わき道をゆく第133回 機密費と「日本版ナチス」
日米開戦直前の第二次・第三次近衛内閣に陸海軍から上納された機密費の話をつづけたい。
富田健治(当時の内閣書記官長)の供述によると、機密費の相当部分が大政翼賛会をつくる際、近衛側近の風見章(第一次近衛内閣の書記官長)から議会のボスたちに渡されたという。
しかし、今なら数十億円にあたるであろう金が、なぜ議会工作に必要とされたのか。私たちが教わった歴史では、大政翼賛会は近衛新体制運動を推進するために全政党が自発的に解散してできた組織だったはずだ。
もはや議会には政府や軍の横暴を糺す政党はない。国策を追認するだけの議会に機密費を配らなければならぬ理由はない。
と思っていたのだが、実際はそう単純なものではなかっ たらしい。当時の時代背景をご説明したうえで、真相を知る手がかりとして『風見章日記・関係資料 1936―1947』(北河賢三ほか編・みすず書房)の記述をご紹介したい。
政界の一部や陸軍内で近衛新党構想が生まれたのは第一次近衛内閣時代の1938年、日中戦争が泥沼化したころだ。若さと貴族性で国民の熱烈な支持を受ける近衛文麿を党首に担ぎ、ナチスのように一国一党の強力な指導体制を築いて局面を打開しようという計画だった。
が、この計画は既存政党などの反対で1938年末にいったん頓挫し、1940年に入って再燃した。きっかけはドイツの電撃作戦だった。同年4月、ドイツはノルウェー、デンマークに進攻。5月には、東南アジアに植民地を持つオランダ、6月に はフランスを制圧した。
ドイツの動きに便乗し、オランダやフランスの植民地に触手を伸ばしたのが陸軍である。石油、ゴムなどの豊富な蘭領インド=インドネシア、仏領インドシナ=ベトナムを支配できれば、日中戦争も解決できると勢いづき、7月、武力行使を含めた南進策を決定した。合言葉は「バスに乗り遅れるな」だった。
時期を同じくして、政界では近衛新党待望論が急速に盛り上がった。風見日記によれば、5月半ば、政友会の幹部が近衛の「出馬の決意を俟(ま)って新党結成に着手した」いという意向を風見に伝えてきた。
これに対し風見は「新体制建設のために政党の解消が必要とあらば政党自ら進んで解消すべきものにして(略)近衛公の出馬不出馬は断じてその動機たるべか らず」 と突き放した。
風見は、一刻も早く近衛の下に参じて優位な立場を確保したいという政友会の足元を見透かし、自発的に解党するよう仕向けたのである。でないと、新党を作っても既成政党に主導権を握られると考えたのだろう。
2日後、風見は近衛を訪ねて「何れにしても既成政治勢力を叩き壊すに非れば新しき政治体制の出発は不可能」なので「何よりも先づ既成政党爆破工作を第一の目標として、諸方に斡旋するの急務」を述べた。
そして「この下心にて(政友会)久原派」と「(政友会)中島派」に「働らきかくることにつき(近衛)公との話し合ひを終」わったと日記に残している。
まず既成政党を「爆破」し尽くし、障害がなくなったところに、近衛や風見の思い通りの新党(ナチス と同じ一国一党体制だろう)を樹立するのが彼らの狙いだった。そのため政友会と並ぶ二大政党の一つ、民政党に「内紛を醸成せしめ」(風見日記)る策も検討したらしい。
では、近衛新党が目指すものは何だったか。風見が同じ時期に作った「新党結成方略」には〈示すべき政策は高度国防国家の建設、外交の一新〉とある。
当時の米内光政内閣はヨーロッパ戦争不介入の立場を取っていたから〈外交の一新〉は、ドイツ・イタリアの枢軸国との関係強化を意味していた。
さらに、風見は〈新党の基本的動向〉として〈(一)印度、印度支那、タイ国、蘭領印度等々の広範囲に亘り、(二)夫れ等諸地方の民族自主運動を指導しつつ、(三)世界秩序を規定すべき東亜新秩序を建設すること〉を挙げ ている。
この記述を見ると、風見も陸軍同様、東南アジアに活路を求めている。〈高度国防国家の建設〉といい〈外交の一新〉といい、風見が考えた近衛新党の基本路線は陸軍とほぼ変わらない。
つづいて風見がやはり同じ時期に構想した近衛新党の「結党方略」を見てみよう。〈一、地方新聞を機関誌たらしむる工作を即時に開始すること〉につづき、こう書かれている。
〈一、幹事長の下に清党運動幷(ならび)に党の活動の監視、又は党の活動を阻害する一切の勢力、及び個人に対する闘争等のため、一種の戦闘突撃部隊を中央地方を通じ組織するの必要あり〉
これはナチスの親衛隊SSや突撃隊SAの日本版だろう。もっと興味深いのは、風見の「対議会工作」という文書に記された選挙 法の改正案で ある。
〈一、選挙法の改正に当りては、道府県会議員、市町村会議員等の公職に在るものをして自から投票する以外選挙に関係する能はざることを規定し、既成政治勢力の地盤破壊に役立たしむること〉。つまり各議員の地元の集票マシーンの動きを封じ、既成政党勢力を根絶やしにしようという目論見である。
つづいて風見は議会操縦の決定打ともいうべき策を講じている。さまざまな政党が解散したあとでできる単一の衆議院議員連盟中に〈少くとも四五十名の親衛的集団を秘密に結成せしめ、これを操縦して議員連盟を指導せしむること〉である。
そしてこう付け加える。
〈一、右の指導には相当の機密費を擁すること勿論なり。
一、右親衛的組織は所謂秘密結社なるがゆえに、五十名を 数班に分けそれぞれの班も横には連絡無からしめ、ただ縦にのみ連絡せしむること〉
第二次近衛内閣は1940年7月22日に発足した。おそらく風見は、議会を操るために秘密の〈親衛的〉議員集団に機密費を注ぎ込んだことだろう。日本版ナチスともいうべき新党結成計画は、風見の思惑通りに進むかに見えた。(了)
《編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です。参考・『近衛新体制 大政翼賛会への道』(伊藤隆著・中公新書)》