わき道をゆく第177回 現代語訳・保古飛呂比 その①
前回の最後に予告したように今回からは『保古飛呂比(ほごひろい) 佐佐木高行日記』の現代語訳を少しずつ掲載していこうと思っています。が、その前にお断りしておかねばならないことがいくつかあります。
まず第一に、私が現代語に訳する際に底本としたのは東京大学史料編纂所が編纂し、東京大学出版会が刊行した『保古飛呂比 佐佐木高行日記』全12巻です。その編纂・刊行に携わられた方々に深く御礼申し上げます。
次に、おそらくは頻出するであろう誤訳についてです。残念ながら私には、幕末期や明治期に書かれた和漢混交の原文を正確に理解する能力が不足しています。できる限り原文の意味を取り違えないよう努力しますが、それでも誤訳は避けられそうにありません。読者におかれては、どうかそのことをお忘れなきようお願い申し上げます。
最後に『保古飛呂比』の現代語訳に取り組む目的です。それをわかっていただくには、高行の略歴を知ってもらわなければなりません。平凡社の世界大百科事典第2版にこう記されています。
「ささきたかゆき 【佐佐木高行】 1830‐1910(天保1‐明治43) 明治時代の官僚政治家。初名は高富,高春,通称は三四郎。土佐藩士の家に生まれ,国学を学び,剣術を修めて江戸に遊学,早くから尊王攘夷論に共鳴した。1866年(慶応2)藩命を帯びて筑前太宰府に出張して情勢を視察,翌年は大目付として長崎に出張,坂本竜馬と提携して国事を周旋,戊辰戦争がおこると長崎奉行所を支配し,68年(明治1)には長崎府判事となった。70年参議,71年には司法大輔となり岩倉使節団に随行して欧米の司法制度を視察して帰国,征韓論争,西南戦争にも政府内にとどまり,78年の大久保利通死後は元田永孚らとともに天皇親政運動を推進,明治14年の政変(1881)後,参議兼工部卿となり,88年枢密顧問官,また皇太子の御養育之任を務めるなど,宮廷に近侍した」
読んでおわかりのように、高行は幕末期に「坂本竜馬と提携して国事を周旋」したり、明治初期の「岩倉使節団に随行」して欧米を見聞したりした重要人物です。それだけではありません。大久保利通の死後、「天皇親政運動を推進」し、「皇太子の御養育之任」をつとめた人物でもあります。しかも彼は毎日欠かさず日記を書いていて、自分が遭遇したさまざまな歴史的事件についての克明な記録を残しています。
それが『保古飛呂比』なのですが、一般にはあまり読まれていません。たぶん現代のわれわれが簡単に読める文章になっていないということが、その理由だと思います。
たとえば、『保古飛呂比』の前書きの原文を見てみましょう。書き出しは「おのれ若かりし時より手扣の為とて留め置きたる書類ども、屡々旅行せるなどにて、いつの間にか散りうせけるが……」となっています。
それを私は「自分が若い時から心おぼえのためにとっておいたもろもろの書類は、しばしば旅行したりしたため、いつの間にか散りうせてしまった」と直しました。
つづいて前書きの原文には「明治二十三秊庚寅秊七月、常宮 周宮両殿下の供奉して日光にゆかむとせし時……」というくだりが出てきます。正直言って私は最初に読んだとき、「秊」が何を意味するのか、「常宮」「周宮」が誰を指すのか知りませんでした。しかし、漢和辞典やネットを使って調べたらすぐ分かりました。
それで私は「明治二十三年、庚寅の年の七月、常宮(つねのみや。明治二十一年九月生まれ。明治天皇の第六皇女)、周宮(かねのみや。明治二十三年一月生まれ。同第七皇女)両殿下のお供をして日光に行こうとした時……」と訳しました。
たったこれだけの作業をしただけですが、漫然と読み流していたときとは違う、鮮明な世界が目の前に広がっていくような気がしました。これだったら私自身の日本近代史の勉強にもなるし、読者のもとに届ける意味はあるのではないかと思いました。
さて前置きはこれくらいにしておきましょう。『保古飛呂比』は膨大な量の”日記”なので果たして最後まで到達できるかどうかわかりませんが、とにかく第一歩を踏み出してみようと思います。
保古飛呂比 巻一 天保元年(1830年)より嘉永五年(1852年)まで
自分が若い時から心おぼえのためにとっておいたもろもろの書類は、しばしば旅行したりしたため、いつの間にか散りうせてしまった。
明治二十三年、庚寅の年の七月、常宮(つねのみや。明治二十一年九月生まれ。明治天皇の第六皇女)、周宮(かねのみや。明治二十三年一月生まれ。同第七皇女)両殿下のお供をして日光に行こうとした時、何年もうち捨てておいた反古(=不要になった文書)の類いを整理しようと、あちこちから取り出したら、その中に日記のようなものをたくさん見いだした。
ついうれしくなって読んでみたら、虫に食われたり、裂け破れたりしていた。さらには前後関係の分からぬものも多かったので、そのままうち捨てておこうと思ったが、それもさすがに惜しくて、それらを日光の旅館に持参して書き綴り、さてまた他の反古の類いは書生に命じて清書させた。
こうして十余年の間に積もり積もってうずたかくなったものを、仮に反古拾(ほごひろい)と名づけ、暇を見つけて整理していこうとしたが、老いの身に御用ばかりが多くて思うにまかせなかった。
そうしたところ、たまたま丸橋金次郎という男が我が家にいた。丸橋は國學院の縁(佐佐木は1896年から1906年まで國學院院長、1906年から1910年まで國學院大學学長をつとめた)で、以前から我が家に寄宿している男で、幕末の歴史に趣味をもっていた。
彼といろいろ話すついでに、土佐藩時代のことを物語ったところ、何か裏付けになるような書類はございませんかと訊くので、私は彼の志の篤さに感心して、さきに集めた反古拾を示した。
丸橋は「こんなに貴重なものをただ放っておくのは惜しいので、及ばずながら、私に編集させてはもらえませんでしょうか」と言った。
私はもとより望むところだったので、「それは幸いだ。君に任せよう」と言ってすべてを丸橋に委ねた。時に明治三十六年五月のことである。
それから丸橋は反古拾の編集に専念し、寒暑のけじめなく朝夕励んで、この頃に至ってすべての作業を終えた。私の見るところ、なかなかによく整っていて、日記類の整理をはじめてから十七年余りの星霜を経た今日、ようやく初志を達することができた。非常にうれしい。明治の大御世になってからのことについては、後の者に編集してもらうことにして未定稿のまま別に置いておく。
この反古拾はみだりに人に見せるべきものではなく、永く我が家に伝えるべきものである。私の後につづく大事な子孫たちよ。いいかげんな気持ちで見るでないぞ。私の苦心の跡を忘れず、常にこの心とせよ。
明治四十年九月
七十八歳
源高行記(注1)
【(注1)佐佐木は、「自分の家は宇多源氏である」と『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』のなかで述べている。宇多源氏は第59代宇多天皇の流れをくみ、臣籍降下により源姓を賜ったとされる氏族のこと】
反古拾
天保元年庚寅 一歳
十月
一 この月十二日夜、戌刻(いぬのこく。午後七時~午後九時)、土佐国吾川郡瀬戸村(現高知市)で出生。幼名を弥太郎と称す。(原注・瀬戸村は明治年間に長浜村と合併した)。
実父は十兵衛高順さま、実母は寛(ひろ)と申し、同藩士・齋藤内蔵太正躬の姉である。
実父はこの年、五月十九日、瀬戸村で病のため亡くなった。行年三十五歳。我が身はそのとき母の胎内にあり、いわゆる遺腹(=父の死後に生まれた子)となった。
そういう事情があったので、父君が病死なさったとき、同藩士・谷五太夫史順さまの次男・潤三郎さまを姉上の婿養子に迎え、私の養父とした。このとき藩法により、佐佐木家の知行高百石のうち三十石が減らされた。
養父の潤三郎さまはこれより後、通称を琢内または三六と改め、実名を高下と唱えられた。外叔父の齋藤内蔵太さまは(藩主の山内)豊資(とよすけ)公の御扈従より御側御用人としてお勤めになられることになった。谷五太夫さまは、御祐筆より御小納戸等として勤められることになった。(注2)
【(注2)土佐藩の身分制度は厳格で複雑だった。『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』によると、上から順に家老、中老、物頭、相伴格、馬廻、新馬廻、御扈従格、新扈従、馬廻末子、新扈従末子、御留守居組、新御留守居組、白札、郷士、徒士の十五に分かれていた。
そのなかでも、たとえば「白札といふのは、妙な一種の階級で、郷士の上に位して、旅行の節には槍を持たすが、士分よりは呼捨にする。半ば士、半ば軽格といふやうなものである。侍は当主のみならず二男三男幾人でも、皆士の待遇を受けるが、白札の嗣子は、徒士の待遇で、目見え(魚住注・藩主に謁見すること)も出来ぬ。例へば、侍は皆、晴天に日傘をさす事が出来るばかりでなく、家族も皆出来るけれども、白札は当主ばかりで、其の妻子抔(など)はいかない」。
◎佐佐木高行の家の家格は御扈従組百石。実母の実家である齋藤家は馬廻組二百石だったと『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』に記されている。
◎ 扈従人=「古来,身分の高い人が他出するときに随従する人々や家臣を扈従人(こしようにん),扈従輩などと称したが,この扈従を借字したのが小姓であるといわれている。主君に近侍してその身辺の雑務にあたるほか,外出の折や戦場にあっても騎馬もしくは徒歩にて側近く仕える近臣の称呼である。」(世界大百科事典)
◎御側御用人(側用人)については日本大百科全書(ニッポニカ)に「大名・旗本などの家で、主君のそば近く仕えて庶務・会計などに当たった職」とある。
◎ 祐筆=「武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成にあたる常置の職」(精選版日本国語大辞典)
◎ 小納戸については精選版日本国語大辞典に「江戸幕府の職名。若年寄支配。髪月代、膳番、庭方、馬方、鷹方、筒方など将軍の身辺の雑務を担当した。定員約一〇〇名。高五百石。諸大名家にも同じような役職があった」とある】
天保三年壬辰(みずのえたつ) 三歳
四月
一 京都祇園神社へ病気本復(=全快)のため契約、よって幼名を松之助と改める。注③
【注③ 契約が具体的に何を意味するか不明】
十二月
一 豊資公が右近衛権少将に任ぜられる。歴代の土佐藩主は四位の侍従だったが、当代になって初めてこの叙任があった。藩士一同、大いに敬賀したという。
ついでに記しておく。このとき江戸表の古老は「土州家は代々四位の侍従だった。国主に希な古風の御家で、位階にまったく御頓着されなかった。それが、少将にご昇進されたことによってかえって味わいが少なくなった」と評したという。これは後年、内々にある人から聞いたことだ。注④
【注④右近衛府は、「左近衛府とともに、武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所」(デジタル大辞泉)で、右近衛権少将はそこの次官相当の官職とみられる。 侍従は「天皇の側近に供奉することを任とする官職」(世界大百科事典)。
四位は正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位、正四位、従四位・・・の序列からなる位階のひとつ。江戸時代の藩主は従四位の位階を与えられるケースが多かったといわれるので、文中の四位も正確には従四位のことではないか】
天保四年癸未(みずのとみ) 四歳
一 この年、高知川原町の久徳某の屋敷を求め、引き移る。
ただ、それまで住んでいた瀬戸村は海辺にあって、魚採りに便利だったので、幼心に転宅を惜しんだ。また、高知は御城下なので、夜中に火の用心のため金棒(頭部に鉄の輪をつけた棒)を引き、刻々拍子木を打って回番する。そのことを不審に思い、父上にねだって夜中の回番が通る道筋につれて行ってもらい、実際に金棒引きを見て納得した。
さて曾祖母の話によると、我が家のご先祖は長岡郡介良村(けらむら。現高知市)の御知行所(主君から与えられた所領)に本宅があって、それとは別に、御城下の本町四丁目に手広い屋敷を拝領していた。それが寛文年間(1661年~1673年)のころ、西野惣右衛門の尾戸(現高知市小津町)の屋敷と屋敷替えする話が進んでいた。ところがその話の最中に本町の屋敷が主君の命で召し上げられてしまった。ご先祖は代わりの屋敷をいただけるようお願いしたが、相応の屋敷が見つからなかった。
そこで当分、枡形(現高知市)の長谷川半五右衛門の屋敷が空いていたので、それを拝借しようとしたところ、また、御用に召し上げられた。そのため町方に家を借りて、そのうちに上村七郎右衛門の屋敷を拝領した。後の享保十七年(1732年)ごろ、その屋敷を田中関右衛門に譲渡した。
それよりご先祖たちは介良村の本宅に住まい、第五代の忠六さまの代に吾川郡長浜村に移り住まれた。畢竟、身分が低く俸禄が少ないため暮らし向きが楽にならず、御城下に屋敷を持てなかった。 御城下の屋敷はご先祖のはじめ(御元祖)から旅宿の名義だったそうだ。
第七代の忠三郎さまに至って、暮らし向きが良くなり、そのうえ勘定奉行という要職につかれたため、御城下の江ノ口村に相応の御屋敷を求めて住まわれ、第八代の作兵衛さまのとき、吾川郡瀬戸村に移られた。作兵衛さまはすこぶる活発な質で山海の漁猟を好まれたので、海辺に移住されたとのこと。
そのころからまたまた暮らし向きが追々悪くなり、借金もできたので、十兵衛さま(高行の実父)の代となり、家の財政立て直しをはかった。ところがまもなくご不幸・減禄(十兵衛の病死と、百石から七十石への減禄を指す)に遭い、借金せざるを得なくなった。
そして、前述したように川原町の屋敷を求められたので、いよいよ借金が増え、ますます不如意となったという。私が成長するにつれ、困窮が甚だしくなり、何事も不自由になって、毎度昔の話を聞かされることになった。注⑤
【注⑤この曾祖母の話のくだりは、意味がとりにくい部分がいくつかあって、かなり不正確な現代語訳になっている。ご容赦を請う】
天保五年甲午(きのえうま) 五歳
二月
一 この月十日、江戸で大火があり、上屋敷・築地御屋敷ともに類焼した。御奥様(当時の藩主・豊資の正室のことか)は品川御屋敷へ、若殿様・若御前様(豊資の長男・豊熈夫妻のことか)は芝御屋敷へ立ち退かれたという。
天保六年乙未(きのとひつじ) 六歳
三月
一 この月、疱瘡(=天然痘)を患い、危うく死にかける。幸いに快和した。
五月
一 この月二十四日、夜半、父上の実兄である谷百次さま、御病死。
実は百次さまは以前、過失があって座敷牢に入れられていたが、父上が忠告して自殺させた。百次さまの自殺後、父上は毎度夜半、潮江山(現在の高知市の南にある山。山内家主従の墓が多くある)へ墓参に行かれ、夜中もろくろく眠られなかったことを幼心に覚えている。心配した。
閏七月
一 この月朔日(ついたち)、藩主豊資公に初めてお目見えした。この際に(幼名を)萬之助と改め、実名を高富(たかあつ)と称した。中村十次郎に依頼して名づけてもらった。同氏は儒者で(藩校の?)教授役である。
初めてお目見えするときは、皆幼年だから、遊び相手として親族などを伴うのが慣例になっていたが、父上は深く考えられて、一人も伴わず、御城中でも父上はわざと姿を隠され、私がどうするか見守っておられた。私は恐れはばかる様子もなく、平常の通りだったというので他の方からも賞められた。帰宅後、父上はじめ皆々様から褒美などをもらい、大いにうれしかったことを覚えている。
一 この年、(養父の父)谷五太夫さま御病死。
天保七年丙申(ひのえさる) 七歳
七月
一 この月中旬、父上御発狂の模様、ひどく心を痛めた。(続)