わき道をゆく第172回 政治と検察(その22)
前回まで安田弁護士事件の経過を追ってきました。この事件は、それまで「検察の正義」の信奉者であった私にとっては、天地がひっくり返るような事件でした。だって、まさかこれほど検察捜査がいい加減で、恣意的なものだとは想像もしていなかったからです。
私は安田事件の取材が一段落した後、他の事件も取材してみようと思いました。ちょうどそのころ裁判で無罪を言い渡される事件がいくつかあったので、その内実を調べてみようと思い立ったのです。(以下の内容は私の旧著『特捜検察の闇』(文春文庫)に書いたことです。そのことをお断りしておきます)
カブトデコムという企業を覚えておられるでしょうか。バブルの時代に北海道経済の牽引車として脚光を浴びた不動産・建設会社です。カブトグループの総帥・佐藤茂氏はスコップ6丁で建設会社を興し、独創的なアイデアと積極姿勢で事業を拡大してきた立志伝中の人物でした。
何事にも全力で取り組む佐藤氏の性格はカブトデコムという社名にもよく表れています。カブト(兜)は戦いの象徴。デコムはデベロップ・アンド・コンストラクション(開発と建設)の略語でした。
1994年(平成6年)9月、札幌でこのカブトデコムにからむ怪事件が立て続けに起きました。
まず札幌市中央区の目抜き通りにあるカブト本社ビルの会長室の電話回線に盗聴器を仕掛けた跡が見つかりました。さらに南区にある会長の佐藤氏の自宅マンションを調査したところ、居間の埋め込み型コンセント内部からも盗聴器が見つかりました。
盗聴器はコンセントを電源にした機種で半永久的に室内全体の盗聴が可能なものでした。佐藤氏宅のカギを持っているのは本人と家族以外にはマンションの管理人などごく少数しかいません。佐藤氏は札幌南署に被害届を出し、9月13日の記者会見で盗聴器発見の事実を公表しました。
翌14日午前10時40分ごろ、このマンション敷地内でマンション管理人(当時70歳)が倒れているのを管理会社の同僚が見つけ、119番通報しました。管理人は市内の病院に運ばれましたが、まもなく心臓破裂のため死亡しました。
札幌南署が調べたところ、管理人室に「屋上で清掃中」の張り紙があり、8階屋上にはほうきとちりとりが残されていました。屋上には床から高さ35センチの外壁があるものの柵などはなかったそうです。管理人は高さ25メートルの屋上から転落したものとみられています。札幌南署は「事故と自殺の両面から捜査している」と新聞各紙は報じました。
それから半月後の9月29日午前8時半ごろ、今度は中央区の札幌地検庁舎11階で同地検の福原健治検事(当時46歳)が自分の調べ室の壁に備え付けてある戸棚の開き戸に引っかけたビニールひもで首をつっているのを職員が見つけました。午前9時ごろ119番通報しましたが、市消防局の救急隊員が到着したときは脈、呼吸ともなく、搬送先の札幌医大で死亡が確認されました。福原検事はこの日、いつもより早い午前7時前に出勤し、自殺したとみられています。
福原検事は旭川の高校を卒業後、検察事務官と副検事を経て、1989年に検察庁の特別考試に合格した「特任検事」でした。1993年末、札幌地検が摘発したカブトデコムの手形偽造事件では佐藤茂氏の取り調べを担当しました。地検の次席検事は「病気や仕事上で自殺の原因と考えられるものはなく、動機はまったくわからない。非常に優秀な検事で、かけがえのない人材を失った。検察にとって大きな痛手だ」というコメントを発表しました。
盗聴、マンション管理人のナゾの転落死、そして検事の自殺……一連の怪事件に共通するキーワードはカブトデコムの手形偽造事件です。1993年12月、佐藤氏はカブト関連会社の手形(額面合計64億円)を偽造したとして札幌地検に逮捕されていました。佐藤氏の公判に提出された資料や関係者たちの証言に基づきながら、この事件の捜査の過程を振り返ってみましょう。そうすることによって検察が直面する深刻な事態がまた一つ浮き彫りになってくるかもしれません。
カブトデコムの株が店頭公開されたのはバブル最盛期の1989年3月でした。初値は2300円。それが翌年7月には4万1400円と18倍に急騰。1989年には154億円にすぎなかったカブトの売上高も1991年には1千10億円に跳ね上がりました。
急成長の秘密は「売上高マジック」といわれた独特の商法にありました。まずカブトと密接な関係のある不動産会社がデベロッパー(開発業者)として土地を仕入れ、カブトにマンションの建設を発注します。カブトはマンションを建設することで売り上げを計上した後、そのマンションを土地ごと購入して転売し、その販売収入でまた売り上げを計上する。つまり一つの建物から二度の売り上げを得ることで効率的に売上高を拡大しました。
急成長のもう一つの理由は、北海道拓殖銀行の全面支援です。産業構造の脆弱な北海道には優良な大口融資先が少なかった。このため拓銀は1990年からインキュベーター(孵化器)事業と銘打ってカブトをはじめ道内新興企業の育成に乗り出しました。
これから伸びる企業を丸抱えして孵化させ、カネのなる木に育てようという戦略です。拓銀とカブトは国立公園・洞爺湖を見下ろす山の頂上にホテルとスキー場とゴルフ場のあるリゾートを建設する総工費1千億円の共同プロジェクトに取り組みました。
しかし拓銀とカブトの蜜月は短いものでした。1990年4月の大蔵省による「総量規制」で不動産業種への銀行貸し出しが制限されて以後、土地神話が崩壊し、カブトデコムの業績は急速に悪化しました。このとき拓銀はすでにカブトグループに系列ノンバンクを含めて1千数百億円の融資をしていましたから、カブトはカネのなる木どころか拓銀の経営を圧迫する最大要因になりました。
1992年11月20日、カブトは9月中間決算の業績予想のうち経常利益を当初予想に比べ54パーセント減の16億円に下方修正すると発表し、北海道の経済界に大きな波紋を広げました。不動産不況が深刻化するなかで「売上高の倍々ゲームを続けた一千億企業が、抜本的な経営路線の再構築を迫られ」(北海道新聞)たと受け取られたのです。
「”マジック商法”破たん 立て直しを模索するカブトデコム 不動産の転売進まず 借入金は千億円超す」
そんな見出しを掲げた記事が北海道新聞に掲載されてから5日後、今度は同紙夕刊の一面に次のような見出しの記事が掲載されました。
「拓銀、金融支援へ カブトグループ 貸出金利軽減や返済猶予」
拓銀がカブトグループへの金融支援に踏み切るとともに資産の大幅な圧縮を促す方針を決めたと発表したのです。それによると、拓銀はカブトへの貸出金利を短期プライムレート(最優遇貸出金利、拓銀は当時年4・75パーセント)程度に引き下げる一方、特定の大型開発物件に対する融資の一部について第三者に不動産が転売できるまで返済を猶予することにしたというのです。
もし拓銀の金融支援策が本物であれば、カブトにとってこれ以上心強い援軍はありません。拓銀以外のカブトの債権者たちも「拓銀がついていれば大丈夫」と胸をなで下ろしたにちがいありません。
しかし、この金融支援策はカブトデコムの再建を目指したものではありませんでした。むしろカブト破たんを前提とした拓銀の債権保全策だったことが後に明らかになります。
(続く)