わき道をゆく第184回 現代語訳・保古飛呂比 その⑧
嘉永四年八月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同五日、鹿次郎さま(後の第十六代藩主・豊範公)をこれから若殿さまとお呼びすることと、若殿さまのお付き役として六人の者を命じた旨のお触れあり。
若殿さまは少将・豊資公(第十二代藩主)の末男である。しかしながら、第十四代藩主の豊惇公が急死され、家督を豊信公(第十五代藩主)が継がれたとき、豊惇公の長男・寛三郎さまが豊信公の養子になるのが当然だろうという世評がしきりにあったとき、寛三郎さまは病を抱えておられたため、若殿さまが(豊信公の後継者としての地位に)お立ちになった。これは秘密である。忘れるべし。
一 同十一日、豊信公が豊範公を跡継ぎの養子にすることを幕府に願い出られた。
九月
一 この月九日、菊の節句のお祝いを申し上げるため登城。
一 同二十五、六、七日、藤並明神の御祭礼につき、二十五日にいつも通り参拝。
ただし藤並明神は藩祖である山内一豊公を祀るが、右方に春日明神を祀る。春日明神は藤原氏の御祖(みおや。先祖の意)である。
一 同二十八日、自分の意見を太守さまに直に申し上げたく、支配頭の飯沼太右衛門殿へ願いを出し、ならびに内意伺い書を差し出した。
十月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同二十二日夜、切紙(注①)により、先だって願い出のあった件につき、明二十三日四ツ時(午前十時ごろ)、二ノ丸へまかり出るようご連絡があった。
【注①切紙。世界大百科事典 第2版によると、切紙は「古文書学上の用語。ふつうの文書の大きさの料紙を竪紙(たてがみ)といい,それを縦横適当に切ったのが切紙である。正式な文書は,かならず竪紙に認めるが,簡単な私的なものには,はやくから切紙が用いられて」いたという】
一 同二十三日、五ツ半ごろ(午前九時ごろ)、二ノ丸へ出勤し、太守さまに自分の意見を十分申し上げた。[詳細は別紙に記すつもり]
太守さまは南御屋敷(南邸。山内家の分家で、豊資の弟・豊著が創設)に部屋住まいのときから英名が伝えられていて、第十五代藩主になられてからも、追々(家臣の声を聞きたいという)思し召しがある模様であったが、直に自分の意見を申し上げる人はいたって希だった。ことに三四郎(高行自身のこと)は二十二歳の若年につき、親族友人らは(不始末があってはいけないと)心配したが、太守さまは明君だから寛容であられた。
十一月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
十二月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同二十六日、森岡定馬方(定馬は高行の大叔母の孫。高行の実父の従兄磯平の子で、まだ十四、五歳の少年だった)より急使が来た。変事が起きたため親族一同に相談したいので至急ご足労願いたいとのこと。しかし父上はご病気につき、名代として自分が行った。他の面々よりは少々住居が隔たっているため、自分が着いたときは皆が集まっていて、議論の方向性も定まりかけていた。よって、変事のあらましを聞いたところ、昨夜、定馬が友人三人ばかりと下町播磨屋町あたりへ遊歩していたとき、盛組(さかんぐみ。これは城下の若者の結社。北・上・下に分かれて三盛組と称した)の社中が大勢いて、定馬は彼らから男色のため辱めを受けたので、武士としての一分が立ちがたく、このうえは家の格式や俸禄を返上して、退隠すべきだいう。といっても定馬はまだ若年で、自身の判断でそう言っているわけではなく、定馬の叔母の夫である馬場源馬(後年、自由民権運動の闘士として知られる馬場辰猪の祖父)が強硬にそう主張していたのだ。自分(高行)の大叔母(定馬の祖母)は女丈夫の風があって、馬場の主張をもっともだと信じていた。結局、馬場は老成していて一家中では屈指の人物なので、定馬は幼年のころから万事馬場の指図に従い、馬場はいわゆる後見人のような立場にいた。このような馬場の議論に大叔母が同意しているので、森岡の同姓二人ほか親族も格別異論がなく、すでに結論は決したような勢いだったが、自分が席に着いたとき、なお意見を聞きたいとのことだった。よって自分はその結論に大いに不同意であることを述べた。
そもそも昨夜の事件の経緯を聞くと、これはまったく男色であって、もちろん悪風俗であるのは間違いないが、数百年来の若者の習慣であってその例は少なくない。近年もご一同が見聞きされている通りである。よって大抵のことは藩庁においてもすべて不問に付している。もっとも、甚だしい場合にはそれぞれ処罰することもあるが、武士道にかかわるほどのお咎めはなかった。昨夜の事件は尋常一様の男色のことであるから、やかましく申し立てるほどのことではあるまい。しかしながら源馬殿のお考えでは、定馬は辱めを受け、武士道を失ってしまったということか。私はそれとは大いに考えがちがう。もし果たして武士道にかかわり、武士としての一分が立たないということに決したならば、藩庁に対して格禄を返上するのはあまりに意気地がない。速やかに相手方に果たし合いを申し入れるべきだ。もっとも、定馬殿は年若いので、お互いのなかから二、三人が同道し、場合によっては助太刀すればそれほど負けることはあるまい。そうしたことをせず、一分が立たないといって格禄を返上すれば、かえって武道を失ったとして、太守さまが不快に思し召され、罰を与えられるようなことにでもなったら、一生日陰者となり、生き甲斐をなくすことになる。格禄を返上するなどということは、自分自身に過ちがあるのならともかく、目前に敵を見ながら(何もしないのは)甚だ遺憾であると大いに議論したが、すでに馬場の説に一同は同意していた。自分が若年であることもあって、ついに結論をひっくり返すことはできず、そのまま家に帰った。注②
【注②『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』には次のように記されている。「全体土佐は長曾我部の遺臣等が多くて、殺伐の気象が一般に存して居る。上を凌ぎ、我見を貫かうといふ様な国風であつたので、山内氏入国当時より階級制度を厳重にして、夫等を抑へ付け様とする政策を執られた。長曾我部の遺臣には、作り取り郷士といふ様な特典を与へてあるが、夫等軽格と士格との間には、非常に尊卑懐旧があつたもので、若し士格に対して無礼の挙動でもあると、切捨てられても仕方がない。階級制度の厳しいのは、ひとり士格と軽格のみではない。我々士格の間でも、夫々身分に応じて、権力の差のあつたもので、家老が平士を呼ぶ時は、何兵衛、何右衛門で、恰も我々が郷士以下足軽を呼ぶ様に呼捨てにする。中老に対してさへも、苗字を呼ばないで、矢張り名計り呼ぶのであるが、中老は我々に対して呼捨てにすることは出来ぬ。で、其の軽格――郷士以下は、大部分は長曾我部の遺臣で、而も財力といひ、武力といひ、決して士格に譲らないものが多い。夫等が無礼咎めなどから葛藤を生ずることが珍らしくない(中略。森岡定馬が辱めを受けた件について日記とほぼ同様の記述がある)。右の森岡は御留守居組、馬場も御留守居組で、昨夕無礼を加へたのは馬廻組の連中であつたから、かねて格式上の軋轢より不平に思うて居る際故、針小棒大となつたのだ。そこで、其の後も、スッタモンダで結末が付かなかつたが、翌年の二月に至り、終に所罰された。
これは格式上に於ける反目闘争の一端である(後略)】
この年、幡多郡の中浜万次郎が異国より戻る。地球の地図を持参した。人々はこれを珍しがり、自分も後藤良輔(象次郞のこと)らといっしょに見たが、他国は大きく、日本は小さかった。これは、万次郎は異国に住んでいたので、その国に加担して、こんな図を偽作したのだと毎回話し合った。後藤は十四、五歳くらいの少年だが、世界に対して特別な注意を向けていた。
嘉永五年壬子(訓読みでみずのえね。音読みでじんし。西暦1852年) 佐佐木高行二十三歳。
正月
一 この月元日、五ツ半時(午前九時ごろ)、柴田備後殿宅へ集まり、九ツ半(午後一時ごろ)すぎ、三ノ丸にまかりいで、お流れ酒等を頂戴、七ツ半時(午後五時ごろ)退出、それから例の通り、私的な年賀のあいさつに回る。
一 同二日、三日、終日年賀の挨拶に回る。
一 同十一日、御馬御馭初めが行われるはずだったが、南邸(山内家の分家)にご不幸があり、それが太守さまの実妹だったため、同十四日まで延期された。
一 同十四日明け方、大頭(注③)の柴田備後殿の集合場所へまかりでた。四ツ前(午前十時前ごろ)太守さまが馬に乗って、それぞれの組の集合場所を見回られた。それから組順に馭初めをし、自分たちは七ツ時(午後四時ごろ)に乗馬を終えた。本日は太守さまが各組の集合場所を見回られたため、例年より時刻が遅くなった。
【注③。前に引用した土佐藩の家臣団の構成についての佐佐木の談話を再引用する。「もと土佐には何組、何組といふて、すべて十二組ある。之を御馬廻組と称して、家老がその組頭となる。(中略)外に扈従組と云ふのがあるが、これは旗本である。又御留守居組は平士の下級にて十二組扈従組の以外の者だ。この十二組の中に、一組二十人位づつ郷士を組入れた。郷士は総計八百戸あつた。組以外の者は、小組郷士というて、郷士頭が支配した」。つまり土佐藩の家臣団はその身分に応じて各十二組に分けて構成され、その一番上が御馬廻組で、家老がその組頭になる。佐佐木はその組頭である家老の柴田備後守を大頭と呼んでいるものと思われる。ちなみに次に出てくる支配頭というのは、大頭の下に属する小集団のトップを指すのではないかと思われる】
一 同十七日、若殿さまと奥様とのご縁組が成立し、そのお祝いのため登城。
一 同日、支配頭の飯沼太右衛門より呼び立てられ、まかり出たところ、飯沼が言うには、先日の御馭初めの際、自分の装束が平服のように見受けられた。本年はとくに太守さまが見回りされており、とりわけ丁寧に心得るべきはずなのに、どういうことかと備後守殿が不審に思われたとのことだった。よって自分は十分弁解した。実は不平心より、すこぶる略服、すなわち着流しのまままかり出たので、御家老たちのなかで大いに議論が起こったとのことで、一度の弁解では聞き入れてもらえず、議論が再三に及んだ末、ついには書面をもって申し開きをした。その書面の趣意は以下の通りである。元来、御馭初めは藩祖の明神さま(山内一豊公)の代から始まって定まった儀式となり、いわゆる練兵の一端であって、いずれも甲冑を着て乗馬するのは当然であるのだが、御先代さまには深い思し召しがあられてか、異形の出で立ちを許容された。それゆえにあるいは狐狸または猪等の模様を装い、あるいは女の服をまといなどして、定まった儀式中にありながら、このようなありさまになった。これは太平の御時節に、幕府に対し(軍事色を前面に出して警戒されぬよう?)政略上、わざわざ許されたのだという藩内の言い伝えになっていて、誰もがそう心得ているので、自分もこのたび略服を着て御馭初めに参加した。何も御趣意に背くわけではないということを述べたものだ。
二月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 略服事件が落着。
先だっての御馭初めの際、略服で出た件について、しきりに詫び状を差し出すよう、支配頭の飯沼殿から諭されたが、承服せず。しばしば文書でのやりとりを交わした末、大頭の柴田殿から、このたびは特別にお構いなしとするので、今後は注意すべしとのことで決着した。
一 同十日、森岡定馬の一件について、森岡の支配頭・服部十右衛門殿に自分の意見を十分申し上げた。
右の森岡事件は昨年十二月、男色にからんで森岡が恥辱を受けたため、親族会合のうえ、馬場[老功の人である]の意見で、家格や俸禄を返上することに決定した。畢竟、森岡・馬場とも御留守居組で、士格の末席であり、このたびの事件は馬廻組とのやりとりであるため、平素の不平により針小棒大の事件となったのに、森岡の親族たちは馬場のために(格禄返上に)同意した。しかし、自分は父上の名代としてその席におり、議論が合わず、ひとり意見が違った。それゆえその経緯を森岡の支配頭が聞きたいとのことであった。
一 同十三日、剣術式のため出勤。
三月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
四月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
五月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
六月
一 この月朔日、太守さまがご病気と称されたので登城せず。
一 この月、若殿様のお披露目のご祝儀として御赦令(特赦の類いか)が出された。
七月
一 この月七夕、毎月恒例の拝謁の日だが、太守さまがご病気と称しておられるので登城せず。
八月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同九日、太守さまが国許を発たれた。お見送りのためいつもの場所へ。
ただし、去年、幕府のお手伝い役をなさって、三カ月の猶予を許されたため、六月に発たれるはずだったが、ご病気の届を出してさらに延期され、本日の出立となった。
一 同二十三日、かねてよりの藩へのお願いが許可されたので、剣術修行のため、江戸表に向けて本日出立。
山田喜三之進が槍術修行のため同行。北山通りから讃岐の丸亀に行き、そこから備前の下津井に船で渡った。中国筋を所々見物し、湊川(現神戸市)の楠正成公の墓前に再拝して大坂に到着。そこでかねてより落ち合う約束をしていた樋口真吉・山崎文三郎・遠近晋八・桑原助馬ならびに江戸本郷住まいの浪人・石山孫六等は、五月上旬に土佐を出発し、九州地方を経由して当地(大坂)で我々と出会った。石山孫六は眞影流の剣術家で、昨年来(土佐藩に)招かれていたが、このたび江戸に戻ることになった。よって自分は石山と合流し、(江戸の)石山家に泊めてもらう手筈になっていた。
以前から江戸へ修行に行きたいと思っていたが、貧窮でかなわず、このたび無理に借財して、一年の予定で出発した。江戸に着いたなら、かねて祖母上(実は御母上)へ、齋藤の叔父上より、一カ月に二朱ずつ小遣いが送られてくるというので、それをあてにしていたのだが、長くつづかず、翌春、土佐に帰った。
九月
一 この月十一日、大坂城代の土屋采女さま(第十代常陸土浦藩主)配下の眞影流小林儀右衛門・尾木静馬・山岡水之助と、城代屋敷で試合。右のうち山岡ひとりは剣の腕前が達者である。江戸の浪人を同伴していた。わが藩人の方は、山田喜三之進・樋口眞吉・桑原助馬・山崎文三郎・遠近新八の顔ぶれで、ただし遠近は学者なので試合せず。
一 このつき十八日、伊勢の津に到着。
一 同十九日、津藩の渡邊亮之進門人の数人と演武場で試合。
一 同二十日、同藩の津田孫七の門人数人と、同所で試合。
その後、酒肴が出た。大勢だが格別の達人はいない。
津藩に戸波某という人がいる。同氏は元長曾我部の家臣で、後に藤堂公に召し抱えられたとのことで、(名字の由来は)土佐の戸波という地名だそうだがと彼が訊ねた。自分が津藩では戸波[トナミ]と呼ぶそうだが、土佐では戸波[ヘハ]と呼ぶ地名があると答えると、彼は大いに喜んだ。各藩で同じ名字でも読み方の違うことが多いのだろう。歴史上においては注意すべきことである。
一 同二十一日、太神宮(伊勢神宮)に参拝、所々を見物する。
一 同年[月日は失念]、三河の国の吉田藩で無敵流の中澤彌兵衛の門人数人、それから東軍流の小畠辯太夫の門人と平常舎で試合する。ただし吉田の宿場に着いて試合を申し入れたところ、差し支えがあるといって断られた。(面白くないから)宿屋の亭主より、名前を帳面に記しておいてくれと頼まれていたので、その帳面に一同、昔の英雄の名( 『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』によれば武蔵坊弁慶とか九郎判官義経とか)をでたらめに書いた。ところが、その後、吉田藩から使いが来て「試合の件、せっかくの御所望につき、都合をつけて待ち受けますので、姓名をお知らせください」と言ってきた。実はもはや試合が出来ないと覚悟して偽名を使ったので、大いに困却したけれども、致し方なく、亭主に謝って、本名を記して藩士に送った。よって翌日朝四ツ時(午前十時ごろ)ごろより平常舎に赴き、試合をする。もっとも、上手はひとりもなし。
一 柳川藩剣術師範の大石氏より、父上への書簡は次の通り。
御口上書(口頭でのべることを文書に認めたもの)を拝見いたしました。出立のお祝いをくだされ、思いがけなくも見事な御肴鯛(具体的に何を指すのか不明。あるいは鯛の干物か)十枚を御恵贈くだされ、御厚情まったくかたじけなく仕合わせに存じます。早速参上してお礼等を申し上げるべきところ、先だってより体調がすぐれず、出立も延期しております。とにかく体調を回復させたうえで参上し、お礼を申し上ぐべきところですが、まずは取り急ぎ御礼答まで。
九月晦日 大石進
佐佐木三六さま
貴下
十月
一 この月六日、江戸到着。本郷弓町の石山権兵衛方に止宿。
権兵衛は孫六の父である。同伴は山田喜三之進・遠近新八・樋口眞吉・桑原助馬 山崎文三郎。
十一月
一 石山孫六より父上への書簡、左の通り。
一筆啓上、寒冷の候にもかかわらず、まずもっていよいよ元気にお過ごしのことと謹んでお祝い申し上げます。私は五月上旬に御国表(土佐のこと)を発ち、九州長崎から中国筋・京・大坂・東海道のあちこちで修行し、今月六日、無事(江戸に)帰り着きましたので、恐れながら御心配のないようお願いします。さて昨年末はいろいろお世話になり、まことに有りがたき仕合わせでした。ご令息さまも大坂より同伴し、ご壮健で、私宅に滞留なさって、稽古しておられますので、いささかもお気遣いなさらないでください。右はいろいろ御礼を述べ、かつは江戸帰着のご報告のかたわら申し上げただけで、ほかのことはいずれまた手紙でお知らせするつもりです。恐れかしこまり、謹んで申し上げます。
十一月三日 石山孫六
佐佐木三六様
参る
一 同十四日、父上が謹慎を解かれる。
佐佐木三六
(以下は藩からのお達し)昨年十二月二十五日の夜、森岡定馬が市中で同輩数人に出会い、狼藉を加えられた。定馬は抵抗したが、相手が大勢で力及ばず、闇夜だったこともあり、相手の顔つきを見極めぬまま帰宅させてしまった。その後、武士の一分が立ちがたいとして格禄の返上を申し出た。こういう場合、親族なのだから、厚く心を配り、穏やかに取り収めるべきはずのところ、そうせず、前述の通りにしたことは不心得の至りと、(太守さまは)ご不快に思し召された。これにより今月十二日、謹慎を仰せつけたが、その処分を解く。
右の件、自分は父上の名代として親族の会合に出た。森岡の親族とは大いに意見が食い違ったが、いつまでも穏やかに取り扱うことは親族の役目であるから、お咎めを受けたのも致し方ない。
森岡定馬は知行を十石減らされ、そのほかの親族にはお咎めの軽重があった。父上は三日の謹慎なので、いたって軽いほうだった。
一 同二十二日、暁の七ツ半(午前五時ごろ)すぎ、幕府[江戸城]埋御門の内側にある大切な御宝蔵が焼失、無上の御重宝がことごとく烏有に帰した。御茶壺も大高兵糧入れ(桶狭間の戦いの前、当時今川義元の配下だった松平元康=後の徳川家康=が大高城に「兵糧入れ」をおこなった逸事で有名)の御具足も焼失してしまったとのこと。このとき自分は江戸本郷弓町の石山孫六方に止宿していた。
出入りの人々のひそひそ話を聞いていると、宝庫の焼失は昔からたえてないことで、非常に不吉だ、どうなることかと眉をひそめていた。徳川家二百六、七十年の繁栄も、もはや衰世の期を迎えたかと、(火事を見に行く)途中、密かに話し合った。 (続)