わき道をゆく第278回 現代語訳・保古飛呂比 その101

▼バックナンバー 一覧 2026 年 1 月 12 日 魚住 昭

一 (慶応三年)十二月十日、病気のため引き籠もり。羽衣船が先日出港のはずだったが、延期になり、今日となったので、御用書簡ならびに留守宅への品物などそれぞれ頼み、送り出した。

[参考]
 一 同日、将軍の辞職を(朝廷が)許した。

一 十二月十一日、曇り、病気のため引き籠もり。時久逸衛を召し捕ってきたと早朝に知らせてきたので、羽衣船がまだ出港していなかったため、差し止め、明日十二日に出港ということにさせ、時久逸衛を乗り込ませた。安兵衛・春吉が夜、来た。酒を出す。

一 五代氏の書簡、左記の通り。
 御壮栄をお喜び申し上げます。さて、手紙で恐れ入りますが、今般京都において紀州藩及び藤堂などの建言書を所持しておられるように伝え聞きました。もしお差し支えもなければ、その文書だけ拝借させていただきたく、ひらにお願いします。直接お伺いしてお願い申し上げるはずのところですが、多忙のため、書面でお願いします。恐々敬白。
  十二月十一日  五代拝
 佐々木大君
 貴下

一 十二月十二日、曇り、病気のため引き籠もり。今日も傳太・小太郎・安兵衛・春吉・慶助らが来た。同夜、喜之助・真齋が来た。酒を出し、談話、四ツ(午後十時ごろ)すぎ帰る。

一 同日、容堂公が文書を朝廷に差し出す。左記の通り。
 事は密をもって成るの理(ことわり)に基づき、わずかに三、四藩と謀り、宮門を閉じ、護衛の兵を置き、非常を戒め、朝廷大変革の基本を建て、摂政関白・両奏(武家伝奏。注①)・国事御用掛を廃し、新たに三職(総裁・議定・参與のこと)を設け、官武一途(朝廷と諸侯が一つになって)、会議で事を決めようと思い立つことは、ほとんど御創業の功にひとしく、まことに御盛事これにすぎずと存じます。しかしながら右のご発顕(王政復古を指すと思われる)後、ただ幕會桑(幕府・會津藩・桑名藩)の動向だけに注目する傾向があって、過去を忘れず、いささか更始一新(すべてを新しく始めること)の意を欠き、このまま日を重ねていくと、禍が予測に反して生じることがあるので、注目が偏ってはなりません。早く議事の体制を起こし、召集した諸侯の大なる者を集め、そのうちまだ来会せぬ者は至急呼び寄せ、また三職(総裁・議定・参與)の評議の規則を立て、いたずらに精神を疲弊させることがないよう、朝廷の意思がまことに公明正大にして偏固ではない所以を顕すべきでしょう。恐れながら、堂上方(朝廷をかたちづくる公家方)より命じられることがらは、もっぱら會桑の暴挙の情報があるためしきりに警戒するようにといったことですが、その多くは浮説流言に終わり、空しく驚き騒ぐだけです。これらは、すでに五、六の藩が(朝廷の)命を受け、兵備を整え厳しく警戒している以上、進攻・防戦ともに体制が整っているのでお任せいただきたい。徳川内府(慶喜のこと)が爵一等を下り、政府の入費を差し上げたことは、もちろん政権を奉還して将軍職を拝辞した以上、徳川はじめ諸侯たちはそうあるべきはずですが、従来の体裁をもって急激にこれを実施すると、いたずらに暴動を促すだけなので、緩急の配慮があるべきで、これらは越前宰相(松平慶永)の取り扱いにお任せになり、第一に議事公平の体制を早々につくることが肝要だと存じます。このことをもしご採用になるのであれば、ただちに評議所で決定していただきたいと思います。誠恐誠惶、頓首頓首。
慶応三年十二月12日
松平容堂豊信

【注①。精選版 日本国語大辞典によると、 武家伝奏(ぶけ‐てんそう。ぶけでんそうとも)は「室町・江戸時代の朝廷の職名。訴訟や儀式そのほかの諸事にわたって、朝廷と幕府の間の連絡にあたった役職。また、その役の人。室町時代以後に制度化し、江戸時代には幕府が、納言・参議の中から学才・弁舌に優れた者二名を選んだ。二人いるので両伝奏ともいう。武伝。」】

[参考]
一 同日、前将軍が二条城を出発するにのぞみ、尾張前大納言(徳川慶勝)、松平大蔵大輔(松平春嶽)に託して上奏に及んだ。左記の通り。
 防長のご処置の件につき、諸方面にお尋ねのうえ、叡慮の通りご命令がありました。これに異議を申し上げる族(やから)もいないはずですが、万一異存をとなえる輩があって、騒動に及ぶようなことがあれば、(天子が)ご幼君にもあられる折りから、自然そのようなことがあれば、ご驚動(驚いて落ち着きを失うこと。驚き騒ぐこと=デジタル大辞泉)はもちろん、皇威もどのようになるかと天子が深く心中を悩まされている状況なので、鎮撫説得の力を尽くすようにというお沙汰の内容は謹んで承りました。その後、皇居の武装をもってお固めのうえ、非常のご変革を命じられたことについては、とりわけ鎮撫の方法について深く心を痛めました。かねがね諸役人はじめ、今日に至るまで、精一杯諭しておきましたが、なにぶん多人数の鎮撫ですので深く心配しております。不肖ながら誠意をもって尊皇攘夷の道を(歩もうと)心を尽くしておりますが、いたずらに身分の卑しい者の粗忽な振る舞いにより、水泡に帰するようになっては、このうえ深く恐れ入ることになるので、こうした人心が折り合うまでしばらく大坂表に参ります。これはまったく末々の者を鎮撫し、皇居をご安心の状態にしたいとのことでありますので、私の衷心のほどをご了解願いたいと存じます。もっとも、朝廷に伺い済みのうえで出立すべきでありますが、あれこれ手間取っているうちに、万々一軽輩の過誤により、国家の一大事を引き出してはかえって恐れ入りますので、すぐさま出発することにいたします。これにより、このことを申し上げておきます。以上。
 十二月十二日

一 十二月十三日、風雨、今日飛脚を差し立てるので、終日、書簡を公私とも認め、夜に入って渡す。今日も傳太・慶助・小太郎・喜之助・真齋が来た。外出せず。

[参考]
一 同十三日、朝廷の命があった。左記の通り。
 さる八日に仰せつけられたご警衛の件は、もちろん従来の警衛場所においても、九門(皇居の門)のほかことごとく解除されたが、今回改めて
 日ノ御門   土州
 御台所御門  薩州
 南門     尾州
 朔平御門   芸州
右の通り、ご警衛の件をお命じになった。

[参考]
一 土州
 右は仁和寺宮へ警衛のため、人数三人差し出すべきこと。
 ただし薩州四人、尾州・越前・芸州より三人ずつ差し出すこと。

一 同十四日、雨。(土佐)商会へ出勤、喜之助・真齋が来た。大洲藩の池田孫市が来訪した。用向きは海援隊に伝えた。
芝居見物料を初村に払った。

[参考]
一 同日、ご隠居様(容堂公)が五ツ半(午前九時ごろ)、お供の者たちを従えて(出発し)、九ツ時(正午ごろ)参内された。
 今夕、伏見より、いろいろの荷物・駄荷(馬につけて送る荷物)様の物を車にのせ、または牛にひかせて上る道筋で、会津の歩兵隊の軍勢が十丁ばかりも連なって(京都から)引き取るのに行き逢ったので、(こちらの行列を)片寄せて控えたところ、よそではあるが、「御看板著也小指の者」(※よく分からないのだが、土佐藩の看板を持った小者という意味だろうか)へ突き当たる者があった。一言二言やりとりするうち、先方の軍勢の中から銃声が一発聞こえるや否や、「小指の者」の脇の下に当たり、驚き倒れたため、仲間の日雇いたちが伏見・京都の双方へ急を知らせて走った。京都よりは黒岩成道が駆けつけて治療した。また伏見では一筆という鳶の日雇い頭が直ぐさま手下を呼び寄せ、會津藩の歩兵の軍勢が乗船する際、歩兵のうち三人が断り出た(※よくわからないのだが、自ら名乗り出たということだろうか)ので、この三人を取り押さえ、(土佐藩の)伏見屋敷に収容したということを言ってきたという。[記録抄出]

一 十二月十五日、風。早朝、越前藩へ、大村藩の用向きで、小太郎と同伴の予定で新町屋敷まで行ったところ、しばらく待ってくれるよう言ってきたので、帰宿した。(※誰が言ってきたのか、よくわからない)
  思うことがあって詠んだ。
 時雨ての後にぞ木々の紅葉も
大和にしきの色はみゆらん

太宰府の景況を聞いて
 野も山もなべてさびしき冬枯に
      春をふくめる玉垣のうめ

同夜、坂本・石川を祭る折に、
風雨であったので
 君がためこぼれる月のかげくらく
なみだは雨とふりしきりつつ

 夜八時、帰宿。

一 十二月十六日、風雨雲。早朝、五代才助を訪問、薩人の野村宗七(注②)が来合わせ、談話を数時間して十二時に帰宿。商会へ出勤、大坂にあてた手紙を書いた。太宰府からのご指示により、夕方から同志の者たちが藤屋に集まり、夜九時に帰宿。

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野村盛秀(のむら-もりひで1831-1873)は「明治時代の官僚。天保(てんぽう)2年3月3日生まれ。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士。長崎県知事などを歴任し,明治4年初代の埼玉県令となる。白根多助の補佐をえて県統治機構を整備した。明治6年5月21日死去。43歳。本姓は野元。通称は宗七。」】

一 同十七日、雪、出勤せず。八ツ(午後二時)ごろから野崎の宿で頂戴(※この意味がよくわからない)を仰せつけられたので、そこに行き、夕方帰宿した。

一 渡邊昇氏(注③)よりの書簡、左記の通り。
 極寒の日々が続きますが、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。先日はいろいろとご高配をいただきありがとうございます。さて越前藩の船の一件、行蔵が帰国して、すべての事柄についてご依頼申し上げておいたとのことです。ところが、この件について、私などが大いに暴論をもって相談したように藩政府に伝わり、例の粗暴を叱られ、大いに困り果てました。それゆえ、何とぞ何とぞあくまで修理を加え、二十三、四日までのうちに、当表(大村のことか)へ廻してくれればよろしいので、何とぞご厄介ながらちょっとお出かけいただき、明日、私が長崎に行くまで、船が出港せぬように言い聞かせていただき、また、恐れながら小生のために前後の不始末を深くお詫びしてくださるようお願いします。実は少々差し障りのこともあって、二十七、八日でなくては我が主君の出発もできぬ事件が起きまして、そういうあれこれの事情があるので、小生が長崎に行くまで待っていただき、事情をいちいち事細かに説明した上で出港になるよう、ほどよくご周旋ください。最前は切迫したお願いをし、このたびは「極寛」(※意味がよくわからない)のお願いをして、お恥ずかしいのですが、明日お会いした上で詳しいことを申し上げますので、どうか余儀ないこととお許しください。そのために飛脚を立ててこのように申し上げました。
十二月十七日  渡邊生
佐々木様
小田様
 追伸。西都(太宰府)へのお贈り物、たしかに受け取りました。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、渡辺昇(わたなべ-のぼる1838-1913)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年4月8日生まれ。渡辺巌の次男。肥前大村藩(長崎県)藩士。江戸の安井息軒に漢学をまなび,斎藤弥九郎の練兵館にはいり塾頭となる。剣を通じ近藤勇と親交をもった。兄の清とともに尊攘(そんじょう)運動につくし,維新後は大阪府知事,元老院議官,会計検査院長。子爵。大正2年11月9日死去。76歳。名は武常。号は東民,其鳳。」】

【注④。この件については、十二月八日の保古飛呂比に「大村人渡邊昇・浅田追五郎が来訪、乗船のことにつき相談あり」とある。また、九日付の渡邊からの手紙には「懇切なお手紙、拝読しました。船のことにつきいろいろご配慮をいただき、ありがたく、お礼を申し上げます。こちらでもあれこれ相談しましたが、一向に解決策が見いだせませんので、お手紙で示していただいたことを伏してお願いします。」とある。】

一 十二月十八日、曇り、歯痛のため床に伏す。渡邊昇が来た。慶助が応対した。

[参考]
一 同十八日、外国へ通知すべき二案を(天子が)諮問されたとのこと。左記はその一案。[薩州案]
 朕は大日本天皇、同盟列侯の主である。この誥(みことのり)を承くべき諸外国の帝王とその臣民に対し、祝辞を宣(のたま)う。
 朕は将軍が政権を朕に返すことを許可し、列侯会議をともにして、汝に告ぐること次の通りである。
 第一、朕は国政を委任した将軍職を廃する。
 第二、大日本のすべての政治は、内外のことともに、同盟列侯の会議を経て後、有司(その職を行なうべき官司。また、そこに属する官人。官署。官吏=精選版日本国語大辞典)の上奏するところをもって、朕がこれを決する。
 第三、条約は大君(将軍)の名をもって結んだものでも、以後は朕の名に換える。このため、朕が有司に命じ、外国の有司と応接させる。その他の分は、もとの条約に従う。

一 同十九日、曇り。早朝、(岩崎)彌太郎の宿へ行き、それから出勤、午後一時ごろ帰宿した。安兵衛・真齋・春吉が来た。同夜、晉三・慶助が商会の用で来た。

[参考]
一 同十九日、容堂公が(天子の)御酒を頂戴した。
 御意(天子のご意思という意味か)
 京都に着いて以来、寒気の中、昼夜間断なく精を出しているので、酒を与えるように(天子が)仰った旨を拝承した。ありがたく、紫宸殿裏席で頂戴すること。

[参考]
一 同日、朝廷の命があった。左記の通り。
 このごろご変革の混雑のすきに乗じ、悪徒が横行しているという情報があるため、洛中洛外(京都市中とその郊外)の見回りを仰せつけられた。
 これまで京都奉行所(幕府の直轄)が取り扱っていたのと引き替えに、当分のところ、取り敢えず、かねて山城の国の取り締まりにあたっていた本田主膳正・青山左京太夫・松平圖書頭に市中取り締まりを仰せつけられた。それに加え、市中見回りを亀井隠岐守・加藤遠江守・加藤能登守・小出伊勢守・松浦肥前守・植村駿河守の六藩に仰せつけられていたが、さらにまた加州・薩州・中川等に洛中・洛外の見回りを仰せつけられたので、このことを心得ておくよう通知する。
  十二月十九日

一 十二月二十日、曇り。早朝、渡邊剛八が帰り着いたと言ってきた。早速、同人の宿に行き、上国(都に近い国々=デジタル大辞泉。この場合、京都・大坂方面のことか)の状況を聞く。夕方、菅野覚兵衛・野村達太郎・関雄之助・剛八・小太郎、つづいて安兵衛・春吉も来た。今日、飛脚が着いた。

一 五代氏よりの書簡、左記の通り。
  寒さ厳しい折、いよいよご壮栄のことと存じます。さて、ただ今聞きましたところ、昨今、渡邊剛八君が京都より長崎に来られたとのこと。定めし目新しい話があるのではありませんか。その内容をちょっと手紙で教えていただけませんでしょうか。そちらへ参上して拝承すべきところ、多忙中失敬ながら手紙でこのように申し上げます。敬白。
  十二月二十日  五代拝
 佐々木君
     貴下

[参考]
一 同日、欧米諸国の公使への布告書について、議定職の加判(公文書に判を加えたり、連判・合判したりすること=デジタル大辞泉)の事件なので、老公に参内するようご命令があった。
 容堂公が次のように上申書を提出した。
 外国への布告書は加判の事件であるため、今日の正午に参内するよう仰せつけられ、畏(かしこ)み奉りました。しかしながら、右の応接の一部始終は国体変換の政治の始まりの時にあたって、内外の危惧がいまだ治まらず、万国へも関係する事柄で、まことに容易ではありません。ついては書面加判等だけのことでなく、愚考することも相当あるのですが、なお思慮を尽くさなくては、ただちに言上するのは困難です。よって、今日の参内はお断り申し上げます。次の日に献言するよう命じていただきたいと存じます。
  十二月二十日

[参考]
一 この日、また左記の文書を(容堂公が朝廷に)提出した。
 現在、政体の変革により、速やかに外国へ布告するのは当然のことです。
 この布告文は、朕は列侯会盟の主であるとされることは、恐れながら今日において事理適当の文体と拝見しました。しかしながら、このことは朝廷のご新政の始めにもっとも重大な事件ですので、さらにまた繰り返し愚考したところ、ただ今の形ではまだ政体維新の基礎につき段取りが立っておりません。ことに天子の前に会した諸侯はわずかに五、六名のみで、布告文の列侯会盟の主の本意はまだまったく行われておりません。また、外国の応接は、これまで幕府に委任されていたので、その取り扱い手続きもあるでしょう。しかしながら、ただいまこのままで突然布告になっては、文体と事実が齟齬し、かえって外国においても疑惑を生じるでしょう。よって、言うまでもありませんが、徳川内府(慶喜のこと)もこれからは列侯の地位におかれる以上、帰京して廷議(朝廷での議論)に加わり、召集された諸侯もまだ到着していない者は至急上京するように命じられ、内府はもちろん天下の諸侯の衆議を朝廷が参考にされ、国体至当の公議に審決され、後日ごくわずかな遺憾がないようにされ、その上で早々に布告されれば、まことにもって列侯会盟の主の事実が行われ、皇威が外国に光り輝くことになると存じます。まずそれまでは幕政を朝廷に奉還したことを、いちいち徳川内府よりいちおう外国へ知らせるように命じられればよろしいだろうと思います。
十二月  松平容堂豊信

[参考]
一 この日、また旧幕府兵の新撰組と称する者が、伏見あたりに集まり、暴動を起こそうとした。朝廷は鎮定の備えを厳しくし、わが藩に対し次のように命じた。
  土州
 伏見表において、今度のご変革のあれこれ多端のすきに乗じ、狼藉の者が横行し、人心が不安に陥っているという情報がある。厳しく巡邏し、鎮定すべしとのお沙汰である。
ただし伏見市中の取り締まりは田宮如雲(注⑤)に兼務を命じられた。さらにまた巡邏の件は長州・芸州・薩州も同様に命じられたので、その心得のため通達する。

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、田宮如雲(たみや-じょうん1808-1871)は「江戸時代後期の武士。文化5年10月23日生まれ。尾張(おわり)名古屋藩士。尊攘(そんじょう)派の中心として徳川慶勝(よしかつ)を藩主に擁立,慶勝が14代藩主になると,側近として勘定奉行,町奉行,用人などをつとめた。慶応3年参与,明治2年名古屋藩大参事となった。明治4年4月19日死去。64歳。本姓は大塚。名は篤輝(あつてる)。字(あざな)は子志。通称は弥太郎。号は桂園,桂叢。」】

一 十二月二十一日、曇り。出勤、小太郎が来て相談した。小銃買い込みに着手した。安兵衛・春吉・真齋・俊泉・慶助が来た。
(続。今回は難解な表現が多く、往生しました。誤訳がたくさんあると思いますので、引用・転載はご遠慮下さい)