わき道をゆく第161回 政治と検察(その11)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 5 月 25 日 魚住 昭

 私が東京地検の担当記者になったのは、今から34年前の1987年5月でした。取材の初日、霞が関の古びた庁舎(その後、取り壊され、現在は弁護士会館が建っています)の前に立ったとき、道路を隔てた日比谷公園の新緑が初夏の光を浴びてまぶしく輝いていたのを覚えています。

 玄関ホールのエレベーターに乗り、5階で降りると、そこは特捜部でした。生まれて初めて足を踏み入れた特捜部の廊下はうす暗く、しんと静まりかえっていました。

 日曜でもないのにおかしいなと思ったら、廊下の壁の向こうに、部外者立入禁止の細い通路が隠されていました。二重廊下です。細い通路が取調室と廊下のあいだを遮断するので、取調室の声はほとんど外に漏れません。検事たちは人目に触れず、各部屋を自由に移動することもできます。

 二重廊下以上に驚かされたのは取材規制の厳しさです。一線の検事たちとの接触は禁じられていました。違反すると、庁舎への出入り禁止を言い渡されます。検事たちもマスコミに情報を漏らしたら左遷の憂き目にあいます。面会できるのは特捜部長と三人の副部長だけでした。

 それでも地方の検察庁や警察しか知らない私の目に、特捜部はワンダーランドのように映りました。全国から選りすぐられた検事やアシスタントの検察事務官らが、警察の手を借りずに自分の手で情報を集め、関係者から事情を聴く。ときには検察事務官が張り込み、尾行し、検事が自ら逮捕状を執行する。

 捜査の対象は政官財界中枢の汚職や脱税事件です。高度な法律学や会計学の知識を駆使して事件の真相に迫ります。事件記者にとってこれほど面白い取材対象はありません。

 私は夢中になりました。検察幹部宅への夜討ち朝駆け、一線検事の車の追跡、張り込み、考えつくあらゆる手段で彼らの行動を追いました。しかし、マスコミの目をくらます変装やおとり作戦は彼らのお家芸でした。巧妙に仕組まれた作戦に欺かれ、なんど地団駄を踏んだかしれません。

 私が担当になって以降、彼らはつぎつぎと事件を手がけ、政財界の裏に潜む腐敗にメスを入れました。竹下内閣を崩壊させたリクルート事件、自民党分裂のきっかけになった元副総裁・金丸信の巨額脱税事件とゼネコン事件、そして日本版ビッグバンを前に経済界に衝撃を与えた野村証券・第一勧銀の総会屋への利益供与事件……。特捜部の動きは日本の閉鎖的な政治経済システムを根底から揺さぶりつづけました。

 相次ぐ事件の摘発により、特捜部に対する人々の信頼は絶大なものになりました。特捜部=巨悪を摘発する最強の捜査機関という図式がメディアを通じて国民に浸透し、それを疑う者はほとんどいなくなりました。

 かくいう私も特捜部礼賛論を振りまいた記者のひとりです。私が1996年に共同通信をやめ、フリーになって最初に書いた本が『特捜検察』(岩波新書)でしたが、これは基本的に特捜部の「正義」を疑う視点を持っていませんでした。

 それが当時の私の限界でした。ただ私の心の片隅にはいつも「なぜ、国家権力の一機関が正義の味方として我々の前に立ち現れるのか」という疑問がありました。その答えを求めて、あれこれ考えてはみたのですが、「これが正解だ!」と自信をもっていえるものは見つかりませんでした。

 これから先の記述は2001年に私が上梓した『特捜検察の闇』(文藝春秋社刊)とダブりますが、私の検察観の変遷をご説明するために必要なので、どうかご容赦ください。

 私が検察=正義の観念の呪縛から解き放たれるのは、フリーになって数年後のことです。そのきっかけをつくってくれたのは、世間から「悪徳弁護士」の烙印を押された二人の男でした。

 一人は田中森一、当時57歳。「地下経済の帝王」といわれた許永中と共謀して約180億円の手形をだましとったとして2000年3月、東京地検特捜部に逮捕されました。

 田中は私が駆け出しの司法記者だった1987年当時、数々の伝説に彩られた特捜検事でした。政官界の腐敗をかぎ分ける鋭敏な嗅覚と、コンピューターのように精密な頭脳をもち、「彼の取り調べを受けて自白しない被疑者はいないだろう」と言われた。分厚い胸板を着古した背広に包み、東京地検の廊下を歩く彼の姿がまぶしかったのを覚えています。

 田中はまもなく検察を辞めました。弁護士に転じた彼の回りにはたちまち「闇の世界」の紳士たちが群がりました。許永中や、国際航業株事件で逮捕された仕手筋の小谷光浩、イトマン事件で名を馳せた伊藤寿永光、山口組ナンバー2で後に射殺される宅見勝、二信組事件に絡んで逮捕される代議士の山口敏夫……  政界、仕手筋、暴力団など検察の標的になった人物の大半が彼を頼りました。

 田中はなぜ特捜検事から「闇の世界」の弁護人に変身したのか。その理由を聞くため大阪の事務所を訪ねたことがあります。1997年秋のことです。久しぶりに会う彼はよれよれの背広の代わりに高給ブランドのスーツを身にまとい、高価そうな指輪や腕時計を光らせていました。

 田中は私の質問に丁寧に答えてくれました。ある事件をきっかけに検察組織に不信感を抱いたこと、病身の母親を介護するのに転勤の多い検事では何かと不都合があったこと。しかし、それを聞いても私は十分に納得できませんでした。何も元特捜検事が名うてのワルたちのために働く必要はないではないかと思ったのです。その疑問を口にすると彼はいらだたしげな声でこう言いました。

「じゃあ、正義って何なんだ。やっつけることが正義か。検察だけが正義で、あとは悪だというような、そんな理屈があるんか!」

 強烈な逆襲でした。彼の言葉は鋭いトゲのように私の心に突き刺さりました。むろん体のいい自己弁護だと思わなかったわけではありません。しかし、その一方で、自分が知らず知らずのうちに検察=正義という幼稚で危険な発想をしていたことに気づかされたのです。(続)