わき道をゆく第280回 現代語訳・保古飛呂比 その103
保古飛呂比 佐佐木高行日記 三
明治元年戊辰 (高行)三十九歳
正月
一 この月元日、晴れ、慶助に諏訪神社へ代参させた。(海援隊の)小田兒太郎[吉井源馬こと]が来て、いろいろ話した。京都の模様が切迫しているという情報があるためである。
由比畦三郎・野崎傳太が来た。軍艦うんぬんのことで、何分藩の持ち船が少なく、いろいろ心配だ。夜八時すぎまで相談した。
一 正月二日、晴れ。今日から若紫船の修復を決定、着手した。よって傳太を取り扱い御用に仰せつけられ、山本官作へ船長を仰せつけられた。若紫は小蒸気船であるが今日のような状況なので、一日も早く航海できるよう、しきりに急がせた。高松精一を玉川に招いての酒宴中に、鎮台(幕府の長崎奉行所)の模様を聞いた。
なお高松は白木保三の実弟で、長崎の地役人(奉行・郡代・代官などが任地で採用した役人=デジタル大辞泉)である。けれども勤王家で、ふだんから懇意にして付き合っているからである。
左記の通り仰せつけられたので、自分より(辞令を)渡した。
ご自分は長崎滞在中、商法掛りと密事御用取り扱いを仰せつけられたので、その心得をなされたい。以上。
正月二日 佐々木三四郞
野崎傳太様
野崎傳太が長崎滞在中、外事御用取り扱いを仰せつけられたので、ご自分は頭取場取り扱いをも兼任お仰せつけられたので、その心得をなされたい。以上。
正月二日 佐々木三四郞
山本官作様
同夜、傳太の餞別というので玉川に行った
一 正月三日、晴れ。岩崎彌太郎・高橋七右衛門が来た。由比も来た。商会の話・航海の話に昼夜多忙である。彌太郎、七右衛門等は商売上のかけひきを専一に心がけ、天下の国事には関わらない。自分は第一に国事の心配をする状況なので、船の出入りもいつも見込み違いをして、議論が絶えない。
[参考]
一 藩政録に左記の通り。
正月三日、徳川慶喜がまさに入京しようとした。この日、豊信(容堂公のこと)は文書を朝廷に提出し、次の通り意見を述べた。
徳川内府(慶喜のこと)のことで、昨日廷議があり、会津・桑名両藩が大阪より帰国した上で、内府を呼び寄せるお沙汰を出される旨を伺いました。しかしながら、先般も申し上げた通り、内府を早々に召され、朝廷のご規則を速やかに議定(会議で決めること)し、四海寧謐(天下が穏やかに治まること)の基本を建てることは今日の急務であって、会津・桑名両藩の(大阪撤収の)遅速はまったくの小事と思いますので、これにかかわらず、一日も早く内府帰洛(慶喜の入京)のお沙汰を出されるのは当然のことと存じます。
正月三日 山内容堂豊信
[参考]
一 同日、朝廷が尾張・越前両藩に次のように命じた。
尾張大納言(徳川慶勝)
越前大蔵大輔(松平春嶽)
昨日から今日の明け方にかけ、大阪兵が軍服を着て、大砲などを携帯して 、次々と伏見表より出動しているとのことだが、どういうことか。かねて(尾張・越前)両藩が言上していた事情とすべて食い違っていて、容易ならざる進退である。そのまま放置しがたいのはもちろんのことだが、なお前に周旋した経緯もあるので、この軍勢が早々に引き払うように取り計らいをせよ。もし命令に従わないということなら、やむを得ない状況なので、朝敵とみなして処置するようにとのご沙汰である。
[参考]
一 同日、朝廷が尾張・越前両藩に命じる文書を添え、我が藩に次のように命じた。
土州へ
別紙の通り、尾張・越前両藩に命じられたので大坂兵は引き取るだろうが、万一強いて京都に入ることを申し立てるかもわからず、その際は穏便に応接することはもちろんながら、やむを得ぬ状況に至れば、別紙のご趣意に沿って処置するように。
正月三日
ただし長州藩・薩摩藩等へも同様に命じられたので、申し合わせて、処置するように。
[参考]
一 同日、徳川慶喜が入京しようとするに当たり、竹中丹後守(注①)より、我が藩が守っている伏見の屯所へ文書を差し出した。左記の通り。
手紙で啓上します。さて、今般徳川内府が上京されるについては、先共(さきども。行列で、先頭に立って供をする人=精選版日本国語大辞典)の軍勢ならびに會津・桑名の者たちが通行しますので、お心得としてこのことを申し上げておきます。以上。
正月三日
我が藩の守衛の者がこれに答えて言う。
先刻のお手紙の内容は委細承知しました。しかしながら、朝廷よりまだ何らのお沙汰がありませんので、今少しご通行の件は差し控えてください。お沙汰があり次第、こちらからお答えいたします。まずはこのことだけをお伝えします。以上。
八木僴作
谷兔毛
竹中丹後様
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、竹中重固(たけなか-しげかた)は「幕末の武士。幕臣。元治(げんじ)元年(1864)陸軍奉行となる。慶応4年鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を指揮して薩長(さっちょう)軍とたたかい敗れる。のち箱館で榎(武揚(えのもと-たけあき)軍に参加した。美濃(みの)(岐阜県)出身。変名は吉野春山。」】
[参考]
一 岡崎菊右衛門(土佐藩士。この時京都にいた)の日記に曰く。
正月三日。今朝、伏見より會津藩の軍勢が上洛し、先手と称する者数人が入り込んだ。また淀城(京都・大阪の境に幕府が築いた城)近辺へも先手の軍勢が来たようだ。(容堂公は)不穏の動きがあるので、弾薬の用意など油断がないようにと命じられた。続いて九ツ(正午)ごろ、お供の行列が整い次第、九条さまへお出でになると言われ、しばらくして参内すると仰って、(行く先を)変更された。八ツ時(午後二時)過ぎ頃、出発された後で、夕方の日没前ごろから伏見で砲声が聞こえ、しばらくして火の手が上がった。次々と探索の者が送り出された。足軽の某は大阪に向かったが、伏見で戦争になっていると注進してきた。二度目の注進で伏見の藩邸が焼けたということを知らせて来た。この時、土佐藩の軍勢はまだ戦争を始めておらず、薩長両藩の軍勢によりあちこちで砲戦があったという。これは墨染(現在の京都市伏見区の地名)の辺りのようだというが、場所は確かではない。この時分、「大光」(※よくわからないのだが、大きなあかりの意か)が何カ所も広範囲にわたって見えた。自分は御殿の火の回り方を調べた。次々と来る注進で、薩長両藩の軍勢に手負いや死人などが出ていると伝えられた。さらなる注進で、わが藩の歩兵隊が橋の際で戦争を始め、まだここには怪我人は出ていないという。九ツ前ごろ、御所の方の辺りで出火し、火は少ないが、それでも容堂公の出先であり、かつ所柄もあって、大騒動になった。人々は動揺し、お目付が駆けつけたという。自分も下横目(現在の警察官に相当)を一人連れ、銃に弾ごめをして出た。御上(容堂公)は三條さま(新政府総裁の三條實美のことか)の屋敷におられた。聞いたところでは、今朝、仁和寺宮さま(注②)が征東軍軍事総督に任じられたが、容堂公は議定職でありながらそのことを御存じでなかった。そのうえ、先ごろは解兵に向けて尽力をしたのにこのような兵端を開くというお沙汰があったことから、ただちに議定職を辞め、(皇居の)日ノ御門の厳重守衛に当たる旨を申し出られた。三條様の屋敷にはそれゆえ控えておられたと拝承した。先刻、仁和寺宮さまに呼び出されたが、お断りになり、再び呼び出されたのでお出でになった。このとき(自分は)お供小頭としてお供を仰せつけられた。(容堂公は)仁和寺宮さまのところへ行き、しばらくしてお帰りになった。七ツ(午前四時)すぎである。夜明け、東の方で砲声が五、六発聞こえた。四日朝である。伏見・淀・鳥羽の砲声はなおやまなかったが、注進が間遠になったので、この手配のために帰る。途中で下横目の逸平次に遇い、こうした事情を言い聞かせ、ただちに斥候に引き返した。それから下宿に戻り、手配の支度をしてまた引き返した。このとき砲声はようやく絶えて聞こえなくなった。三條様の屋敷に行ったところ、(容堂公の)お帰りのお供の一員となって、しばらくしてお供して戻った。七ツ時(午後四時ごろか)である。それからだんだんと伏見の戦争の模様を聞くと、今朝七ツ時ごろより、薩摩・長州・土佐の三藩が一手になり、互いに助け合い、戦争したところ、伏見の西、高瀬川の堤の影から敵の砲声が強く、味方からは堤越しで空弾になり、苦戦していた。しかし、薩摩藩よりボンヘン(野戦砲)の砲弾を撃ち込んだところ、ほどよく敵中に落ちて破裂し、敵はたまらず敗走した。それを追いつめ、淀川の向かいまで追い込んだという。土佐藩勢の負傷者は、三の別撰隊で五人、五の歩兵隊で四人、皆手当てを受けた。そのほかかすり傷の軽傷がだいぶある。今夜はまず砲声もなく、夜一睡もしなかったので少し取り返した。ただ夢の如し。
【注②。精選版 日本国語大辞典によると、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひと‐しんのう)は「伏見宮邦家親王の第八子。元帥。陸軍大将。幼名は豊宮。はじめ嘉彰親王と称する。戊辰(ぼしん)戦争に征東大将軍として幕府軍を討伐。明治三年(一八七〇)東伏見宮を創設し、同一五年小松宮と改める。弘化三~明治三六年(一八四六‐一九〇三)」】
一 正月四日、曇り。高橋七右衛門が来た。
一 正月五日、高橋七右衛門・由比畦三郎が来た。夕顔船の出港うんぬんのことである。
[参考]
一 岡崎氏の日記の一節に曰く。
同五日、今朝五ツ(午前八時ごろ)前より、淀の方で砲声が始まった。大砲であるうんぬん。淀の方の戦は城を散々に打ち破り、味方が川を越えたという。今日、竹田・鳥羽の戦が最も激しく、官軍・朝敵ともに死人が多かった。薩摩藩でおよそ百人ばかり。長州藩は総人数は薩摩藩より少なくて、死人の数はその割よりは多いという。敵方はその倍の死人が出た。わが藩は今日は出兵のみで戦わなかった。淀城は勅命により焼けず。家中市中残らず焼けた。同夜、仁和寺宮さまは東寺まで引き上げられ、わが藩の二小隊が守護を仰せつけられた。
一 正月六日、由比が来た。やはり藩所有の船の一件の相談である。
西川易二[長崎のご用達である]を同伴して三浦某方へ行く。三浦に二百目ばかりの野戦砲があるので、事前に調べておきたく、そのため行った。
一 中島(作太郎)氏よりの書簡、左記の通り。
一筆啓上いたします。春寒の候ですが、ますますご淸適のこととお喜び申し上げます。私もつつがなく過ごしておりますので、さようご安心ください。かつまた京都方面の形勢はいよいよ切迫してきておりますので、海援隊の諸士は長崎で例の船策にきっと奔走していることと思います。どのようにご配慮くださっているでしょうか。成否はどうかと懸念しております。私もこのために長崎にまいるつもりで当所(下関)まで来たところ、折りから芸州(広島)藩の蒸気船が到着しました。聞けば、海援隊も近日中に京都方面に出動の様子とのことなので、私も当所で待ち受け、安野をそちらに送りました。かつまた、臘月(陰暦十二月)十四日の会議、国許の論義などについて是非お会いしてお話し申しあげたく、かつまたこれから先のこともあるので、是非是非面会いたしたいと存じますので、そちらのご都合がつけば、何かの用事にかこつけて、当所までお出かけくださるわけにはいきませぬか。そうすれば、桂(小五郎)その他への面会にもご都合がよろしいと思います。私も心情を申し上げたく、くれぐれもご都合をつけて、お出かけ下さい。実は、聞くところでは、国許の論義は薩摩などと少々合わないようで、そのため老候(容堂公)もあまり参内されないとのこと。何分にも面会したうえでないと申し上げがたく、取り紛れて詳しいことを申し上げませんが、ご推察ください。恐々謹言。
正月六日 馬関より
中島作太郎拝
佐々木様
この書状の中で船策うんぬんは、海援隊の連中で外国船を一艘買い求め、攝海(大阪湾)に出ていく計画があったのだが、そのことができないうちに京都方面で戦争となり、長崎で混乱が起きたため計画中止になった。長州の揚井謙三とともに金策し、手付金を渡すまでになったけれども、その金策が行き違い、遅延して果たせなかった。
[参考]
一 岡崎氏の日記に曰く。
同六日、淀・八幡で残兵が潜伏しているのを駆り立て、焼き払う。終日煙が立ちやまなかった。倅の桃四郎が来て、別撰隊に行く。戦ったやつらに聞いたとして、島崎善吉は大いに働いたそうだ。岡村繁之助は一発撃ったところ、火を取らなかったので、貫を付け直すとき、敵の弾が来て、左の肩より喉をかすり、右の腕に当たったのを、そのとき知らず、一発撃ち込み返して、さらに一発撃とうとして、右腕がかなわず、出血したため引き下がったとのこと。これが一番手傷が深く、田所米吉・吉田精吉・福留保治らは皆軽傷とのこと。
一 正月七日、晴れ。商会へ出勤。由比・山本を呼び出した。高橋七右衛門が願いがあって来た。商会の用である。池田ならびに庄助へ暇乞いに行くとのこと。
ただし、夕顔船の用意が出来次第、出港するので、同船に乗り組んで上京する予定で暇乞いするとのこと。
一 同日、朝廷の布告は左記の通り。
徳川慶喜は天下の形勢がやむを得ないことを察し、大政を返上し、将軍職の辞退を願ったので、朝議の上、(天子が)きっぱりと承認されたところ、ただ大政返上というだけで、朝廷において土地人民を保たれなくては、ご聖業は行われないので、尾張・越前両藩に対してその実効をお訊ねになった。そうして慶喜が真に恭順を尽くしているように思し召されたので、過去の罪は不問にされ、寛大な処置を仰せつけられようとしたところ、あに図らんや、大坂城に引き取るというのははじめからの策謀で、さる三日、将軍直属の家来たちを引率し、そのうえ前々にお暇をいただいて(帰国したはずの)会津・桑名の両藩(の軍勢)を先鋒とし、天子の身辺を犯す勢いで、現在彼より兵端を開いた以上、慶喜の叛状(謀反の状態)は明白である。終始朝廷を欺いたことは、大逆無道(はなはだしく人の道に背き、道理を無視すること。また、その行為=デジタル大辞泉)であり、もはや朝廷によるご宥恕(寛大な心で罪を許すこ=デジタル大辞泉)の道も絶え果てたので、やむを得ず追討を仰せつけられた。兵端がすでに開いた以上、速やかに賊徒を平定し、万民塗炭の苦しみを救いたいという天子のお考えである。今般、仁和寺宮を征討将軍に任じられたので、これまで兪安(よろこびやすんずること=精選版日本国語大辞典)怠惰に打ち過ぎ、あるいは「両端ヲ抱キ候者」(※意味がよくわからないので原文そのまま)はもちろん、たとえ賊徒に従い、譜代臣下の者であっても、悔悟して奮発し、国家のために忠義を尽くす志がある輩は、寛大の思し召しにより、(味方として)ご採用になるはずである。戦功により、徳川家の行く末のことについて嘆願することもあれば、その内容により許容されるだろう。しかしながらこの時節に至って、賊徒と謀(はかりごと)を通じ、あるいはひそかに隠れている者は朝敵同様に厳刑に処されるので、心得違いのないようにすべきである。
なお、征討将軍を置いた以上、即時追討の号令を発せられるのはもちろんであるが、なお(慶喜)配下の粗暴の徒が壅蔽(覆いかくすこと)ここに至ったのかと、あれこれ慎重にお考えになって(号令を出すのを)遅らせておられた。そうしたところ、三日からこの七日に至り、大阪兵は日々に敗走するといっても、遂にいっそう出兵し、よくよくやむを得ないことになって、断然と本文の通りお命じになったので、各藩の陪臣や小役人に至るまで方向を定め、天下のために奉公するように。
正月
一 同七日、大将軍嘉彰親王(仁和寺宮のこと)が淀城に入った。
[参考]
一 記録抄出に曰く。
一 同日、甲浦より「笹返リ」(※意味不明)高知に着いたところ、江戸の薩摩藩上屋敷を去年十二月二五日、庄内藩兵が焼き討ちし、薩摩の蒸気船が横浜に停泊しているのも砲撃した(とのこと)。蒸気船は商船で、ようやく難を逃れ、兵庫に至った。同港でも幕府兵に打ち払われ、負傷者等が出た。(商船は)それより阿州(阿波国。現在の徳島県)の港に入り、小舟に移り、(土佐の)甲浦に入った。負傷者も乗り組んでいるという知らせだった。よって小監察の下許武兵衛ならびに随行の役人、外科医の氏原太伯を派遣した。兵庫の事件は正月三日の出来事という。
[参考]
一 岡崎氏の日記に曰く。
一 同七日、大佛の辺りに會津藩(の兵)が入り込んだので、家捜しを始めた。果たして(会津兵が)逃げ出したので捕まえた。そのほか弾薬等もあったので取り込んだ。
一 正月八日、今朝あたりはだんだんと京都方面の騒擾の風聞があるが、判然としない。よって、同志たちや他藩人が多く来て、多忙。
外国が売りに出した船で、その船名が加賀守号というのを急に幕府が求め、弾薬等を積み込んだという風聞がしきりである。
因みに、加賀守船はまさしく幕府で借り入れ、長崎行きの幕府兵五百名ばかり乗り組み、出港したところが、瀬戸を通行の際、焼失したとのこと。後で聞いた。
もともと加賀守船は海援隊が買い入れるはずだったが、その交渉中、手付金が急速に用意出来ず、そのうち長崎奉行の手で借り入れたか、あるいは買い求めたかしたらしい。
一 徳川家が反逆の形勢があるので、薩長と長崎滞在中の有志は協議して、内外の周旋に尽力していたが、今月初旬、京都・摂津の間で朝廷・幕府の戦争となったという風聞が聞こえ、当鎮台(幕府の長崎奉行所)が昼夜練兵して、すでに(薩長土)三藩の長崎滞在中の者を討とうという策があるなどの説が紛々としている。しかしながら当地(長崎)は開港の地であって、外国人が居留しているので、猥りな挙動があっては大害が醸成されるので、三藩において専ら鎮撫の尽力をしたい。このためわが藩の長崎滞在中の学生がいては、かえって差し支えがあるとの評議の結果、学生一同を帰国するよう通達した。
ただし長州人は表面は薩摩人と称していた。現在は楊井謙三が主だって周旋している。
一 前野(悦次郎。土佐藩士)よりの書簡、左記の通り。
薩州の伊集院より一筆啓上します。余寒が強い折、いよいよご安祥でご多忙のこととお喜び申し上げます。さて、僕はこのたび薩摩藩と秋月藩(福岡藩の支藩)への使者の御用を仰せつけられ、昨年十二月二十三日、(土佐の)国許を出立し、須崎浦から蒸気船で到着し、御用向きが済んで、今日鹿児島を出発、同所よりこの手紙を書いております。ところで、このたび薩州の蒸気船が大阪湾の兵庫ならびに江戸表などにおいて異常が起きたということです。すでに一昨日の六日夜、軍艦一艘が帰帆し、詳しい模様が伝えられたとのことで、取り敢えず三百人ばかりの軍勢を京都ヘ送ることになり、昨日出発し、長崎より(船に)乗り組む予定でいたとのことですが、(いま長崎には薩摩藩の)蒸気船が居合わせていないとのことで、土佐藩の蒸気船が長崎に停泊しておれば、その(三百人ばかりの)軍勢が乗船して兵庫辺りまで(蒸気船を)拝借したいということを、(薩摩の)ご当家さまよりご相談を受けました。そういう事情で、前述のように火急の出兵ですので、(土佐藩の)船が居合わせているなら、長崎でいろいろとご都合よろしきよう取りはからっていただきたい。なお詳しいことはこのたびそちらへ行く岩下某よりお聞き取りの上、何分悪しからずお取りはからいになってしかるべき案件と考えますので、ご承知をお願いします。まずは右のことのご相談のため、この通りでございます。以上。
正月八日 前野悦次郎
佐々木三四郞様
(続。今回も難解な表現がいろいろあって難航しました。誤訳・拙訳をお許しください)







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