わき道をゆく第144回 大衆は神である
今回の「わき道」は、私がいま取り組んでいる仕事の宣伝です。
私は今、講談社のオーナー一族の歴史を描くノンフィクション「大衆は神である」を執筆しています。主な登場人物は、創業者の野間清治、その息子で第2代社長・恒、清治の妻で第3代社長・左衛、第4代社長・省一です。
なぜ、こういう物語を書こうと思ったかーー。私には「近代史を書いてみたい」という気持ちが前からありました。
私はもともと通信社の記者出身で、生のニュースを取材することに醍醐味を感じて仕事をしてきましたが、物事には、それだけでは見えてこない「深層」がある。歴史の流れを知らなければ分からないことがたくさんある。
たとえば、森友学園問題を例に挙げると、なぜ安倍昭恵総理夫人が森友学園の名誉校長になったのか。籠池泰典・元理事長に肩入れしたのか。それは、思想的な背景を知らないと理解できない。
一連の出来事の背景にあるのは、籠池氏の思想と密接に関係する保守団体・日本会議の歴史であり、その源流には宗教団体「生長の家」がある。では、生長の家の創始者・谷口雅春とは、どのような人物だったのか――。このように、実は戦前からの流れを知らないと理解できないものは、数多くあります。
だからこそ、近代史を書きたいと考えてきたのですが、近代史一般については、それを研究している学者先生のほうが当然ながら知識がある。素人がおいそれと口を出すのはおこがましい。
どうしたものかと長年悩んでいたのですが、3年ほど前、ある講談社の編集者と話をしているときに、ふと、彼がこんなことを言ったんです。「野間家の歴史は面白いですよ」と。
そこで、頭の中で計算をしてみました。物書きというのは、「このテーマなら、最悪どれくらいのものが書けるか」という歩留まりを、本能的に考えるところがあります。講談社とはつきあいも長いので、頼めば何かしら材料を出してくれるのではないか。これまでに公開されてない資料も手に入るかもしれない。そうすれば自分なりに、いいものが書けるのではないかと考えました。
それから紆余曲折を経て入手したのが、講談社が1959年に編纂した社史「講談社が歩んだ五十年」のもとになった秘蔵資料です。これは野間清治が創業してからの50年について、さまざまな関係者への聞き取りを行った記録です。
200字詰の原稿用紙に書かれた速記録の束が合本にして146冊ありました。その秘蔵資料を読みこんでいく過程で、記録を残すということの重要性を教えられました。五十年史を編んだ講談社の社員たちは、講談社にとって都合が悪いことも含めて、洗い浚いと言っていいぐらい記録を残していました。これは、編纂時の社長、四代目の野間省一のえらいところでもあると思います。
出版社にとって本を売ることはもちろん商業的な意味を持つけれど、その仕事には公共性がある。歴史に対して責任を持たなければいけない、と省一は考えていたのでしょう。
講談社の歴史についていえば、やはり「戦争」への協力が最大の問題点です。とくに陸軍との癒着から目を逸らすことはできません。戦時中、およそ戦争責任がないといえる新聞社や出版社はありませんでした。イヤイヤか、喜んで参加していたかの違いくらいで、完全に無実と言える人はいないでしょう。
だからこそ、いかに「戦後責任」を果たしたのかに着目したい。つまり、戦後、自分たちの誤ちをいかに把握したか。そして、二度と同じことを繰り返さないために、どうしたのか。これは出版社だけの問題ではなく、書き手であれば誰しもが、一人ひとり考えるべきことだと思います。
そして、その体験をいかに受け継いでいくか。そのためにも、書いて残すことが大切なのです。五十年史の編纂事業は、その一つの方法だったのではないでしょうか
重ねていうようですが、巨大企業となった講談社の歴史には、光と陰がある。私はその両方を追っていくつもりです。その作業によって、近代以降の日本の歴史の中で、メディアが何をしてきたのか、今、私たちが向き合っている問題の根底には何があるのかを浮き彫りにできればと思っています。
いま講談社の「現代ビジネス」というサイトで連載しています。もしお暇があれば、読んでいただけると幸いです。(了)