わき道をゆく第164回 政治と検察(その14)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 7 月 6 日 魚住 昭

 東京拘置所のなかで弁護士の安田好弘はしばしば夢にうなされたそうです。夢の中で安田は自分に罪を着せた権力と、それにうまくはめられてしまった自分に怒っていました。その怒りは自分でもあきれるほど激しく、あまりの激しさに目が覚めることもあったといいます。
 まもなく検察側の証拠が安田の弁護団に開示され、その写しが安田の房にも届けられました。安田は先に逮捕されたスンーズ社長の孫や、常務のI(起訴猶予)らの検事調書を読んで開いた口がふさがりませんでした。安田が孫らに賃料隠しを指示し、証拠隠滅まではかった様子がまことしやかに描かれていたからです。
 しかし、安田は孫らをうらむ気にはなれませんでした。一般人が突然逮捕され、40日以上も厳しい取り調べを受けるのは恐怖と苦痛以外の何ものでもでもありません。まして犯行を否認すれば、いつ終わるともしれない長期拘留が待っているのです。
 いずれ裁判所は孫らに有罪判決を下し、安田主犯説を認定してしまうにちがいありません。そうなれば、安田の外堀は完全に埋められてしまう。彼がいくら無実を訴えても裁判官は聞く耳をもたないでしょう。絶体絶命の窮地でした。 
 独房の寒さが骨身にしみる1999年2月上旬のことでした。安田はスンーズの銀行口座の入出金記録を読んでいました。検察側証拠として開示されたものです。金の出入りを記しただけの単調な数字の羅列を目で追ううちに、ハッと気づいて視線が一カ所に釘付けになりました。
「平成五年(1993年)四月三十日(銀行名)第一勧銀行徳支店(出金額)二百万円(用途)日興キャピタルへの支払い」
 他の入出金は都心の銀行で行われているのに、この二百万円だけは千葉県の行徳支店で引き下ろされていました。行徳にはスンーズの経理係を長年つとめたY子が住んでいました。おそらくこの金は彼女が引き出したにちがいありません。なぜ会社の金を自宅近くの銀行で引き出したのでしょうか。
 債権者のノンバンク・日興キャピタルが警視庁に提出した書類を見ると、この時期にスンーズから二百万円が入金されたという記載はありませんでした。二百万円は引き出された後、忽然と消えていたのです。
 安田はスンーズの会計帳簿を調べ直しました。驚いたことにスンーズが水道局と東京電力に支払った水道光熱費は毎年九千万円余りに達していました。しかもこんな記載までありました。

 平成八年(1996年)十二月十七日の支出、
●電気代 六四万九五七二円
●水道代 三五万四二八円
 合わせるとぴたり百万円です。さらに同じ日の支出に、
●電気代 一〇八万三四六六円
●水道代 九一万六五三四円

 これもぴたり二百万円です。他にも、合わせると端数がなくなる水道光熱費が頻繁にありました。Y子が勝手に金を引き出し、帳尻を合わせていたのにちがいありません。

「そういえば、あのとき……」
 安田は孫が警視庁の事情聴取を受けた直後に言葉を思い出しました。
「調べ官がいきなり『あの二億円の札束はどこに隠したんだ』と聞いてきたんだ。何のことかわからないと言ったら、『そんなはずない』と怒鳴られた」
「二億円の札束」の行方を聞かれたのは孫だけではありません。他のスンーズ幹部も同じでした。安田は孫に聞き返しました。
「で、本当にわからないの?」
「ホントだ。金の出入りのことはY子に聞かないと、わからない」
 おそらくY子が二億円を着服したのでしょう。起訴された「賃料隠し」の額も二億円余りです。警察や検察はY子が着服した二億円を孫が隠したと思い込んだのです。そう考えると、この不可解な事件の謎が解けてきます。安田はその日からスンーズの会計帳簿の分析に没頭し始めました。

 強制執行妨害罪について刑法第九六条の二は次のように定めています。少し専門的になりますが、どうかご容赦ください。
「強制執行を免れる目的で、財産を隠匿し、損壊し、若しくは仮装譲渡し、又は仮装の債務を負担した者は、二年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する」
 簡単に言うと、①強制執行を免れる目的で②財産を隠匿する行為が強制執行妨害です。安田はスンーズ所有ビルのテントから入る「賃料」を差し押さえられるのを防ぐため(①)ダミー会社を使った「賃料隠し」(②)を指示したということになっていました。
 この①と②の要件だけでは、強制執行妨害罪の適用範囲が広くなりすぎるため、最高裁は1960年6月の判決で①と②に加えて③「現実に強制執行を受けるおそれのある客観的な状態」が必要だとの判断を示しました。ということは、検察側は安田の行為がこの三つの要件すべてを満たしていると判断して起訴したことになります。
 以上のことを頭に入れたうえで検察側の冒頭陳述の概要を読んでいただけたら幸いです。

 スンーズは都心などに約三十棟の賃貸ビルを持っていたが、なかでも麻布ガーデンハウスと白金台サンプラザから入るテナント料はスンーズの重要な収入源だった。
 1993年2月12日、債権者のノンバンクが「スンーズが金利分だけでも返済しなければ、抵当物件になっているビルのテナント料(賃料)を差し押さえる」と通告してきた。慌てた孫は安田に相談した。安田は、
「スンーズがダミー会社にビルを一括賃貸し、ダミー会社がテナントに又貸ししたことにすれば、差し押さえを免れることができる」
 と言って、テナント料の受け入れ口座をダミー会社名義の口座に移すよう指示した。
 債権者が裁判所にテナント料の差し押さえを申し立てる場合、債務者(この場合はスンーズ)がその対象になる。しかしスンーズとテナントの間にダミー会社を介在させれば、そのことを知らない債権者が差し押さえをしようとしても空振りに終わるというわけだ。
 それから4日後、ノンバンクは「5日以内に延滞元利金を支払わない場合には、期限の利益を喪失する」と催告書をスンーズに送りつけた。孫は賃料差し押さえが迫ってきたことに狼狽し、2月19日、常務のIや宅建主任のSをつれて安田の事務所を訪ねた。
 安田は他の債権者も賃料を差し押さえようとするだろうから、スンーズが生き残るためには「賃料隠し」しかないことを改めて強調。その場で賃料の振込先を変更するためのテナントあて通知書のモデルを見せ、複数のダミー会社を利用することなどを指示した。
 それまでためらっていた孫もこのままではスンーズがつぶれてしまうと思い、「賃料隠し」の実行を決意。同席していたI、Sらも賛成して、安田を含めた全員の共謀が成立した。(この2月19日の会議で共謀が成立したということが検察側立証の最大のポイントになる。なぜなら安田は法的なアドバイスだけで刑事責任を問われており、もし共謀が立証されなかったら安田を罪に問う根拠がなくなってしまうからだ)
 その後、スンーズはダミーのエービーシー社とワイドトレジャー社名義で銀行口座を開設。エービーシーに麻布ガーデンハウスを、ワイドトレジャーに白金台サンプラザを一括賃貸したという仮装契約を結んだ。そのうえでテナントに「賃貸人が変わったのでテナント料の払込先を変えてほしい」と通知した。以後、二つのビルのテナント料はダミー会社の口座に振り込まれるようになり、1993年3月から1996年9月までの間に二億円余りの「賃料隠し」が行われた。

 以上が、検察側が描いた「賃料隠し」の構図です。なかなかよくできた構図なので、いかにも真実のように見えますが、実はこれがまったくのでたらめであったことが次第に明らかになります。カギとなったのは、消えた二億円と会計係のY子でした。(続)