わき道をゆく第277回 現代語訳・保古飛呂比 その100
[別紙]
覚
一 京都・大坂や長崎において公事に託して遊蕩のこと。
近年、出張勤務を命じられた面々は惰弱の性向があって、外交を命じられた者であっても遊惰に流れるので、その取り締まりかたがた、両役場(※よくわからないのだが、この場合、執政・参政のことだろうか)を京都ヘ派遣され、また、昨冬、諸士が遊蕩に流れては国辱になる云々のことを布告されたのですが、重役の輩の遊蕩がははなはだしく、現に旅宿ヘ娼妓らが出入りしている様子です。 また、外交には費用がかなりかかるという理由で多額の「月金」(※よくわからないのだが、月々に藩から支給される金という意味か)を支給されており、長崎においても同様の様子です。一国の標的ともなるべき重職の身分にそのような行為があっては、前述のご趣意に背くことになると存じます。
一 疑獄(犯罪事実がはっきりせず、有罪か無罪か判決のしにくい裁判事件=デジタル大辞泉)の者を解放し、かつ、拷問をも命じられた者を「前體に」(※よくわからないのだが、前倒しでという意味だろうか)赦免されたこと。
一昨年の丑年(慶応元年)、武市半平太らの処置を命じられた際、この事件に関係した者で、見通しにおいて罪状逃れがたいが白状させられず、詮議の結果、永牢舎(終身牢屋に閉じ込めておくこと)を言い渡された者については、追々ご処置の方法もあるにちがいないと思っておりましたところ、見切りもついたのか、意外にも先だってご宥恕(許すこと)を言い渡されました。なかでも森田金三郎は詮議の結果拷問を言い渡された身分であるのに、「前體に」赦免されました。あの者は前は白札の世倅(よせがれ。世継ぎとするせがれ=生産版日本国語大辞典)だったというわけで、自然留守居組の倅になったとのこと。もともと「格好有之者」(※よくわからないのだが、それなりの身分の者という意味かも)が拷問を命じられるのは、罰のうえ名字帯刀を取り上げる見通しが立った上でのことでなければ、決してあり得ないというのが、昔からの国の決まりでしたが、どういう詮議の結果でありましょうか。このたびのご処置が至当であるならば、無罪の者をそのように取り扱った役人はそれ相当の罰を言い渡されるべきです。
一 火罰(火あぶりの刑)の者に対する私的な復讐をお許しになったこと。
一昨年の丑年(慶応元年)、御山廻り(山奉行配下の下級役人か)の何某が比島川で溺死の姿で死んでいるのが見つかりましたが、病死の取り扱いにして家督相続を許されました。その後、御手廻り(※よく分からないが、足軽もしくは武家奉公人らしい)の何某が盗みと放火の疑いで入牢しました。何某は盗みと放火の事実を認め、さらに御山廻りを絞め殺し、溺死を装ったということを申し出ました。このため近々火あぶりに処せられるという時期になって、(殺された)御山廻りの親戚どもが復讐をしたいと願い出、そのうえその他の足軽たちが「役手へ相廻候より」(※よく分からないのだが、ひょっとしたら仇討ちの加勢をするということではないだろうか)、(復讐を)お聞き届けになったとのことです。これは、これまでの国の決まりに相違していて、皆が疑念を持っています。
一 浪人者と盟約のこと。
江戸の藩邸内に浪人たちを置き、お国の藩士がそれらの浪人たちと討幕の盟約をし、書簡を往復したところ、訴える人があって、書簡なども届けられたとのこと。これらは謀反同様の者であり、そのまま放置することになったら不安でなりません。
一 今年四月、(容堂公の)上京の際、東西の郷中に下横目を使って献金を促した事に関係するのでしょうか、役人が解任され、日を置かずして復職を仰せつけられました。
一 亡命者の呼び戻し、白川邸内に浮浪の徒を置かれたこと。
元郷士の坂本龍馬がさる亥年(文久三年)、京都において(容堂公の)ご意向によって呼び戻しになりましたが、日を置かずしてまたまた亡命し、薩摩藩邸内に潜んでいたときに、伏見で幕府の捕り手数人に手傷を負わせ、その後、長州・薩州の間を奔走していたところ、どういうご詮議によってなのか、呼び戻しになりました。また、晉太郎(中岡慎太郎のこと)は、長州が暴発(元治元年の禁門の変のこと)した際、それに加担し、京都において戦争し、その後長州にいましたが、このごろ呼び戻しになったとのこと。また白河邸に浮浪の輩数人を置いておくことなどに対して疑念を持っております。
一 開成館の造営以来、事業が多方面に行われ、それぞれに損失が出ているとの風聞であります。
右は丁卯(慶応三年)のいわゆる連署組の上書の写しである。
右の覚え書きのうち、
第一条、京都・大坂、長崎などで遊蕩云々は、全般にかかることだが、(その狙いは)もっぱら後藤象二郎の一身上のことを攻撃することであろう。
第二条、疑獄の者を解放云々は、武市半平太の連携の者たちで、かねて自分ら(高行たちのこと)が解放を主張していた件である。
第三条、火罰の者云々は、自分らが小監察に在勤中のことで、不同意を申し立てたが行われず、その際不平を唱えたことがある。
第四条、浪人どもと盟約云々は、乾退助(板垣退助のこと)が江戸にいたときのことで、詳細のことはなお詮議すべきである。
第五条、今年四月のご上京の際、東西の郷中へ云々は、自分が小監察のときのことで、下横目の岡本健三郎・會和新八に自分が言いつけ、周旋させたことで、その際、郡奉行の奥村又十郎が大いに議論を提起し、支配下の人民より献金のことをさせるのは不当ということである。なるほど物事の手順はその通りであるが、奥村らは佐幕家で、ご上京を拒む連中ゆえに相談しなかったのである。そのためか、自分は郡奉行に転じて、すぐに解任されたが、またまたしばらくして復職したことがある。
第六条、亡命者の呼び戻し云々は、京都にいる重役が取り扱った。白河邸に浪人を入れたのは、自分がもっぱら関与したことである。[浪人の大将は石川誠之助である。その他は追々記すことにする]
第七条、開成館云々は、自分が郡奉行のとき不同意を申し立て、ついに退役を命じられた件である。
この連署の一件について後年、金子平十郎[金子は当時の参政である]より聞いたことを次に記す。
連署して建白を差し出す。前夜、金子平十郎方へ小八木五兵衛・若尾直馬・寺田左右馬が来た。金子は四、五日病気で引き籠もり中だったが、面会を乞われたので、無理をして面会したところ、彼らが言うには、このところの藩政の処置はその意義を認められない点がいろいろあり、山内家の安危に関する局面に立ち至ったと考え、やむを得ず数十名が連署し、建白するつもりだ。貴兄は必ず同意されるだろう。もし不同意で、依然として明日も引き続き出勤されるのなら、いつか必ず厳罰に処せられるだろう。ふだんから昵懇の仲なので、このことを忠告するため推参しました。
金子はこれに答えて言う。それは思いもかけぬことで、僕は今日のところでいささかもやましいことはない。自分が信じるところをもって勤めているので、ご忠告はかたじけないが、それに同意はできない。実は先日来、病気のため引き籠もっており、明日もそうするつもりだったが、そのような話を聞いた以上、明日は無理をしても 出勤するつもりだ、と言って、相互に議論の末、小八木らは大不平で去った。
翌日の早朝、柏原内蔵馬[参政、大目付、御用役などの要路を勤めた人。当時は役なし]が来て、金子が面会した。
柏原が言うには、昨夜、小八木五兵衛・若尾直馬・寺田左右馬が貴家より帰って来て、建白の件について深更まで議論したが、自分[柏原]は不同意で、遂に絶交して別れた。今日は大議論が起こるにちがいない。十分に覚悟していただきたいとご注意のため、夜の明けるのを待って推参したと。その厚意に力を得て、感謝した。
金子が言うには、柏原は学問もない人物だが、実直で、公平心をもって、平素すこぶる昵懇な親友三名と絶交してより、事情に通じたということで、わざわざやってきて話してくれた。
金子が言う。柏原は容堂公のご気質とは大いにちがうけれど、容堂公が常に柏原の人となりを賞賛されるのを聞いている云々。
よって(高行はこう)思う。柏原は実直の人であるけれど、古風の人だから、あるいは平素懇意にしている連署組に加入しないかと考えたが、断然絶交して不同意の意思表示をしたと、その際に伝え聞いた。いま金子の話をきくと、その好意をもって金子に注意を与えた等のこと、はなはだ感心である。惜しむらくは、老境に入り、また病身で、朝廷にも出仕せず、遺憾千万である。
一 十二月六日、羽衣船が出港した。八時すぎ、晉三が御用で来る。九時から若紫船に見分に行く。野崎傳太・山本勘作・平野富二郎ならびに官太郎に会う。十一時過ぎ帰宿。午後三時ごろより、野崎傳太・大庭毅平が相談のために来た。再び大庭が来た。夕方、空蝉船長はじめ士官が乗り組み(の任務を)解除されるということで、国許に呼び返されるという切紙(簡単な形式の文書)を出して見せた。同夜、風雨で出かけず。
ついでに記すと、空蝉船長らの帰国について議論がやかましく、皆が他の船をお買い上げの上、それに乗り組みたいと願い出た。最近は人々の人気(この場合はじんきと読み、人々の気風とか感情とかを指すものと思われる)が騒ぎ立っている状況で、ようやく説諭して(船長らは)帰国した。「当地の件に皆困難なり」(※意味がよくわからないので、原文そのまま)。
一 同七日、晴れ、曇り、午前九時より若紫船の運転、午後一時すぎ帰宿した。大庭が来た。夕方、傳太・慶助を連れて藤屋に行き、夜八時帰宿。
一 同八日、雨、出勤、大谷義庵への詰問を済まし、十二時過ぎ、帰宿。大村人の渡邊昇・浅田追五郎が来訪、乗船のことについて相談があった。同夜、傳太・喜之助・慶助が来て、酒を出す。
一 中島氏よりの書簡を渡邊氏が届けて来た。左記の通り。
中嶋作太郎より来たので、お受け取りください。忽々頓首。
[渡邊剛八こと]大山壯太郞(越前藩出身の海援隊隊士)
皇国浮沈の機、我が輩死節の秋、上に朝廷を憂い、下に民苦を察す、涕涙雨の如し、心事茫々、思う所を尽くさず。
丁卯季冬初八燈火(慶応三年十二月八日のことと思われる)
京都の寓舎において記す
中島作太郎[花押](注①)
謹んで崎陽に呈す
諸盟兄(誓い合った兄弟たちのこと)
膝下
近ごろ鉄面皮の至りでありますが、この世のなごりに別封を届けてください。ああ一夕の情、千載の思い、英雄の心緒は麻のごとく乱れ、男子の鉄腸はここに到って砕く、新田義貞は何を責むか、懼るべし、謹むべし、平生の宿志を誤るに至る。
【注①。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、中島信行(なかじまのぶゆき1846―1899)は「明治時代の政治家。弘化(こうか)3年8月土佐藩士族の家に生まれる。通称作太郎。幕末、海援隊に入って活躍し、新政府成立後は徴士(ちょうし)、外国官権判事(ごんはんじ)、兵庫県判事、大蔵省紙幣権頭(ごんのかみ)、租税権頭を歴任ののち、神奈川県令(1874~1876)、元老院議官(1876~1880)を務めた。神奈川県令時代に開かれた第1回地方官会議(1875)では公選民会論を説くなど進歩的意見を述べ、元老院議官辞任後の1881年(明治14)自由党の結成に参加、副総理に推された。さらに翌1882年請われて大阪の立憲政党総理となり、民権運動に力を尽くした。1887年保安条例に触れ横浜へ転居し、1890年神奈川5区より代議士に当選し初代衆議院議長に就任。1892年イタリア公使、1894年より貴族院議員。1896年男爵となる。明治32年3月26日没。なお夫人俊子(としこ)(旧姓岸田)は女性民権家、長男久万吉(くまきち)は実業家として名高い。」([安在邦夫]『寺石正路著『土佐偉人伝』(1914・富士越沢本書店)』」】
一 渡邊昇氏よりの書簡、左記の通り。
拝啓。昨日は大失礼。その節は、近く上京すると申し上げておりましたが、かれこれの事情から今まで引き籠もっていました。その後、万端の配慮をしていただいたとお聞きしました。何とかお時間があったら、圓山煙草屋というところに直接来ていただけないでしょうか。実は少々憚るところもありますゆえ、伏してお願いします。何もかも叶いますれば、拝謁のうえすべてを申し上げます。草々頓首、百拝。
十二月八日 渡邊昇
佐々木三四郞様
拝上
[参考]
一 この日、老公が京都にお着きになった。妙法院宮に宿をとられた。この夜、神山佐多衛を宮中に遣わし、越前宰相(松平春嶽のこと)に次のように告げさせた。拙者は病を押して上京した。疲労がひどくて、今夕は参内することができない。左多衛をもって容堂が来たと見做したまえ。現在、京都・大坂の人心は恐々としている。将軍が政権を返したのは未曾有の美挙である。もし親藩・譜代の諸臣が異議を挟み、天子のお膝元で騒擾が起きれば、朝廷に対し道を失うだけでなく、万民に向かって言う言葉がなくなる。貴兄がよく尽力されて、ことの平穏を保つべし。もし一歩を誤れば救うべからず、と。左多衛は命を受けて、宮中の仮立所に行ったときに、越前宰相は多忙でこれを聴く暇がなかった。そのため二条城で聴こうと言った。左多衛はふたたび二条城に行き、ついに前述の内容を述べることができた。容堂公の上京に際して従兵を大坂に留めた。その人員は左記の通り。
一 惣督家老
一 大隊司令
一 左右半大隊司令
一 差使役 三人
一 小軍監
一 歩兵 八小隊
ほかに馬廻り八十人
総人数一千余人
一 大隊司令 中老
一 左右半隊司令 物頭
一 軍監
一 前哨隊 一小隊
一 砲隊 半坐
一 馬廻り 二小隊
一 侍別撰隊 三小隊
一 軽格別撰隊 三小隊
一 郷士 二小隊
一 十二月九日、雪、体調不良につき出勤せず。大村人二人が来た。戸瀬昇平が来た。
一 大村藩の渡邊昇ほか二氏よりの書簡、左記の通り。
懇切なお手紙、拝読しました。船のことにつきいろいろご配慮をいただき、ありがたく、お礼を申し上げます。こちらでもあれこれ相談しましたが、一向に解決策が見いだせませんので、お手紙で示してくださった内容のことを伏してお願いします。頓首。
十二月九日 三生
佐々木大兄
[参考]
一 同日、容堂公が参内するため寓居を出て、順路の荒神口[寺町通り清和院門に至る途中]に近づくときに、他藩の兵が道を守っていた。公の列が近づくのを見て、まさに野戦砲を放とうとする者があった。従者がその訳を問い詰めた。ここにおいて、彼はそれが容堂公であることを知り、その過ちを謝った。この日、わが藩は蛤門の警衛の命令を受けて、會津藩と交代した。[藩政録による]
[参考]
一 この日、朝廷からわが藩に命令があった。左記の通り。
一 今度、大樹(将軍のこと)が政権を返上し、朝廷一新の折りから、いよいよもって天下の人心の折り合いがつかなくては、復古の式典も行われがたく、(天子は)宸襟を悩ませておられる。また、来春には(天子の)ご元服ならびに立后(天皇が結婚して皇后を正式に定めること=百科事典マイペディア)の大礼が行われ、かつまた、先帝の一周忌になって、なおさら人志一和が専要と思し召されているので、先年来、長防の事件などあれこれの混乱があったが、(天子の)寛大のご処置があって、大膳父子・末家らの入洛を許され、官位を元のように復される旨を言い渡された。
十二月八日
一 同日、容堂侯が議定職に任じられた。
土佐前少将
議定職を仰せ下された。
口宣(口頭で勅命が伝えられること=精選版日本国語大辞典)は追って下賜される。
別紙
藩内のしかるべき人物二、三人を参與として即時差し出すべき旨をお沙汰された。
一 この日、摂政関白に任命される家柄や門流を廃し、新たに総裁・議定・参與の三職を置き、大将軍を罷免し、守護職などを解任した。諭告あり、左記の通り。
徳川内府(内大臣。この場合、慶喜のこと)がかつて(朝廷から)委任された政権を返上し、将軍職を辞退することの二つについて今般断然ご承認になった。さて癸丑(嘉永六年のペリー浦賀来航のこと)以来、未曾有の国難に遭い、先帝が年々宸襟を悩まされた事情は衆庶(一般大衆)の知るところである。これにより、(天子が)叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の基(もとい)を立てられたので、以後、摂政関白・幕府などを廃絶し、ただいままず仮に総裁・議定・参與の三職を置き、万機を行うことにする。諸事、神武創業の始めに基づき、縉紳(しんしん。貴族のこと)・武家、堂上・地下(じげ。清涼殿殿上間に昇殿することを許されていない官人の総称。また、その家柄。一般には蔵人くろうどを除く六位以下をいう。地下人。⇔堂上=デジタル大辞泉)の別なく、[「至当の公議を尽くし、天下と喜び悲しみをともに」が抜けている]されるお考えなので、それぞれが勉励し、旧来の驕懦汚習を洗い、尽忠報国の誠をもって奉公をいたすべきこと。
一 三職の人体(氏名あるいは人品骨柄の意か)
総裁
有栖川帥宮(注②)
議定
仁和寺宮(注③)
山科宮(注④)
中山前大納言(注⑤)
正親町三條大納言(注⑥)
中御門中納言(注⑦)
尾張前大納言(第14代尾張藩主・徳川慶勝)
越前前宰相(第16代越前藩主・松平春嶽)
安芸少将(第12代安芸広島藩主・浅野長勲)
土佐前少将(第15代土佐藩主・山内容堂)
薩摩少将(第12代薩摩藩主・島津忠義)
参與
大原宰相(注⑧)
萬里小路右大辯(注⑨)
長谷三位(注⑩)
岩倉前中将(注⑪)
橋本少将(注⑫)
尾藩 三人
越藩 三人
藝藩 三人
土藩 三人[後藤・福岡・神山である]
薩藩 三人
一 太政官をはじめ追々設置されるので、その旨を心得ておくように。
一 朝廷の礼式は追々改正されるが、まず摂政・関白に任じられる家柄の制度は廃止される。
一 旧弊一新につき、言語の道が開放されるので、思う所のある者は、貴賎にこだわらず、忌憚なく建言すべし。人材の登用が第一の急務であるゆえ、心当たりの人材があれば、早々に言上するように。
一 近年、物価の非常な高騰は如何ともすべからざる勢いになり、富める者はあすます富を蓄え、貧者はますます窮迫している。これは結局、政令の不正によって起きたものである。民は王者の大宝、万事ご一新の折から(天子は)あれこれと宸襟を悩ましておられる。智謀・遠大な識見・弊害を解消する策があれば、誰彼となく申し出るように。
一 和宮さまは先年、関東へ降嫁されたが、その後、将軍が亡くなり、また、先帝が攘夷の成功を願われて(降嫁を)許されたのに、始終奸吏の策謀に遭い、詮なきうえは一日も早く京都に戻られるようにしたい。追ってお迎えの公卿を送るので、その旨を心得るように。
右の通り確定した後、この文書をもってお命じになった。
慶応三年十二月九日
【注②。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう1835―1895)は「幕末・明治時代の皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。天保(てんぽう)6年2月19日生まれ。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持。1864年(元治1)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)12月、王政復古とともに総裁職に就任。翌1868年の戊辰(ぼしん)戦争では2月、東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿(ひょうぶきょう)、福岡県知事、元老院議長を務め、1877年(明治10)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。日清(にっしん)戦争中の明治28年1月15日に没した。[大日方純夫]『『熾仁親王行実』全2巻(1929・高松宮家)』」】
【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、小松宮彰仁親王(こまつのみや-あきひとしんのう1846-1903)は「幕末-明治時代の皇族,軍人。弘化(こうか)3年1月16日生まれ。伏見宮邦家(くにいえ)親王の王子。安政5年親王となる。出家して純仁と名のり,王政復古にあたり還俗(げんぞく)して名を嘉彰(よしあき)にもどす。明治15年東伏見宮から小松宮に改称,名も彰仁とする。軍務に従事し,23年陸軍大将,31年元帥。35年天皇の名代としてイギリス国王の戴冠式に参列した。明治36年2月18日死去。58歳。幼称は豊宮。」】
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山階宮晃親王(やましなのみや-あきらしんのう1816-1898)は「江戸後期-明治時代,伏見宮邦家親王の第1王子。文化13年2月2日生まれ。文政6年親王となり,翌年山科(京都府)勧修寺(かじゅうじ)で得度。元治(げんじ)元年勅命により還俗(げんぞく)し,山階宮家を創設した。議定,外国事務総督をつとめた。明治31年2月17日死去。83歳。法名は済範。」】
【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、中山忠能(なかやまただやす1809―1888)は「幕末・明治前期の公家(くげ)。文化(ぶんか)6年11月11日生まれ。1813年(文化10)侍従。47年(弘化4)権大納言(ごんだいなごん)に昇進。49年(嘉永2)より63年(文久3)まで断続的に議奏(ぎそう)、議奏加勢を勤める。この間幕府の外交措置問題に関したびたび意見を述べた。公武合体、和宮(かずのみや)降嫁を岩倉具視(ともみ)らと推進するが、62年尊攘(そんじょう)派の台頭により糾弾され、8月一時差控(さしひかえ)を命ぜられる。同年12月国事(こくじ)御用掛に復活し幕府に攘夷(じょうい)の実行を迫る。翌64年(元治1)禁門(きんもん)の変に際し、長州藩のために尽力し禁足処分を受けた。67年(慶応3)1月皇太子(母は忠能の女(むすめ)慶子(よしこ))践祚(せんそ)を機に参朝許可となる。王政復古実現に尽力し議定(ぎじょう)に任命され、以後神祇(じんぎ)官知事、宣教長官などを歴任した。明治21年6月12日没。[佐々木克]『日本史籍協会編・刊『中山忠能日記』全4巻(1926/復刻版・1973・東京大学出版会)』▽『日本史籍協会編・刊『中山忠能履歴資料』全10巻(1932~35/復刻版・1974・東京大学出版会)』」】
【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう-さねなる1821*-1909)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。文政3年12月5日生まれ。権(ごんの)大納言となり議奏,国事御用掛を歴任。慶応2年辞任。翌年議奏に復し,討幕の密勅を鹿児島,萩(はぎ)両藩にわたす。4年内国事務総督,明治2年刑部卿となる。のち嵯峨(さが)と改姓。明治42年10月20日死去。90歳。日記に「嵯峨実愛日記」。」】
【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中御門経之(なかみかど-つねゆき1821*-1891)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。文政3年12月17日生まれ。坊城俊明の5男。中御門資文(すけぶみ)の養子。安政5年日米修好通商条約勅許に反対して八十八卿列参奏上にくわわる。元治(げんじ)元年参議。慶応2年岩倉具視(ともみ)らと王政復古を画策して閉門。3年ゆるされ議定,会計官知事,造幣局掛などを歴任。明治24年8月27日死去。72歳。」】
【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、大原重徳(おおはらしげとみ1801―1879)は「幕末・維新期の公武合体、反幕派の公家(くげ)。享和(きょうわ)元年10月16日生まれ。1858年(安政5)日米修好通商条約の勅許に反対して八八卿(きょう)の列参奏上に参画。1862年(文久2)朝廷が徳川慶喜(よしのぶ)、松平慶永(よしなが)登用を内容とする島津久光(ひさみつ)の公武合体の建言をいれた際に、これを幕府に命ずるための勅使に任ぜられ、久光とともに江戸に赴き対幕折衝を成功に導いた。この間、薩長(さっちょう)の対立を避けるため勅書を改文した。同年12月新設の国事御用掛に任命され、朝廷の中枢に登ったが、翌年、勅書改文の罪により辞官、落飾した。1864年(元治1)赦免。第二次長州征伐戦後の1866年(慶応2)8月、幕府批判の二二廷臣列参奏上を指導し、閉門された。翌年12月、王政復古によって誕生した政権に参与として加わり、以来、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官を歴任し、維新の功により賞典禄(しょうてんろく)1000石を永世下賜された。1870年(明治3)退官、麝香間祗候(じゃこうのましこう)。廷臣出身の代表的な政治家であった。明治12年4月1日没。墓地は東京・谷中(やなか)にある。[井上 勲]」】
【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、万里小路博房(までのこうじ-ひろふさ1824-1884)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。文政7年6月25日生まれ。万里小路正房(なおふさ)の長男。文久2年新設の国事御用掛,翌年国事参政となり,尊攘(そんじょう)急進派として活躍したが,八月十八日の政変で失脚。慶応3年ゆるされて参議。のち権(ごんの)中納言。維新後は宮内卿,皇太后宮大夫(だいぶ)などをつとめた。明治17年2月22日死去。61歳。」】
【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、長谷信篤(ながたに-のぶあつ1818-1902)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう),華族。文化15年2月24日生まれ。高倉永雅の子。平氏西洞院支流長谷信好の養子。安政5年日米修好通商条約調印の勅許に反対した尊攘派(そんじょうは)公卿のひとり。国事御用掛,議奏にすすむが,文久3年の八月十八日の政変で一時失脚。維新後,京都府初代知事,元老院議官,貴族院議員。子爵。明治35年12月26日死去。85歳。号は騰雲,梧園,梧岡」】
【注⑪。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岩倉具視(いわくら-ともみ1825-1883)は「幕末-明治時代の政治家。文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶(ともやす)の養子。嘉永(かえい)7年孝明天皇の侍従。公武合体をとなえて和宮(かずのみや)降嫁をすすめ,尊攘(そんじょう)派によって一時宮中を追われる。薩長(さっちょう)倒幕派とむすんで慶応3年王政復古を実現し,議定,副総裁として新政府の中枢にすわる。明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自由民権運動の高まりに抗して,欽定(きんてい)憲法制定の方針をさだめた。華族の財産保護を目的とした第十五銀行,華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど,華族の地位擁護につとめた。公爵。明治16年7月20日死去。59歳。京都出身。幼名は周丸(かねまる)。号は華竜,対岳。法名は友山。【格言など】時日と忍耐とは桑葉をして絨毯(じゅうたん)に変ぜしむ(暑中見舞いのことば)」】
【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、橋本実梁(はしもと-さねやな1834-1885)は「幕末-明治時代の公家,華族。天保(てんぽう)5年4月5日生まれ。小倉輔季(すけすえ)の子。橋本実麗(さねあきら)の養子。文久元年(1861)侍従となり,和宮(かずのみや)降嫁に随従。2年国事御用掛となるが,翌年八月十八日の政変で出仕停止。慶応3年ゆるされ,戊辰(ぼしん)戦争で活躍した。明治17年伯爵。元老院議官。】
(続。ついに王政復古の大号令が発せられました。高行の身辺も慌ただしくなっていきます)







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