わき道をゆく第173回 政治と検察(その23)
後の佐藤茂(カブトデコムグループの総帥)の公判に提出された「カブトデコム(株)グループ支援の対応策について」と題された文書は、1992年10月26日の拓銀経営会議の資料として作成されたものです。10月26日といえば、拓銀がカブト支援策を発表する約1カ月前です。この文書を読めば拓銀が当時、何を考えていたのかがよくわかります。
「当行の社会的責任、有形・無形の影響の大きさを考えると、何とかカブトデコムグループの再建を検討したが、極めて難しいとの結論に達した。
しかし、対外的には(勿論、当社〈筆者注・カブトデコムのこと〉に対しても)当行が顧問団を派遣して当社の内容を精査し、再建の道をさぐるというスタンスで対応したい。このスタンスを厳守することは、当行が今後いろいろと問題処理を進めていく上に大変重要なことである。いずれにしろ、タイムリミットは平成5年3月末、場合によってはエイベックリゾート洞爺のホテル棟が完成する平成5年6月としたい」
拓銀はすでにこの時点でカブトデコム再建を断念していました。タイムリミットとはカブトを倒産させる日を意味しています。ではなぜ、拓銀はすぐカブトを倒産させなかったのか。拓銀が被る痛手を最小限にするには、カブトグループ内の二つの優良企業だけを分離して拓銀の傘下に収めておかななければなりません。それにかかる時間を稼ぎたかったのです。
拓銀が狙った優良企業の一つは、含み資産1千億円を持つエイペックス。洞爺湖リゾートの開発主体です。もう一つはビル管理会社のリッチフィールドでした。拓銀はまずリッチフィールドに第三者割当増資を行わせ、増資株を拓銀の子会社に引き受けさせました。その結果、リッチフィールドの株の過半数は拓銀のものになりました。
さらにカブトの100パーセント子会社であるエイペックスについては「カブトの金融支援を行う信頼の証として、株券を預けろ」とカブトに迫り、承諾させました。翌年2月、拓銀は「カブトを三月末に倒産させる」というシナリオに沿って、エイペックスの株の名義書換を行おうとしました。株券は貸し金の代わりに受け取った担保だから名義書換の権利があるという理屈です。
ようやく拓銀の真意を知ったカブトは名義書換禁止の仮処分を申請しましたが、拓銀は札幌地裁で仮処分の審理が行われる前日に書き換えを強行しました。
しかしカブト側も拓銀にやられっ放しだったわけではありません。1992年10月末、ちょうど拓銀がカブト破綻のシナリオを作成したころ、カブト会長の佐藤茂氏は「動物的な嗅覚でひょっとしたら拓銀は離反するかもしれないと思い」(佐藤弁護団)、子会社エイペックスの副社長・北畑昭一氏にエイペックスの手形帳を持参させ、カブトが請け負った工事の代金として計64億円の手形を振り出させました。もちろん拓銀はそのことを知りません。狐と狸の化かし合いです。
拓銀が手形振り出しの事実を知ったのは、株の名義書換が終わり、エイペックスの支配権を手に入れてから3カ月後の1993年5月末のことでした。佐藤会長自ら拓銀幹部に手形のコピーを見せ「この手形は流通に回すから」と通告したのです。
拓銀が手形の決済を逃れる方法は二つしかありません。一つはこの手形を不渡りにしてしまうことです。しかしそれではせっかく手に入れたエイペックスを倒産させることになります。
残る方法は手形が偽造されたと刑事告訴することです。告訴が受理されれば、手形の決済義務を免れるのに必要な64億円の供託金を出さなくてすみます。手形の決済期日が間近に迫った1993年7月13日、拓銀は佐藤会長を札幌地検に告訴しました。
8月25日、拓銀副頭取と佐藤会長との会談が行われました。副頭取は告訴取り下げの条件として、佐藤氏がカブトグループ総帥の地位を退き、米国のカブト子会社が持つ200億円の資産も含めすべて拓銀に差し出すことを提示しました。佐藤会長は屈服しました。
「わかった。海外資産も差し出そう」
佐藤会長の返答を聞いた副頭取は「全面屈服するんだな」と喜び、8月25日、拓銀役員が告訴取り下げのため札幌地検に赴きました。ところが、そこで思いもかけぬ事態が待っていたのです。
「もし取り下げたら、あなた方の特別背任が問題になりますよ」
そう言ったのは、札幌地検刑事部のK検事でした。民事上の駆け引きの材料として告訴したつもりだった拓銀はK検事の言葉に仰天しました。地検の本当の狙いは手形偽造事件ではなく、拓銀・カブトが一体となった特別背任事件の摘発でした。
実は拓銀側の告訴より半年前の1993年1月、K検事は地元雑誌『北方ジャーナル』の特集記事を読んで以来、拓銀のカブトに対する過剰融資疑惑の内偵捜査に入っていました。
佐藤弁護団によると、捜査の最終的な狙いは政界汚職の摘発でした。カブトの佐藤会長は北海道経済人の団体で要職を占め、参院議員・高木正明氏(自民党)の後援会長もしていました。拓銀からカブトへの過剰融資を調べていけば、カブトから高木氏らへのカネの流れが浮かび上がってくるにちがいないと考えたようです。
内偵捜査の最中の7月、拓銀が手形偽造で佐藤会長を告訴してきました。地検にとっては渡りに船の告訴だったようです。K検事らはまず拓銀関係者の事情聴取を始めるとともに拓銀・カブト両社から資料を任意提出させました。拓銀側が告訴取り下げを申し入れたのはその捜査が本格化し始めたころです。
ここで告訴が取り下げられたら、捜査の口実がなくなってしまいます。結局、拓銀側はK検事の言葉で取り下げを断念し、佐藤会長との約束を反古にせざるを得なくなりました。
ここにK検事名を記した「拓銀幹部等に対する特別背任被疑事件捜査報告書(着手報告)」と「起訴状原案」があります。実際にK検事の手になるものかどうか不明ですが、捜査関係者しか知りえない事実に基づいて書かれています。
「着手報告書」の日付は「平成5年(1993年)7月」だから、おそらく拓銀が佐藤会長を告訴してまもない時期に作成されたものでしょう。起訴状原案で「被告人」としてリストアップされたのは拓銀幹部5人と、カブトの佐藤氏の計6人。少し読みにくいけれど、後に「幻の起訴状」と呼ばれる「原案」の中身を紹介しましょう。
「(被告人6人は)北海道拓殖銀行のカブトデコムに対する貸付金残高が平成三年一〇月末現在で既に三〇八億五、一〇〇万円に達し、そのうち約一六八億九、六〇〇万円が保全不足の状態にあった上、カブトデコム及びその関連企業は総額二、三〇〇億円を超える巨額の借入債務を抱え、かつ、カブトデコム及びその関連企業が手がけていたマンション、テナントビルの建築等の開発事業についても、その成否、採算、借入金返済の見通しの立たないままノンバンク等から借入金を重ねて行っていた状況にあったので、これ以上カブトデコムに対して融資をしてもその確実な回収の見込みはなかったのであるから、北海道拓殖銀行の代表取締役及び融資担当取締役としては、ひたすら同銀行の利益を図り、カブトデコムに対する貸増を停止して新規融資を実施すべきではなく、たとえ既存の貸付金の債権を保全するため融資をする場合においても、確実十分な担保を提供させるなど万全の措置を講ずべき任務があったのに、被告人らは共謀の上、自己及びカブトデコムの利益を図る目的をもって、その任務に背き、カブトデコムからの融資の依頼に応じ、別紙融資状況一覧表記載のとおり、平成三年一一月五日から同四年五月一日までの間、五回にわたり、北海道拓殖銀行本店において、カブトデコムに対し、十分な担保を提供させることもなく同銀行本店に開設のカブトデコム名義の当座預金口座に合計七八二億八、〇〇〇万円を入金して貸付、もって、同銀行に対し、同額の財産上の損害を加えたものである。
罪名及び罰条
商法違反 同法四八六条第一項、刑法第六〇条 さらに被告人佐藤茂につき、刑法第六五条第二項、刑法第二四七条」 佐藤弁護団によると、K検事ら札幌地検の捜査陣が強制捜査着手のXデーとして想定したのは10月でした。ところが、その直前になってストップがかかりました。佐藤弁護団の一人が語ります。
「そのとき拓銀の顧問弁護士だった元高検検事長が拓銀の依頼で札幌地検に手打ちを申し入れたが、地検は応じなかった。そこでもっと力のある元検事総長に頼んでなんとか強制捜査を免れようとした。一方、大蔵省も札幌地検の動きを知って慌てた。拓銀は腐っても都市銀行でしたからね。それがバブルの貸しこみで特別背任に問われたら他の都市銀行への影響が大きすぎる。そこで大蔵と検察のネゴが行われて『この事件は大蔵が引き取る』ということになったようだ」
拓銀・カブトの特別背任事件の強制捜査は中止されました。しかし札幌地検のK検事らはあきらめませんでした。12月6日、手形偽造事件で強制捜査を開始、佐藤会長を逮捕するとともに。カブト本社などから段ボール300箱分の資料を押収しました。
しかし、結局、押収資料から政界へのカネの流れを立証するものは出てきませんでした。
12月28日、佐藤会長は手形偽造・行使の罪で起訴されました。その後の法廷で捜査の迷走ぶりが明らかになっていきます。
(続)