戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第四回:建物の外観は公共財

▼バックナンバー 一覧 2009 年 7 月 8 日 東郷 和彦

 吉良森子さんとは、もっとお話しをしたかった。オランダで、どういう歴史と経緯を経て「建物の外観は公共財」というルールが市民社会に徹底してきたか、わが日本で、かくも無残にそういうルールがないのはなぜなのか、そういうルールを日本社会の中につくっていくことに、どの程度の希望があるのか、そういうことを聞いてみたかった。
 残念ながら、その機会はこなかった。これから建築されるという首相官邸の建築プランをご紹介くださるという話が進み始めたころ、まったく予期していなかった外務省退官という事態が発生し、私のオランダ大使としての勤務は、2002年4月、八ヶ月で終了してしまった。
 それからしばらくの間、オランダの友人たちの計らいで、ライデン大学に席をもち、退官のショックと検察の取調べという荒波にもまれることとなった。そのショックが少しづつ治まり、英語での日本外交史の著述が少しずつ軌道に乗ってきたのは、2002年の秋も深まってきた頃だった。
 そのころ、オランダ商工会の主なメンバーの方々が、週末のお昼に、ライデン近郊のレストランで昼食会を催してくれた。ようやく事態が沈静化したことに対する、心温まるメッセージの会だった。
 この会合で、私は、久方ぶりに、心の軛から離れて、当時考えていたことについて、自由に話ができた気がする。
 故国から遮断されてから、半年程がたったときだった。北方領土交渉という身体がのめりこんでくるような重圧は消え、大使の仕事としての「二十四時間体制」の緊張感もなく、自分の周りに静かに流れるライデンという空間だけがあった。
 その中で、おりにふれて思いかえすのは、いつ帰ることになるか解らない故国の姿だった。
不思議なことだった。
 そのころから、折にふれて思い出す、風景が一つあった。
 1968年外務省に入り、欧亜局の東欧一課に研修生として配属になった翌1969年の冬、外務省の文化交流部は、アンドラス・ティマールと言うハンガリーの新聞記者を招待した。ティマール記者は、日本の絵画や俳諧に造詣の深い文人記者で、日本大使館と現地のパイプ役として貴重な役割を果たしていた。感謝の意味をこめて招待し、私は、地域課の担当官として、約一週間、プログラムのほぼ全部に同行した。
 東京での懇談への同席、日光、箱根、京都などの地方プログラムの一つとした、河口湖に行き、富士屋ホテルに一泊した。翌日早朝、ティマール記者と語らって、生まれて初めて、「赤富士」を見た。
 湖の正面に、万景ただ静寂の中、今明けなんとする天空の中に浮かび上がった、この時の富士の姿を、私は、長く忘れていた。
 それが、遮断された故国の彼方に、再び戻ってきたのである。
 だが、それと同時に、東京駅から新幹線で富士へ、京都へ、奈良へと移ろう空間の、果てしないコンクリートの波が、どうしても脳裏を去らなかった。あの時富士を見てから三十余年、日本に本当に美しい自然は、まだ、残っているに違いない。だが、戦後日本がつくりあげ、日本全土を被い始めた、箱物とコンクリートと何処も同じ無機質な祖国の風景は、余りにも荒涼としていた。
 この昼、話題は、当然、皆の共通の話題であるオランダに集中した。
 そして私は、語るともなく、吉良森子さんと話した話題に戻っていったのである。
――オランダ社会が、長い歴史的な経緯をへて、自然と人間の生活に見事な調和をつくりだしている。
――日本社会は、たぐいまれな自然と世界に例のない伝統を持ちながら、戦後の経済発展の中で、この歴史的な資産を自ら壊してきた。
――こうやって、自然と伝統から切り離されたコンクリート国家をつくってきたことが、日本人を、日本から疎外し、民族の活力を喪失させるとともに、世界の中で、魅力の無い日本を創ってきたのではないか。
――日本人がその欠陥を自覚しさえすれば、戦後60年のこの荒廃は、必ず克服できると思う。
――しかし、それは、絵に描いた風景を復活させようとすることではない。
――その実現のためには、そういう本来の日本に根ざし、グローバリゼーションの荒波の中で日本の独自性を貫徹させるようなものを、日本の自然と伝統がはぐくむ生活自体の中に、実現することだと思う。
――そのためには、ここで話していることが、単なる文化の問題ではなく、経済の問題として、実施可能にならねばならない。
 出席者の商工会のメンバーにとって、私の問題意識が、どこまで喫緊の重要性をもったかは、解らない。でも、少なくとも、私の発言に違和感をもたずに、聞いていてくれたと思う。

固定ページ: 1 2 3 4 5