わき道をゆく第282回 現代語訳・保古飛呂比 その105
一 石津氏(芸州藩の石津蔵六)よりの書簡、左記の通り。
ただいま異人船が入港し、大坂の事情をさる外国人より知らせてきました。お聞き及びでしょうか。大坂城が落城したとのこと。會津藩の四千人が命を落としたとのこと。大恐悦々々。謹拝。
(明治元年)正月十三日
四(慶応年十三日
大愉快々々
佐々木君
一 岩崎氏よりの書簡、左記の通り。
命じられた当夜出港の件はまだ御用向きなどが片付かず、そのうえ外国人にも(商取引上の)問い合わせがあって、ただいま通訳官を送って尋ねさせております。こういう訳なので、是非是非、今夕の出港はどうにも難しいので、このことをよろしくお取りはからい仰せつけられくださるよう願います。
正月十三日 岩崎彌太郎
佐々木三四郞さま
これは、上方で戦争が起きたという情報を外国人から入手したので、老公(容堂公)の上京中、藩の軍勢をくり出すのに差し支えるため、至急夕顔船を(上方に)廻すよう指示したところ、本文の通り答えてきたものだ。
一 先ほどお話し申し上げた通り、大坂行きの件は、商会においても議決しましたので、このことをお聞き置き願います。しかし、今夕の乗船はやむなくお受けしませんので、明日の出帆とお取り決めいただき、そのことを船長へ「御掛合被仰付度奉存候」(※談判もしくは指示していただけませんでしょうかという意味だと思うのだが、よくわからない)。多忙中のため、用件のみ。敬白。
正月十三日 岩崎彌太郎
前の通り言ってきたので、なおまた押し返して言ってやったところ、本文の通り言ってきた。
一 当商会のこと、最近の情勢では、薄財微力で、自分の力では支えることができませんので、しかるべくご処置(辞職のこと)を仰せつけください。このことをお伝えします。
正月十三日 岩崎彌太郎
佐々木三四郞さま
(岩崎は)前文後文の通り答えてきた。商会のことは不案内であるが、夕顔船を一刻も早く帰帆させようという精神なのに、岩崎は商取引のみに注意して、国家の大事を知らない。よって、早速岩崎の辞表を許し、あとのことを引き受けた。
[参考]
一 左記の書簡は後日、奉行所の箪笥から出てきたものだ。よって記録しておいた。[高行]
書簡で申し入れます。さて、わが国では一、二の凶暴の諸侯が日本政府を襲撃に及んだことはきっと承知のことと思います。したがって賊徒らがこの地において粗暴の挙動におよぶのではないかとの風聞もあります。ついては、そのために自然、両国人民の所持品が危険になるかもしれません。しかし、この地は従来商売の港であって、防禦も手薄なので、非常事態が起きた際には救援を頼み入れたく、このことをお願いします。速やかに回答をいただきたい。謹言。
河津伊豆守(幕府の長崎奉行)
各国の岡士(コンスル。領事)あて
[参考]
一 同日、初めて太政官代を九條道孝公(注①)の邸に置く。
【注① デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、九条道孝(くじょう-みちたか。1839-1906)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう),華族。天保(てんぽう)10年5月1日生まれ。九条尚忠(ひさただ)の長男。貞明皇后の父。安政3年従三位。元治(げんじ)元年国事御用掛,慶応3年左大臣となるが,王政復古により一時参朝をとめられる。4年奥羽鎮撫総督として各地を転戦。同年従一位,氏長者。明治17年公爵,掌典長,のち貴族院議員。明治39年1月4日死去。68歳。】
一 正月十四日、早朝より薩摩・芸州両藩人と内談した。夕方から同志が玉川に集まった。今朝から奉行は立山役所に移転するといって、諸道具を運んでいるが、長棹(蓋つきの大きな木箱のこと)などがとりわけ軽く、空荷物のようだという人夫の話をお辰[下女]が宿からの帰途に聞いてきた。大いに不審である。よって同志と相談し、内情探索を高松精一(長崎の地役人で勤王家)に依頼した。よって玉川楼に集まり、密議し、何くれといろいろ評議した。必ず向こうから手を出してくるにちがいない。そのときはこのようにしようと手配をし、ことが起きれば、外国人へ早く、その事情を知らせておかねば、もしも暴徒と見られ、奉行に加勢するようなことにもなりかねぬので、やむを得ぬ事情を(外国人に)申し入れなければならぬ。関雄之助(注②)は通訳ができるので、外国人の応接は関雄之助が引き受けた。そうこうするうち同夜四ツ半(午後十一時ごろ)すぎ、高松があわただしく駆け込んできて、奉行がただいま西役所から脱走の模様で、支度中である。船は外国船を借りたとのことだと(言った)。よって居合わせた者四、五名と西役所に駆けつけた。それに続いてあとから聞き伝えて駆けつけた者もあった。我々の意図は、当港は外国人居留地であるから
他の地方と違い、あとあとの取り締まりなく退去しては、どのような変事が起きるかもわからず、その辺のことを問い詰めて時宜にかなった処置をするつもりだった。ところが、わずかな違いで奉行はすでに落ち行き、外国船に乗り移ったころであると。江戸から来た役人は残らず退去したという。地役人らは闇夜に灯火の消えたありさまで、奉行はあとのことは肥前・筑前二藩に委託した旨を言い置いていったとのことだったが、肥前・筑前二藩はこれを引き受けず、すべて傍観の模様で、いずれも方向を見失った状況なので、三四郞は一同に向かい、大義名分のあるところを示し、長崎は開港地であるから、わが国の人間は幕府恩顧の人も各藩の人も協力して皇国が恥辱を受けぬようにすべきであると(言った)。地役人の岡田吉太夫という人は老人で、物事の道理もわかっている。同人が率先して帰順を表明したため、残らず安心の模様で、一度に静まった。そのうち土佐商会にある高張提灯(注③)を掲げて、役所の主人として威力を示したところ、幕府兵は恐れて逃げたという。そのうちやがて薩摩人の松方助左衛門(松方正義のこと)が一番に駆けつけ、ともに尽力し、松方は兵隊の鎮撫をしようということで、そのことを任じた。また地役人の船手方の白木保三[高松精一の兄である]という人は日ごろ懇意にしていて勤王家なのだが、その人が内々に「河津は当港に貯蓄してあった金子を持ち去った。取り戻してはいかがか」と言った。よって松方に相談し、早速同人を遣わして「金子を返しなさい。もし(この命令に)違反するなら処分する」と言った。河津は速やかに金子を返した。その夜、兵隊の脱走者らがあるいは商家に押し込み、強奪したという届け出があった。帰順の兵に命じて捕縛した。よって取り返した金子の半分を市民に施し、押し込みを働いた兵四名を斬罪にした。昨夜来、一同徹夜で、翌朝までにこれを処分した。このことにより市中の人々の人心はすっかり安堵したという。
【注② 。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、沢村総之丞(さわむら-そうのじょう。1843-1868)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)14年生まれ。土佐(高知県)の郷士。土佐勤王党にくわわる。文久2年坂本竜馬とともに脱藩。のち海軍操練所をへて海援隊に加入。慶応4年長崎奉行所を占拠した際,鹿児島藩士を誤殺し,同年1月15日責めを負って自殺した。26歳。名は延世。変名は河内愛之助,関雄之助。】
【注③ 。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、高張提灯(たかはりちょうちん)は「提灯の一種。大形の棗(なつめ)形の提灯で、2本の腕木をもった長竿(ざお)の先に取り付け、その口輪・底輪をとめて高く掲げる。承応(じょうおう)・明暦(めいれき)(1652~58)ごろになって現れたもので、一般にタカハリ、タカヂョウチンとよぶ。提灯には定紋・屋号などを書き、社寺・役所の門前、商家の店頭や、祭礼・葬送の行列などの先頭に高く掲げ、目印として利用された。現在でも、社寺の祭礼、葬礼の際に使われることが多い。」[宮本瑞夫]】
一 由比畦三郎氏(夕顔船の船長)より書簡、左記の通り。[この書簡は十四日のもので、奉行がまだ脱走していないときである]
岩崎彌太郎が、用意を整え国許へ差し戻されたとのことを伝え聞きました。(岩崎は)夕顔船への乗り組みを仰せつけられたのでしょうか、そのことをお伺いします。天気の模様が甚だしく悪く、都合によっては、荷積みが済み次第即刻出帆することが難しいかもわかりませんので、このことをよろしくご承知おきくださるようお願いします。このたびは特に急ぎの御用向きなので、半刻でも早く行かなくてはならぬ訳ですが、また、無理な天気に乗り出して、もし変事があっては、この時勢なので、ことさら不安です。そのため従来よりもさらに気をつけ、天気などを見計らって行かないと、私の職掌が立たないことになると心配しておりますので、よろしくご承知くださるようひとえにお願いします。頓首。
正月十四日 [差し出し人が抜け落ちている]
佐々木三四郞さま
これは上方の戦争のため、早速出港するよう言い聞かせたところ、岩崎は不平で辞職し、この夕顔船の便で帰国の予定だった。一刻も早く(出発せよ)と船長の由比に指示したところ、本文の通り言ってきた。天気の都合で、ようやく十五日の明け方に出港した。
一 石津氏よりの書簡、左記の通り。
今夕はご足労をいただきました。また、別紙[散失した]は薩摩藩より来た手紙ですのでご覧に入れます。また、後のことは「肥後へ頼捨」(※肥後藩に任せきりということだろうか。よくわからない)のように見えました。何とぞご探索ください。以上のことのみを申し上げたく。早々頓首。
十四日 芸州藩 石津蔵六
佐々木君
[参考]
一 吉井源馬(海援隊士)の筆記、左記の通り。
正月十四日、夜半すぎ、薩摩藩の川端平助が突然、西役所の玄関に上がり込んだ。そのありさまはひどい狼藉だった。そこで警衛の我が兵士・関雄之助は、彼が薩摩藩の人間だと知らなかったので、小銃を放った。このため(川端は)即死した。屍を検査したところ、薩摩人だった。憐れむべし。彼(川端)は同志に遅れたのを憤って、駆けつけたのである。我が兵は狼藉者と見て突然、発砲した。双方ともに憐れむべきだが、大事に尽力の際、一つの小事から薩摩と土佐の間に遺恨を挟んでは、大害にも及ぶことになると、佐々木氏の思い切った決断により、(関雄之助に)速やかに自害を命じた。よって薩摩藩は少しも恨みを挟まなかった。
なお小田小太郎(吉井源馬こと)・野村辰太郎らが立ち会い、介錯した。
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一 徳川家が大敗走し、大坂城が落城したという情報があった。このため鎮台(幕府の長崎奉行)の河津伊豆守が鎮台府(長崎奉行所)の兵を動員して今にも兵端を開くという知らせがあった。非常に焦眉の情勢のため、薩摩藩・長州藩と協議の暇がなく、国家の為にやむなく、わが藩だけの人員で内外の人民を安堵させ、伊豆守らの暴動を鎮撫すべきだという佐々木氏の議論に一同が付きしたがった。
佐々木三四郞・野崎傳太・深尾泰吉・依田小平太・堀内慶助・橋本喜之助、海援隊の越前藩大山壯太郞、土佐人菅野覚兵衛・吉井源馬・野村辰太郎、越前藩三上三郎、土佐人関雄之助、越前藩山本洪堂、長府藩安野某、予州人佐野高次、水夫二十人。
佐々木三四郞がこの人員を従え西役所(長崎奉行所は西役所と立山役所の二カ所があった)に行った。このとき鎮台兵(西役所の番兵)がこれを拒んだ。よって鎮撫のため鎮台役所に出頭したと言い聞かせ、参殿して役人に応接し、伊豆守に面会を乞うた。(奉行所側は)これを拒んだ。(双方の)議論が数時間続いた後、(西役所の)役人らが話し合い、ついに「伊豆守は事務を肥前・筑前の両藩に依頼し、先ほど蒸気船に乗って江戸に帰った。土着の役人だけ残り、江戸より出張の官員はみな江戸に帰った」と言った。内外の事務万端についてその監督状況を尋ねたところ、一つも答えることができなかった。また、肥前藩・筑前藩より監督人員の出張はなく、すべて体裁を失し、内外の人民はあたかも父母を失ったようだった。このため、わが藩の人員で内外を鎮撫し、あなた方とともに政務を行い、速やかに朝廷に言上して(長崎を統治する)総督の派遣を嘆願しようと言ったところ、役人一同は万事そちらの言う通りにすると申し出た。また警衛の兵隊はみな佐々木氏の命令に従って、朝廷の命令に従いたいと申し出た。さらに(役人が)言うには、伊豆守は蒸気船に鎮台府の金[三万両か。額はわからず]をひそかに積んでいるので、私どもが議論してそれを取り返すべきではないかとのことだった。役人にその訳を聞くと、果たして「(その金は)伊豆守の所有物ではない。人民保護のための金である」と答えた。であるなら政府の金だ。(伊豆守が)持って帰る道理はないと評議が決した。このため兵隊に指示して蒸気船に行かせ、議論してこの金を取り返すことができた。
一 右の通り伊豆守が脱走したため地役人と協議して、土佐藩の長崎在留人員で土地内外の人民を鎮撫するので、それぞれがその職を安んじるよう長崎中に佐々木氏より告示した。市中の老若一同はそれを受け、安堵した旨を申し出た。
一 今夜九ツ半時(午前一時)ごろ、両藩邸へ堀内慶助を佐々木氏の使者として行かせ、「肥前藩・筑前藩はことに伊豆守から依頼を受けたのに、守衛の人員の出張もなく、まことにもって不都合の至りなので、早々に出張し、協議して土地を鎮撫されたい」とのことを告げた。両藩の聞役[聞役は江戸大坂の留守居役と同じ。注④]と朝廷・幕府との関係がいまだ方向が定まらぬせいか、筋の合わぬ議論をして、すぐに出願の動きが見られないため、慶助は「朝廷を重んじ、土地の人民を鎮撫することが最も重要だ」という議論を展開した。するとようやく同意して、両藩の聞役は夜が明けて後、西役所に出張した。
一 薩摩・長州へは橋本喜之助が右の情報を知らせた。両藩は各藩に先だって、同夜八ツ時(午前二時ごろ)に出てきた。よって協議した結果、長崎在留の各藩士を集め、衆議して民を治めること、ことに外国交際の地であるからとりわけ尽力し、国家の大義を失わぬようにすべきだということを決め、早速この旨を朝廷に言上し、至急鎮撫使の派遣を願おうと書面をしたためた。そして海援隊の菅野覚兵衛を使者とし、幸いわが藩の夕顔船が出港するときだったので、それに乗せることにして、翌日の早朝に出港させた。薩州沖直次郎・芸州石津蔵六。
一 芸州・肥後・肥前・大村・五島・平戸そのほか在長崎の各藩邸に知らせ、それぞれ十五日夜明けに(西役所へ)出張した。これより「各日に」(※各藩に割り当てられた日に、という意味だろうか)出張し、事務を取り扱う。[源馬の覚え書き]
【注④ 。デジタル大辞泉によると、聞役(ききやく)は「江戸時代、中国地方や九州の諸藩が長崎に置いていた職。長崎奉行や本藩との連絡に当たった。」】
[参考]
一 左記の一編は、維新の際、長崎在勤奉行の河津伊豆守が同港を引き払う前後のことに関与した白木久風の覚え書きである。しかしながら、その覚え書きに書かれていることが、私の筆記や記憶と違うところがあるので、当時長崎にいて白木久風らとともにそのことに関与した堀内良知[慶助]という人に問い合わせたところ、良知の回答した内容はまた左記の通り。いろいろと違うところがあるなかに、当時聞き伝えたままであるように思われるので、二つ合わせて後の参考に供しようとするものである。
維新の際、長崎における
白木久風の記憶書
慶応四年正月十三日夜、長崎奉行配下の調べ役・松岡仙次郎が久風の自宅に来た。(仙次郎が)別室でひそかに言うには、拙者は鎮台よりの命令を受けて来た、その内容は、「このほど将軍家が大政を返上し、京都を引き払って江戸に帰られたという急報があった。ついては現在、(長崎奉行の)配下の家族一同が江戸表に戻ろうとしているが、その乗り組むべき船がない。よって外国人より在港の汽船を買い入れることに決定し、その乗組員の急ぎの手配などの内談があって、奉行が直接会って話したいことがあるので、同行してもらいたい」とのことだった。このため西役所に同行したところ、西役所の長屋において、ひそかに奉行河津伊豆守と面会した。その密談の趣旨は、「このたび京都の戦乱が起こり、将軍家が江戸に帰られたので、配下の家族たちを至急江戸に帰らせるため、外国人から買い入れた汽船の受け取りと航海準備をしてもらいたい」とのことだった。また「我らも速やかにこの地を引き払うようにとの命令があったので、都合により同船するつもりであるので、これらの件を心積もりのために言っておく」ということだった。これに対し久風は、「ご帰京ということであれば、両家(筑前黒田家、肥前鍋島家)に正式に引き継ぎをした上でなくては、第一に外国人の取り扱い、そして土地の人民の政治が一日に欠くことができないのはもちろん、ひたすら人民が動揺しないようにご処置を願いたい。もっとも航海準備などのことに至ってはさらにご心配は要りません」と申し立てた。正月十四日、汽船[アトリン号]の受け取りのため、士官・水夫らを率いて乗船し、明日試運転をすることについて外国人に交渉したところ、代価が払われていないとして不服を唱えたので、その談判のため一度上陸した。そのとき実兄の門岡昌次郞、実弟の中村藤十郎をはじめ、親類の尾上與一郎らから「久風がいくら尽力しても、無事に当港を出船するのは覚束ない、思いとどまれよ」と勧告したけれども、言下にこれを謝絶した。また実弟の高松精一が来て、土佐藩士の堀内慶助に聞いたところ、「長崎奉行は西役所から立山役所に移転するという名目で、配下の家族の乗り組んだロシア船に避難し、また、長崎の金庫の金を遊撃隊[振遠隊のこと(長崎の警備部隊)]の兵士に運ばせ、海岸に持ち去った」とのこと。「よって海援隊の兵士[土佐藩]に奉行の所在を探索させ、金の取り戻しをはかり、もしまた買い入れた汽船で強いて当港を出発しようとするなら、発砲に及んでも食い止めよう」という意気込みだとのこと。「どちらにしても速やかに堀内に直接会って話をし、土地の人民のために奮発計画しないと一大事になる形勢だ」という。久風は即座に意を決し、ただちに今魚町の石津方に堀内を訪ね、時事について話し合った。堀内の説はやはり精一が言った通りで、奉行の所在を探索中だった。たぶんロシア船に乗り組んだのだろうと聞き、驚嘆を禁じ得なかった。ここにおいて久風は堀内に対し、「奉行を説得して金を引き戻し、奉行を引き返させ、土地の鎮撫などを諸藩士に合議させるなど、一身を犠牲にして尽力すべきだ」と約束した。また、久風は「決して海援隊士が軽率に手を下さぬよう注意する必要がある、でなければ、外国船でことに婦女子ら数百人を乗せているので、兵士を見て動揺すると、あるいは小事より大事を生じるかもわからず、よろしくこれを鎮圧すべきである」と説いた。堀内はこれを了承した。よって自宅に帰ると、調べ役、定役(調べ役の下役)ら十数名が期せずして集まって来たため、海援隊よりしきりに問い合わせがあった。また同隊の兵士は久風の邸あたりを巡回、探索した。[無頼の徒が海援隊を名乗って彷徨したものもあったとのこと]久風は集まって来た者たちを説得して、さらに稲佐製鉄所あるいは今度買い入れた汽船の中に移転させた。このときすでに薄暮になっていた。このとき海援隊兵士が小舟に乗って港内を回航していると聞き、機を失してはならぬと蹶起し、軽舸(けいか。船足の軽い舟)を走らせ、[このとき西役所には土佐藩佐々木三四郞がまず入って主人となり、ほか数名と進入し、門前に土佐の高張り提灯・幕などを掲げた]、買い入れた汽船に乗りつけ、配下の者たちと謀り、短銃を借り受けて携え、船手掛の竹内宗之進に向かい、ひそかに久風の考えていることを言い含め、また後事を託した。(久風は)ロシア船に行って奉行に面会を乞い、すぐに許諾を得て、船室に入った。久風曰く。「内密の話があって他聞をはばかるので、別室で人を遠ざけて内々の謁見を願いたい」と。奉行は「組頭二名に限って同席させて面会する」といって、すぐに操舵室で会合した。久風は奉行に対し、「(西役所を)引き払うという命令を以前聞きましたが、立山役所に移転すると称して、まったく脱走のような挙動をされるのはどういうものでしょうか。また金を遊撃隊の兵士に運ばせられたのはどういうことでしょうか。また買い入れた汽船の代価の始末はどうなっていますか。第一に外国人に対する処置はどうなさいますか。あれこれ真意がわからないので逐一ご説明を願いたい」と。奉行が答えた。「不審はもっともであるが、すでに引き払った後の肥前・筑前両藩への引き継ぎも済んでおり、またその旨を外国人にも通知しているので、だいたいの処置はつけたつもりだ。また我らはこの状況にいたって、あえて生命を惜しむつもりはまったくなく、このように無事に引き去ろうとするのは、ただ土地を煩わせぬ考えからである。なぜならば奉行がいては両藩の施政に際してかえって躊躇する気持ちが生じると思うからだ。また汽船の代価には囲い米(江戸時代、幕府・諸藩・郷村で備荒貯蓄・米価調節・軍事用などに米を蓄えたこと。また、その米=デジタル大辞泉)を充てた。また金は両藩に引き継ごうとしたが、両藩から確たる応答がなく、さらに託すべき人が見つからなかったためである」と。久風が答えた。「他の数点はだいたい了解しましたが、金については幸いにこの保三[久風の旧称]がその付託を受けるのに相当であると自負します。土地の人民のために預かっておきたいと思います。もし強いてこの金を持っていこうとされれば、この船は無事に出港するのが覚束なくなるでしょう。すでに西役所には土佐藩士数名が進入した模様です。よってこの金を受託のうえは、土佐藩士らにして相当と認められれば、彼らとともにこの金を預かり、追ってご指示があるまで、この金を土地の政治費用に充てるべきだと思います」云々。奉行は感泣して曰く。「かねて貴殿の人となりは聞いていた。壮快々々。すぐに付託しよう」といって金箱四個を持ち出してきた。
(続。久風の文書は相当な長文ですので、いったん途中で打ち切ります。続きは次回に掲載します。例によって、誤訳がいろいろあると思われますので、引用・転載はご遠慮下さい)







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