わき道をゆく第159回 政治と検察(その9)
前回、昭和電工事件最中の1948年7月に新刑事訴訟法が国会で成立したことを述べました。そこには「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは犯人及び証拠を捜査する」と規定されていました。つまり捜査権をめぐる警察と検察の争いは、いちおう警察側が勝利したのです。その背景には、「検事は法廷のドアから外に出るべきではない」というGHQ民政局(GS)司法法制課の考え方があったことも前述した通りです。
GS次長のチャールズ・ケーディスが「昭和電工事件の捜査から警視庁を外せ」と命じたのは、新刑事訴訟法の施行が4カ月後に迫った1948年9月でした。馬場義続が率いる東京地検は突然、警視庁抜きの片肺飛行を強いられました。
しかし、逆に言えば、これは検察復権のチャンスでした。新刑事訴訟法191条は検察に「必要と認めるときは、自ら犯罪を捜査することができる」と独自捜査の余地を残していました。ここで単独捜査に成功すれば、191条を足がかりに「強い検察」をもう一度築くことができるかもしれません。
昭和電工社長の日野原節三に対する東京地検検事・河井信太郎の取り調べが始まったのは1948年8月下旬、警視庁が排除される直前のことです。日野原は同年6月23日に逮捕されて約2カ月間、警視庁捜査二課や別の検事らの追及を受けましたが、頑として口を割りませんでした。
後に「不世出の特捜検事」とうたわれる河井はこんなふうに日野原に問いかけたそうです。
「あなたの手元に相当たくさんの金が流れこんでいるようですが、お話しになるかならないか。お話しにならないと、あなたが着服したということにならざるを得ないかもしれない。ひとつよくお考えになったらどうですか」
日野原「それはいったいいくらでございましょうか」
河井「それは、申し上げるわけにはいかない。誘導尋問になりますからねえ」
そんなやりとりが二、三日つづきました。河井が他の取調官とちがうのは、昭和電工の秘密資金の流れをすべて解明した上で問いかけてくることでした。日野原にすれば、いいかげんな答えではごかせません。しだいに追いつめられていきます。
河井「あなたはこれを自白すれば、おそらく昭電の社長に二度と帰れないだろう。だが、これだけ政治問題になった事件だから、あなたには社長として真相を明らかにする責任がある」
河井のねばり強い説得でついに日野原の心が動きました。
「一晩考えさせてください……」
やがて、日野原は全面自供します。まず、前農林次官の重政誠之への贈賄。昭和電工への復金融資が衆院で問題になったとき、日野原は重政に現金100万円を渡し、もみ消し工作を依頼しました。
さらに前大蔵大臣で経済安定本部長官の来栖赳夫に復金融資などの謝礼として現金45万円、後の首相で当時大蔵省主計局長の福田赳夫(裁判では賄賂の認識がなかったとして無罪確定)にも10万円を渡したことを自供しました。
日野原の自供はこれだけではありません。政界要人の名が次々と出てきて、当の河井ですら「あまり事件が大きくて調べるほうが驚いた」と言うほどでした。
東京地検は9月10日の重政逮捕を皮切りに福田赳夫、元自由党幹事長の大野伴睦(後に職務権限がなかったとして無罪確定)、日本興業銀行副頭取の二宮善基、来栖赳夫、そして社会党幹部で前副総理の西尾末広(後に賄賂の認識がなかったとして無罪確定)、さらには前首相の芦田均(職務権限がなかったとして後に無罪確定)を逮捕しました。 こうした事件の急速な拡大とは逆に昭和電工事件のもう一つの側面、GHQ疑惑はもみ消されていきます。日野原の9月5日付の調書ではGHQ工作についてこう語られています。
「進駐軍関係の方には御馳走したり、物を差し上げたり致しましたが、現金を差し上げたことはありません。進駐軍関係以外の外人には次のように現金を差し上げております。(イ)ストライクコミッション(賠償使節団)関係 約二〇人位の人に合計約二〇〇万円(ロ)プレス関係パンケンハムという記者に一〇〇万円……」
9月11日、日野原はGHQ工作について上申書を提出しました。上申書といっても字体や文体は供述調書とまったく変わりません。河井が日野原の供述をまとめ、検察事務官に口述筆記させたものと思われます。もしかしたら裁判の証拠というより、GHQ向けの弁明書という性格のほうが強かったのかもしれません。
この上申書でも進駐軍関係つまりESSへの現金贈与は否定されます。たとえば馬場義続から憲兵司令部への報告では、家具代金などの名目で50万円を受け取ったとされたESS化学班のヘティックについてはこう書かれています。
「ヘッチック氏は昭和二三年一月か二月ごろ帰米されましたが、その際家具が不必要につき処分してもらいたいとの談がありました。ちょうど会社でも西洋式家具の不足の折でもあり会社の総務部長の藤井……に命じ、適当の価格にて会社にて購入し、謝意を表すべき旨、申し渡しおきました」
50万円が「適当の価格」にすり替わっているところに、この上申書作成の意図がよく表れています。50万円といえば、現在の物価では4000万円前後に相当しました。金額を書けば、事実上の贈賄を告白することになります。
同じパターンは反トラストカルテル課についてもくり返されます。憲兵司令部への馬場報告で100万円を受け取ったとされた課長のウェルシュや50万円をもらったとされた課長補佐のブッシュについてはこう書かれています。
「ウェルシュ氏にもブッシュ氏にも現金及び物品を差し上げたことはありません。……(両氏を)小林(=日野原の愛人)宅にて数回接待いたしました。また昭和二二年(一九四七年)夏および秋において、箱根強羅センキョウロウ(昭和電工の別荘)にて数回接待致しました」
なぜ、ESSへの現金贈与が供述調書や上申書で否定されたのでしょうか。その答えはGS、東京地検、日野原の三者が置かれていた状況を考えれば容易に見いだせます。
ケーディスに必要なのは自分やGSにかけられた濡れ衣を晴らすことです。経済民主化の推進役ESSの摘発ではありません。ESSの巨額収賄が明るみに出れば、GHQの威信は地に墜ち、本国でのマッカーサー司令部への批判も強まるでしょう。占領政策の遂行に支障を来す事態は防がなければなりません。
一方の東京地検にとってGHQは超法規的存在です。犯罪を暴いたところで捜査権が及ぶわけではありません。疑惑にふたをしてESSに貸しをつくったほうがはるかに得でしょう。当の日野原にしても米軍の軍事裁判にかけられるという最悪の事態を免れることができます。
おそらくは日野原と河井の間で暗黙のうちにESSの収賄の痕跡を消し去ることで合意が成立し、それを馬場やGS側が追認したのでしょう。
並行して進められていた米軍憲兵司令部の捜査結果はどうなったのでしょうか。それを示す文書は見つかりませんでした。少なくとも、日本の目に触れる形でGHQ関係者の処分は行われていません。闇に葬られたのです。(続)