わき道をゆく第179回 現代語訳・保古飛呂比 その③

▼バックナンバー 一覧 2022 年 2 月 5 日 魚住 昭

弘化元年甲辰(訓読みできのえたつ、音読みでこうしん) 天保十五年 十五歳

正月

一 この月十一日、「御馬御乗初め」(=武装した家臣団が馬に乗って疾走する土佐藩の年頭行事)があり、父の代理として乗馬した。

ただし去年、御家督(=この場合は藩主の代替わりの意)のご祝儀につき、惣馭(惣はすべてを意味し、馭は馬をあやつること。全員騎乗の意か)となった。平生は百石未満は参加できないのだが、何かご祝儀の節は、知行取りは惣馭となる。注①

【注①imidas時代劇用語指南(山本博文著)より、武士の収入の示し方について説明しておく。山本によれば、知行取り(ちぎょうどり)といって、たとえば「300石」というように「石(こく)」で示す場合と、「蔵米取り」(くらまいどり)といって、たとえば「50俵(ひょう)」というように米俵の数で示す場合がある。「300石」というと、300石の米が収穫できる領地をもっていることを示し、その中から年貢を徴収する。「50俵」の場合は、幕府や藩の蔵から50俵の米を支給される。1俵には3斗5升の米が入っており、1石の知行からの年貢は3割5分ほどだから、たとえば、100俵の武士と100石の武士の年収は、ほぼ同じである。しかし、武士は本来領地をもつ存在だったから、知行取りの方が蔵米取りの者よりも身分格式は上であった】

一 この月十五日、元服して、俗名を三四郎と改めた。

三月

(参考)

一 この月、長崎表へオランダの使節が来たとの情報が江戸に達した。難問題につき、水野忠邦が(老中職に)再勤した。

五月

一 この月十日、明け七つ時(午前4時ごろ)江戸城大奥の長局(=大奥の女房たちが住む宿舎)から出火、本丸が消失したとのこと。

ついでに記しておく。横目付け(藩士たちの行動監視役)の手島が江戸より帰国して言うには、このたびの火事が起きるまでは(本丸に)浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけたとき、柱に触れた刀痕があったという。

十二月

一 この月二日、弘化と改元。

一 この年、本山家に嫁した姉上が女の子を産んだ。

一 この年、初めて槍術・剣術の式日(=儀式のある日)に出勤した。

ただし自分のように元服した者は、年齢にかかわらず武芸式等に出勤するのが習わしとなっている。

弘化二年乙巳(訓読みできのとみ、音読みでいつし)

正月

(参考)

一 この月十七日、麻田氏遠慮差し許される。

(魚住注。次に出てくる文章は、土佐藩から麻田氏あてのお達しの原文だが、難解なのでおおよその意味だけを書いておく。誤訳の可能性もあることをお断りしておく。なお、この麻田氏の件については、佐佐木の回想が『勤王秘史 佐佐木老候昔日談』にある。参考になるので、あらじめ抜き書きしておく。

「(豊熈)公は又、早くから砲術の事にも御注意なされた。君側に麻田楠馬といふ人があつて、ナカ/\善い人物で、人にも褒められて居たが、――これは後に吉田(東洋)派になつた。――この人が、西洋流砲術修業の事を申付けられたが、何か都合があつたものと見えて御断りをした。夫が為め御咎を蒙つた事がある。自分が十六歳の時だ。この砲術は蘭流で、土佐で西洋流の砲術のことを言ひ出したのは是が嚆矢である」)

                御扈従     麻田楠馬

先だって江戸表での職務として砲術修業を仰せつけられたところ、心から望むことではないからと言って、再三お断りの申し出をした。その後、お請け恐れ入る等の申し出をしたとはいえ、その子細について思し召しの儀がある。よって去年十二月十八日、遠慮(軽い謹慎刑。自宅での蟄居を命ぜられる)を仰せつけられた。なお遠慮を仰せつけられるべきはずのところだが、このたびは御宥恕をもって、差し許す。

ちなみに、このとき豊熈公が土佐藩に蘭流砲術を採用された、その手始めだったという。

二月

(参考)

一 この月十日、水野忠邦が辞表を出し、老中職を免ぜられた。

三月

(参考)

一 この月十日、水野忠邦が老中職に就いていたときの件につき取り調べがあった。注②

【注②ここに老中・水野忠邦に関する記述が出てくるのは、幕藩体制末期、幕府と西南雄藩の命運を分けた出来事として、いわゆる「天保の改革」を語っておかなければならないと考えたからだろう。

天保の改革とは精選版日本国語大辞典によれば、天保年間(一八三〇‐四四)に行なわれた幕府、諸藩の政治改革。幕府の改革は、天保一二年(一八四一)老中水野忠邦によって着手。倹約、風俗粛正を断行して庶民生活を統制し、農民を農村にとどめるための人返しや株仲間の解散、物価値下げなどを行ない、江戸・大坂一〇里四方の上知令(魚住注・幕府直轄領とし、大名、旗本には代地を与えると定めたもの)を発するなど幕府再建に努めたが、上知令はその対象となる大名・旗本の反対にあい、これを契機として忠邦は失脚して改革は中止された。諸藩の改革では長州・薩摩・土佐などが成功をおさめ、幕末の政局に進出する経済的基盤を固めた】

九月

(参考)

一 この月二日、水野氏が一万石を召し上げられ、その後、浜松から山形に国替えされた。注③

【注③この後、「右は、養徳院様豊熈公の藩政御改革の際、馬淵嘉平を罰し……」と”日記”の記述はつづくのだが、なぜここでいきなり馬淵嘉平(嘉永四年に獄死)という人物が登場するのか。それを理解するには当時の土佐藩の状況を知っておかねばおかねばならない。以下は『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』での佐佐木自身の回想である。長い引用になるが、かなり興味深い内容なのでご勘弁を。】

「(先代の豊資=景翁公)の御代、文化文政より天保にかけては、丁度幕府でも文恭公(家斉公)の治世で、大平無事、花の御江戸と称せられ、文華の頂点に達して居た時である。土佐あたりも其余弊を受け、特に景翁公は、所謂当時の大名的の御気質であつたので、君側の人にも、皆優美な、立居振舞のしとやかな、華奢男を用ゐられた處から、世間では奇麗な男を見ると、アレは『君側面』『御扈従』の様だなど悪口を云ふに至つた。然るに養徳公(豊熈)は、早くより夫等(それら)に着目せらて、未だ世子の御時分から、近習には皆文武の士を御用ゐなされたが、御入国後は、別して人撰に御注意になつて、武人とか学者とか、ゴツゴツした者ばかり君側に置かれた。之に就て可笑しな咄(おかしな話)がある。『御扈従』など拝命すると、この仲間を呼んで御馳走をする例がある。併し宴会と云うても、土佐では芸者などはなかつたからして、大勢集つて酒を飲むときは、夫(それ)相応に市中の娘を雇うて、酌をして貰ふ。可成りな家の娘がやつて来る。扈従の披露の席などになると、美男ばかり集るのだから、其の娘迄華奢を競うて、美服を纏ひ、艶容を作つて喜んで行く。處が今度誰かが御扈従になつたので、仲間を招いて、御馳走することになり、例の娘をまた雇つた。娘達は相変らず、『今日は御扈従の御上客』だといふので、皆粧を凝らして出懸けた。昔は土佐あたりでは、客が玄関へかかると、自身に名乗込む習慣なのだ。――『森権次郎で御座る』取次の娘が、『御通りなさいませ』と、どんな美男かと顔を見ると、此人は学者だけれども、大変にモガサ(痘痕)のある醜男だ。娘達はビックリする。今度は『西川多市で御座る』『御通りなさいませ』顔を見ると、是は森に劣らん醜男なので、また驚く。しばらくすると、『細井半之進で御座る』『御通りなさいませ』ヒョット顔を見ると、是は有名な武人で、見るから恐し相な無骨な男。――娘達は、今迄の役者風な優男を見るであらうと待ち構へて居ると、右の様に来る客も来る客も皆醜男で、一掴みに掴み殺しさうな人物であるから、驚いて仕舞つて、酌處ではなく、皆逃げて仕舞つたとの事だ。是は一種の戯談を組立てたのであるけれども、之を以て活発有為の人物を抜擢せられたと云ふ事が分かるであらう。公が人材登用の門戸を御開きなされてからは、一時は馬淵嘉平一派の人士が頻に登用せられて、藩庁は殆ど是等の人々を以て組織せらるるに至つた。この馬淵といふ人は、門閥のない、格式も低い平士であつたが、早くから竹田流の柔術を研究し、竟に一種の心学を発明した。自分等の幼少の頃で、この心学は一向分らなかつたが、何でも程朱学(=朱子学)に、禅学とか、陽明学とかを加味した様なもので、つまり是迄は儒学と云へば、性理の学説を講ずるとか、若くは仁義忠孝の道を説く位であつたが、馬淵の方では上辺計(うわべばかり)の学問ではいかぬ。胆力を錬磨し、学問と実行とが一致しなければならぬと云ふので、――先づ一種の新学だ。夫で其の工夫をするに、深夜人定まつた後、幽谷の間に入り、或いは孕島の孤島、巣山の頂に登つて、禅家の所謂座禅みた様なことをやる。併しこれまでとは違つて、学問の上に、実力を尊ぶ處から一藩有為の士は、争うて其の門に入つた。上は執政より、下は郷士以下に至るまで、彼の門下は頗る多かつた。であるから官途に就くものは、勢(いきおい)馬淵の門下に限る状況となつた。――土佐の俗説に『山オコゼ』といふ小い貝がある。この貝を懐中(ふところに入れる)して居ると、奇福(思わぬ幸せの意か)を授かるといふので頼母子講などへ行くときには、之を持つて出掛けるものが多い。――そこで馬淵のものが、あまり登用されたから、其の一派を目して『オコゼ組』と称した。ツマリ其派に属して居れば、出身が早い、官途につけるといふ意味だ。かういふ風であるから、旧派の固陋連(考えが古くて、頑固な人たち)は、之を快からず思つて、言を巧にして、馬淵派を中傷する。オコゼ派は、当時禁制のバテレンの一種であるとか、あるいは巣山へ登り、脊(せぼね?)を叩いて呪文を唱へ、戒を授けるとか種々のことを言ひ触したものだ。處が天保十四年十一月の末から、十二月にかけて、大頓挫を来し、右の『オコゼ』組が悉く免職されて、夫々(それぞれ)罰を蒙り、向後(今から後)この派の人は、一切官途に採用しないといふことに成つた。これは養徳公が節倹の令を示し、御連枝方(藩主の兄弟姉妹たち)の御手当を薄くしたから御連枝方より、所謂骨肉に薄うするものであると云ふので、連署して当路の有志を攻撃し、景翁公に迫つた為であるといふ説もあるが、とんと其の真相は分らぬ。自分が考へて見るに、景翁公は、至つて寛闊な御方で、幕府の御趣意などは、余程御遵守なさるる御方であつた。恰(あたか)も幕府では水野越前守が剛毅果断を以て、所謂天保の改革を行ひ、衆怨を招いて免職せらるる時分で、この馬淵の一件も、この水野初度(物事を行う、第一回目)の失敗の頃だ。さなきだに改革など云ふことは、景翁公は御好みなされぬ處へ、幕府の方針が既に右の如く、水野などがこんな目に遇つて、今新法などを施しては、家の為に、よくないと云ふ点でもつて、養徳公に御注意なされたので、公は元来御孝心深い御方であつたから、この御命を用ゐて、一時かういふことに成されたのであらうと思はれる。若(も)し公の御代が御長かつたならば、また御詮議振を以て、所謂野に遺賢なしといふに至つたことであつたらうに、御短命であつたのは、甚だ残念至極である。

養徳公の御改革は、右の通り一寸頓挫したけれども、文武は益々御奨励遊ばされて、文武の士は御愛しなされた。又大に倹約を実行されたからして、四五年の内に、勝手向もズット立直つて来た。併し土佐藩は、武芸の盛な處で、これは家中一般に好んだけれども、文事は兎角疎んずる傾があつた。若い侍共が学問でもすると、他から冷かして『貴様はオコゼになる積りか』など云ふ様であつた」

九月(魚住注・以下は一部重複)

一 この月二日、水野氏が一万石を召し上げられ、その後浜松から山形に国替えされた。

豊熈公の藩政改革の際、馬淵嘉平を罰し、以後馬淵派の人物は登用しないとされたことについて、後生不審に思う人が多い。しかし、右の水野忠邦云々の件に関連して、豊熈公の深意があったと高行は考えるので、いつか愚見を記すため、水野の件を参考に留め記す。

思うに馬淵派の処罰は次のような事情で行われたのでろう。当時、幕府に水野の一件があった。それに加えて、御父君の景翁公は、いわゆる太平の御大名であるため、かれこれ心配なされた。豊熈公は孝心の深い方であるため、父君の御心を安めようとして、馬淵派の粛清に踏み切られたのであろう。

一 この月八日、母方の叔父・齋藤内蔵太様が御内用役(=藩主の側でさまざまな事務を分掌する役)として江戸表へ家族ともども引っ越しを仰せつけられ、出立した。そのため我が家は、永国寺町にある、叔父の留守宅に引っ越した。

同年末(私は十六歳だった)、家事に関する用向きを差配するよう父上から命じられたが、積年の困窮で借財がおびただしく、ひどく心を痛めた。齋藤叔父の留守宅に移ってから、それまで住んでいた川原町の屋敷を銭(=銅貨)三貫目(原注・銭八十文が銀貨一匁にあたる。銭三貫目は今の金で二十五円ばかり)で紺屋與次平に売り渡し、その金で借財の払い込みをしたが、父上が武芸等にいろいろ入り用だったため、全部を払い込むことができず、やはり借財が残った。それゆえ経済的にひどく苦しい状態がつづいた。

川原町の屋敷内の北西側に古い榎の木があった。その傍らに小さな祠があったのだが、自分が六歳のとき父上(養父のこと)がその榎を切って薪にし、小さな祠を尾戸川に流し捨ててしまった。その節、父上が発病されたので、占ってもらったら、二百年ほど前、川浚いしたとき、事故に遭って死んだ人夫を埋葬し、その印に榎を植えた。ところが、いま述べたように榎を切り、祠を流したうえ、祭儀もしなかったから、そのせいで父上は発病されたのだと言われた。よって祖母上らの発案で、長谷川左太夫に依頼し、神社を建てまつって乾八幡と名づけ、春と秋に祭典を行った。このたび川原町の屋敷を譲り渡した紺屋與次平は近隣の者なので、そうした事情を心得ていて、引きつづき、春秋に祭典を行うことは約束してくれた。

一 この年、太守様(=藩主・豊熈公)が家臣たちの槍術をご覧になったとき、初めて出勤した。剣術をご覧になったときも初めて出勤した。

弘化三年丙午(訓読みでひのえうま、音読みでへいご) 十七歳

正月

一 この月二十六日、仁孝天皇が崩御された。

二月

一 この月朔日(ついたち)、儒家の岡萬助のところに入門したこと。

岡萬助へ入門、五経の素読をした。かつて大町善七のところで四書の素読を済ませて以来、(四書五経の勉強を)中絶していた。自分は元来、十歳ごろから軍書を好み、森本源太に頼んで読んでもらっていた。森本は軍書好きだったからだ。といっても軍書の類は乏しかったので、教授館(土佐藩の藩校)から借りた。一度に五冊ずつである。だから取り換えに行くのも手間がかかり、つづきを読もうとしても、他の人に借りられていて読めないこともあった。しかし、教授館に(同じ本が)数部あるときは都合がよかった。 

岡に入門したとき五経を買い求めた。それまで所蔵していた書物は、小学内外篇・大学・中庸・四書ならびに玉篇のみで、他に書籍はなかった。ゆえに五経をようやく入手した。これも困窮のせいだ。

五経は銭三十目(八銭である)くらいだったが、買い求めるのに難渋した。母上(魚住注・実母のこと)が(江戸詰めになった実弟の)斎藤叔父から送ってくる小遣い銭を集めて買ってくださった。

一 この月十三日、孝明天皇が皇位につかれた。

八月

(参考)

一 この月二十九日、武家伝奏(朝廷と武家との連絡にあたる役)より京都所司代に通達書が渡された。その文面は次の通り。(魚住注・以下は「海防勅書」として知られる文書を写したもの。例によって誤訳の恐れあり)

近年、異国船が時々やってくるという風説が内々に天皇の耳に入っていた。しかしながら、文学・学芸の道をよく修め、武芸に関する事柄もすべて整えられている折、ことに海辺防御が堅固だというので、天皇も安心されていた。ところが近ごろ、異国船に関する風聞がしきりに聞こえてきて、天皇の気持ちを乱すことが多くなった。それだから将軍においては、武門の面々が西洋の外敵を侮らず、かといって大賊として恐れることもなく対策をめぐらして神州の恥辱にならぬよう指揮し、天皇の御心が安らかになるよう、この件についてはよろしく御沙汰されたい。

右は、十五代史(内藤正直著『徳川十五代史』)そのほかの記述と文字が大いに異なるところがあるが、意味に差がないので元のままとする。(編者)

十月

一 この月二十七日、豊熈公の自筆の文書、左の通り。

先日、修理殿(=島津斉彬のこと)より、ご本人が直接書いた手紙が来た。琉球国に変わりはないとのこと。しかしながら、七月下旬、またまたフランスの船が来て、八月十一日に出帆したとのこと。またまた一人を残し置いていったそうだ。どういう趣旨か、意味がわかり難い。このうえはどんな成り行きになるのかはかり難く薩摩表でもことのほか心を痛めている模様だ。それだから海浜に領地を持つ者は決して油断してはならず、砲台(の整備?)に関する沙汰書を至急取り調べて報告するよう申し遣わす。

右のお手紙の写しは後年拝見した。宛先はおそらく御奉行(執政)だろう。薩州侯(斉彬)とは近親であるうえ、とくに御懇意の間柄なので、右のようなお手紙が他にもあったにちがいないが、自分は拝見していない。注④

【注④『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』のなかでも佐佐木は次のように述べている。「夫れからまた、公には海防のことにも、余程心配なされて、弘化三年御義兄の島津斉彬公に御問合せになつた御返書に依つて、外船が、又琉球辺に現れて、薩州でも、余程心配されて居る。領分海濱のものは、油断できぬから、速に大筒台場の沙汰取調をする様にといふ御直筆を下された。公は斯様な御気込であつたけれども、種々な事情が纏綿して居つたので、思ひ切つた御改革もできなかつたらうと思ふ」。なお、山内豊熈の正室は島津斉彬の妹にあたる候姫。】

十二月

一 この月十三日、御膳番(藩主の食事をつかさどる役)・今枝甚左衛門の次女と縁組し、内内で我が家に迎えて、初めて祝杯した。

一 この年、大坪流馬術師匠の澤田勘平に入門したこと。

澤田に馬術入門したところ、馬役(武家で馬を乗りならすことをつかさどる役)はいったいに風儀が悪くて、弟子でも大身の家の人は贈り物をすることが多く、時々御馳走などをしなくてはろくに稽古ができなかった。自分らのように小身で貧窮の者は(贈り物や御馳走ができないので稽古ができず)面白くないので、修行せず、やめてしまった。

一 同年、漢文章を原傳平に学ぼうとし、算術を小栗謙吉に学ぼうとしたが、お二方とも書籍を買う必要があると言われた。しかし、買い求めることができなかったので、学ぶのをやめた。

弘化四年丁未(訓読み・ひのとひつじ、音読み・ていび) 十八歳

正月

一 この月二十六日、(豊熈公の御代)父上が御褒詞(ほめたたえる言葉)を賜る。(魚住注・次は御褒詞の文面。例によって誤訳の可能性も)

先だって奇特の書面を差し出した件につき、(太守さまが?)御覧になって奇特に思召された。よって右の御褒詞を申し聞かせ、かつ、書面の趣旨は考慮なされる等々とおっしゃった。

養徳院さま(豊熈公)は明君にあらせられて、身分の低い者のことばにも耳を傾けるとおっしゃっておられたが、格別建白等をする者がいなかった。父上が昨年、建白書を差し上げたところ、このように仰せられた。ありがたいことである。

四月

一 この月、今枝甚左衛門の次女と婚礼。同十九日に離別。

内実を言うと、(次女は)去年の十二月十三日から(我が家に)越して来ていた。(続)