わき道をゆく第145回 選評

▼バックナンバー 一覧 2019 年 10 月 18 日 魚住 昭

 私は三年前から講談社ノンフィクション賞の選考委員を務めさせてもらっています。今年から賞の名前は講談社本田靖春ノンフィクション賞と変わり、その第一回目は選考の結果、松本創さんの『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』(東洋経済新報社刊)が受賞しました。以下は候補となった五作品に対する私の感想です。

 最終選考に残った作品のレベルが拮抗していたので、受賞作を一本に絞る作業が難航した。断然他を圧する作品がないと、細かいあら探しをして、難点の多いものを順に落としていく作業をせざるを得ない。すると、その過程にはどうしても選考委員個人の好き嫌いや趣味が入り込む。これから述べるのは、私の独断と偏見に基づく評価であることをお断りしておく。

 まず森功さんの『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』(講談社刊)。不動産詐欺の実例を通じて現代の世相を描いているが、主人公と思しき”スター地面師”のキャラクターの掘り下げ方が少し足りなかったと思う。

 門田隆将さんの『オウム死刑囚 魂の遍歴ー井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり』(PHP研究所刊)は、五千枚にも及ぶ主人公の手記をベースにした力作だが、作者の視点が主人公に寄りすぎていて、オウム事件の真相究明という点で物足りなさを感じた。

 河合香織さんの『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋刊)はまさに今、社会が直面する問題に果敢に切り込んだ作品だ。しかし、残念なことに、登場人物が実名なのか仮名なのか最後までわからなかった。ノンフィクションは実名が原則である。いろんな事情で仮名にせざるを得ない場合ももちろんあるが、その場合は、最初からその旨を断って、仮名であることがわかるように書くべきだと思う。

『軌道』はJR福知山線脱線事故の遺族の闘いがJR西日本を変えていく過程を追った、優れたノンフィクションだ。しかし、新幹線の台車枠に亀裂が入った事故(2017年12月)の原因を追及する作者の姿勢が少し甘いように感じた。私はあの事故に関するさまざまな報道を見て、福知山線事故を起こした組織の体質が依然として変わっていないのではないかという深刻な疑念を持った。その疑念は本作を読んでも解消されなかった。したがって私は本作を受賞作とすることに諸手をあげて賛成したわけではないことをお断りしておく。

 近藤雄生さんの『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社刊)は他の4作品に比べると、難点が最も少なかった。抑制の効いた筆致も印象的だった。作者の力量は本作で十分示されていると思う。これに懲りず、次回作で頑張っていただきたい。