わき道をゆく第157回 政治と検察(その7)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 3 月 10 日 魚住 昭

 1948年当時、GHQとの折衝に主として当たっていたのは東京地検の次席検事・馬場義続でした。馬場は後に東京地検に特捜部を設置して「特捜部の生みの親」「ミスター検察」といわれ、1964年に戦後七代目の検事総長に就任します。
 戦後検察を語るうえで不可欠の人物なので、プロフィールを紹介しておきましょう。馬場は福岡県の貧しい農家の生まれです。地元の素封家の援助で第五高等学校から東京帝大法学部へ進みました。幼いころから天才といわれ、中学時代にはこんなエピソードも残しています。
 ある日、数学教師が校長から「馬場の平均点の一〇〇点満点はおかしいからどこかで削ってくれ」と相談を受けました。だけど、教師は「馬場のだけは手がつけられんです。手をつけると一二〇点やらにゃならんことになる」と答えたそうです。
 馬場はいつも制限時間の半分でテストを仕上げたといわれています。文字がきれいなうえ、三通りの式で問題を解き「採点者の好きなものを選べ」と書き加えたそうです。教師はこう言ってため息をついたと伝えられています。
「こっちがテストされておるんだ。あれは天才なんてもんじゃない。上に(超)がつくんだ」
 馬場は1929年に検事に任官しました。37年の日中戦争勃発をきっかけに国家統制経済体制が敷かれ、ヤミ取引など統制令違反の取り締まりが国の重要課題になりました。東京地裁検事局(いまの東京地検)などに経済部が新設され、馬場は経済検事のリーダーになりました。
 敗戦後の1947年6月、東京地検総務部長から次席検事に昇格。戦前の検察主流を占めた思想検事(共産主義者など思想犯の取締検事)が公職追放され、弁護士や裁判官出身者が検察首脳に起用されたこともあって、実務に精通した馬場の発言力は増大しました。
 馬場の捜査指揮は後々の語りぐさになるほど厳しかったそうです。つり上がり気味の鋭い目で部下を見据え、わずかな手抜きも許さない。ある検事が馬場からめんどうな仕事を指示され「それは大変ですね」とつい不平を言ったら、馬場は「大変とはなんだ。何が大変なんだ」とすさまじい勢いで検事に詰め寄りました。検事は後ずさりするうち壁際にへばりついてしまったそうです。
 この馬場を高く評価したのがケーディスでした。松本清張はこう書いています。
「ケーディスは、日本の検察官僚など『使いものにならん奴ばかりだ』と云っていたし、鈴木義男法務総裁(現在の法務大臣)もまた、能力を実験するため各地の検事長を一人一人呼んだところ、その中にはぶるぶる震えて口の利けない検事長もあったということである。だが、ケーディスが馬場を東京地検の検事正にせよと云ったときは、鈴木もおどろいて日本の官僚には序列があるからと云うと、ケーディスはふしぎな顔をしてアメリカでは有能と思えばどんな若手でも抜擢すると云ったそうである」(『検察官僚論』)
 ニューディール政策の申し子ケーディスと、国家統制経済が生んだ経済検事のリーダー馬場義続。この二人の関係が戦後の検察システムの形成に与えた影響は計り知れないものがあります。
 二人の間をつないだのはGSの将校マコト・マツカタでした。明治の元勲・松方正義の孫で、後の駐日大使ライシャワーの夫人ハルの実弟です。戦前、日本から米国に留学。戦争中も米国にとどまり、GHQの一員として戦後日本に戻った。GSで事件の調査、分析などを担当し、ケーディスの腹心と言われました。
 当時司法省(いまの法務省)刑事局にいた弁護士の高瀬礼二はこう語っています。
「ぼくは最高検とGHQの間のメッセンジャーボーイみたいな役割をやらされていたんだが、その関係でGHQの松方さんとは何度もあった。紳士的で頭が良くて、相当できる人だった。特に隠退蔵物資の摘発に熱心に取り組んでいた」
 当時の警視庁捜査二課長で後に警視総監、法相となる秦野章は自著でこう回想しています。
「(昭和電工事件で)私が担当したのは、赤坂の昭和電工本社の捜索と贈収賄両者合せた十数人の逮捕だけである。余勢を駆ってメスを入れようとした矢先、警視庁の捜査二課は、事件の摘発役から突然おろされた。あとはGHQ本部の方針で日系二世松方中尉のさしがねにより、日本の検察をほとんど指揮して摘発を進めたようである。まだ事件の捜査権が捜査二課の手にあったころ、検察庁へ足を運んだ私は、(馬場)次席検事のそばに付きっきりのようにいる、二世でハーバード大出の秀才松方中尉に必ずといってよいほど会った」(『逆境に克つ』より)
 もともと昭和電工事件の端緒をつかんだのは捜査二課でした。それが、政官界への捜査が始まる直前、ケーディス=マツカタラインの指示ではずされてしまったようです。当時、若手の検事だった弁護士の環直彌はこう証言しています。
「ぼくが昭電事件の捜査に加わった時すでに警視庁は排除されていた。聞いたところでは、どういうわけかGHQに嫌われたということだった。そのころはまだ(検事をアシストする)検察事務官制度ができたばかりでその人数も少なかった。捜査の手が足りず、ぼくら検事までが被疑者の張り込み要員に駆り出されたのを覚えている」
 では、なぜGHQは警視庁をはずしたのでしょうか。きっかけをつくったのはどうやら米人記者たちだったようです。彼らは警視庁から入手した情報で本国の新聞に「GHQ高官が昭和電工事件のもみ消しに暗躍している」と書き立てました。このまま情報漏洩がつづけば本国政府からの風当たりが強くなる、とケーディスは考えたようです。
 しかし、排除の理由はそれだけではありません。ケーディスは以前から警視庁に強い不信感を抱いていました。元内務次官の斎藤昇が回想記『随想十年』に、そのいきさつを書いています。
 昭電事件が表面化する前の1947年初め、東京・日比谷の第一生命ビルのGHQ本部に斎藤が内務次官就任の挨拶に訪れた際、ケーディスが言いました。
「どうも最近、警視庁がわれわれの女友達や、その身辺を調べているという風評がある。事実とすれば、まことにけしからん。警察官がこんなことをしないよう厳重に警告する」
 ケーディスの女友達とは「戦後鹿鳴館の女王」といわれた元子爵夫人、鳥尾鶴代のことでした。美貌の鶴代は敗戦翌年の1946年2月、幣原内閣の書記官長・楢橋渡(後に運輸省)にスカウトされ、楢橋が主催するGHQ高官相手のパーティの接客要員になりました。
 そこでケーディスと知り合い、「ツーちゃん」「チャック」と互いに呼び合う間柄になりました。既婚者同士のふたりの仲がうわさになり、警視庁の捜査員がカメラをもってふたりを尾行したそうです。
 しかし、斎藤は山梨県知事から内務次官に着任したばかりで事情を知りません。ケーディスにこう答えました。
「日本の警察がそんなことをするとは考えられない。よく調査してみるが、あるいは警察の名をかたっているかもしれない。あなたのほうでもよく調査してほしい」
 それから一カ月後、斎藤はケーディスからGHQに呼び出しを受けました。
「かねて君に注意しておいたが、私の女友達の友人のところに警視庁の警官が来て、調査している事実がある」
 ケーディスはそう言って、警察官が置いていった名刺を突きつけました。
「この通りではないか。何の目的でこういうことをしているのか、すぐ調べて返答せよ」
 斎藤は内務省に戻って部下たちを問いつめたそうです。するとおどろくべき事実がわかりました。ケーディスを日本から追い出す計画が進行していたのです。(続)