わき道をゆく第147回「日本会議とNHK番組改変」(2)

▼バックナンバー 一覧 2019 年 12 月 24 日 魚住 昭

 そんな疑問を抱えていたころ、作家の佐藤優さんから興味深い話を聞いた。2001年のKSD事件で東京地検に逮捕されるまで自民党の右派を代表する政治家だった村上正邦さんのことである。

 佐藤さんによると、村上さんは九州の筑豊炭田で貧しい坑夫の子として生まれ、青年時代には炭坑で労働運動のリーダーをしていた。幼いころには、朝鮮半島から強制連行され、虐待されている人たちの姿も目撃し、心を痛めたことがあるという。

 そのうえ村上さんは、かつて生長の家を支持母体にして国会議員になった人だった。私は村上 さんのライフヒストリーを聞きたいと思った。もし、村上さんがすべてを話してくれるなら、なぜ日本会議が近年台頭したのか、その謎を解くカギが見つかるかもしれない。

 幸いなことに村上さんは、佐藤さんを通じての申し出を快く受けてくれた。ほぼ1年にわたるインタビューにも嫌な顔ひとつ見せず、率直かつ明快に答えてくれた。村上さんの政治家としての軌跡は、事前に私が想像した通り、日本会議誕生の物語とぴたり重なっていた。そして、キーワードは、やはり生長の家だった。

 話は1962年にさかのぼる。当時、村上さんは、後に自民党の有力政治家になる玉置和郎(1987年没)の秘書として働いていた。玉置はその年の夏の参院選に「生長の家」の支援を受けて出馬した。だが、 当選ラインに届かず落選した。

 玉置はそのとき、単に票ほしさに生長の家に近づいても、その下心を信徒たちに見透かされていると覚ったらしい。落選後、彼は本気で生長の家の教えに打ち込み、創始者の谷口雅春(85年没)の著書『生命の實相』全40巻を読破した。秘書の村上さんにも「俺と一緒になって生長の家に入ってくれ。でなきゃ、俺は本物になれない」と言った。

 仕方なく村上さんは飛田給(東京都調布市)の道場に行き、10日間の錬成を受けた。道場では朝4時半に起きて便所掃除をした。とにかく何事にも感謝で、「ありがとうございます。ありがとうございます」と合掌して、聖経『甘露の法雨』を読んだ。

 聖経には「父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」と書かれて いる。この父、この母があるからこそ今日、自分の命がある。だから、まず父と母に徹底的に感謝しよう。そこから生長の家の教えが始まる。

 しかし、村上さんには坑夫だった父に感謝することに抵抗があった。「心のなかで〈なんだあんな飲んだくれ!俺が今日、こんな苦労するのは親父のせいだ。親父がもう少しまともにやっていてくれたら、お袋もあんなに苦労しなくてよかったのに〉と恨んでいましたからね」と村上さんは言う。最初の4日間は『甘露の法雨』に何の感銘も受けなかった。

 ところが錬成5日目の朝、不思議なことが起きた。道場に正座して、足が痛く、どうやってこの痛みに耐えようかと考えていたら、朗々と響く講師の声に激しく揺さぶられた。

「汝らの兄弟のうち最も大な る者は汝らの父母である。神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である」

 もちろん感謝の思いはすぐ湧いてこない。しかし、村上さんは一方で心の底から「お父さんありがとう」と言いたくなった。行事が終わった夜、彼は一人で祈りの間に座って「父と和解する祈り」をつづけた。足の痛さも時のたつのも忘れて祈りつづけた。

 すると目の前がパーッと明るくなって、払っても払っても消えなかった父のいやな姿が消え、代わって、慈愛に満ちた父の顔が微笑みかけてきた。涙が一度にあふれた。「お父さんありがとうございます」と村上さんは心の中で叫んだ。

 このころの村上さんの姿を端から見ていた若者がいた。後 に新右翼団体「一水会」のリーダーになる鈴木邦男さんだ。以下はその鈴木さんの証言。

「僕が村上さんに会ったのは生長の家の錬成道場だった。当時僕は早大生で、生学連(生長の家学生会総連合)の活動家だった。村上さんは、最初は失礼ながら『生長の家の票がほしいんだろうな』と思っていた。でも村上さんは本気だった。本当の信者になり、早起きして便所掃除したり、長時間正座してお祈りをしたり……政治家でそんな人はいないから、何もそこまでしなくともと同情したほどだった」

 村上さんは以来、生長の家の熱心な信徒になった。そして82年、自らも参院議員となり、谷口雅春の信頼が最も厚い政治家になった。

 以下は昨年の週刊現代連載「わき道をゆく」にも書いたことだが、生 長の家の歴史は戦前、谷口が人生苦の解決法を説く個人誌『生長の家』を創刊した時から始まる。

 彼はキリスト教や仏教、神道などから種々の要素を取り入れて万教帰一、すべての教えは同じ、ただ登り口が違うだけだと説いた。

 また、彼は天皇を現人神として崇めた。「一切は天皇より出でて天皇に帰るなり」と説き、聖戦完遂を唱えて教団を大発展させた。敗戦後は一転して自由と平和を唱えたが、公職追放から復帰した後、右傾化・神道化を強めて教勢を拡大させた。

 紆余曲折はあったにせよ、谷口は戦後の宗教界で最もラディカルな皇国思想の持ち主となった。彼は「明治憲法復元」を掲げて1964年、生長の家政治連合(生政連)を作り、教団の政治進出を本格化させる。その生政連の国 民運動本部長に任じられたのが村上さんだった。

 それから10年後の1974年、愛国心高揚を目指す「日本を守る会」が誕生する。臨済宗円覚寺管主・朝比奈宗源が谷口らに呼びかけて作ったものだった。

 そこに生長の家はもちろん神道、仏教などの宗教団体が集まり、作家の山岡荘八や思想家の安岡正篤らも加わった。事務局は 明治神宮に置かれ、村上さんは谷口の意を受け、事務局の中心メンバーとして働いた。

「守る会」はまず「天皇陛下御在位50年奉祝パレード」を成功させ、その余勢をかって元号法制化運動に乗り出していく。

 もともと元号は戦前の皇室典範に定められていた。その条文がGHQの意向で削られ、法的根拠を失った。それを再び法制化しようという右派の動きは戦後三十余年、社会党・共産党の抵抗にあって阻まれていた。

 結論を先に言わせてもらえば、この法制化運動の成功が、それまで少数精鋭主義だった右派の運動スタイルを広範な国民を巻き込む大衆運動に変え、日本会議を誕生させることになる。

(編集者注・これは以前、朝日新聞の『月刊ジャーナリズム』に書いた原稿の再録です)