わき道をゆく第142回 私の10冊②
ここ(検察庁)で特ダネを連発すれば花形記者になり、特オチを連発すればダメ記者の烙印を押される。いわば事件記者としての運命の岐路である。私はむろんダメ記者と言われたくなかったので必死になって取材した。
しかし、最初の数カ月は検察庁にネタ元もなく、あまり情報をとれなかった。夜回りで何の収穫も得られず、帰宅後もなかなか寝付けない。どうせ眠れぬのなら、検察の歴史の勉強でもしようと、記者クラブの本棚にあった何冊かの本を借りて自宅に持ち帰った。
そのうちの一冊が本田靖晴の『不当逮捕』(講談社刊)だった。主人公は読売社会部のかつてのスター記者・立松和博 。彼は57年、売春汚職に関与した代議士をめぐる誤報で東京高検に逮捕され、記者生命を奪われたあげく、失意のうちに死に至る。
立松事件の背景には、「馬場派」と「岸本派」に分かれた検察内の勢力争いがあった。「岸本派」の東京高検は立松のネタ元だった「馬場派」幹部をあぶりだすため、立松逮捕に踏み切った。だが、立松が黙秘を貫いたため、「馬場派」幹部は危うく難を逃れ、その後「馬場派」は「岸本派」を放逐して検察の主導権を手にする。
本田はこうした検察内での暗闘を余すところなく描いていた。しかし、私がこの本に惹かれた理由はそんなことではない。この作品は、主人公の悲劇的な最期にかかわらず、不思議な明るさと伸びやかさに満ちていた。自由と希望と熱気をはら んだ「戦後」という時代の息吹を見事に捉えていた。ああ、こんな時代が日本にもあったのだ。
私は『不当逮捕』を寝床で読みながら、今までに味わったことのないような読書の幸せを感じた。そして本田の描く「戦後」という時代の魅力の虜になった。やがて私は検察取材に慣れ、いくつかの特ダネも書けるようになったが、本田の文章の深みに比べれば、自分の書く原稿はただ表面をさっとなぞっただけのゴミみたいなものだと思うようになった。
いつかは本田のように「戦後」を描いてみたい。そんな気持ちが次第に抑えられなくなった。それから6年後、私は共同通信をやめ、フリーライターに転身した。理由はいろいろあるが、なかでもいちばん大きかったのは『不当逮捕』のような作品をいつ か書いてみたいという身の程知らずの夢を見てしまったことだろう。
その意味では『不当逮捕』との出合いは私にとって運命的なものだった。もちろん本田作品以外にも優れたノンフィクションはたくさんあった。たとえば立花隆の膨大な作品群は本田作品のレベルを凌駕していると言ってもおかしくない。
なかでも『日本共産党の研究』(講談社文庫)や『ロッキード裁判傍聴記』(朝日新聞刊)は、その論理性や緻密な分析力において他の追随を許さぬ作品だと言ってもいいだろう。
しかし、私は本田作品ほどの魅力を感じなかった。なぜなら立花の視点は一定していて、つねに知的エリートの特権的な立場から物事を俯瞰しているように私には思えたからだ。
対照的に本田の視点はつねに移 動している。ある現象をこっち側だけから見るのではなく、そっちから見て、次は反対のあっち側からも見る。ものごとや人間を多角的に見るから、彼の作品には立花作品にはない豊かさと深さがあった。その特徴がいちばんよく出た作品が『誘拐』(文春文庫)である。
『誘拐』は63年に起きた吉展ちゃん事件(4歳男児の身代金目的誘拐殺人事件)を題材にしたものだ。ふつうのノンフィクションは被害者側からか、あるいは加害者側の視点からしか事件を描かない。しかし本田はこの悲惨な事件を吉展ちゃん側と、犯人の小原保の側の両方から描いていた。つまり加害者と被害者の両方の視点から事件の真相に迫っていた。
その本田の希有な眼差しが『誘拐』を『不当逮捕』に勝るとも劣らぬ傑作に した。戦後ノンフィクションの歴史のなかで本田作品が飛び抜けている点もそこにある。文章がうまいとか、構成が良いとかいうことは、この眼差しの豊かさの前には枝葉末節の問題でしかない。
では、どうやって本田はこの眼差しを獲得したのだろう。それは彼の絶筆となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社文庫)を読めばよくわかる。
本田は戦前の植民地・朝鮮で生まれ、朝鮮人の上に君臨する日本人支配層の一員として少年期を過ごす。そして京城で敗戦の8月15日を迎える。その翌日、彼は通りに出て思わず目を見張った。一夜にして景色が一変していたからだ。
「それまで何もなかった通りの片側に、忽然と市が出現していた。といっても、朝鮮特有の円型の大型むしろを、通り に沿ってずらりと並べただけのものである。衝撃的だったのは、むしろの上に小山のように盛り上げられた商品であった」
砂糖と、コメだった。南方からの海上輸送ルートが寸断されて以来、とくに砂糖は極度に不足していた。コメも砂糖ほどではないにしても貴重品だった。夢にも見たことのない砂糖とコメの小山が目の前にある。それを見て本田は茫然自失の状態になった。
「昨日までの欠乏品が、いったいどこに、どのようにして隠されていて、一夜のうちにどういう手順で商い手のオモニたちに渡ったのか、知る由もない。知ったのは、私たちのまったく与り知らないところで『朝鮮』が逞しく生き続けていた、ということである」
オモニたちは、申し合わせでもしたかのように、洗いたての白 いチマ・チョゴリを身にまとい、満面に喜色を浮かべていた。白いチマ・チョゴリからの日の照り返しがあって、その表情をいちだんと輝かせていた。オモニたちは勝ち誇って見えた。うちひしがれた本田は、それ以上歩を進める気にならず、いま来た坂道を引き返した。
「白い砂糖とコメの小山、それを商う女性たちの白いチマ・チョゴリ。私の敗戦の思い出は、白一色である。極暑の太陽の下に繰り広げられた光景は、白日夢と思いたい。しかし、まぎれもない現実だったのである」
それから約1ヶ月後の9月11日、本田は母親らとともに引き揚げ船で山口県・仙崎の港に着いた。そこで本田少年は「驚愕的な『発見』」をした。それは「港で立ち働く人びとがすべて日本人である」ということだ。朝 鮮では単純労働者はみな朝鮮人だった。
それこそが植民地の姿なのだが、そのなかで生まれ育った本田は、そうした不自然さをごく当然のこととして受け止めていた。彼にとっては日本人が港で立ち働くことのほうが不自然だった。だから自分を納得させるために繰り返し母に尋ねた。
「ねえ、おかあさん、あの人も日本人?」
「ええ、そうよ」
と答えていた母は、同じ質問が度重なるので叱りつけるように言った。
「あなた、何度同じことを聞いたら気が済むの」
港は馬車や牛車を曳いてやってきた農家の人たちで賑わっていた。彼らは引揚者の荷物を駅まで運ぶ。それによって得られる現金収入の機会を逃すまいと大童だった。本田にとって、この光景は、まさにカルチャー・ショックだ った。
「差別的表現をあえてするなら、『下層』もすべて日本人によって占められているという現実」が「この世のものとはどうしても思えなかったのである」
港の雑踏の中で事件が起きた。京城の社宅で顔なじみだった婦人のリュックサック類がそっくりなくなくなったのである。まさかの出来事だった。
本田らは「皇民化教育」のなかで育った。朝鮮人に日本名を名乗らせる「創氏改名」が勧められ、朝鮮語を使わせないようにする運動が展開された。「内地人」は天孫民族なのだから「半島人」のお手本にならなければならないというのが本田らの思い込みだった。
だが、社宅の婦人の荷物を盗んだのは状況からして内地人の可能性が高い。そう思ったときの衝撃は強烈だった。
「えっ、 内地では日本人が泥棒をするのか。そう悟ったとたん、頭から血が引いていく感じがした。恥ずかしいことだが、片寄った人間に育ちつつあった私は、正当に立ち働く同胞の姿にさえ、大きな違和感を持ったのである」
これは私の勝手な推測だが、本田の原体験は京城の白一色の光景と、仙崎の港で受けたカルチャー・ショックだ。彼の人格は、植民者二世としての朝鮮人に対する加害意識とともに、この2つの原体験を繰り返し想起することによってつくられたと言ってもあながち的はずれでもあるまい。
帰国した本田は最初に身を寄せた長崎県・島原半島でひどいいじめに遭う。さらに上京してからも、父親の病気などで極貧生活を送る。幼いころの特権的生活環境と比べて、日本での物心ついてから の境遇の落差が激しく、彼は引き揚げ難民といってよかった。
その境遇の落差も本田を本田たらしめた一因だろう。ついでに言ってしまえば、本田は読売新聞に入社してから記者として恵まれた地位を得るのだが、その読売も自ら退社して、明日の生活をもしれぬフリーの作家になる。つまり彼の境遇は二転三転するのである。と同時にものを見る視点もどんどん移動していく。
これは世の中の事象を見るうえでとても大事なことだ。ある一定の視点から見続けたのでは、起きている現象の本質は見えてこない。視点が変わった瞬間に見えてくる新たな価値観と、それに対する驚き、それこそが彼のノンフィクションに生命を吹き込んだのである。