わき道をゆく第158回 政治と検察(その8)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 3 月 27 日 魚住 昭

 GS次長のケーディスを日本から追い出す計画を主導していたのは、吉田茂内閣の要人Sと、反共主義者チャールズ・ウィロビーが率いるG2でした。この計画に内務省調査局長の久山秀雄が加担し、警視庁にケーディスの身辺調査をさせていたようです。

 元内務次官の斎藤昇は回想記『随想十年』にこう書いています。

「策謀が日本側から起ったのか、G2側から起ったのか私は知らない。いずれにしても、そのためにはこの某大佐(ケーディス)の非行や、ないしは日本を去らしめる材料とするに足る的確な事実をつかむ必要があるというので、久山氏がS氏から頼まれて警視庁に調査をさせていた。……こんな事件がなかったら、GSの警察を見る目ももう少し変っていたのかも知れない」

 ケーディスから見れば、警視庁はタカ派の吉田茂一派やG2の手先である。いつまた自分を陥れようとするかわかったものではない。警視庁を外し、事実上、自分の指揮下にある検察だけで昭和電工事件の捜査を進めさせようとしたのは当然のことでした。

 だが、そうしたケーディスの思惑とは別に、この排除指令は検察のその後の針路に重大な影響を与えました。戦後のスタートを切ったばかりの検察が、特捜部を中核にした検察システムをつくりあげ、警察とは全く違った方向に歩き始める分岐点になったと言っていいでしょう。

 司法界の重鎮として知られた元最高裁判事の横井大三氏は、私の取材に答えて、当時の状況を次のように解説してくれました。ちなみに当時の横井氏は司法省刑事局の若手スタッフとして、検察と警察の関係を決めることになる刑事訴訟法づくりに関わっていました。

「敗戦直後の混乱期に検察と警察の間で、もめにもめたのが捜査権の問題でした。どちらが犯罪捜査の主導権(第一次捜査権)をとるか、GHQを間にはさみ検察と警察が三つどもえの争いをくりひろげたんです。警察・内務省側はこの際、警察の権限を強化しようと、組織の存亡をかけてGHQの上層部に働きかけていた。東京地検次席の馬場義続さんら検察側は、内務省側の動きに神経をとがらせながら、そうはさせじとGHQと折衝をくりかえしていたんです」

 戦前・戦中は、いまと違って検事が犯罪捜査の権限を独占していました。旧刑事訴訟法は「検察官犯罪アリト思料スルトキハ犯人及証拠ヲ捜査スヘシ」と定め、警察官は検察官の「補佐トシテ其ノ指揮ヲ受ケ……捜査スヘシ」としていました。つまり警察官は検事の「手足」にすぎなかったのです。

 しかし、それでも検察は警察を完全に掌握できませんでした。肝心の警察の人事権や予算権を内務省が握っていたからです。検事と内務官僚の考え方や利害が対立したとき、警察はいつも内務官僚側につきました。その典型例が、選挙違反の摘発です。検事のコントロールが効かないまま、しばしば警察は内務省系候補の政敵をねらい撃ちしました。

「戦時中も警察が軍部の手先になり、思想犯取締りで人権を蹂躙するようなことがたびたびあった。だから検察は、自分たちが自由に動かせる捜査機関がほしかったんです。そのため警察の犯罪捜査部門(司法警察)を、それ以外の部門(行政警察)から切りはなして検察直属の組織にする案を出した。だがGHQの考え方は全くちがった。『検事は法廷のドアの外にでるべきではない』。つまり捜査は警察に任せ、検察は公判に専従すべきだというのです」と横井氏。

 司法警察を検察直属にする案が実現しなかっただけではありません。GHQ民政局(GS)の司法法制課長アルフレッド・オプラーは、検察が従来通り第一次捜査権を持つことも「検事の権限が強くなりすぎる」と認めませんでした。追いつめられた検察側が苦し紛れに考えついた妥協案。じつは、これが後の特捜部発足の重要な伏線になっていくのです。

最高検が1958年にまとめた『新検察制度十年の回顧』によると、妥協案は次の三点から成っていました。

 ①今の中央集権的警察組織を地方自治体ごとの警察に分割する。

 ②中央に「最小限度の規模の、良く訓練され、装備の優れた国家警察機構」を設け、国会議員の選挙違反、官僚の汚職など国家的犯罪を捜査させる。

 ③この国家警察機構は、米国FBI(連邦捜査局)が司法省に所属するように、日本でも司法省(=検察)に所属させる。

 FBIは米国司法省の一部局で、スパイ事件や高級官僚の収賄など重要犯罪を扱う捜査機関です。検察側は、かんたんに言うと「一般犯罪の捜査は地方自治体ごとの警察に任せるから、国家的犯罪を扱う検察直属の日本版FBIをつくれ」と主張したのです。

 馬場たちがFBI構想を打ち出した背景には、警察の捜査能力への不信とともに検察の過去の栄光への執着があったようです。たとえば明治時代の砂糖税法をめぐる汚職で代議士20人を起訴した日糖疑獄、大正初期の軍艦建造で海軍高官の収賄を暴いたシーメンス事件……検察はこうした国家的犯罪の摘発で組織の威信を高め、政財界や他省庁への影響力を強めてきました。

 しかしFBI構想はGSに受け入れられませんでした。日本版FBIは検察権力の強化に直結するからです。GSの狙いはあくまで日本を戦争に導いた中央集権的国家機構の分散・解体でした。

 敗戦2年後の1947年末、内務省が廃止されました。警察は人口5000人以上の都市ごとに設けられる自治体警察と、それ以下の町村を管轄する国家地方警察に分割されました。そのかわり警察は念願の第一次捜査権を手にしました。昭和電工事件最中の1948年7月に国会で成立した刑事訴訟法は「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは犯人及び証拠を捜査する」と規定しました。

 一方の検察は地方分権化を免れましたが、警察官という「手足」を奪われ、「捜査の主宰者」の地位を追われました。「法廷のドア」の中に閉じこめられ、警察と裁判所の間の単なる中継機関なってしまう危機に直面しました。(続)