わき道をゆく第281回 現代語訳・保古飛呂比 その104
一 同日(正月八日)、朝廷が我が藩士に酒肴をくださった。[記録抄出には九日とある]
連日の交戦でしばしば勝利を得たことを(天子が)お聞きになり、喜んでおられる。これにより、軍の労をねぎらってくださった。
なお後日きっと(恩賞の)思し召しもあるだろうから、死傷の者たちを詳しく記録しておくように。
正月八日
賜 酒十六樽 鯣(するめ)五十束
一 正月九日、今夜、(土佐)商会近辺より出火、商会が類焼した。
なお、商会に駆けつけ、消防の指揮をした。
一 細川(養碩。土佐藩の医師)氏の書簡、左記の通り。
今月三日、七ツ半時(午後五時ごろ)より下鳥羽で薩州勢が賊軍と大戦争になり、翌日の四日五ツ時(午前八時ごろ)まで、砲声・鯨波(大勢の人が一斉にあげる声。鬨の声=デジタル大辞泉)が天地を動かし、暫時もいとまなく、実に古にも珍しい合戦のように思います。賊軍は大敗し、官軍は(賊軍の)大砲三十六挺、そのほかの器械・兵糧をおびただしく分捕り、會津藩の二人を生け捕りにしました。
同日、日暮れ頃、伏見町へ賊軍より破裂弾を撃ち込み、御国(土佐藩)のお屋敷へも一番に火がかかりました。官軍は長州勢より、賊軍が屯集する奉行屋敷に大砲を撃ち込み、焼き払ったので、ここでも大戦となり、賊軍が大敗となりました。
同四日朝、高瀬川縄手で、会津・徳川・高松の賊兵と薩州・長州・土州の三藩が大戦争となり、薩長は正面から進み、土州勢は横から攻め入りました。賊軍は大敗し、逃げ去りました。ここでも高松などの弾薬・器械を残らず三藩が分捕り、御国の兵士六、七人が負傷しましたが、命に関わるものは一人もありませんでした。今日の戦は五ツ時(午前八時ごろ)より九ツ時(正午ごろ)まで。
今夜、賊軍は鳥羽街道・伏見街道を逃げ去りました。官軍が追撃し、五日、淀で戦争、賊軍を相手によほど苦戦しましたが、薩長が勢いに乗じて、そのうえ因州(鳥取藩)が官軍に馳せ加わったため、(賊軍は)遂に敗走。淀川の橋を焼き落とし、八幡・橋本へ撤退しました。この日の戦は双方とも苦戦で、薩州・長州・因州にも死者・負傷者が多く出ました。賊軍の死傷が最も甚だしく、死人が山をなしました。
六日、八幡・橋本の戦い、賊軍はここで勢いが絶え、大坂へ逃げ下りました。橋本の関門を固めていた若州(若狭藩)小濱城主の酒井の軍勢もよほど防戦しましたが、薩州が正面より進み、長州が山陰(やまかげ)から発砲し、そのうえ今まで頼みに思っていた、山崎の関門を固めていた藤堂(津藩)勢が官軍に加わり、三方から攻め立てたのでまもなく大敗に至りました。関門の中は長州が乗っ取った器械・弾薬・槍刀・甲冑が数知れず、大砲十三挺を長州騎兵隊第五中隊が分捕ったと記してありました。徳川内府(慶喜)は大坂城に火をつけ、蒸気船で(逃げて)行方知れずとの説です。私も今月三日の四ツ時(午前十時ごろ)、伏見表へ出陣し、初めて戦を見物しました。
今月五日、征討将軍仁和寺宮さまが錦の御旗を立て、四條殿・西三條殿・東久世殿・壬生殿・澤殿・薩州侯・芸州侯がお供して、竹田街道を通り、伏見まで進発され、諸軍をご慰労のうえ、東寺に本陣を据えられました。その夜、御国(土佐藩)の軍勢は宮さまの守護を仰せつけられ、六日の朝、伏見を引き払い、東寺へ引き取りました。
七日の五ツ時(午前八時ごろ)、(仁和寺宮は)お供の行列をそろえ、鳥羽街道を通って淀城へお入りになり、(土佐藩の軍勢が)お供しました。
八日、(仁和寺宮は)石清水八幡宮を参詣され、橋本・八幡の戦場を巡覧され、淀城に入られました。そのお供をして戦場を見物しましたが、実に死人が目も当てられぬありさまで、(遺体を)取りのける人もなく、鉄砲で撃ち殺されたのを憎さも憎しと何回も切り刻み、首も手も足も別々になって、気味良き次第でございます。
辰正月(九日) 細川養碩
佐々木三四郞さま
一 前野氏よりの書簡、左記の通り。
昨夜、(鹿児島の)伊集院に泊まったところ、藩士の亀山甚助が来て、このたびの出兵の件につき、御国許(土佐藩)の蒸気船が長崎に碇泊しているならば、是非とも拝借したいという相談が表立ってありました。これについて実情を詳しく聞いて、(貴方に手紙で)お願いしましたが、今日水行宿(船宿のことか?)に着いたところ、同藩士の岩下清之丞が来て、同じく蒸気船の一件についてひたすら相談がありました。このたびの異常事態については天下の周旋にも関係していて、自国にとっては容易ならざる国難の事態で、そのうえ出兵のことは急ぐのですが、陸路の通行では大いに手間取るので、是非とも御国(土佐藩)の船を借用したい。ついてはこの清之丞が長崎に行って直に相談もするということで、当地を出発して、そちらに向かいます。しかし、前に手紙でお知らせした出兵の軍勢は阿久根宿に残しておき、清之丞がそちらに着いて蒸気船の都合がつきますれば、阿久根宿に船をまわした上で、そこから乗船し、「兵庫・攝海等之中へ巡宿致し置申由」(※意味がはっきりしないので原文引用)でございますので、なおくわしいことは同人よりお聞き取りくださって、ご都合よろしきようご周旋ください。この件についてはひたすら頼ってきておりますので、格別の取りはからいになってしかるべしと存じますので、なお念のためこのことをご了解いただきたく、この通りでございます。
正月九日 前野悦次郎
佐佐木三四郞さま
[参考]
一 同九日、藩において左記の通り。
近習・外輪(藩の内政・外政)のお役人で物頭以下は、すべて「不規ヲ以役料御定米等被差除之」(※よくわからないのだが、役料として支給されていた米を今後は支給しないという意味か)。ただし物頭格以下の「場所」(※意味がよくわからない。ひょっとしたら身分の意か)は百五十石までは「役料ヲ以被足遣之」(※これもよくわからない。あるいは役料を全額支給するという意味か)。切符取り(注①)の面々は、五人扶持切符十五石までは、同じく「被足遣之筈」。
ただし旅勤(他国へ出張勤務)の際は、出発月から帰国月まで、格式にしたがい、旧来の「分限高ニ被足遣之筈」。
一 役目につき新知(新たな知行の意か)を支給される面々は、右と同じく百五十石を支給される。もっともこれまで百五十石を支給されていた「場所」も、右の高のほかは削減される。
一 御雇い(臨時の雇員のことか)として十五石以上支給されていた者も、十五石に減らされる。
ただし旅勤の際は右と同じ。
右の旅勤の際でも立ち帰り(先方に行ってすぐ帰ってくること)を仰せつけられたときは、右の足し米(加給分の米)は支給されない。
【注①。切符は切米のことと思われる。切米は精選版 日本国語大辞典によると、「江戸時代、幕府あるいは大名の家臣のうち、知行所を与えられていない者に対して、春(二月、年給額の四分の一)、夏(五月、同四分の一)、冬(一〇月、同二分の一)の三季に分割して支給される扶持米、あるいはそれ相当の金銭。また、それを支給すること。特に冬季のものを「切米」といい、その他を「御借米」という場合がある」。】
一 正月十日、昨夜、(土佐)商会が類焼し、まだ今日の明け方も火が消えない。日中、その監督やあれこれで多忙。今日、加賀守号が出港したという。不分明である。
ただし昨日の八日ごろから、長崎在留の幕府兵が撤兵し、残らず引き揚げ、京都方面に上るとの風聞があり、今日まで同じく、いまだ確証はなし。
[参考]
一 岡崎日記に曰く。
同十日、昨日、参内[太守公のこと]するようにとのお沙汰が朝廷からあったが、持病を発せられて名代の鼎どのが参内した。そうしたところ、朝廷から、先だって議定職を断られたが、天子は若年で、事態の推移に宸襟を悩まされておられるので、病気が少しでも回復したなら、無理をしてでも参内し、以前通り議定職を勤めるようお沙汰があった旨を今日、お目付け役より口頭でうかがった。
[参考]
一 同十日、(朝廷の)お沙汰により(徳川)慶喜以下の官位を削る。
徳川慶喜
奥州 会津
勢州 桑名
讃州 高松
豫洲 松山
備中 松山
上総 太田喜
右は、このたび慶喜が天朝を欺いて叛状(謀叛の様子)明白、すでに兵端を開いたので、追討を命ぜられた。これにより、右の者どもは、賊徒にしたがい、反逆が明らかなので、官位を剥奪される。
若州 小濱
濃州 大垣
志州 鳥羽
松平伯耆守 丹後 宮津
内藤能登守 日州 延岡
右は不審の次第があるので、入京を差し止める。
若年寄 永井玄蕃頭
同並 平山圖書頭
右同 竹中丹後守
右同 塚原但馬守
大目付 戸川伊豆守
右同 松平大隅守
目付 新見相模守
榎本対馬守
牧野土佐守
岡部肥前守
大久保主膳守
小栗下総守
星野豊後守
高力主計頭
小笠原河内守
大久保能登守
戸田肥前守
室賀甲斐守
右はこのたび慶喜が天朝を欺き。叛状明白、すでに兵端を開いたので、追討をお命じになった。これにより右の者どもは賊徒に従い、反逆が明らかなので官位を剥奪する。
一 正月十一日、内外多事。
ただし京都方面の事件についてはまだ確報はなし。しかしながらなんとなく内外の人たちが京都・摂津間は必ず騒乱が起きると、誰となく二、三日前より風聞がしきりである。
[参考]
一 正月十一日、佐々木三四郎はそれ以前から藩命を受けて長崎にいた。長崎奉行の河津伊豆守が保管する金銀を取って去ろうとした。三四郞は人を遣わしてこれを詰った。伊豆守はついに金銀を残し、舟に乗って去った。このとき(土佐)藩士はわずかに二十五人で長崎を鎮定した。[藩政録]
[参考]
一 同日、朝廷が豊範公(土佐藩主)に命じ、讃州(讃岐国)・予州(伊予国)の両国のうち、高松・松山の二藩および幕府領の地を討って、平定することを命じた。その命令に曰く。
徳川慶喜の反逆・暴挙を助けること、その罪は天地に容れることのできぬものなので、讃州の高松・予州の松山、「同川ノ上」(※意味がよくわからないので原文そのまま)をはじめこれまでの幕府領をすべて征伐し、没収するよう命じられた。よろしく軍威を厳にし、速やかに追討の功を挙げるようにとのお沙汰である。
正月十一日
ただし両国のうちの幕府領はもちろん、幕府の小役人の領知にいたるまですべて取り調べ、報告するように。また人民を鎮撫し、ひとえに王化(天子の德や政治が行き渡ること)に服するよう処置すべきこと。
土佐少将
征討を仰せつけられたので御紋の御旗(みはた)二本を下賜する。
正月十一日
一 正月十二日、腫れ。前日夜から薩摩の屋敷を焼き払い、土佐人・大村人等を追捕(追いかけて捕らえること)するという風聞が市中に盛んに流れている。大村人より「わが藩の屋敷に移り住んでいただきたい」と言って来た。断った。
一 石津氏(広島藩の石津蔵六)よりの書簡、左記の通り。
今日は体調はいかがかと伺いたく、かつまた昨日以来の薩摩屋敷のことをご承知でありましょうか。ただいま聞きましたので、ちょっとお尋ねかたがた取り急ぎ申し上げます。以上。
佐々木君
正月十二日
以前も「久之助差出」(※意味がよくわからないので原文そのまま)、何かとご教諭いただきありがとうございます。もとより腹を決め、決心していて、国辱になるようなことは決してしませんので、ご安心ください。ただいま薩摩藩ご用達(の商人)が鎮台(幕府の長崎奉行所)へ参り、何かと駆け引き等が済んだとのことで、もとより激しいことには決して及ばぬ様子だということのようです。このことは弊藩(広島藩)のご用達と、薩摩藩のご用達が仲間同士であるため、ただいま聞いて、小生に知らせてきたことです。(鎮台の幕府勢は)一両日中「小白形[ママ]見合」(※意味不明のため原文そのまま)、ことごとく(長崎から)撤収すべき者どもではないかと思いますが、ただ外国人に対し不条理となり、また後日の取り組みのことに関係するだろうと、「前後復案[ママ]計に御座候」(※よく分からないのだが、あれこれ考えているという意味だろうか)。今日から少々風邪をひいて、ご無沙汰します。さらに情報があれば即刻お知らせ申すべしと、まことに極く内々ながら承りたく存じ奉ります。早々拝首。
佐々木君
正月十二日
[参考]
一 岡崎(菊右衛門)氏の日記に曰く。
一 同十二日、今日九ツ時(正午ごろ)、お目付衆より、昨夜、御所へ奉行衆が呼ばれ、錦の御旗をいただくことになり、川原町御殿まで拝受に出向くので守護するよう、またその守護の行列の人員をととのえるよう命じられた。左記の通り、ご詮議になり、なお川原町へ菊右衛門が先だって参るように言われた。軍目付(注②)は前野久米之助総督である。
出発、[足軽、同、郷士、同、同、同]、錦の御旗、[棹、同]、御徒目付、大目付、[下横目、同]、君上御参内掛り。藩邸で(錦の御旗の)拝見を済ませた上、守護して帰る。御国(土佐)へ直に大目付・小目付・徒目付が守護し、今日出発する。その理由は、讃州高松・予州松山の征討命令をお受けになったからである。
一 同十三日、前述の御旗を拝見。赤地特[ママ]丹唐草、幅二尺八寸くらい、長さ八尺ほど、「二流二ツ元[ママ]」(※意味不明のため原文そのまま。二流は二本の意)
○金色の菊の御紋(※長方形の図あり)
棹の長さ三間ほど、「二本節合」(?)、黒皮で巻く、十八巻。
(※棹の図あり)
大目付・本山只一郎、小目付・伴周吉、徒目付・樋口眞吉、下横目・良吉、下横目・精蔵、御飛脚三人。
この人員が守衛のため今日の九ツ時(正午ごろ)に出発、御国へ向かった。
【注②。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、軍目付(いくさめつけ)は「室町時代以降,武家では監察にあたる役職を一般に目付と称した。軍目付は戦国大名諸家におかれ,戦陣で敵情探査にあたったり,自軍兵士の勤務状況を調査・記録した。」】
[参考]
一 同十二日、朝廷が(わが藩の)太守さまのご功労を賞して、剣と差添(脇差しのこと)を賜った。
積年の勤労の志が少なからず、ことにさる三日、伏見表において連戦し、威を示し、賊軍敗走、叡感斜めならず(天子は喜んでおられる)。よって恩賞として御剣一振りを下賜する旨をお沙汰する。
太刀 銘は廣利
差副 銘は肥後大椽貞国
このほか思し召しがあって、金一万五千両を下された。
[参考]
一 同日、朝廷が金をわが藩に賜った。
金三百両。
右は国事のために戦死した者どものことを天子が聞かれ、忠魂を地下に慰めるため、弔い料として金子を下賜するとのお沙汰である。しかしながら、わが藩では負傷者のみで死者はいないので、下賜金を辞退しようとして文書を差し出した。すると負傷者の療養費とするよう命じられた。
一 同十三日、朝、松方助左衛門(松方正義。注③)の旅宿を訪ね、日を追って時勢が切迫し、人心恐々のところ、鎮台の模様もわからない。当地は開港場であるから、ただ今の形勢では外国人にも影響し、不慮の変事が起こるかもわからず、何とか手段を講じなければならない(と言った)。松方氏が言う。ごもっともご同意である。しかしながらなお時機もあるだろうから、とくとご相談しましょうとなった。
【注③。 改訂新版世界大百科事典によると、松方正義 (まつかたまさよし。生没年:1835-1924(天保6-大正13))は「薩摩出身の明治藩閥政治家の一人。2度組閣し,また長く大蔵大臣のポストにあって明治国家財政の確立に尽力して功があったが,政治指導者としての評価は必ずしも高くない。
薩摩藩士(初め郷士)松方正恭(まさやす)の四男。幼名金次郎,のち助左衛門。号は孤山(こざん),海東など。貧窮のうちに育ち,島津久光の近習番となり,大久保利通(当時,御側役)に認められた。幕末期,京坂間を往復して政局にかかわり,1865年(慶応1),御船(みふね)奉行添役(そえやく)として長崎に出張,数学と測量術の研究に力をそそいだ。これは,のちの彼の財政家としての活躍の素地になったという。68年(明治1),長崎裁判所参謀,内国事務局判事などを経,大久保の推挙で日田県知事となり,民部大丞(1870),租税権頭(ごんのかみ)(1871)から租税頭(1874)となって地租改正を推進し,75年,大蔵大輔となり,大隈重信を補佐した。77年,勧業局長兼仏国博覧会副総裁となり,翌年渡仏。79年の帰国までにヨーロッパ各国を歴訪,とりわけフランス大蔵大臣レオン・セーの影響をうけたといわれる。松方の財政は,貨幣価値の下落を防ぎ,直輸出政策によって紙幣整理・準備金の増殖をめざそうとしていたため,外債によって紙幣整理を断行しようとしていた大隈財政とは対立する立場にあった。明治14年の政変(1881)で大隈が失脚するや,参議兼大蔵卿となって,松方財政,いわゆる松方デフレ政策を推進した。松方は兌換制を確立し,安定した近代的通貨体制をつくるために1882年,日本銀行を創設した。この松方財政の結果,銀貨兌換制(銀本位制)は確立し,金本位制への第一歩は築かれた。田口卯吉はこれを〈財政上の一大美事〉といい,松方自身,〈白がねの世とはなれどもいつかまた黄金(こがね)花さく春を見んとは〉と歌った。85年,松方は内閣制による初代大蔵大臣となり,伊藤博文,黒田清隆,山県有朋各内閣でそのポストにあった。91年,松方内閣では蔵相を兼任した。大津事件は 首相就任6日目に起こったが,そのリーダーシップには批判があった。また,初期議会における民党との対立下の総選挙で,品川弥二郎内相による選挙干渉が行われたのは,この松方内閣のときである。95年,第2次伊藤内閣では蔵相として日清戦争の戦後経営に当たり,翌96年の第2次松方内閣(松隈内閣)でも蔵相を兼任,金本位制を確立した。前記の彼の歌のめざしたものを実現したのである。98年の第2次山県内閣でも大蔵大臣となった。以後,松方は日英同盟を推進し,1902年,欧米を巡遊,帰国後は日本赤十字社社長,枢密顧問官,内大臣などを歴任,22年,公爵となった。死去には国葬が営まれた。三宅雪嶺は〈子多くして福禄寿を兼ねたりと云はれるが,十五銀行の破綻が累となり,嗣子巌が爵位を拝辞し,一抹の悲哀を感ぜしむ〉(《同時代史》)と述べて,その経歴の叙述を結んでいる。伝記には《公爵松方正義》(徳富猪一郎編,全2巻,1935)がある。」(執筆者:田中 彰)】
一 同日、同志が集会し、いずれ彼(幕府側のこと)より手を出してくるだろうから、その際は不覚を取らぬよう申し合わせた。よって今夕より夜中は多忙。その訳は、同志は至って人が少なく、薩摩邸も人数がいない模様。大村藩も同様。幕府方は長崎の兵隊がいる。また関東からも駆けつけているようなので所詮勝算はない。このうえは立派に切り死にするほかない。ついてはあれこれ手配し、ことが起きれば、一、二人は本藩に報知しなければならぬと、いろいろ取りまとめた。そのうち風聞が種々様々あって、出入りの人も絶えず、実に多事を極めた。夕刻になって市中がいよいよ騒がしくなり、奉行が薩摩藩邸を焼き払うとか、大村藩邸を攻撃するとか、薩摩・土佐・大村人らをことごとく皆捕縛するとかの風聞がはなはだしく、市中では荷物等を片付けるなどの形勢だと告げる者があった。このため同夜五ツ時(午後八時)ごろ、西役所に行き、奉行の河津伊豆守に面会し、京阪ではすでに戦端が開かれたという風聞がしきりにある[京都方面の戦争のことは外国からすでに聞いていたが、わざと尋ねたのである]。こうした折から、この二三日の夜間、兵隊に市中を巡邏させるなど、あれこれにより人心がますます恐々となり、今にも当港でも戦争が始まるような状況で、役所も民間も狼狽のありさまです。当港は外国人の居留する者も少なくなく、万一外人に対し問題などを引き起こせば、皇国の大事が容易ならぬことになるので、奉行所においてはなるだけ穏便のご処置を願いたい。河津が答えて言う。京阪方面も容易ならざる模様である。いまだ確報はない。決して当港で手を下すようなことはまったくないことである。三四郞曰く。なにぶん風評も容易ならざることで、ご配慮ももっともです。しかし当港には薩摩・土佐・大村などの人数はわずかに数十名です。仰々しく取り払うには及びますまい。このうえ京都方面から確報があり、弊藩等も勤王ために幕府と戦争することになれば、お互いに主君のため馬上で見参することもあるでしょう。(その時は)必ず戦書(宣戦布告の文書)でご通知をされたい。このうえはいささかも外国人居留地などに波及せず、関係せぬことが最も肝要です。もしも彼らに口実を与え、皇国の寸地(わずかな土地)でも占領されるようなことがあっては、当港にいる者は、貴兄はもとより我々までも朝廷・万民に対し、千年も申し訳が立たぬので返す返すご注意ありたい。河津曰く。尊藩は容堂公が将軍家とは格別にご昵懇の間柄であるので、京都方面で云々はありえないと信用している。三四郞曰く。大義名分上によっては、将軍家と干戈を交えることもきっとあるだろうと、皆も覚悟のことです。前に言ったように、我々は同志数十名でありますが、公然と戦書をお送りになれば、立派に勝敗を決するつもりです。隠密の計略によって処分されることになれば、かえって騒擾を引き起こすでしょう。河津曰く。わかりました。必ず報知しましょうと。それから退出した。
(続。佐々木日記の長崎篇はクライマックスを迎えていますが、私の訳出作業は難航しています。分からないところが多くて申し訳ありません。誤訳も多いでしょうから、引用・転載はご遠慮下さい)







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