わき道をゆく第152回 政治と検察(その2)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 1 月 8 日 魚住 昭

 前回の「わき道をゆく」では、政治と検察の関係は複雑で微妙だということを申し上げた。今回は日本の検察制度の成り立ちについて語りたい。
 日本の検察の歴史を語るうえで欠かせない人物を一人だけ挙げるとするなら、それは平沼騏一郎だろう。
 平沼は岡山県の旧津山藩出身。明治21年、東大を出て司法省(現法務省。当時は裁判所も管轄していた)入りした。彼の回顧録によれば、当時の司法省は「実に無力」で「各省のなかで一番馬鹿にされて」おり、「役に立つものは行政庁に行き、役に立たぬ者が判事、検事となって」いたという。
 なぜ「無力」だったかというと、司法省が薩長藩閥から疎外されていたからだ。司法省の初代トップは佐々木高行という土佐藩の元武士で、2代目は肥前藩出身の江藤新平だった。薩長出身者が要職を占めた大蔵省、内務省などと違って、非主流派の吹き溜まりのような三流官庁、それが当時の司法省だったというわけだ。
 ところが明治42年、司法省にとって画期的な出来事が起きる。日糖疑獄である。大日本製糖が自社に巨利を生む法案を通すために政界にカネばらまいていたことがわかり、東京地裁検事局(今の東京地検)が立憲政友会の代議士ら20人を逮捕した。これが検察史上初の疑獄捜査だった。
 捜査の総指揮をしたのは司法省民刑局長に出世していた平沼だ。彼は回顧録で「これ迄検事局が捜査などやりはすまいと大手を振ってゐた。これをズンズン調べ立派な証拠が挙つた(中略)司法部が世間に憚られるやうになったのはこれからである」と述べている。
 この検察勢力の台頭に危機感を抱いた政党政治家がいた。後に「平民宰相」と呼ばれ、大正10年に東京駅で暗殺される原敬である。
 東大名誉教授の三谷太一郎(政治学)著『政治制度としての陪審制』によると、原は同僚議員たちが日糖疑獄で受けた苛酷な取り調べの模様を知り、「司法部(とくに検事局)を軍部に準ずる政治的脅威として認識」し、司法部を政党政治のコントロール下に置くために陪審制の導入を決意したという。
 日糖疑獄の翌年、検察は同じ平沼の指揮で大逆事件(無政府主義者の幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとされる事件)を摘発し、その威信は一層高まった。原は、幸徳らの裁判が証人調べを全く行わず異例の早さで結審したことから、判決(幸徳ら24人に死刑。うち12人は恩赦で無期懲役に減刑)の信頼性に強い疑問を持ち、ますます陪審制の必要性を痛感したという。
 陪審制は大正7年に成立した原内閣の下で立法化が進められ、原暗殺後の昭和3年から実施されたが、原が目論んだようには日本に根づかず、その後の政党政治の凋落とともに消えた。
 一方、平沼が率いる検察は大正3年のシーメンス事件(軍艦建造を巡る汚職)、昭和3年の3・15事件(共産党員らの全国一斉検挙)など疑獄摘発と思想弾圧を繰り返しながら政官財界への影響力を増大させ、一流官庁にのし上がった。それを端的に示すのが、平沼の異例の昇進ぶりである。
 平沼は検事総長を経て大正12年に司法相に昇格。翌年5月、国粋主義の修養団体・国本社を結成した。国本社には司法官僚や軍幹部、政治家が集まり、平沼は政界に一大勢力を築いた。
 昭和6年、満州事変が勃発。軍部などから平沼の首相就任を求める声が広まったが、リベラルな元老・西園寺公望は平沼を嫌い、穏健派の元海相・斎藤実に組閣を命じた。すると昭和9年、平沼の影響下にあった検察が大規模な疑獄の摘発に乗り出した。
 世に言う帝人事件である。日銀の金庫にあった帝国人絹株二十二万株を安く買うため企業家らが政官界に賄賂をばらまいた―と見込んだ検事たちが「俺たちが天下を革正しなくてはいつまでたっても世の中は良くならぬ」と口走りながら有力政治家らを次々逮捕し、斎藤内閣を総辞職に追い込んだ。
 だが、公判で事件は検察のでっちあげだったことが分かり、東京地裁は昭和12年末、政治家ら16全員に無罪を言い渡した。しかし、だからといっていったん動き出した政治情勢は後戻りできない。斎藤内閣の倒壊は平沼の政権奪取に道を開いた。彼は枢密院副議長から議長に昇格し、昭和14年1月、念願の首相に就任した。太平洋戦争開戦の約3年前のことである。
 こうして戦前の検察史を振り返ってみると、日糖疑獄以来、自らの政治的影響力の拡大路線をひた走った検察が政治を混乱させ、遂には政党政治を崩壊させる重要な要因になったことが分かる。軍部が「統帥権の独立」を錦の御旗にして暴走したように、検察もまた「司法権の独立」を掲げて暴走し日本を破滅の淵に追いやったのである。
(了)