わき道をゆく第279回 現代語訳・保古飛呂比 その102
一 (慶応三年)十二月二十二日、晴れ。早朝、小太郎が来た。春吉も来る。五代才助が来訪、数時間、談話した。正午から(商会へ)出勤、野崎(の宿に)立ち寄り、一時すぎ帰宿した。
一 藩の通達、左記の通り。
其表(長崎のこと)へ修業のためこれまで滞在していた諸生(学生や門弟のこと)たちは、詮議の結果、ひとまず国許に帰るよう仰せつけられたので、その旨を伝える。以上。
十二月二十二日 山内下総
佐々木三四郞殿
一 眞邊氏よりの書簡、左記の通り。(※眞邊栄三郎は土佐藩の幹部で大坂駐在のはずだが、この手紙をどこで書いているのかよく分からない)
横笛船の帰帆については、昨日朝来ている石田(英吉。注①)氏より聞いて、るるご承知と思います。吉井源馬(海援隊士)は天草より帰ってきていません。もっとも海援隊の「解放」(※この場合は解散の意味だと思うが、はっきりしない)の件、横笛組(横笛船の乗組員たちを指すと思われる)等の動静はいかがでしょうか。このことについてはいろいろと深くご考慮、ご尽力を願います。今日も参上するつもりでしたが、天気がよくないので、まずは手紙でお知らせします。今度お会いしたとき詳しく申し述べます。要点のみ書いて筆を擱きます。
十二月二十二日
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、石田英吉(いしだ-えいきち1839-1901)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)10年11月8日生まれ。土佐高知藩士。大坂の緒方洪庵(おがた-こうあん)に医術をまなぶ。天誅(てんちゅう)組の挙兵にくわわり,のち奇兵隊,海援隊に加入。戊辰(ぼしん)戦争にも従軍する。維新後,長崎県令,千葉・高知県知事などをへて,貴族院議員。明治34年4月8日死去。63歳。本姓は伊吹。別名に周吉など。」】
一 十二月二十三日、晴れ、岩崎彌太郎が来た。菅野覚兵衛・野村達太郎も来た。(土佐商会での)勤めが終わった後、芸州人の石津・国枝両氏が来たので、傳太・晉三を呼び寄せ、相談した。傳太は石津のところに行き、再び来た。小太郎も来た。夕方散歩し、岩崎と釜屋に行き、八時すぎ帰宿した。今日、太宰府よりの知らせを五代から転送してきた。英国商人「ヲールド」より、明日夜の案内が来た。
一 大山・菅野両氏よりの書簡、左記の通り。
拝呈いたします。さて、別紙の通りですので、ご内覧のうえ、よろしくご加筆くださるようお願いします。なお直接お目にかかったうえで申し上げるべきところですが、取り敢えず二通をご覧に入れておきます。謹言
十二月二十三日
大山壯太郞
菅野覚兵衛
佐々木大兄
追伸。公卿様方も十六日ごろ上京されるとのこと。ただ今、風説を聞きました。
[参考]
一 同日、ご隠居様(容堂公)が九ツ時(正午ごろ)、お供の行列とともに参内された。
一 十二月二十四日、雨。今日までに大半の用向きが片付いたので、明後日の二十六日に帰藩しようと、その用意をしているとき、野崎・吉田・堀内・高橋・大住らが来た。同夜、海援隊の三、四人が来た。二、三日(出発を)延ばしてくれるようにとのことである。同夜、諸生(学生や門弟たち)に(酒食を)振る舞った。
一 海援隊一同よりの書簡、左記の通り。
お手紙で委細承知しました。明後日ごろには都合のいい便船があるとのこと、一同驚愕の至りです。これからは乳児が母から離れるように、まことに途方に暮れてしまいます。どうか憐れみお察しください。いずれにせよ明朝に一同が参って、いろいろお伺い申し上げたいので、お聞き置きのほどを願い上げます。頓首敬白。
十二月二十四日 海援隊一同
佐々木様
[参考]
一 板倉閣老(注②)より英国公使に送った書、左記の通り。
書状をもって申し上げます。平山圖書頭を長崎表へ派遣する件について、昨日お会いした際にお話がありましたが、この件はかねてお約束したことですので、いろいろ出立の用意もしておりましたところ、貴方様もご承知のとおり、国内のごたごたが生じ、心ならずも段々に延びてしまいました。もっとも長崎奉行が乱暴人(英国水夫の殺害犯)の探索は精一杯骨折っていますが、この件(平山の長崎派遣)については貴方様より貴国政府へ文書で報告されているとのことで、そのうえ前々からの約束でもあります。しかしながら現在は国事多端の折から、圖書頭は当地(江戸のこと)において専ら取り扱い中の公務の案件がいろいろあって、同人を差し当たり長崎表に派遣するのは何分にも不都合な事情がありますので、若年寄・外国総奉行の堀内内蔵頭を圖書頭の代わりに長崎表に派遣するつもりです。このことをご承知いただきたく、ご連絡しました。以上。
十二月二十四日 板倉伊賀守
シユルハリエスパルケスケシピ閣下
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、板倉勝静(いたくら-かつきよ1823-1889)は「幕末の大名。文政6年1月4日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)桑名藩主松平定永の8男。板倉勝職(かつつね)の養子。嘉永(かえい)2年備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩主板倉家7代となる。安政の大獄で井伊直弼(なおすけ)に反対して寺社奉行を罷免される。文久元年復職,2年老中。慶応元年老中に再任,将軍徳川慶喜(よしのぶ)を補佐した。4年朝敵とされ,箱館までのがれたが自首。明治5年赦免され,10年上野東照宮神職。明治22年4月6日死去。67歳。」】
一 十二月二十五日、晴れ。休日。早朝、小太郎・安兵衛・春吉が来た。九時すぎより岩崎と野崎の宿で会った。十二時、帰宿。同夜、安兵衛・春吉を同伴して初村へ行き、酒肴をだした。
[参考]
一 同二十五日、朝廷が四藩の操練兵について、左記の通り。
明後日の二十七日、巳の刻(午前十時ごろ)、御所において薩州・長州・芸州・土州の四藩の銃隊操練を(天子が)ご覧になるとのお沙汰があった。
ただし出兵の人数を調べて明日の二十六日まで参與役所へ申し出るように。
一 十二月二十六日、晴れ。早朝、小太郎・剛八の両人が来た。外国人へ談判する件である。今日はすこぶる多忙、傳太が二度、晉三が二度、禎七・慶助もしばしば来た。よって、傳太・慶助らに酒を出した。
一 同二十七日、晴れ。早朝、覚兵衛・小太郎が来た。今日、格別のことなし。
[参考]
一 同日、四藩の操練を天子がご覧になった。
一 同二十八日、晴れ。夕顔船が入港、船長の由比畦三郎が来た。野崎傳太・高橋七右衛門も来て、用談。書生が次々(長崎に)来ているとのこと。
一 石田(英吉)氏よりの書簡、左記の通り。
連日の極寒の折、いよいよご壮健にお過ごしのこととお喜び申し上げます。さて、ご当地(長崎のこと)は以前同様、いろいろな事情に配慮されていることとお察しします。京都の形勢も、恐れながらさる九日の朝廷の一大変革後、(その方針は)まず変わることはないようにうかがっていましたが、何分にも容易ならざる大事件ゆえ、それ以後のところはうまく運んでいないようで慨嘆の至りでございます。このたびは(中島)作太郎が長崎に参りますので、当人から(詳しい事情を)お聞きになり、このうえ国家の為に万事ご尽力のほどを伏してお願いします。他のことは今度お会いしたときに申し上げるつもりですので、今回は以上のことのみをお伝えしたく、取り急ぎ書きました。恐々敬白。
十二月二十八日 英吉拝
佐々木様
閣下
追伸。寒中ご自愛を専一にしてください。
一 十二月二十九日、晴れ。由比(畦三郎)・野崎・高橋が来た。日中すこぶる多忙、よって外出しなかった。
一 同三十日、晴れ。(国許への)飛脚が出発するので、公私とも書簡を認め、送った。商会へ出勤。今日も多忙が最も甚だしかった。
一 海援隊よりの書簡、左記の通り。
以呂波丸(紀州藩の船と衝突し、沈没した海援隊のいろは丸のこと)沈没の賠償金一万五千三百四十五両余りを我が隊に渡すよう仰せつけられたということを謹んで承りました。以上。
十二月三十日 海援隊
一 国許より、左記の通り。
覚え
一 空蝉船が売り渡しにならぬうちは船将そのほか一人二人を残し、そのほかの士官は(国許に)送り返すように。[ただし水夫・火夫はこれに準ずべきこと]
一 野崎傳太が(国許へ)呼び返されることになった[ただし、この分は仕置き役より当人へ「仕出」(※よく分からないのだが、通知するという意味だろうか)になる]
一 小軍監は早々に国許へ乗り帰るよう仰せつけられた[ただし器械の損傷等があるので早々に一通りの修復をした上で乗り帰るように]
以上の通り仰せつけられた。
十二月
なおなお、小軍艦について、傳太が出発する際は、値段次第で売り払ってもいいかとのこと。詮議もしましたが、もともと有用な船なので、器械を取り換えれば、御用に役立つ見込みがあるため、引き続き修復を仰せつけられる予定であるので、右の積み方を取り調べた上で、その小軍艦に乗って早々に帰国するようにしていただきたい。
一 樟脳などをだんだんと積み立てていますが、日本船で早々に追いつくことが難しそうです。やがて積み立てが完了するでしょうから、船便があり次第そちらに送ります。そのうちそちらを出る帆船を取りによこしてもらえれば、大いに工面がよろしい。もっともその際に国許から脱走した者が乗り組まないよう取り計らっていただきたい。
佐々木三四郞様
【注③。このころ佐々木高行は様々な用件に忙殺されていたようで、『佐佐木老候昔日談』で次のように語っている。「十月になつて大政返上の建白が容れられて、追々老公も御上京にならるるといふ事になつてからは長崎の方も大分多忙になつて来た。第一に注文して来たのは夕顔船の事だ。同船はさきに自分等を乗せて長崎に来て居る。参政府や後藤等からも頻に国元へ廻す様に催促して来る。大分損傷の箇所が多いので、修理に日子もかかるが、昼夜兼行とも云うべき勢でやつて、十月下旬に国許へ差廻した。すると此の度は空蝉船が損傷して兵庫で修理したが、十分の事が出来ない。殊に老朽で見込がないから、買替へる様にと長崎へ廻して来た。其の方も忙しいのに、また若紫船が来て居る。これにも手を入れなければならぬ。羽衣船をも修理を加へねばならぬ。追付け引付けやつて来て、船の方だけでもなかなか閑はないのだ。尤も空蝉船は急に買替へるといふ譯にもいかぬ事情があつて、大修理を加へて国許の方へ廻してやつた。船と前後して銃器の注文をやつて来る。さきに岡内、坂本等に持たせてやつた小銃の代金支払期限も十二月十四日だ。金高は僅に一萬二三千両であるが、何分金融払底で、其支払に困難した。外国人は形勢の迫つたのを見て強硬に懸合つて来る。国許へ云うてやつたけれども、もとより金がある筈がない。ツマリは国産の樟脳を回漕して来て、夫を売つて仕払ふのであるが、何分六七艘の蒸気船では引張り足りない。和船では間に合はない。由比始め御仕置の連中も大に苦心して、曩に夕顔船が老公の御用が済んだ後、直に樟脳を廻すから、夫迄待つて呉れとの事。外国人は頻に催促する。『ヲールド』『キニフル』等のも、また負債を何とか処分を付けて貰はなければならぬと云うて、やつて来る。日夜この方に追はれて、心の安まる暇もない。處へ大目付の間忠蔵から小銃を注文して来た。此度兵制改革になつて、さきに廻した小銃千挺は、老公上京に随従した兵卒に渡して、後に編制になる分へは渡す事が出来ない。若し是等の兵隊が上京と云う事になれば忽ち困窮する。是非共千挺ばかり頼むとの事。支払には困る。困るけれども国家の大事には比べられない。これはどうしても購入しなければならぬと種々苦心の末、外国人に談判して、英中形の小銃千挺を購入して、若紫船に積込んで、国許へ差廻した。国許から樟脳が着したので、これで負債の方を処分したが、勿論引張り足りない。樟脳と同時に銅器をも送って来たので、之を処分してまた五百挺だけ送ってやつた。一体この銅器は四五年前から士民より上納させた大砲を鋳造したのであるが、うまくゆかないので、其儘保存して置いたのだ。尤も市中からの分は、大部分鋳潰して銅塊にして置いたのだ。市民は銅でさへあれば火鉢の類迄残らず上納して、中には頗る立派の名器もあつた。併し樟脳や銅器位では到底これを支払ふ譯にもいかぬ。のみならず其の他の取引上輸入が大分超過して居る。彼是により彼等と屡々談判して延期させて置いた。其中に国許から帆船で樟脳を送つて来る。夫を処分しては段々負債を償却して行つた。もとより皆済といふ譯にはいかぬのだ。十二月末になつては当面の用務は兎も角処理したし、また何分上国や国許の方がこころにかかるので、二十六日長崎を出発しやうと思うて、其の準備をすると、野崎を始め商会のもの海援隊一同今暫く延期して貰ひたいと頻に引止める。無下に謝絶する譯にもいかぬので、一時見合せて居ると、かの大変革となつたのだ。其の後前の関係上から引続いて滞崎して、商会の事や海援隊の事、書生の事、すべて長崎に於ける土佐の藩務を処理し、其結末を付けた。」】
一 この月下旬、長崎において、自分の意見を同志の者たちに問うた。
京都方面で事が起きたときは、勝敗にかかわらず、長崎在留の正義の者たちは必ず幕府から討手を差し向けられるだろう。(そうなると)所詮活路の見通しはない。しかしながらなまじいに事を起こして戦死すれば、これまでの志も水の泡となり、また、有志の者たちが一人たりとも身命をまっとうして、皇国のために策をこらしてこそ本意とすることであるから、諸生輩(弟子や門弟たち)はもちろん役務についている者も、速やかにここを去り、敵の要所を衝くか、あるいは京都方面に登るか、または本藩に帰って策を出すなど色々の策略があるべきである。ただ、外国に関係のある者は依然として動かず、幕府から討手の命令が下れば、すべて敵せず、命令のまま縛につき、命令のまま刑に服すべきである。書生たちとともに逃亡したなら、外国より必ず本藩に迫り、不審の念が際立つのみならず、幕府の方からさまざまな悪だくみによって正義の藩を陥れるのは明らかだ。内外から不信の名を負わせられては折角の名義も立たなくなり、千年後は正邪がはっきりするだろうが、今日の事は成らない。ただ、事の成らないことは憂えず、皇国の存亡は今日の一機会にかかっているので、この地(長崎)において一藩に一人あるいは二人が身命を捨てて死につく時は、天下の有志者より外国に連絡をとり「長崎在留の何藩の何某は貴国などに関係する用向きを取り扱うので、このたびの上国(京都方面)のことに関与しない。たとえ長崎で戦争になっても、外国の関係を取り扱うので、ただ外国が不信感を抱かぬようにすることを根本とするが、これとは逆に、幕府より右の処置になるなら、まことに不条理と言うべきだ。全体に幕府の不正の数々は世人がみな知るところだが、このたびの一件は内外の区別なく、外国に対し不信を示す処置であって、徹底的に憎むべきである」と言えば、外国も表向き条理を口実に主張している折りから、必ずやその不条理を知って幕府に迫るだろう。そうしたときは、一藩に一人あるいは二人ばかり身命を捨てて、あるいは正義を助ける一助となるべきだ。いま、一人二人の力によって(正義の藩を)応援する策はこれしかない。賢兄がたの高説をあえて尋ねたい。
一 この月下旬、大村藩士が下宿に来て、言った。目下当港(長崎のこと)の形勢が不穏で、我々同士を危険に陥れようとするかもわからない。いまの旅宿ははなはだ危険だと思いますので、弊藩邸(大村藩邸)は取り締まりも十分にしていますので、引き移られた方がよろしいと思いますと親切に忠告してくれた。よって、熟考のうえお答えしますと返事をした。それからわが藩の藩士数名で集まり評議したところ、自分の意見[その際の意見陳述者は別にいた]の通り、大村邸に引き移らぬことに決まった。
一 長崎出張中の諸経費、左記の通り。
一 八月二十日、
金三十二両一歩一朱と一貫文、
ただし運上所からの帰途、他藩人・長崎人らに馳走の分。
一 同二十一日、
金七両ただし木戸準一郎(木戸孝允のこと)に馳走の分。
一 同、
金八両二歩、
ただし才谷梅太郎(坂本龍馬)より、探索の経費として長崎在留の御国(土佐藩)の諸生へ渡した分。
一 八月二十三日、
金九両一分二朱、
ただし平野・石崎・三澤の三氏に対し、外国人談話の際、証人として苦労をかけたので、馳走した分。
一 同
金七両三分二朱、
ただし肥前人へ馳走、由比畦三郎が同席。
一 九月八日、九日、十日、
金十七両三朱
ただし英人殺害の尋問のため、西役所に終日または徹夜、呼び出された海援隊に他藩人も交じって休息の度ごとに馳走した分。
一 同十七日、
金五両三分
ただし立山役場からの帰途、渡邊剛八ら海援隊に馳走の分。
一 同二十日、
金百両、
ただし商会より受け取る。
一 金三十五両
ただし呉服料、月日は失念。
一 金三十両、
ただし小銃の世話料、才谷に渡す。月日は失念。
一 金四十一両
ただし芸州に馳走の分。月日は失念。
一 金九両、
ただし橋本喜之助の賄い料(食費のことか)、月日失念。
一 金七両三分、
ただし運上所からの帰り、薩人の前田・小沢を待ち受ける予定で清風亭で用意していたところ、行き違いになり両人は来なかった。海援隊の渡邊剛八・佐々木栄らが来た。両人は越前人である。月日 は失念。
一 金十二両一分、
ただし探索の用で才谷が藤屋へ来たとのことだったので払っておいた。月日は失念。
一 十月一日、
金十七両三分三朱、
ただし白川氏がフランスから帰朝したので、現地の景況を聞くために招いた。同伴者が大勢となった際の分。
一 十月三日、
金三両、
ただしフランス人「モンブラン」氏を訪ねた。白川を通訳に雇って、その帰り、小島屋で食事をした分。
一 同四日、
金八両、
ただし紀州人の岩橋轍助らに会った際、こちらからも馳走した際の分。その席に渡邊剛八・佐々木栄・石田英吉も同席した。
一 同四日、
金十一両二朱、
ただし山本孝道の送別会を海援隊で行ったきの分。
一 金三十九両、
ただし藤屋への払い。公私を仕分ける予定。
一 同八日、
金五十五両一分三朱、
ただしフランス人「モンブラン」に馳走の分。
一 同十五日、
金四両三分、
ただし橋本喜之助の賄い料(食費のことか)
一 十月十二日、
金三十両、
ただし橋本喜之助を京都に派遣する旅費。
一 同十三日、
金百両
ただし商会より受けとる。
一 同十五日、
金五十両、
ただし商会より受けとる。
一 同十六日、
金二十両、
ただし宿の賄い料。
一 同十七日、
金十五両、
ただし証人に謝礼を渡す。
一 同二十日、
金三両一分二朱、
ただし中島が(京都に)戻るので、海援隊士らと内田に集まった費用。
一 同三十日、
金五十一両、
ただし藤屋への払い。公私の区分けは別に記す。
一 金十一両一分一朱、月日は分からず。
ただし高橋安兵衛の賄い料ならびに時久(逸衛)の探索費用。
一 金三十七両三分、月日は分からず。
池田屋に賄い料の払い。
一 金十両一分二朱、月日は分からず。
ただし「フルベッキ」に謝礼品料。
一 十一月一日、
金七両二分。
ただし書籍料。
一 同四日、
金五両三分。
ただし肥後人に馳走料。
一 金二十一両、月日は分からず。
ただし大村藩人へお返しの馳走。
一 同九日、
金二百五十両、
受け取り。
一 同十日、
金二十両。
ただし宿の取賄い料(※取賄は「ととのえること。処理すること」=精選版日本国語大辞典)
一 十一月十九日、
金二両、
ただし諸生に馳走料、玉川屋で。
一 十二月一日、
金二百両、
ただし商会より受けとる。
一 金一両と四貫文、月日は分からず。
ただし「モンブラン」の聞き書き写し料。
右には書き落とし、あるいは消失の分がおびただしくあるにちがいない。(記録が)存在する分を写しておいた。
[参考]
一 この月、藩において左記の通り。
口上覚え[長崎在勤中につき後日追加した]
半知借り上げの最中で、またいまの時節柄のため、(太守さまの)ご慈恵により、来年の御馭初め(武装した侍が馬に乗って駆け抜ける儀式)は略式として、御名代馬(※よく分からないのだが、藩主の名代が乗る馬のことか)ならびに先例の通り責め馬(馬を乗り慣らすこと)まで仰せつけられ、そのほかは一切省略するよう仰せつけられたのでそのつもりでそれぞれの組内に伝え、かつまた支配の者たちに伝えるように。以上。
十二月
執政 山内下総
同 深尾左馬之助
同 深尾丹波
同 福岡宮内
同 五藤内蔵助
ちなみに、御馬御馭初めは藩祖(山内一豊)の代からの儀式で、毎年正月十一日、君公をはじめ知行取の士は残らず乗馬する。いずれも甲冑などをつけ、出陣の式である。よって一日でも公私の費用を少なくしようとするのである。
[参考]
一 この月、藩において左記の通り。
覚え
一 厳格な節約が行われている中、近外(近習=内政。外輪=外政。つまり内政外政のこと)両役場をはじめ、役領知(役職手当てのことか)の物成米(この場合は藩士に支給される米のことか)に ついて、さる寅年(慶応二年)に決められていたが、このたびまたまた詮議を経て、左記の通りお命じになった。
役領知免定(※めんじょう。よく分からないのだが、役領知の額面に対して実際に支給される米の割合のことだろうか)
一 御旗役領知
ただし二百石までは三ツ成(三割支給のことか)、二百石以上は半減とされていたが、詮議の結果、役領知は二ツ成(二割支給のことか)に仰せつけられる。
一 御馬廻組頭
ただし二百石までは二ツ成、二百石以上は半減とされていたが、右と同じく、役領知を一ツ成(一割支給のことか)に仰せつけられる。
一 「足軽知」(※意味不明)
ただし従来一ツ五歩成(一割五分支給)のところ、一ツ成に仰せつけられる。
一 御旗奉行・御槍奉行
一 「御近習物頭ヲ以足軽大将」(※近習物頭で足軽大将という意味か)
一 「外輪物頭ヲ以足軽大将並諸浦詰」(※外輪物頭で足軽大将ならびに諸浦詰めという意味か)
一 大砲頭
一 諸組旗奉行
一 外輪差使役外輪物頭
一 御侍別撰小隊司令外輪物頭
以上、八つの役職は
二百石までは一ツ五歩、二百石以上は半減とされていたが、詮議の結果、一ツ成に仰せつけられる。
一 御仕置役
ただし従来本知(知行高)・役領知とも二百五十石までは四ツ成に、そのほかの役領知は三ツ成、本知三百石以上の役領知は四ツ成のところ、二百石までは四ツ成、二百石以上は二ツ成に仰せつけら れる。
一 役により新知を下し置かれた者は、二百石までは四ツ物成、二百石以上は右と同じく、二ツ成に仰せつけられる。
一 右の通り仰せつけられる。今後、半知お借り上げを仰せつけられる際も本知同様にこれを仰せ付けられる。
一 他国勤務を仰せつけられた際は、さる寅年に(慶応二年)にお定めの通り。
右のことを相応の添え紙をもって仲間うちへ廻達すること。
[参考]
一 この年冬、
国内での従僕の定め。
一 御家老の供回り、三人以下。
ただし槍持ちはやめる。もっとも役掛かり使番を用い、往来は二人以下。
一 中老、近外両役場供回り、草履取りとも二人以下。
ただし私用の往来は、無僕勝手次第。
一 平士、 一人
ただし無僕は勝手次第。
一 御家中の婦人家内、右に準じ簡略にすべきこと。
ただし年配の者は、時として一人往来は勝手次第。
給金従者の定め
一 御家老, 十人以下。
ただし軍旅の際も同じ。
一 中老、 三人以下。
ただし「御家老場」(※意味不明)をもって差し立てられた時は六人以下、軍旅の際にも同じ。
一 参謀、 三人以下。
近外両府、
ただし時として無僕は勝手次第。
一 衛隊司令、 二人以下。
ただし右と同じ。
一 胡蝶隊司令、 二人以下。
ただし右と同じ。
一 平物頭
ただし兵隊に差し入れられた時は一人、時として無僕勝手次第。
一 司令官、 一人。
ただし無僕勝手次第。
一 平士、 一人。
ただし時として無僕で派遣されるはず。
右は、今般、
朝廷の改革につき右の通りお命じになったので、その趣意を引き受け、万事適切に簡易に基づくよう仰せつけられた。
慶応三年冬
[参考]
一 この月、藩において左記の通り。
一 御三殿様(第十二代藩主・豊資と容堂、豊範のことか)の御社参(神社に参拝すること)・御仏参(お寺に参拝すること)などのお知らせが来たら、本紙へ点を掛けてお返しし、写しを徒目付へ持たせること。
一 御三殿様をはじめ、諸屋敷の女性方まで、城内の御社参・御代参(本人に代わって参拝すること)そのほか御門の出入りなど、すべて城中に掛かることは、番横目にお持たせすること。
一 御士が当分御用を仰せつけられる切り紙は留め書きへお持たせすること。
一 「御組伺出候ハバ」(※意味不明)、右に同じ。
一 御士の御役御免の書き付け写し、右に同じ。
[参考]
一 加州公の前田慶寧公(注④)が近衛家を経て、米四万石を朝廷に献納した。
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、前田慶寧(まえだ-よしやす1830-1874)は「幕末-明治時代の大名。文政13年5月4日生まれ。前田斉泰(なりやす)の長男。慶応2年加賀金沢藩主前田家14代となる。世子のとき側近に尊攘(そんじょう)派があつまり,元治(げんじ)元年京都御所警護にあたったときも長州のため斡旋につとめた。禁門の変後,父斉泰に謹慎を命じられ,側近の勤王派は処刑された。戊辰(ぼしん)戦争では新政府について北越に出兵。明治7年5月18日死去。45歳。初名は利住。通称は又左衛門。」】
一 この年、フランス人「モンブラン」氏の通訳・齋藤謙二郎が薩摩で暗殺されたという。[後年、読売新聞に見える]。齋藤(白川こと)は変名で、岩下佐次衛門[方平]に随行し、フランスより帰朝の際、長崎で会ったことがある。岩下にやはり随行して薩摩に行ったのだが、その後の風説で暗殺に遭ったという。フランス人は一般に徳川方であるが、「モンブラン」氏は反対で、薩長方である。右の齋藤は幕府の探索(スパイの意か)だろうなどとそのころ同志とも話し合った。どうだろうか。
(続。今回でようやく保古飛呂比第二巻が終わりました。意味の分からない所が多くて申し訳ありません。誤訳もかなりあるかと思いますので、引用・転載はご遠慮下さい)







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