わき道をゆく第178回 現代語訳・保古飛呂比 その②
天保七年丙申(ひのえさる) 七歳
七月
一 この月中旬、父上御発狂の模様、ひどく心を痛めた。
未明、中庸(中国の経書。四書の一つ)を読んでおられるとき、ふと脇刀をもって顔面を傷つけられた。その音で家族一同驚いて大騒ぎになり、自分は幼少だったが、とりあえず親族の市村太郎右衛門宅に駆けつけ、ことの次第を伝えた。
それから他の親族も知らせを受け、おいおい我が家に集まり、交代で番をした。やがて屋敷内に牢をつくり、父上はその中で謹慎されることになった。我が家は以前から困窮していたが、父上の御発病でいよいよ困難になり、鎧(よろい)二領のうち一領を売却、番具足(=番兵用などの粗末な具足)一切そのほか諸道具を売り払った。なおかつ親族が少しずつ金を出し合い、借金などの始末をつけたが、完済にはいたらなかった。
諸道具を売却したため、ただ甲冑(かっちゅう)一領が残った。佐佐木家第七代の忠三郎さまがお仕事に励まれて、小身(=身分が低いこと。俸禄が少ないこと)には不相応な番具足・馬具まで備え置かれていたのに、それらを売り払うというのは幼心にも心外だった。
だから(親族との話し合いの最中)一言もしゃべらず、親族の人々の顔ばかり見つめていたら、皆が言うには、大人になってご奉公に精を出せば、買い戻せるということだった。
というのも、不破助左衛門(原注・不破は三百石の禄だが、内匠《=宮廷の工匠?》の子孫で、武器等をたくさん所持しているという)へ鎧などの諸道具を譲ることになり、その際、後年、買い戻すという約束を交わしていたからである。
そのとき私は心に深く感じ入るところがあって、「必ず買い戻してみせます」と言ったら、親族から褒められた。
また、父上が屋敷内の牢に入るとき、雨が降っていた。父上は両手が(縛られていて?)自由にならなかったので、親族が雨傘を差しかけていた。そうやって父上が歩いておられるさまを見ているのは、悲しい限りだった。父上をうまく取りなせば、こんなことまでしなくてもいいのにと思い、涙が止まらなかった。みんなから慰められたが、自分はただただ牢の外から父上のご機嫌をうかがうことしかできなかったので、ひどく心細かった。
一 同晦日(この月の最終日)、父上の愼(謹慎の意か?)が差し許された。
(以下は藩からのお達しの原文。一部意味不明のところがあるため、原文のまま掲載する。お達しの趣旨は、先日の藩主お目見えの際、養子である高行を実子として届け出た過失により謹慎を言い渡していたが、今日その処分を解除するということのようだ)
惣領萬之助(=高行の幼名)先達テノ御目見奉願、被遂聴召候、然ルニ萬之助儀、養父十兵衛実子ニ付、養子ニ可奉願筈ノ所無其儀、重キ願筋不行届不念ノ至、依之今廿八日愼被仰付置候所、今日前體ニ差免之、
八月
一 この月二十日、太守様(=藩主・豊資)が日光東照宮に参拝されたとのこと。
この日光参拝の話は、幼いとき、齋藤の叔父様から聞いたが、年月が不明だった。が、自分が明治二十四年七月に日光へ供奉(=お供の行列に加わる)したとき、関根矢作翁の日記を見たら、その中に太守様の日光参拝の件があった。
ちなみに関根矢作は九十二、三歳。とても心がけの厚い人物で、有名な老翁だ。およそ七十年間の日記がある。
天保八年丁酉(ひのととり) 八歳
二月
一 この月、大坂で大塩平八郎が乱を起こした。当時、(我が家の?)東隣に大町佐平(原注・大町芳衛の曾祖父)という老人がいた。世の異変などを記録するのが好きで、大塩の乱について、大坂与力の坂本弦之助が土佐藩の二川六郎(原注・陸軍少将坂井重季の祖父)あてに書いた手紙の写しというのを、自分が十四、五歳のとき読み聞かせてくれた。
二川と坂本は荻野流砲術(荻野安重が創始した砲術の一派)の相弟子で、坂本の手紙には「敵を討ち取ったのは、まったく師の教えのおかげだ」云々とあった。また、坂本は(銃弾で?)陣笠を撃たれたというので有名になったらしい。
五月
一 この月、末松久右衛門(原注・三百石ばかりの禄をもらっていて、金満家だった)の家の初節句の祝い事があった。大塩平八郎氏が大砲を発射するところや、戦争をするところを模した生人形(=作り物の等身大人形)を見せ物にしていた。自分も見物に行き、幼心に面白く、しきりにいくさの起きるのを願った。
一 この月、父上が発病されてから満一年が過ぎ、回復された。その旨を藩に届け出たうえで、父上は近所を足馴らしのために散歩され、追々全快となられたので、嬉しかった。
一 この年、手習いの師匠の柴田敬吉という人のところに入門した。
ただし、柴田の門人は(身分の高い)大身家の子弟が多く、自分は小身の上に困窮していて、軽蔑されることがしばしばあり、常に腹立たしい思いをした。いつか彼らを抑えつけることができる日が来ると思って我慢した。
そうした大身家の子弟のなかでも、中老の山内左近の弟某、馬廻りの野本喜久馬・坪内嘉治衛らからとくに軽蔑された。
天保九年戊戌(つちのえいぬ) 九歳
二月
一 この月十日、江戸城の西ノ丸が炎上した。そのため太守さまは御普請金として三万五千両の上納を幕府より求められたとのこと。
四月 この月二十五日、太守さまの豊資公が箱根宿にお泊まりの際、同宿で大火があったとのこと。
箱根宿の安藤某(原注・八十余歳の老人)の実話があるので、後日記載するつもりだ。
十月
一 母上に女の子が生まれ、於亀と名づけられる。
ただし、我が実母は祖母上と、姉上は母上と記す。以下、これに倣う。
天保十年乙亥(きのとい) 拾歳
五月
一 この月二十三日、於亀が病死した。
ただし病症は驚風(幼児の引きつけを起こす病気。脳膜炎の類い)で、父上はことのほかお力を落とされ、もしやご病気の再発がないかと一同大いに心配した。
六月
一 この月二日、若殿様が国政見習いのため、帰国され、お城に入られた。
十二月
一 この月二十五日、父上の従弟・沖助市(原注・山地元治の叔父) 十六歳が、百姓が無礼を働いたので手打ちにしたという知らせがあった。父上は早速沖の家に行かれ、自分は一人で走ってその現場を見に行った。
我が家より十四、五丁(一丁は約109メートル)も離れた江ノ口村の大膳寺という寺院の前の、田んぼの細道に切られた百姓の遺体があった。見物人も多かった。自分は幼年だったが、(沖助市と)親族の間柄なので都合良く見ることができた。
家に帰ると、母上はじめみんなが私のことを心配して待っていた。その夜、父上が帰ってこられていろいろ話を聞いた。武士は腰を抜かすようなことがあれば生き甲斐がないので、幼年でも負けることはならぬと励まされ、大いに奮発した。
天保十一年庚子(かのえね) 十一歳
八月
一 この月九日、母上が男の子を産んだ。
ただし同十三日、早世した。
男子なので楽しみにしておられたのに直ちに不幸に見舞われ、父上は鬱々として気分がすぐれず、家内中はただただ心配のほかなかった。
母上はいまだ年が若く、とくに心配されて、ついに御血症(血の流れが滞るお血のことか?)を長患いされた。実は、父上はいたって気難しい性質のうえ、一時発狂されたこともあり、回復された後も何かと難しいことがあり、困窮はますます増した。それゆえ母上はかれこれ心配され、細かなことも気にかけ、父上の食べ物も厳選し、魚類でも真魚(原注・鯛の類)でなくては食膳にあげなかった。そういう事情もあったので、我が家は困窮のうえにさらに困却した。私は曾祖母・祖母上がいろいろ内職などしてどうにか食いつなぐありさまを見て心を痛め、幼年ながら夜もろくろく眠れないことがあった。
何分、父上の御気質は尋常でなく、親類縁者らも恐れ憚った。親族の森岡磯平(原注・父上の従弟)の申されるには、佐佐木家は日夜屋上に雷鳴がある。いつ雷が落ちるかわからないような状況だが、仕方がない。みんなが息をつめ、時を待つしかない、と常に語っておられると聞いた。しかしながら、父上はいたって実直で、自分は真の実子のように深く愛された。気難しいのは畢竟御病気のせいである。
天保十二年辛丑(かのとうし) 十二歳
閏正月
一 この月晦日、前将軍家斉公が亡くなられた。
このため二、三日間、市中の門戸を閉じた。家臣一同やその家族らが謹慎となり、大いに困却した。家臣だけでなく一般の町民らも三日間は米つき、薪割りなどを禁止された。実は、その発表前に用意をしておくようと内々のお達しがあり、貧乏人は(その準備のため、慌てて?)米つきなどをするはめになり大いに狼狽した。
謹慎中はどこの家でも囲碁将棋を内々でやった。自分はそれを傍から見物した。
十一月
一 この月十二日、母上が女の子を産んだ。於寅と名づけ、後に政と改めた。
一 この年、二番目の姉上が同藩士・中島彌藤太に嫁した。
一 この年、儒家・大町善七のところに入門して、四書の素読をした。
もっとも私は十歳ころから軍書(=過去の合戦などを記録した書物)を好んで、森本源太に頼んで読み聞かせてもらった。一番初めに天下茶屋仇討ちを聞き、大いに面白かった。
森本源太の祖父・森本藤蔵は学者だったという。それだから森本家には書籍が多かったが、野史(=民間で編集した歴史書)の類はなかった。注①
注①天下茶屋仇討ち=「慶長14年(1609)天下茶屋で起こった仇討ち事件。宇喜田秀家の家臣林重次郎・源三郎兄弟が父のかたき当麻三郎右衛門を追い求め、重次郎は返り討ちとなったが、源三郎が忠僕鵤幸右衛門(いかるがこうえもん)とともに討ち果たした。歌舞伎・浄瑠璃の題材となった。」(デジタル大辞泉)
天保十三年壬寅(みずのえとら) 十三歳
正月
一 この月、中島家に嫁した姉上が離別となった。
ただし中島家は百七十石を領する金満家である。こちらは小身の貧窮の身で、そのうえ姑はずいぶんやかましい人で、これまで嫁が二人ばかり折り合い悪くなって離別された。
もっとも婿の彌藤太はすこぶる好人物だが、いたし方ない。
一 この月、高木流槍術師範・岩崎作之丞、北条流軍学師範・原琢左衛門、朝鮮流要馬術師匠・久徳守衛に入門した。ただし父上は文学は好まれず、武芸を好まれた。それゆえ私は一般並みより早く(武芸の師範に)入門した。
一 この月六日、吾川郡菜ノ川村の百姓三百人ばかりが逃散して、予州(伊予の国の別称。今の愛媛県)菅生山に籠った。同二十五日、松山領(伊予松山藩の領地)へ迎えのため人数が差し向けられ、百姓たちを受け取って帰国した。
天保十四年癸卯(みずのと・う) 十四歳
三月
一 この月七日、豊資公が御隠居あそばされ、以後、兵部大輔と称された。そのため、家臣一同は兵の字を名前に使うことや、太夫と称するのを憚るようになった。
九月
一 この月十一日、老中の水野越前守忠邦が辞表を出し、同十四日、受理された。
十一月
一 この月、豊熈公が跡を継がれ、そのお祝いとして、三ノ丸で家臣一同、鶴のお吸い物を頂戴した。これはめでたいときの先例にならったものだ。ゆえに父子ともに出勤し、わずかな鶴の肉を一片ばかり食べ、あとは家に持ち帰って一同でいただいた。
豊熈公は明君だったので、家臣一同その徳に服した。文武の振興に意を注がれた。
さて豊熈公はご逝去後に養徳院という戒号を送られた方で、豊資公の長男である。藩主の座に就かれてから藩政に尽力され、文武を奨励され、倹約を最も実行された。わずか五年ばかりのうちに藩の気風は改まり、藩の財政も立ち直り、庶民にいたるまで豊熈公の徳を仰ぐようになった。
豊熈公の代から御近習(=主君のそば近くに仕える役)等へは、文武に秀でた藩士たちを抜擢して、ご採用なされた。後に土佐藩の士風が振るったのはまったく公の力によるものである。わが子孫たちよ、そのことを夢忘るべからず。
一 この年、真影流剣術師匠の美濃部猪三太のところへ入門した。
一 この年、二番目の姉上が同藩士・本山勘蔵の惣領・慶馬に嫁した。
ただし、同家は五十石を領する小身で、家事は楽ではないが、婿になる人の人柄がよいというので結婚した。(続)