ホロウェイ論その5 自律・自治と政治の間を結ぶもの
これまで自律・自治をめざす共同体の営みを、日本の中世と現代のアルゼンチンで見てきました。おそらく人類はその歴史の中でこうした試みを地球上の様々な場所で幾度となく繰り返してきたのでしょう。しかしそれは所詮限られた場所で、限られた期間存在したにすぎません。永続的な社会構造として定着することなく、やがてその地域の支配権力によって滅ぼされるか、権力機構の一部に組み込まれ、実質を失っていったのです。
いま、世界各地で試みられている自律・自治をめざした動きも同じ運命をたどるしかないのでしょうか。それとも、世界を覆う自律・自治の社会へと人類を導く水路がどこかに存在するのでしょうか。
この問題に鋭く切り込む論考があります。アルゼンチンで様々な社会運動に関わりながら執筆活動を行っているエセキエル・アダモフスキーが書いた「自律の政治とその問題点」という論文で、次のサイトに掲載されています。
http://www.zmag.org/znet/viewArticle/3911
今回は、ホロウェイに近い考えをもつ、アダモフスキーの主張を紹介してみたいと思います。
◆ どうして左翼は民衆の支持を得られないのか
アダモフスキーは上記の論文で「民衆はなぜ左翼を支持せず、右翼を支持するのか」と問いかけます。「民衆には理解力がないから」「メディアの影響力に操られているから」という高みに立った解説は、事実の一面は突いていても答にはなりません。右翼が民衆の支持をひきつけるのは、彼らが秩序の持つ力を代弁しているからです。それではなぜ民衆は秩序を求めるのでしょうか。
「現代社会の抱える脆弱さが秩序への希求をもたらしている」とアダモフスキーは答えます。私たちは毎日、一方で世界中の何百万人もの人々の労働に依存して生活しているのですが、他方で自分の生活に深くかかわっているその労働が誰によってどのように行われているかをほとんど知りません。つまり、誰かがその気になれば、多くの人の生活に深刻な影響を与える可能性がいつでもあるのです。食品への毒物混入事件や、繰り返される個人情報の漏えいなどを見れば、それは明らかでしょう。
お互いに見知らぬ者同士が、密接な相互依存関係をもって暮らしている現代社会の抱える危うさへの懸念が、民衆の秩序への願望を生み、秩序を訴える右翼を支持させているのです。他方、左翼は現存する秩序の破壊を主張しますが、破壊した後に建設する新たな秩序については、ほとんど何の構想も提示していません。その意味で、民衆の右翼への支持は、誤解によるものではなく、正しい判断の結果なのです。
アダモフスキーによれば、左翼はこれまで、権力を外部から社会に干渉し、社会を食い物にする寄生虫のようなものと考えてきました。だから、この寄生的な権力機構を破壊して取り除こうとしてきたのです。しかし今や権力は、社会生活のすみずみまで深く浸透しています。たとえば、市場と国家を抜きにして社会生活を考えることができるでしょうか。孤島にでも住まない限り、これらに触れることなく一日でも生活することはできません。だからもし、魔法の杖をふるって国家と市場の機能をいますぐ停止することができたとしたら、そこから解放された人類の歴史が始まるどころか、ばらばらにされた人々の群が何かに脅えながら廃墟をさまよう事態となるでしょう。
つまり、抑圧を可能にし体系化している制度は、同時に社会生活そのものを成り立たせ体系化しているのです。現在の秩序を壊すというなら、社会が抱える共通課題をいま・ここで適切に処理できる新たなタイプの制度を創り、すぐに機能するよう準備しておかなければならないのです。
このことと、資本主義のより良い運営方法を見つけようとする改良主義とを混同してはならないとアダモフスキーは注意します。資本主義とは異なる新しい世界へ向けて歩みながら、そのなかで社会全体を運営できる独自の政治への関わり方を創造し、発展させることが求められているのです。
◆ 社会と政治を結ぶ新たなインターフェイス
資本主義の下で、権力は社会と政治の二つの地平をもちます。政治の地平だけでなく、社会の地平にも権力は深く根をおろしています(アダモフスキーはこの社会の地平をフーコーにならって「生政治」と呼びます)。社会生活を通じて私たちは資本主義の権力関係を再生産しており、私たち一人ひとりが日々資本主義をつくりだしているのです。しかしまた、その社会には不服従と反逆が満ち溢れています。そのため社会を監視し、逸脱を正し、違反を処罰し、社会的な協働の方向を決定する国家、法、制度からなる政治の地平が存在するのです。
社会と政治の二つの地平は、代議制、政党、選挙など議会制民主主義と呼ばれるインターフェイスで結びついています。しかしそれは、民衆の自律・自治とは程遠い他律の、つまり他からの強制を受け入れるインターフェイスです。社会の成員全員が受け入れなければならない重要な決定を、権力機構に属するほんの一握りのエリートがおこなうことを正当化し保障するのが、選挙というインターフェイスの実際の働きなのです。
伝統的左翼は、優れた指導者の率いる政党というインターフェイスを通じて政治の地平に影響力を行使しようとしてきました。アダモフスキーはそれを、結局他律的インターフェイスとほんの少し違うだけのものにすぎないと拒否して、独自の自律的インターフェイスを探し、設計すべきだと主張します。
この自律的インターフェイスを考える際に、次の二つのことに留意しなければなりません。第一は、それが平等の倫理にもとづくものでなければならないということです。アダモフスキーが別の論考(「平等のラディカルな倫理のために」2007年)ですでに語っていることですが、左翼の世界ではこれまで、あらかじめ知った「真理」に合致するものが「善い」こととみなされ、倫理的な善悪の問題は政治路線の正しさの問題に解消されてきました。そして身の回りの仲間一人ひとりを配慮する倫理に、イデオロギー的な真理への献身がとって代わったのです。そのため他の面では善良な心をもつ活動家が、「真理」の名の下に仲間を操り、時には暴力をふるってきたのでした。このような姿勢は自分を他者より優れたものと見る、無意識のエリート主義に支えられています。こうした左翼の悪しき伝統からの決別がまず問われるのです。
第二は、階層的な上下関係を克服した水平な組織に関する、誤った見方を克服することです。そのひとつは、制度や規則は組織の水平性、開放性を妨げるものだという偏見であり、もうひとつは専門化や分業、委任は階層性をもたらすという見方です。実際は自律的で水平な組織こそ、権威主義的で階層的な組織よりもさらに制度や規則を必要としているのです。権威主義的な組織なら、紛争の解決や任務分担にあたってリーダーの意志に頼れますが、水平的な組織ではそうはいかないからです。合理的な任務分担のあり方、権力の集中を生じない委任と代表の仕組み、集団と個人の権利の区分、内部紛争の処理基準などが一連の民主的合意のかたちをとって制度化されなければなりません。
◆ 「社会運動評議会」の構想
以上述べた政治的インターフェイスの具体案として、アダモフスキーは「社会運動評議会」を提案します(「評議会」の原語は「アサンブレア」「アッセンブリー」です)。一言でいえば、それは労働組合を含む様々な社会運動が横断的に結合して政治の領域に向き合う組織です。もちろん、この結合体は政党ではありません。あくまで、自立した社会運動がそれぞれ独立性を保ちながらネットワーク状に結合し、討議によって方針を決め、行動する組織です。
国家の弾圧に共同で対処し、様々な課題をめぐって国家に共同行動による圧力をかけることからその活動ははじまります。やがて十分な力を持つに至った段階では、選挙に独自候補を擁立することもあります。各級議会に議員を擁し、行政にも代表を送り込みますが、それはあくまで国家の一部を「植民地化」するためであって、主体はあくまで社会運動です。「植民地化」という言葉は穏やかではありませんが、要はメイフラワー号に乗った清教徒がプリマスにコロニーを築いて生活しはじめたように、政治の領域に社会運動がコロニーを設けようということです。議員は政治の領域につくられたコロニーに住む運動のスポークスパーソンであって、職業政治家ではありません。
これまでの社会運動と政党との関係は、社会運動が政治の領域で政党に様々な協力を要請し、政党は社会運動にそれに見合う選挙活動・票を求めるというものでした。職業政治家は自ら生きる現実政治の世界の論理に従って行動します。つまり、権力機構に属する一握りのエリートたちの行動様式に適応した行動をとります。この世界では、社会運動の掲げる要求は非現実的なものとみなされ、この世界で受け入れられる水準にまで骨抜きされます。こうした関係を続ける中で社会運動は次第に本来の鋭さを失い、ロビー活動で要求実現を図る圧力団体が残されることになります。歴史を振り返れば、政党が社会運動を配下に置こうと試み、そのために運動内部に対立が生まれ、ついには分裂に至ることもしばしばでした。
アダモフスキーの構想は、これまでのこのような社会運動と政党との関係を断ち切り、社会運動が主体となって政治そのものをつくりかえることをめざしたものです。そのことをアダモフスキーは「社会運動評議会はわれわれの運動と国家の間に、運動の形態と価値観をもって国家を『植民地化』するに至るインターフェイスを提供する」と表現しています。要するに、社会運動として現われた民衆の力と要求を、現実政治の反作用によって骨抜きされることなく、政治の領域に反映させる仕組みをつくり、政治そのものをつくりかえていこうというのです。
こうした具体的な問題についてホロウェイはほとんど論じていません。ですからアダモフスキーのこの論文は、ホロウェイの議論を一歩進めたものといえるでしょう。かつて猪俣津南雄の掲げた「横断左翼論」にも連なる発想が感じられるのですが、今日の日本の政治状況と重ね合わせて、さらに検討されなければならないと思います。
日本では、自公政権の新自由主義改革が生み出した社会の荒廃・劣化に対する民衆の怒りが民主党の圧勝を生み、鳩山連立政権を誕生させました。しかし、民衆の怒りがさまざまな社会運動に結実し、持続的な力を持つには至っていません。ましてやその力を政治に反映させる自律的なインターフェイスもありません。この状況で、もし現政権が目に見える成果をあげられなければ、民衆の幻滅は日本をどこへ向かわせるでしょうか。韓国では、民衆派弁護士として社会運動の支持を受けて登場したノムヒョン前大統領への失望が、財界と強権政治に親和的なイミョンバク政権を誕生させました。同じような反動が今後日本で生じないとも限りません。
さまざまな社会運動が相互に結びつき、民衆の声を吸収しつつ、政治に影響を与え、その仕組みを変えていく道筋を明らかにする作業は、日本の現状からも鋭く求められています。この点で、前回見たようにさまざまな形の社会運動が噴出したアルゼンチン社会の経験をふまえたアダモフスキーの問題提起は私たちに多くの示唆を与えてくれます。