、次の通り。[本日受け取り]
謹白、いよいよご淸適のこととお喜び申し上げます。さて馬関(下関の古称)よりもお手紙を送りましたが、まだ到着してないかもわかりません。また弟(中島自身のこと)らもようやく昨夜、着船し、聞いたところ、坂龍(坂本龍馬)・石誠(中岡慎太郎)の二人とも殺害されたとのこと。確かな情報を得て、胸算用がすべて食い違い、天を仰ぎ地に伏して、茫然自失の体であることをお察し下さい。このうえはなにとぞご考慮を仰ぎ、このうえの死処を得たく、そのほかに他念はないと、ひとえに思っております。いずれこれから上京し、後藤(象二郎)も執政に抜擢され、上京なされたとのことですから、とにかくご配慮を仰ぐ心積もりです。また上(容堂のことか)にも明日はご乗船と聞きます。薩侯(島津久光のことか)も一昨日ご上京と聞きます。ついては、先ごろより越前の春嶽さまにも拝謁し、よほど厚いおもてなしを受けたとのこと(※誰が春嶽に拝謁したのか。龍馬のことだと思うが、はっきりしない)。このような事態になったからには、龍(坂本龍馬のこと)の遺志を少しでも継ぎたく、返す返すもご高配をお願いします。天下のこともすべて今日に決まることですので、私の気持ちを推察していただき、ただ死処を得られるようにご考慮をお願いします。なお、在長崎の連中への説諭をひとえにお願いします。上京の期に臨んですっかり取り紛れてしまい、深意を紙上に尽くすことができません。恐々百拝。
十一月二十二日 作拝
佐々木様
【注①。 日本大百科全書(ニッポニカ)によると、中島信行(なかじまのぶゆき1846―1899)は「明治時代の政治家。弘化(こうか)3年8月土佐藩士族の家に生まれる。通称作太郎。幕末、海援隊に入って活躍し、新政府成立後は徴士(ちょうし)、外国官権判事(ごんはんじ)、兵庫県判事、大蔵省紙幣権頭(ごんのかみ)、租税権頭を歴任ののち、神奈川県令(1874~1876)、元老院議官(1876~1880)を務めた。神奈川県令時代に開かれた第1回地方官会議(1875)では公選民会論を説くなど進歩的意見を述べ、元老院議官辞任後の1881年(明治14)自由党の結成に参加、副総理に推された。さらに翌1882年請われて大阪の立憲政党総理となり、民権運動に力を尽くした。1887年保安条例に触れ横浜へ転居し、1890年神奈川5区より代議士に当選し初代衆議院議長に就任。1892年イタリア公使、1894年より貴族院議員。1896年男爵となる。明治32年3月26日没。なお夫人俊子(としこ)(旧姓岸田)は女性民権家、長男久万吉(くまきち)は実業家として名高い。[安在邦夫]『寺石正路著『土佐偉人伝』(1914・富士越沢本書店)』」】
一 十一月二十八日、晴れ、土佐商会へ出勤。彌太郎に言い渡し。野崎・松井・渡邊・堀内が来て用談。五代才助・石津蔵六、紀州人の栗本半三郎らが代わる代わる来た。坂本・石川のことで見舞い、あるいは問い合わせなど。同夜、釜屋に四、五名が集まった。
一 五代氏よりの書簡、左記の通り。
いよいよご壮栄のこととお喜び申し上げます。さて、昨日は摂海(大阪湾)より尊藩の火船(蒸気船)が入港したとのこと。きっと京畿(京都方面)の事情(に関する情報)が届いたことでしょう。(情勢の)変動もあったでしょうから、お漏らしくださるようお願いします。今朝は、あまりご無沙汰しておりましたので、ちょっと(佐々木の下宿を)訪ねたところ、すでに出かけられたあとで、拝顔できず、遺憾の至りでした。よって失敬を顧みず、このことを手紙でお伺いしました。頓首。
十一月二十八日 五代拝
佐々木三四郞様
侍史
一 十一月二十九日、晴れ、早朝に五代才助が来訪、談話。大庭源次兵衛・森澤清五郎が来た。大庭・森澤は土佐商会の用である。商会へ出勤、慶助から口書(供述記録)を受け取り、野崎に渡した。
一 五代氏よりの書簡、左記の通り。
先刻は早朝より長話を始め、ご迷惑おかけしたことと恐縮しております。さて、風評に言うには、尊藩へこのたび勅使が送られたのではないかという説がありますが、いかがでしょうか。先刻お会いしたときに申し上げるべきはずのところを失念しましたので、このことを取り敢えず手紙でお伺いしました。ご筆労(筆を持つ労力。物を書くための骨折り=精選版日本国語大辞典)を願い奉ります。頓首。
十一月二十九日 五代拝
佐々木先生
侍史
気にかけていただき、わざわざお知らせくださり、感謝いたします。いずれ拝顔して、お礼を申し上げますので、今はそのことをお伝えします。頓首敬白。
十一月二十九日 五代拝
御受
一 十一月三十日、晴れ、野崎・日比の二人が来た。慶助に口書を渡す。午後より空蝉船・若紫船を訪問。この夜は出かけず。
一 この月、藩の参政・大監察に送った書簡、左記の通り。
一筆啓上します。まずもって皆々様がご機嫌良くあそばされ、恐悦至極のことです。さて、若紫船がさる九日に入港し、傳太ならびに慶助、商会役人の森澤清五郎・上山禎七が到着して大いに安心しました。僕こと従来の役をそのままで、お仕置き役兼任を仰せつけられ、ありがたきしあわせに存じます。しかし諸君がご存じの通り、商取引のことは至って不得手でして、少しの見通しも立たず恐縮しております。なにぶん御用繁多の折りで、参政の出崎(長崎行き)が難しいのはお察ししますが、当方の商取引は言うまでもなく外国に関係することですので、それにふさわしい器の人物を当てなくては、実に大害を引き起こすかもわからず、苦心惨憺していますので、何とぞ至急その件のご詮議をお願いしたい。また、僕がこのたび(長崎に)派遣された用向きは、臨時のことで、かねてお知らせした通り、諸事規則外の取り扱いで、何事も例外的な処置をして来ましたので、御用が片付いたら、速やかに帰国して、自分自身の責任についてご詮議を受けるつもりです。仔細は、かねて規則外のことは申し出ておきましたが、出崎してから始終「諸生之業」(※はっきりわからないのだが、慣れない仕事といった意味か)をしていますので、自然弊風を増すのは明らかだと考えます。このため、このままでは諸方面の取り扱いに差し障ると深く心配していましたが、はからずもこのたびお仕置き役兼任を仰せつけられ、商取引のことに携わることになりました。そうなると、いずれこれまで(後藤)象二郎が取り扱いをした通り、何事も同じようにしないと、差し支えることになりますので、大いに苦心しました。このうえは、何事も象二郎の取り扱いの前例を踏襲しますので、そのようにご承知ください。(それでは駄目だという)ご意見や詮議の結果などがありますれば、至急しかるべく後任の人選をされ、(長崎に)派遣していただきたいと万々希望しております。
一 海援隊のお国入りの件は差し支えるということなので、なるだけ長崎に置いておくようにしますが、具合の悪いことなどが起きたときは、その場に応じた取り計らいをし、「まぎれ乗り」(※よくわからないのだが、ひょっとしたら海援隊とわからない形で土佐行きの船に乗るという意味かも)をするので、そのようにご承知ください。
一 前の英国人が巻き添えになった一件(イカロス号の英人水夫二人が殺害された事件)について文書を鎮台(長崎奉行所)に差し出すつもりでしたが、今日の事態になり、すでに(幕府が)政権を返上された以上は、もはや(文書を)差し出す機会を失いましたのでそのままにしておいています。
一 後の英米人の一件は、養生金(お見舞い金)などはすべて出していません。このうえ(先方から)申し出があっても、出金しません。御国でも同様のご詮議の結果だと承りました。なお、このうえは時宜に応じた取り扱いをします。
十一月 佐々木三四郞
参政・大監察宛て
一 十一月ごろ、本山茂任[只一郎こと]の筆記抜き書き、左記の通り。
助幕党(佐幕派のこと)の小八木五兵衛父子、若尾直馬ら数十名が団結して、議論紛々とした。容堂公・豊範公が南会所に臨み、[政庁である]、助幕党を集め、一人ずつ招き、意見を訊き、抗する者があればたちまち獄に下そうとされた。高屋友右衛門・林勝兵衛[勝好こと]・余らは大監察なので専らこのことを調整した。一時一藩がすこぶる騒然とし、内乱がまさに起ころうとした。容堂公がこの挙あって鎮定した。助幕党は別に罪に問われる点がなく、おのおの放免して家に帰らせた。[山川良水(土佐藩上士の尊攘派)は外にあって心配努力し、(事態収拾に)極めて功があった]
十二月
一 この月一日、時久逸衛が破牢したという報告があった。早速出勤して手配をし、七ツ(午後四時ごろ)前に帰る。渡邊が来た。用事を話す。大庭・日比の二人が来た。
一 十二月二日、曇り、早朝、慶助・上山が来た。逸衛は阿部の別荘に行ったことが分かったと言ってきた。またまたそれぞれ手配し、五ツ半(午前九時)ごろから出勤、夜五ツ半(午後九時)ごろ帰宿。
なお、時久逸衛は又者(家臣の家臣。陪臣)であるが、ずいぶん悪業をしかねない様子で、今日の時勢、他藩または幕府の手に落ちて、いかなることになるかもしれぬので、厳しく取り締まりをする心積もりである。
一 十二月三日、曇り、夕方に雨、早朝出勤、逸衛の件についてあちこち手配して帰る。同夜、(逸衛が)小島にいるということを聞いたので、同夜九時ごろより出勤し、召し捕り人を送ったところ、(逸衛の)形跡なし、十二時に帰宿。
一 同四日、晴れ、早朝、彌太郎の下宿で、周助・傳太と用談、済んでから正午に帰宿。書簡を後藤象二郎・眞邊栄三郎・毛利恭助に送った。二時から渡邊に暇乞いに行き、三時に周助を見送った。長府人で坂本龍馬に随従していた〇〇へ餞別に金十両を贈る。諫早組より逸衛が唐津の方に逃げたと言ってきたので、安兵衛ほか水夫一人を差し向けた。夜十二時、唐津に着くとのことを言ってきた。傳太・慶助・易二が来た。酒を出す。
一 同五日、晴れ、御船(藩の蒸気船)のことで、毅平[源次兵衛のこと]・傳太・官作・富次・官太郎を呼び立て、詮議した。夕方四時ごろより、小銃二丁を傳太の宿より取り寄せた。同夜、五ツ時(午後八時ごろ)より、野崎傳太・山本官作・日比銘吉・片岡某・平野富二郎を同伴して玉川に行き、八時すぎ帰宿。
一 由比・大脇・森の三氏よりの書簡、次の通り。
一筆差し上げます。まずもって皆々様のご機嫌よろしく遊ばされ、恐悦至極に存じます。さて、御地(長崎のこと)へ産物を運送することについて、一日も早く送らなければならぬとご心配が甚だしいとのことは万々洞察しております。国許においても同じように心痛いたしておりますが、御船の空きがなく、和船にも積み立てることはできますが、到着時期がいつになるかわかりません。その間のご都合はいかがかと不安心至極です。ことに小銃代の支払い期限が今月十四日にまさに迫っていて、何とも心配しています。今日(容堂公が)乗船された夕顔が(大坂に)着いたらすぐ国許に引き返し、帰港しだい樟脳の摘み入れを至急行い、御地へ差し向ける手筈になっています。しかしながら、十四日までの到着は間に合いかねます。右の御船の都合は決して間違いなく出帆させます。それまでのところ、いかようとも(先方に)言い訳をしてください。このため、今日わざわざ飛脚を差し向けました。大概の見通しでは、来たる二十日ごろまでには長崎に着くと思います。このことのご連絡のみ、以上の通りです。
十二月五日 由比猪内
大脇興之進
森権次
佐々木三四郞様
野崎傳太様
高行が言う。十四日までに小銃代わずか一万二、三千円であるが、支払いに難渋した。外国人は日本の切迫した状況を見聞きして、ことさらに催促が厳しく、内外のために昼夜苦心した。金力のなさに実に困却した。右の書簡で夕顔船着とあるのは、本日容堂公が同船で上京され、同七日に大坂に着かれ、同八日に京都に到着され、妙法院宮をご宿陣となされた旨を、書簡が着いたとき、大坂より言ってきた。
一 間氏よりの書簡、左記の通り。
一筆差し上げます。まずもって寒気が強い折、
皆々様はますますご機嫌良くあらせられ、ご隠居様はすでに今日出発され、重ね重ね恐悦の至りです。さては、先だってお願いした英国中型の銃千挺は近ごろ手に入ったでしょうか。国許では兵制の編入がありましたが、先だって送ってもらった千挺は、今度の(ご隠居様の)上京の御用のために皆にお渡しになって、これからの編制の分に渡す銃が非常に乏しくなっています。このうえもしも(容堂公の)後から軍勢が出京するとか、または状況により、太守さまも上京の予定といういうことになっては、たちまち難渋千万のことに立ち至るだろうと大いに苦心しています。もしまだ(銃が)手に入っていないならば、早々に尽力され、若紫船が国許に帰る際「だす」[脱字があるようだ]とともに是非積み込めるよう周旋してください。詳しいことは「先便下だし候通り、御掛合為及申通に御座候間」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)、くれぐれも早々に(銃の)積み込みができるよう奔走していただきたい。かつまた今度夕顔船がそちらへ差し向けられる際、以前、郭中(高知城の外郭にあたる武家の居住地域のこと)などから供出した銅器を積み込んで送るので、それを売り払ったうえで、英国中型銃(の購入に)その値段分だけ回してください。これは郭中へ、供出銅器の多寡により、「冥加鋳立を以被遣可然」(※意味不明なので原文そのまま引用。鋳立は、溶かした金属を型に流し込み、ある形のものをつくること。冥加はこの場合、寄進の意味かもしれない)とご詮議済みになったのでそのように承知してください。また、香我美郡にも同じ銅器がありますが、これは形のまま「閣」(※擱の誤記かも。だとしたら読みは「お」で、さしおく、やめるという意味)いているので、この分は大坂に運べば、高値に売り払うことができる見込みです。これまた右の代わりに銃のお渡しを仰せつけられるはずなので、この分も前述の千挺のほかに五百挺ばかり、土佐商会の都合がつき次第、(国許に)廻してもらえば、これまた都合がいいので、かれこれお含みおきいただきご尽力ください。以上、ご連絡のみ記しました。
十二月五日 間忠蔵
佐々木三四郎様
野崎傳太様
なお二人ともいよいよご安全であられ、お喜び申し上げます。拙者の方は変わりなく勤めておりますので、ご放念ください。国許では先だって以来、士分が連署しての上書(意見を述べるために主君・上官などに書状を奉ること。また、その書状=精選版日本国語大辞典)などがあり、両殿様がご苦心遊ばされ、まことにもって一同恐れ入っています。お察しください。以上。
高行が言う。
(間の手紙のなかにある)先だって送ってよこされた千挺うんぬん、この千挺の銃は、坂本龍馬と相談して、薩州より上国(都に近い国々)へ回した金七百円を借り入れ、千挺の手付けとして渡し、十二月十四日までに全額を払い込むという約束で求め、芸州船に積み込んで土佐へ送った分である。銅器うんぬんは、四、五年前から士民(武士と庶民)より上納して大砲などを鋳造する材料にしたものだが、土佐の製造能力が十分でないのでそのままにしておいた分である。もっとも市中より供出された分はおおかた鋳つぶして銅にしておいたものである。たいていの武士たちは火鉢のたぐいまで残らず差し出したということで、中には大変な名器もあったとのことである。連署うんぬんは、佐幕論組の数百人が、容堂公がご上京などをされるべきではないと言って迫ったことを指している。しかしながら、容堂公が一人一人を召し出して直接説得した結果、一同不服ながら引き取ったとのこと。もっとも勤王家はこれに激して大に憤ったので、実に累卵(卵を積み重ねること。不安定で危険な状態のたとえ=デジタル大辞泉)のごとき状況だった。容堂公でなかったら、必ず破裂したにちがいない。よって後々まで(佐幕論組の数百人のことを)連署組と勤王組は呼んだ。
右の佐幕家の小八木らの建言は、左記の通り。
謹んで言上します。薩長芸三藩が京都で討幕軍を動かすとの風聞があり、その際、(容堂公が)建白された旨を拝承しました。その後、この建白書を拝見しましたが、先だって望月清平が(京都から)帰国して言うには、天下の形勢が一変し、すでに公方様辞職の勅許のお沙汰があったとのこと。ついては、万石以上の諸侯が残らず京都に召集され、鎌倉以来の武家の制度が一変し、王政復古の大基本を立てるというお沙汰につき、ご隠居様も早々に上京するように勅命を受けられたとのこと。もともと(容堂公の)建策のご趣意は、天朝・幕府のために皇国の安静の基(もとい)を立てることで、まったく公方様が辞職されるとの見込みではなかったのですが、これらの変革はまことにもって恐懼の至りであります。このようになっては皇国安静の見込みよりも、かえって乱楷(乱の起こるきざし=デジタル大辞泉)を生じるかもわからず、恐れながら明神様(初代藩主・山内一豊のこと)以来、今日に至るまで、幕府尊崇のご趣意にも反するかと存じます。折から後藤象次郎が帰国しましたが、公方様は辞職されたものの、いまだ勅許にはなっていないということを(後藤から)お聞きしました。いずれは勅命などで上京され、皇国の基本を立て、東照公(徳川家康)以来の大恩に報い、ついては建白のご趣意がねじ曲げられていることをお疑いになることと期待しております。しかしながら、近年の藩政には道理にかなわぬことも少なくありません。結局これは軽薄で、われがちに争う者たちが登用されたことから、ご先代様(山内一豊のことか)以来の規則が変更され、義を捨て利に走り、人材抜擢の名を借りて階級を乱し、両府にその人を得ず、賞罰を失い、人心が安定せず、富国の名によって興利の局を開き、民の苦しみを顧みず、出費に節度なく、各部局の統制がとれなくなったことから、ついに藩の財政が窮迫に至り、市中郷中(※高知城下とそれ以外の田舎を指していると思うのだが、はっきりしない)ともにたびたびの御借上げ、かつ半知御借上げ(注②)になりましたが、いわゆる薪をもって火を防ぐ(=かえって逆効果になることのたとえ)ようなもので、このうえどのように金銀をお募りになられようとも、ご上京の出費をまかなえるとも思えません。また、たびたびお借上げの金銀の返済が遅れたことで、これまで信義を失われたため、人民は離心しております。このごろの民間の誹謗には聞くに堪えない事柄もあり、このように人民が離心している上に、またまた苛酷に(お借上げを)仰せつけられては、危急のときにどんな大患を引き起こすことになるかわからず、不安でしかたありません。元来、時勢の変遷は洪水が一時に押し寄せてくるようなものではありません。戊午(安政五年のこと。この年、幕府は勅許なしに日米修好通商条約を結び、これに反発した朝廷は水戸藩に「戊午の密勅」注③を与えた)以来、今日の形勢に立ち至ったことは愚かな者でもだいたいの見通しが立つことです。いわんや、重い国政を委任された重役の者としては以前から配慮もあるべきはずのところですが、右のような事態に立ち至ったことは、何とも恐れ入ることです。さらにまた、京都の形勢が不穏で、すでに御三家ならびに家門・譜代の諸侯に異論があるようなので、万々一騒々しい事態になるかもわかりません。ついては、(容堂公と豊範公の)意図を引き受ける正義の人物を選び、兵備はもちろん藩財政までも十分整えなければ、上京されても、尽力される忠情のほども空しくなり、かえって天下の疑念を受けるようになるかもわかりません。すでに先だって以来、恐れながら藩政府内で討幕に紛らわしい議論を唱える者もいるようです。それのみならず、歴々の家臣の中に東武(江戸のこと)の浪人たちと討幕の盟約をした者もあるようです。あるいは薩州の討幕論に同意している者もあるようです。これらはまったく無根の風説と打ち捨てがたく、(両殿様の)手足となる臣下の中に、このような体制転覆を狙う人物があっては、ご趣意は貫徹しません。ついては早々にご詮議のうえ、厳しい処置を命じられなければ人心の疑惑は少なからず、自然政府内にもそのようなことに同意している者がいないかという疑念が生じ、人心の乱れは必然と思います。そのほか疑惑の点は詳細を別紙に記しました。これらの諸点をすっかり改められ、その職にふさわしい人物を選ばれ、国政を一新のうえ、急いで上京されなければ、恐れながら(両殿様の)お志は実現せず、空しく天下のあざけりを受けることになると思います。また、先年、過去の小さな過ちは深くお咎めをしないということを布告されましたが、武市半平太らのような首謀者はそれぞれその罪に応じた刑罰を受けています。いわんや討幕を唱え、また藩財政をこのような状態に立ち至らせたことは、決して過去のこととは言い難く、万々一にもその責任を問わなければ、ご国律(土佐藩の法律)は成り立たぬと思います。
以上の諸点はただ今の大事と存じますので、僭越を憚らず、伏して言上します。
頓首敬白。
慶応三年十一月
小八木五兵衛
小八木卓助
寺田左右馬
同 典膳
寺村左膳
若尾直馬
横山覚馬
同 匠作
右の面々は表面では連署していない。しかしながら元帥・参謀であって、世に小八木派という。連署した人員は四十八名とか、四十六名とかで、(赤穂)義士の四十七人ではなかったと言われた。ただし同志は数多くあったが、在勤者か、またはいろいろの関係があって、連署しなかった者があるという。
右の人名は追々書くつもりだ。これまでにわかったのは、
野中太内
岡本小太郎
山田東作
津田弥左衛門
若尾醸助
【注②。旺文社日本史事典 三訂版によると、半知借上(はんちかりあげ)は「江戸時代,藩における財政救済法御借上・上米・半知・借知ともいう。諸藩主が家臣の知行俸禄を継続的に削減すること。はなはだしいときは俸禄の半ばにも達したので半知といった。江戸中期以降一般化したために武士層は貧窮化していった。」】
【注③。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は「幕末期,孝明天皇が常陸国水戸藩に与えた勅書。1858年(安政5)8月,無勅許で日米修好通商条約を締結した幕府に反発した天皇は,幕府牽制のため水戸藩に勅書を下した。ここで天皇は無断調印などを責め,一致協力して外夷にあたることを望み,諸藩への伝達を命じた。これに対して幕府は水戸藩に回達差止めを命じ,返納を要求した。反発した水戸藩士は大挙屯集をくり返し,返納の不当を難じたが,幕府は安政の大獄によって弾圧。59年末,天皇に返納の勅書を出させることに成功した。60年(万延元)水戸藩は返上を決めたが,桜田門外の変がおこり,尊攘論が優勢となったため,62年(文久2)末勅書を公表,奉承ということで決着した。」】
(続。再三お断りしているように、私の訳には随分間違いがあると思いますので、引用・転載はご遠慮ください。いずれは専門家の手を借りて修正するつもりです)







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