わき道をゆく第160回 政治と検察(その10)
東京地検が昭和電工事件の捜査をすべて終えたのは1948年の大晦日午後11時58分。新刑事訴訟法施行の2分前でした。事件の逮捕者は計64人。うち現職・元閣僚が3人、国会議員9人、元国会議員3人、公務員10人という空前絶後のスケールでした。
芦田前首相の容疑裏づけで九州に出張していた若手検事の環直彌は31日夜、東京駅に帰り着きました。
地検幹部への報告を終え、環は港区高輪の司法研修所に急ぎました。GSと検察の捜査打ち上げパーティに出るためです。
「打ち上げが始まったのは、もう新年が明けた後の午前2時ごろだったのではないかな。昭電事件は占領政策に深いかかわりがあった事件だからね。GHQ側が、馬場さんをはじめ苦労した検事たちを慰労するという意味だったのだろう。たしかGSからホイットニー局長ら数人が出席していて、ビールやウイスキーを飲んだと思う」
しかし、その席にGSの中心人物ケーディスの姿はありませんでした。彼は芦田逮捕の翌日、座間基地から一人米国に向けて飛び立ったのです。鳥尾鶴代の手記によると、ケーディスは昭和電工事件をめぐるデマや鶴代とのスキャンダルなどで苦境に陥っていました。
仮にケーディスが日本にいたところで、もう活躍の場はなかったでしょう。1948年4月のソ連によるベルリン封鎖で米ソ対立が激化。占領政策の主眼は日本の民主化ではなく、日本を「共産主義の防波堤」にすることへと全面転換していました。帰国数日前、彼はこう言って泣いたといいます。
「ぼくは日本を理想の国にしたいと思って身体を粉にして働いた。……民主化のためのぼくの戦いはついに色々な妨害で完全に目的を果たし得ずして中途半端に終わってしまった」
馬場が東京地検に特別捜査部を設置したのは、昭和電工事件の捜査終結から5カ月後の1949年5月14日でした。その母体となったのは隠退蔵事件捜査部。ケーディスの指示で設けられていた、旧軍の隠匿物資を摘発するセクションです。特捜部の発足にあたって馬場は雑誌『法曹』にこう記しています。
「私は、検察庁に文字通りの特別捜査部を設け、これをある程度専門化する組織を作りたいと思う。これには米国のF・B・Iの構想をも採り入れ、新刑事訴訟法下における強力なる知能犯捜査の中核体たらしめたい」
つまり馬場は、警察との捜査権争いの中で浮上した日本版FBI構想を形を変えて復活させたのです。FBI構想を否定したGSが特捜部の設置を認めたのは、昭和電工事件で検察が見せた政治腐敗摘発の実力を評価したからでしょう。
しかしその半面、GHQ疑惑がもみ消され、事件は占領政策の枠内で処理されました。馬場はGHQとの駆け引きをくり返しながら特捜部設置にこぎつけ、検察復権への足がかりをつくったのです。馬場の後輩で、後の検事総長竹内寿平が『馬場義続追想録』にこう書いています。
「昭和電工事件は(中略)政官界、経済界の大物が連座したので、国民の耳目を聳動した。馬場さんは東京地検の次席検事として事件処理の総指揮に当ったが、検察庁の独自捜査を完遂し、検察の威信を天下に示したものであった。連合軍GHQの当局はこの事件の成行を、ぢっと見守っていた。後日聞いたことだが、GHQは日本の検察が信頼すべきものであると高く評価し、当時噂されていた検察の地方分権化などの構想は表面化せず、却って強化するという方向で結着したということであった」
経済検事派のリーダー馬場は1952年の占領終結後、旧思想検事派との激烈な派閥抗争を勝ち抜いていきます。東京地検次席から東京地検検事正、法務事務次官、東京高検検事長と出世コースを駆け上り、1964年には検事総長に就任しました。任官から退官まで38年間、一度も地方に出ず、東京にいたままトップに上りつめるという例のない出世ぶりでした。
しかし、馬場がつくりあげた特捜検察システムは、保守政権の腐敗を徹底的に追及するものとはいえませんでした。昭和電工事件の捜査が、GHQの占領政策の枠内で処理されたように、占領終結後に起きた数々の疑獄事件も結局、保守政権の存続を前提に処理されました。馬場の追想録には次のようなエピソードも記されています。筆者は、馬場の先輩検事の娘婿で、大蔵官僚から衆院議員になった谷川寛三です。
「私が昭和四〇年(一九六五年)、関東信越国税局長になり、当時、検事総長だった馬場さんをときどきお訪ねして御指導を受けたものだが、例えば査察などについては、『谷川君、税も大事だが現在の安定日本の体制をひっくり返すようにならないよう、大所高所から判断するように』と言われたことであった。当時私も若かったし、父から私が高知県人で正義感の強い奴だと聞かされていたせいでもあったろうか」
馬場の言いたかったのは、大企業や政治家の脱税をやみくもに摘発して自民党政権が倒れる事態にならないよう注意しろということだったでしょう。当時、自民党政権の崩壊は社会主義政権の成立につながりました。馬場は官僚として本能的にそれを恐れていたでしょう。
馬場は佐藤栄作ら保守本流に接近して、自民党政権との共存をはかりました。腐敗の摘発も、やりすぎれば自由主義体制そのものが崩壊してしまう。米ソの冷戦という現実の中で馬場ら検察官僚たちが選択したのはそういう一種のジレンマの中で政治的な駆け引きをくり返しながら、検察組織の自立性と影響力を強めていく道でした。(続)