わき道をゆく第134回 近衛新党の大誤算
公爵・近衛文麿は生まれて8日目に母を産褥熱でなくした。やがて父は亡き妻の妹・貞子と結婚し、文麿は後に4人の異母弟妹をもつことになる。
だが、文麿は相当長ずるまで貞子を実の母と思っていた。それだけに真実を知った時の衝撃は大きかった。彼は後年回想して、それ以来「世の中は嘘だ」と思うようになったという。
岡義武著『近衛文麿』(岩波新書)の冒頭を飾るエピソードである。彼に終始つきまとう虚無感や孤独感。敗戦後に服毒自殺を遂げるまでの54年の人生は彼にとって何だっ たのか。一度でも死に物狂いで事に当ったことがあったのだろうか……。
そんな勝手な物思いにふける前に機密費の話にけりをつけなければならない。陸海軍から第二次・第三次近衛内閣に上納された機密費が、近衛新党のための議会工作に使われた可能性があることを前回ご説明した。
今回、私が述べるのは、近衛新党が大政翼賛会に変貌する経緯だ。翼賛会は最終的に公事結社(政治に関係のない公共の利益を目的とする結社)とされ、「たとえば衛生組合のようなもの」と位置づけられた。
近衛の国民的人気を頼りに新党へ合流しようとした各政党にとっては大誤算である。政党だけでなく陸軍も近衛側近もみんな新党に期待したのに、なぜこんなことになったのか。その理由を簡単に述べてお きたい。
1940年、ドイツの電撃作戦を受けて騒然とする最中の同年6月、近衛は枢密院議長を辞任した。そして「内外未曽有の変局」に対処するため「強力なる挙国政治 体制」を確立する必要があるという声明をだした。
と言っても、実際には、このとき近衛は自力で「挙国政治体制」を作る覚悟も具体的構想も持っていなかったらしい。その証拠に、彼は「新政治体制の樹立はむしろ政府が当ってはどうか」と、当時の米内光政内閣にその設計と実現を一任しようとして拒絶されている。
これには伝記作者の岡も〈余りにも無造作といえるこの態度は、事にみずからあたる自信の乏しさを物語るものであるだけでなく、熱意の不足をも示すものであろう〉と呆れている。
この年7月、近衛は軽井沢の別荘に東京帝大法学部教授の矢部貞治を招き、新体制の具体的立案を依頼した。その際、近衛は大略こう語ったという。
「今の日中事変を収拾するには、陸軍を抑 える『国民的な輿論を背景にした圧倒的な政治勢力』を持たなければならぬ。が、既成政党の離合集散ではそんな勢力は生まれないので自分としては新党創立の考えはまったくない。同時に、新体制が一国一党の樹立となり『幕府的存在』になるのをどこまでも避けたい」
要するに、自分が率いる党が国家の指導機関になると、天皇をないがしろにすると観念右翼(=皇国思想の極右)から批判されるので党は作らないという。新党樹立論者だった近衛の心変わりである。理由は諸説あるが、この時期、近衛は観念右翼から激しい非難を浴びせられていた。なかには近衛を殺せと息巻く者もいた。
もともと彼は観念右翼と親しい関係にあったから余計にこの攻撃が堪えたらしく、「新党について世間ではい ろいろといっているが、それらの中で幕府的存在云々という非難が一番不愉快だ」と周囲に漏らしている。
さて、党を作らずに「圧倒的な政治勢力」を持ちたいという近衛の意向は矢部をはなはだ困惑させた。が、矢部は結局、次のような玉虫色の進言をした。
「経済団体や文化団体など職能的な国民組織を基礎とし、国民の各職域における活動を政治に結びつけ、国策の樹立に内面から参加するようにするとともに、樹立された国策を国民生活の中に浸透させる……」
国民運動を展開したらどうかという提言だった。この提言が体制翼賛会へとつながっていく。それからまもなく第二次近衛内閣が誕生し、8月に入って近衛を委員長とする新体制準備会がつくられ、各界の有力者らが集まって議論した 。
岡によれば会議はひどく紛糾したが、〈この場合も近衛はみずから進んで議事を指導しようとはしなかった。それのみか延々果てることを知らぬ談議に議事が進まないのに倦きて、中座して帰ったりもした〉という。
それでも10月、大政翼賛会は発会する。伊藤隆著『昭和期の政治』(山川出版刊)によれば、この過程は強力な新党的性格を主張する「革新」派と、反対派・観念右翼系の激しい応酬の連続だった。準備会では「革新」派が勝利し、翼賛会は”高度の政治性”を持った。
翼賛会を実質的に政治指導勢力にしていけば新党を作ったのと同じことになるからだ。しかし、やがて近衛の腰が砕け、観念右翼の反対論に押し切られる。
この年12月、第二次近衛内閣の法相だった風見 章は閣外に 出され、翌年4月、風見とともに新党計画を進めていた有馬頼寧も翼賛会事務総長のポストを追われた。こうして新党計画は失敗に終わった。近衛本人の強固な意思の欠如が原因だった。
そもそも陸海軍から巨額の機密費の上納を受けながら、軍部の独走を抑えようなんて話は虫がよすぎる。元海軍少将高木惣吉が東条内閣打倒の経緯を綴った『高木惣吉日記』(毎日新聞刊)にこんな場面がある。
1943年10月末、高木は湯河原の旅館で静養中の男爵・原田熊雄を見舞った。そこへ前首相の近衛文麿が遊びに来て、夕方まで3人で話し込んだ。食事後の雑談で近衛が、
「原田、さっきのお給仕してくれた女中ネ、あれ澤蘭子(=女優)によく似てるじゃないか」
とぬけぬけと言うので、呆れ た原 田が「驚いた奴、いつの間に目をつけたのか」と笑った。
高木はこう記す。〈この五摂家筆頭の公達がアムールに対するくらい国事に積極的だったら三国同盟も拗れず、戰さにもならずにすんだと思うが、併しこんな時局になっても悠々と審美眼が働くのは流石に余裕綽々というところである〉
これは日本の悲劇だったのかも知れない。(了)
(編集者注・これは週刊現代で連載した「わき道をゆく」の再録です)