わき道をゆく第183回 現代語訳・保古飛呂比 その⑦

▼バックナンバー 一覧 2022 年 4 月 5 日 魚住 昭

嘉永三年(1850年)五月

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。

一 同五日、端午の節句のご祝詞を申し上げるため登城。

一 同七日、太守さまが剣術の演武をご覧になるというので出勤、

ただし今回の演武者は太守さまからのご指名による。

一 同十三日、剣術式日のところ(太守さまに)御用の差し支えがあって流会。

一 同二十七日、支配頭の真邊十郎右衛門殿から呼び出しがあったので出頭した。(真邊殿は)このたび、(家督相続などで)たびたび物入りがあり、(太守さまから)「五カ年御省略」(藩財政立て直しのため五年間の出費節減?)を命じられた。このうえは神妙に暮らすよう告げ知らされたとのこと。同日同所で例の通り、赤痢や疫痢などの痢病除けの薬をいただいた。

ただしこの薬は、白山桃の実を黒焼きにし、六月の土用の入りに用いれば痢病にかからないと言われ、少将さま[豊資公]のお手許で調整された。御家中一同がそれぞれ拝領するよう仰せつけられるのは毎年のことである。

一 この月朔日、拝謁のため登城。

一 同十二日、太守さま・豊信公が国許を発たれた。

太守さまは去年、幕府から御手伝いを仰せつけられたので、例年より(参勤交代を)三カ月遅らせることを(幕府より)許され、本日、出発された。甲浦経由で大坂まで船に乗り、そこから京都に立ち寄って、東海道・伊勢街道を通られる。

七月

(参考)

一 この月八日、太守さま、江戸表に到着。

一 同十四日、代々の太守さまの廟所にまかり出た。例年の通り、帰途は初盆祭(故人がなくなって初めてのお盆に行われる法要)の家々に寄った。

八月

一 この月三日、槍術式日のため出勤。

一 同二十八日、本山姉上(高行の二番目の姉。天保十四年、藩士・本山勘蔵の長男・慶馬に嫁した)に女児誕生、於里と名づける。

九月

一 この月十一日、太守さまの婚礼の日取りが決まった。

太守さまの御前さま(妻)は三条実萬卿(京都の公卿。後の将軍継嗣問題では一橋慶喜を推し、朝廷内の一橋派の中心人物となった)の養女で、実は烏丸卿(烏丸光政)の姫君。

十月

一 この月十一日、お日取りの通り、太守さまのご婚礼が首尾よく済んだので、お歓びとして登城。

十一月

一 この月十三日、剣術式につき出勤。

一 同二十四日、槍術奉行(「槍を持つ一隊を預かる職」精選版日本国語大辞典)が見分する日だったが、病気で出勤できず。注①

【注①原文は「槍術御奉行中見分ノ處、病気ニテ不勤」。「中見分」の「中」の意味が不明】

十二月

一 この月二日、妻の美濃部忠助長女、不縁につき離別した。(高行は同年四月、彼女と結婚している)

一 母上[実は姉上]に女児誕生、玉輝と命名、後に太尾と改める。

嘉永四年辛亥(訓読みでかのとい、音読みでしんがい) 佐佐木高行 二十二歳

正月

一 この月元日、登城し、帳役(正確にはわからないが、藩の記録・文書管理に携わる役職のことか?)に名刺を渡す。

一 同十一日、御馬御馭初めの際、父上に代わってつとめた。

一 同十五日、太守さまが従四位の位階を授けられたことを祝って登城するはずのところ、病気につき、出勤できず。

二月

(参考)

一 この月三日、島津斉彬公が御家督を相続された。

右は(土佐・山内家の)ご親族で、かつご名君につき記す。

一 この月十五日、津田右金吾のところへ弓術の入門をした。

ただし弓術は(佐佐木家が)小身のうえ貧窮しているので、なにぶん十分稽古できず、かつ、すこぶる不得手につき、しばらくしてやめた。

三月

一 この月朔日、太守さまが時服(「朝廷や将軍などから、毎年春、秋または夏、冬の二季に臣下に賜わった衣服」精選版日本国語大辞典)を拝領されたお歓びとして、父上に代わり登城。

四月

一 この月十一日、(太守さまが将軍家の)お手伝いを申し付けられたことのお歓びとして、父上の代わりに登城。

一 同二十日、太守さまがお城に着かれた。よって父子ともに例の通り、御道筋にまかり出た。

一 惣御目見え(藩士一同が藩主に謁見すること)につき登城。

一 三ノ丸に於いて藩主さまが槍術の演武をご覧になるので出勤。

一 同二十九日、例の通り、痢病よけのお薬を頂戴するよう仰せつけられたので、支配頭の林源五郎殿宅へまかり出た。

六月

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。

(参考)

一 夏、江戸浪人の石山孫六が剣術試合のため来る。

右は高知の有志家の招請に応じたものである。

七月

一 この月七日、毎月恒例の拝謁のため登城。

一 同十四日、例年の通り、眞如寺山の御廟所へ参拝にまかり出る。

一 同下旬、鹿持藤太のところに国学を学ぶため入門した。注②

【注②朝日日本歴史人物事典によると、鹿持雅澄は江戸後期の国学者,歌人。土佐(高知)藩の下級武士柳村惟則の子。妻菊子は土佐勤皇派武市瑞山の叔母。本姓藤原氏,その支流飛鳥井家の流と自称。鹿持は本籍地の名。名は雅澄のほか深澄,雅好など。通称原太,藤太。号は古義軒ほか。藩儒中村世潭に漢学を,宮地仲枝に国学,和歌を学んだ。生涯を微禄貧困のなかに送ったが,藩家老福岡孝則によって藩校の講義聴講,藩庫の蔵書閲覧の便宜を与えられた。『万葉集』注釈に生命をかけ,生涯国を出ず,ほとんど独学で学問研究に励んだ。その著『万葉集古義』141冊は,本文の注釈にとどまらず,枕詞から地理にいたるあらゆる分野の研究を網羅している。近代以前の万葉研究の最高峰といっても過言ではなく,維新後,天覧の栄に浴し,宮内省から出版された。また,万葉研究の過程で体得した復古精神は瑞山に受け継がれ,土佐の勤皇思想に大きな影響を与えた。<参考文献>尾形裕康『鹿持雅澄』,鴻巣隼雄『鹿持雅澄と万葉学』(白石良夫)】

鹿持はもともとの姓を飛鳥井といい、祖先は(応仁の乱のとき、京都の五摂家の一つ)一條卿に随従して土佐に下ってきたとのこと。

同門人には横山覚馬・松本吉右衛門がいて、彼らは高弟である。自分たちは渡邊禎吾・本山只一郎・飯沼権之進・久萬清之丞などと申し合わせて読書会を立ち上げ、松本吉右衛門を会頭とした。鹿持先生は若いときから国学の研究に没頭してきたが、すこぶる貧窮、かつ二人の男児をもうけたあと妻を失った。老父は酒を好んだので、必ず毎夜、貧困中にもかかわらず酒を飲ませたとのこと。日中は家事ならびに子供の養育に従事し、家族が寝ついたころから毎夜、徹夜で読書したという。万葉集古義そのほか著書も数多ある。すこぶる口下手だが、筆をとれば大いに意志を述べ尽くした。自分らが入門したころは、万葉集古義の修正中で、その修正しているところを傍らで聞き学んだが、なにぶん不才で同学輩に及ばず、渡邊・飯沼は進歩した。同学の中で最下級で学び得なかったのは自分ひとりである。 (続)