わき道をゆく第117回 岸の陰にいた男

▼バックナンバー 一覧 2017 年 8 月 14 日 魚住 昭

 引きつづき「昭和の妖怪」岸信介のことを書くつもりだったが、資料を漁るうちに面白い本に出くわした。これを素通りするのは惜しいので、今回はちょっと寄り道させてもらう。
 本の題名は『古海忠之 忘れ得ぬ満州国』(経済往来社刊)だ。著者の古海は東大卒の大蔵官僚で、1932(昭和7)年に誕生したばかりの満州国政府に派遣された。国務院経済部次長など重要ポストを歴任。実質的には満州国副総理格で敗戦を迎え、戦後はソ連・中国で18年間にわたって拘禁された。
 ちなみに岸が満州経営に携わったのは1936(昭和11)年~39(昭和14)年の3年間。古海は岸の忠実な部下で、岸の裏も表も知り尽くしている。
 その古海が語るアヘンの話に 耳を傾けてほしい。ご承知と思うが、当時の中国はアヘン中毒患者が国中に蔓延していた。
 古海が満州国初の予算を編成していた1932(昭和7)年のことだ。上司が「満州ではアヘンを断禁すべきだ」と強く主張し、各方面の説得にあたった。
 その結果、植民地・台湾の例にならい、アヘンを一挙に廃絶するのではなく、徐々に減らす漸禁策をとることになり、ケシ栽培からアヘン製造販売まですべてを国家の管理下に置くことにした。アヘン専売制である。
 1940(昭和15)年、古海は経済部の次長になった。当時は産業開発五カ年計画達成のため、華北から輸入する鉄鉱石や石炭が膨大な量に上っていた。これに対し、華北の求める食糧や木材はあまり輸出できず、関東軍と満州国政府は 巨額の支払い超過に悩まされていた。
 それを解消するため関東軍が考えたのが熱河省(満州の西側)工作だ。熱河はアヘンの主産地で、そのアヘンは専売総局で全部買い上げ、管理する建前になっている。が、実際は、広大な丘陵地帯を取り締まるのは不可能で、年々おびただしい量が北京などに密輸されていた。
 関東軍の目論見はこうだった―軍と政府が密輸業者の活動を黙認する。その見返りに彼らが密輸で得た連銀券(=華北通貨。満州はその不足に悩んでいた)を同額の中央銀行券(=満州国通貨)と交換する。あるいは業者に資金を与えて密輸アヘンを集め、華北に売りさばいた代金(連銀券)を回収する―。
 関東軍の要請で古海はこの工作を請け負った。彼は三井物産か ら個人的に2千万 円(現在の約200億円)を借り、それを資金に活動したが、行き詰まった。密輸業者らが「俺たちには関東軍と経済部次長がついているから、警察に捕まる心配もない」と言いふらしたからだ。
 古海のもとに熱河省各地から抗議が殺到した。工作は中止され、彼が個人で支出した2000万円も回収不能になった。借金返済を迫られた古海は当時をこう回想する。
〈窮余の一策として、上海にいる私の親友里見甫君に助けを求めることにした。彼は当時、南京政府(=日本の傀儡政権)直轄の阿片総元売捌をやっていたので、手持ちの阿片を彼のもとに送りつけ、できるだけ高価に買い取ってもらい、なるべく多額の金を得ようとした。(略)里見甫君は非常に無理をして結局二千万円を払ってくれた〉
 里見は「阿片王」と呼ばれた男である。上海でペルシャ産や蒙古産の阿片を売りさばき、陸軍の戦費を調達していた。
 古海の回想をつづけよう。戦況が悪化した1944(昭和19)年。彼は満州のアヘンを上海に運び、満州で不足する生産機器や消費物資を調達する計画を立てた。そのため、まず飛行機で金とアヘン1㌧ずつを運んで南京政府の中央銀行の金庫に納め、副総理の周仏海に物資買い付けの援助を依頼した。
 周は「日本は何も持ってこないで物を取っていくだけなのに、満州国は貴重なものを現送してきて物資がほしいといわれる。誠にありがたい」と言って全面協力を約束したという。
 上海でのアヘンと物資の物々交換は里見の協力もあって順調だった。満州への大量の物資輸送も 、アヘン3㌧を出すなら艦隊司令部が責任を持って送り届けると約束した。古海は〈昭和二十年当初からこの計画を実施し相当の成果を上げたのであるが、八月、大東亜戦争の終結を迎え、時すでに遅かったのは致し方なかった〉と振り返る。
 敗戦直前の七月、古海は関東軍から新京(現長春)周辺にあるアヘンを全部引き渡すよう要請された。ソ連侵攻に備えて拡充中の通化(朝鮮との国境に近い)の基地に備蓄するためだ。
〈こうして関東軍に引き渡した阿片は莫大なものであった。関東軍はこの阿片を広く大きい正面玄関に積み上げた。まさに異観であった〉と古海は語る。
 ところが関東軍がこのアヘンをなかなか通化に運べないでいるうちに八月九日、ソ連軍の侵攻が始まった。驚いた司令部は アヘンをトラックに積んで通化に向かわせたが、途中で暴徒の襲撃を受け、アヘンを奪い去られた。司令部に残ったアヘンは古海らが無人家屋の床下などに穴を掘って埋めたという。
 古海の回想は、満州国政府・関東軍とアヘンのつながりの深さを物語る。岸信介は1939年に東京へ戻る際、「満州国の産業開発は私の描いた作品である。この作品に対して私は限りない愛着を覚える」と言い残したが、満州経営の重要な財源となったのはアヘンだった。
 敗戦直前の1945年8月11日、古海は南新京駅にいた。いつソ連軍が来るかという不安と、敗戦の悲色におおわれた駅で過ごす一刻一刻は心細かった。やっと出発準備が整った。
 その頃、にわかに夕立があって雷鳴がとどろいた。満州国皇帝 ・溥儀が列車に向かって歩を進めた。つづいて、阿片中毒で立てなくなった皇后・婉容が看護人に背負われてゆく哀れな姿が、稲妻が走ると一瞬パッと光の中に浮かび上がった。
 それを見ながら、満州国最後の総務長官・武部六蔵が、
「蒙塵(=天子の都落ち)というのはこれだな」
 と呟くのを古海は聞いた。満州国はアヘンと共に栄え、アヘンと共に滅びたのである。(了)

〈編集者注・これは週刊現代に連載された「わき道をゆく」の再録です。参考『新版 昭和の妖怪 岸信介(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)〉