わき道をゆく第185回 現代語訳・保古飛呂比 その⑨
嘉永五年(西暦1852年)十二月
一 この月、美濃部団四郎先生(剣術流派・直眞影流の師範)より霊剣伝を授けられた。
○霊剣伝(注①)
【注①この霊剣伝は直眞影流の奥義書と思われるが、内容が難しいうえ、仮名なしの漢文体で書かれていることもあって、私の力量では正確に翻訳できない。そこで、専門の学者のご厚意に甘えて読み下していただいた。この場を借りて深く御礼を申し上げる】
凡兵法者、禁暴弭乱安民守国之道也(およそ兵法は、暴を禁じ乱をとめ、民を安んじ国を守るの道なり)
夫剣之為徳也、辟邪所護身之宝器焉(それ剣の徳たるや、邪を避け身を護るところの宝器なり)
仰太刀断切之、略語而理非決断之所、豫是即当流霊剣之因所生也(抑もそも太刀もて断切し、語を略して理非を決断するのところ、かねてこれすなわち当流霊剣の因りて生ずるところなり)
修勤愼行而可徹其本然、誤而逃之、即才知勇猛之力、亦不可有其益矣(勤めを修め行いを慎みてその本然に徹すべし、誤りて之を逃がせば、すなわち才知勇猛の力、またその益あるべからず)
一 吟味之事 一 霊剣[右剣、左剣]
一 四習之事 一 手之内之事
一 敵弓手見之事 一 目付之事
一 槍合太刀之事 一 大小制作心得
附同目付之事
右條々者剣術手練之極旨、而法天地自然之妙(右條々は剣術手練れの極旨にして天地自然の妙に法る)
夫人者天地之得中而位、故万物之霊也、霊也(それ人は天地の中を得て位するが、故に万物の霊なり、霊なり)
虚実陰伏於未発其識者、天眞照命之冥而水之如移月、是謂人心霊鏡(虚実はいまだその識を発せざるに陰伏す。天真照命の冥は水の月を移すが如く、これを人心の霊鏡といふ)
古曰変動無常、因敵転化至矣盡矣、不可不修、若聊萌一念即自取滅亡矣(古より曰く変動常無く、敵によりて転化すれば至れり尽くせり、修めざるべからず、もしいささかなりとも一念を萌せばすなはち自ら滅亡を取る)
故吾流学者平日唯無為無作之業、鍛錬而勝負勿拘、不喜勝不思負、無界活達天下縦横、是謂大勇之気、慎莫怠爾云、(故に吾が流の学者は平日ただ無為無作の業、鍛錬して勝負にこだわるなく、勝ちを喜ばず、負けを思はず、無界闊達にして天下を縦横す、これを大勇の気と謂ふ、謹んで怠るなかれとしか言う)
右者直眞影流霊剣之極意、雖為秘事、足下流儀依于熱心、今令伝授畢、全他見他言不可有者也、猶無粗略於有修行者、追々可及相伝條、奥書仍如件、(右は直眞影流霊剣の極意、秘事為りといえども、足下の流儀は熱心に依れば、今伝授せしめをはんぬ、まったく他見他言あるべからざる者なり、なお修行有る者に粗略なること無くんば、追々相伝の條に及ぶべし。奥書することよって件のごとし)
嘉永五年十二月 美濃部団四郎
[茂][知]
佐佐木三四郎殿
一 在京中はあちこち剣術試合に行った。阿部伊勢守の老中屋敷で、柳行流といって、足の下のほうを打つ流儀の剣をつかう岡田十内の弟子たちと試合した。
柳行流はとても長い竹刀を使い、遠方から足を打つというので、前もって竹刀の寸法を取り決め、双方が同じ寸法でやると約束した。当方は誰もがそのつもりで立ち会ったところ、自分はもちろん、他の者もみな立ち合いに足を打たれ、大敗北した。そこで石山の内弟子の笠井吉人という者が大いに怒り、事前の約束に背き、長刀を用いられたように見えるので、双方の竹刀(の長さ)を調べるべきだと言った。(調べてみると)果たして約束を違えていることがわかり、(笠井はつづけてこう言った)。武士にあるまじき仕業である。このまま済ませるわけにいかない。我々は主人の馬前に討ち死にするのはふだんから覚悟していて、私事で一命をd捨てるのは不本意であるが、場合によって自分一身はもちろん主人までの恥辱にかかわるということであれば、その際はやむを得ぬと真剣勝負も辞さない勢いとなった。我々も負けて腹が立っていたので、笠井の議論を助ける様子を見せたところ、岡田十内らは狼狽の色を見せ、阿部藩の役人どもが心配して、竹刀の寸尺の件は不行き届きがあったことを謝罪するなどしたため、ようやく事無くおさまった。そこでまた試合を始めたところ、竹刀の寸尺も約束通りになり、かつまた我々も足を防ぐことが少し巧くなったこともあって、最初のような大敗はしなかった。そのうえ石山先生はまだ試合をしていなかったが、追々試合を始めたところ勝利を得て、一同喜んだ。試合が終わって、阿部侯より酒飯の饗応があり、敵味方和やかな空気になって帰った。
一 佐久間修理先生(佐久間象山のこと注②)を築地木挽町邸に訪問。
樋口・山崎・桑原の三名は入門した。自分も束修(入門の時に師に贈る謝礼)をしようと考えたけれど、なにしろ初面会である。そのうえ先生の容貌は峻厳、熊の皮に座っていて、和やかな雰囲気がまるでない。非凡の人物であるのは一目でわかったが、師として教えを受けるのは、なおとくとその教えぶりを聞き、平素の行跡もよく調べたうえですべきだと考えたので、同行の三名と一緒に入門することはしなかった。
【注②佐久間象山はデジタル版日本人名大辞典+Plusによれば「1811-1864 江戸時代後期の武士,思想家。文化8年2月28日生まれ。妻は勝海舟の妹。信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩士。江戸で佐藤一斎にまなび,神田で塾をひらく。天保(てんぽう)13年老中真田幸貫(ゆきつら)に「海防八策」を提出。江川英竜(ひでたつ)に西洋砲術をまなび,勝海舟らにおしえた。嘉永(かえい)7年吉田松陰の密航事件に連座。のち公武合体,開国を説き,元治(げんじ)元年7月11日京都で尊攘(そんじょう)派に暗殺された。54歳。名は啓(ひらき),大星。字(あざな)は子明。通称は修理(しゅり)」】
一 羽倉外記殿(注③)を下谷の邸に訪問。
羽倉殿は故水野越前守さまのとき起用された人で、学者である。早速面会を許された。もはや老人で、とても小さな声で話すので聞き取りにくかった。談話の中で、今日は我が国の人間を中国へ遣わし、よくよく情勢を探り、手を付けておくことが肝要だなどという話があった。
【注③羽倉外記は百科事典マイペディアによると「江戸末期の儒者。名は用九,簡堂(かんどう),天則などと号す。若くして古賀精里に学び,また江川太郎左衛門,広瀬淡窓とも交わる。父は旗本で代官を勤めたが,その死後を継ぎ,関東・東海地方の代官を歴任,伊豆諸島を巡察した。天保改革に抜てきされて政務に参与したが水野忠邦失脚とともに隠退。その後《海防私策》を上申。ほかに《南汎録》《駿城記(すんじょうき)》等」】
一 藤森恭助先生(藤森弘庵のこと注④)を下谷の邸に訪問。
先生は磊落なる人物で、その愉快な話ぶりがはなはだ面白い。先生が言うには、江戸は今日のありさまでは大改革しなければ何事もできず、江戸の周囲の国々はしだいに衰微していくばかりだという。その訳は、百姓どもが労を厭って江戸へ出て、格別骨を折らず、いわゆる遊民となって暮らすことができるので、関東の地は追々収納が減少する。拙者[藤森先生]は先年、土浦藩の招請をうけ、しばらく土浦藩の領地の事情を取り調べたが、昔よりはかなり収穫高が減っていた。田んぼは(そこにかける)人力が減れば、自然収納も減るのであって、土浦も結局、江戸に近いがために、このように衰退している。大いに注意すべきことであると、国家の経営について論じられた。
【注④藤森弘庵はデジタル版日本人名大辞典+Plusによると「1799-1862 江戸時代後期の儒者。寛政11年3月11日生まれ。長野豊山にまなぶ。播磨(はりま)小野藩,常陸(ひたち)土浦藩につかえ,弘化(こうか)4年江戸で塾をひらく。ペリー来航の際「海防備論」をあらわし,「芻言(すうげん)」を徳川斉昭(なりあき)に献じた。安政の大獄で江戸追放となるが,のちゆるされた。文久2年10月8日死去。64歳。江戸出身。名は大雅。字(あざな)は淳風。通称は恭助。別号に天山」】
一 吉野柳蔵先生を薬師地内に訪問。
先生は一見して俗に見え、学者の価値がないように思えた。ちゃんとした袴を着けるかわりに、商家の前垂れのように、(腰の下の前面に布を垂らし、それに)袴の折り目をつけていた。それは軽便ではあるものの儒者の身分にははなはだ不都合である。むしろ袴を着けないほうがいいのではないかと、皆して軽蔑心を起こして帰った。
一 津藩齋藤拙堂先生が江戸に出てきておられるので藤堂邸に訪問。
先生は吉田元吉(吉田東洋のこと注⑤)が先年伊勢までわざわざ会いに行ったというので、わが藩では有名だ。よって以前から面会を希望していたが、幸いなことに江戸に出府中と聞き、樋口らと一緒に訪ねた。しかしながら、その態度は俗に見え、いろいろ異国の話があった。先生はこう言われた。小銃などに火縄を用いることなく、火打ち仕掛け等であったが、近来聞くところによれば、「ドンドロ」と言って、とても軽便なものを用いているとのこと、早くその技術を習いたいとのこと。先生はわれわれと談話中、よそから来た手紙の受け取りを出すのに、封印をつけるといって、飯粒の落ちているのを拾ってつけるありさま。いかにも軽率で、心情の粗暴なのも察せられ、一同失望した。帰途、平将門(※なぜここに将門の話題が出てくるのか不明。あるいは拙堂の粗暴さが逆賊・将門を想起させたのかも)のことを話し、一同大いに笑った。
【注⑤吉田東洋はデジタル版日本人名大辞典+Plusによると、「1816-1862 幕末の武士。文化13年6月生まれ。土佐高知藩士。嘉永(かえい)6年参政(仕置役(しおきやく))に起用されるが,翌年免職。安政5年復職して後藤象二郎,板垣退助らを登用し,藩政改革を断行。その急激な改革は保守派はもとより,武市瑞山(たけち-ずいざん)ら尊攘(そんじょう)派の反対もうけ,文久2年4月8日土佐勤王党の那須信吾らに暗殺された。47歳。名は正秋。字(あざな)は子悦。通称は官兵衛,元吉】
一 柳川藩邸へは、大石流剣術修行のためしばしば通った。そのほか石山門下で、青山住まいの旗下・武田某、神田三河町住まいの旗下・浅野等のところには定期的に行った。
実は、八月二十三日に高知を発ってから、道中筋や江戸滞在中の出来事については、別に記録してあったのだが、散失して見つからないため、記憶のままを一括してここに記す。
保古飛呂比 巻二 嘉永六年
嘉永六年癸丑 佐佐木高行 二十四歳
正月
一 この月元日、江戸上屋敷で(太守さまに新年の)御祝詞を申し上げる。
一 同二日、麻布古川御屋敷内の齋藤叔父上へ年賀に参上。
一 同十六、十七、十八日、江戸は大雪である。ところが、昨冬佐久間修理に入門した樋口眞吉・山崎文三郎・桑原助馬が近々(自分とともに)帰藩するにあたり、入用の砲術書の購入費の不足分を齋藤叔父上から借りてほしいと言って頼んできた。折からの大雪で十六日・十七日は(叔父上に会いに行くのを)見合わせたが、至急のことなので、十八日早朝、本郷から(叔父上のいる)麻布古川御屋敷に行った。道に雪が積もり、降雪やまず、往来は大いに難儀した。(やっとのことで)金十両を借りる手はずを整え、夕方より駕籠で帰宿した。自分は貧書生なので駕籠に乗ったことは一度もなかったが、大雪の中を麻布古川から本郷弓町まで歩いていけば、徹夜になるかもしれぬと、叔父上から駕籠賃を恵まれ、初めて駕籠に乗った。そのとき叔父上が言うに、自分も貧家の生まれだが、(努力して)今日の地位につくことができた。お前もよく励めよと。このとき叔父上は山内遠江守様(分家の土佐新田藩五代藩主・山内豊福)付きの家老である。
一 正月二十八日、(樋口らとともに)江戸を発った。
この日、戸塚に宿をとり、鎌倉見物をするというのが以前からの約束だったが、出発前日になって(話が変わった)。鎌倉(に近い戸塚)に一泊しないと見物の甲斐がないだろうという意見もあったが、とにかく懐が乏しいので、鎌倉はいちおう有名なところを一見するだけで(その先の)藤沢に泊まることに決した。翌日の午前四時ちょうど江戸を出発、鎌倉を見て江の島へ回り、藤沢に一泊した。翌日は小田原に宿を取った。そのとき同所で砲台を見た。砲台の構造等は後で調べたところ、次の通り。
砲台三カ所、海面よりのそれぞれの高さは五間(一間は約1・8メートル。ついでに一尺は約30センチ、一寸は約3センチ、一分は約3ミリ、一厘は約0・3ミリ)ずつ。
中央 嘉永四年新築台場一カ所、東西五十六間二尺八寸、南北三十間、面積千六百九十四坪、幸町二丁目旧代官町河岸第四百十二番地にあり、[現在は野村子爵邸]
西 嘉永五年新築台場一カ所、東西六十二間、南北三十七間六分六厘、面積二千三百三十五坪、十字町四丁目旧新ラ[ママ]久海岸第七百七十二番にあり、[現在は森李爵邸]
東 嘉永五年新築台場一カ所東西五十六間五尺七寸七分、南北三十五間、面積千七百八坪八合七勺、万年町二丁目旧万ツ町海岸第百四番地、
小田原藩士 別府信次郎
同 深水程右衛門
小田原藩津田流砲術家 同 松国弥八郎
右の三名は藩命により江川太郎左衛門方(注⑥)へ[韮山]入門、洋式砲術修業。別府は後に旧幕砲鋳鉄所へも出勤した。[江川の申し立てがあったためという]。右三名の江川入門は台場建築前のことだったとのこと。
【注⑥旺文社日本史事典三訂版によると江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)は「1801~55幕末の西洋流兵学家名は英龍 (ひでたつ) ,号は坦庵。代々伊豆韮山 (にらやま) の代官で,伊豆・相模などの天領を支配。高島秋帆に砲術を学び,江戸で砲術を教授。門下生に佐久間象山・橋本左内・木戸孝允ら多数輩出した。また韮山に反射炉を築造し銃砲を鋳造,品川台場の施工など,海防の充実に尽力した」】
一 容堂公(太守さま。豊信公のこと)は海防に関心が強く、この年五月、御帰国の際、この台場を御覧になって、それより徒歩で箱根までお越しになったとのこと。
二月
一 この月朔日、箱根宿の石内方で昼食し、三島に宿をとった。
一 同二日午前八時ごろ、相州小田原で大地震があり、数百の人民牛馬が死んだと、油井宿で町飛脚から聞いた。朔日に小田原を発ったので、一日の差で災厄に出合わずに済んだと、皆でその幸運を祝った。
一 同二十日、土佐に帰り着いた。
早速、御奉行中・大頭・支配頭へ届け出た。
四月
一 この月十一日、安芸郡安芸浦の御軍艦付御水主(水主とは、かこ=水夫とも呼び、船員のこと。ただし軍艦付とあるから、土佐藩の軍艦関係者か)の国久市右衛門の長女・於貞を妾とした。
仲立ちをしたのは下代代之丞である。郷士以下の娘は、表面上は妾と呼ぶが、俸禄の少ない身分の武士の場合、妾といっても内実は妻であって、他人も本妻同様の扱いをする。実は、我が家の経済が立ち行かず、かつ、家の中に言うに言えない事情もあって、本妻をこれまで三度離別した。よって親族と相談のうえ、妾を妻の代わりにするのが良策と判断した。
一 同二十三日、太守さま(容堂公)が江戸表を発たれたと聞いた。
一 同月、土佐へ「コウナン」船(江南船。清国・江南の船)が漂流してきて、この月末に帰帆した。
五月
一 この月十三日、剣術式のため出勤。
一 同十七日、太守さまが城に帰られた。(お迎えのため)例の場所へ罷り出て、その後早速登城し、ご祝詞を申し上げた。
一 同二十五日、惣目見(家臣一同が主君に謁見する)につき登城。
六月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同三日、米艦が浦和に来た。
右につき幕府の通達は左の通り。
大目付へ
このたび浦賀表への異国船渡来につき、万々一内海へ乗り入れる恐れもあるので、もしそうなった場合、芝あたりから品川近辺に屋敷のある一万石以上の面々は、めいめいの屋敷で警護を固める心づもりでいるよう、厳重に通達する。[このことは後から聞いた。しかし便宜のため当日に記す。以下同様]
右の件につき、我が藩の江戸留守居役より、(幕府に)左の通り届け出た。
このたび浦賀表への異国船渡来につき、万々一内海へ乗り入れる恐れもあるので、もしそうなった場合、芝あたりから品川近辺に屋敷のある一万石以上の面々は、めいめいの屋敷で守りを固める心づもりでいるよう、厳重に通達する、と大目付さまより指示があった旨、つつしんで承りました。万一、そういう事態が起きたときは、幕府の御用をつとめるよう手配するのはもちろんですが、現在土佐守(藩主・容堂)は国許にいるため、留守詰めとして江戸に残るわずかの人数で、三田の中屋敷・品川大井村の下屋敷の防備を手配したにすぎません。それも、屋敷内の取り締まりにつとめるのが精一杯で、なかなか(異国船に対する)警衛の備えにまでわずかなりとも行き届かず、留守居の幹部一同深く心を痛めていることをお聞き置きくだされたく、よって私より申し上げます。以上。
六月 原半左衛門
[参考]
一 六月六日、幕府の通達は次の通り。
大目付へ 備後守さまが渡されたもの
黒船が万一内海へ乗り入れ、非常事態の通報があった際は、老中より八代洲(いまの八重洲)河岸火消役(火消役は幕府直轄の消火組織)へ連絡する。同所でふだんの出火と混同しないような半鐘を打ち、それをすべての火消屋敷(火消役が常駐する屋敷。江戸に十カ所あったといわれる)で中継し、早半鐘を打ち鳴らすよう火消役に通達を出したので、火消屋敷で早半鐘を打ち鳴らしたら、諸向(諸侯の誤記か?)は御郭(この場合は江戸城内のことか)での出火の場合と同じように心得て、登城または持ち場を固めるように。ただしその際には火事装束を着用する心構えを忘れてはならない。もし、また右の際、場所の末々にいたっては早半鐘が行き届かないところもあるので、一万石以上で火の見やぐらを備えた面々は、その緊急事態にかぎり早半鐘を打ち鳴らすようにせよ。
右の通り、幕府から通達を受けた。
六月
[参考]
一 同月同日 、牧野備前守さま(越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅。老中の海防掛担当)のところへ、左の方々の御家来を呼び寄せ、御警衛の任務を命じられた。
松平阿波守さま
松平越前守さま
松平越後守さま
酒井雅楽守さま
細川越中守さま
松平膳大夫さま
立花左近将監さま
[参考]
一 六月七日、北アメリカ船渡来の節、我が藩において芝・品川両屋敷へ配備された人数や器械等は次の通り。
覚
一 長柄(足軽が使う槍) 二十本
一 二百目玉筒(二百匁の重さの玉を発する大砲。一匁=3・75グラム) 一挺
一 浜御物見へ長柄 十本
一 百目玉筒(百匁の玉を発する大砲) 一挺
一 三匁より十匁まで玉筒(三匁~十匁までの重さの玉を発する鉄砲) 五十挺
一 馬印(うまじるし。「戦陣で用いた標識の一。大将の乗馬の側に立てて、その所在を示す目印としたもの。」デジタル大辞泉より)
芝御屋敷右同
一 長柄 二十本
一 筒[三匁より十匁まで。それぞれに使う道具つき] 三十挺
一 御幕 三張
右は品川より芝へ送る。
武具の収納蔵が品川にある。ゆえに芝の御屋敷へ送った。
覚
一 品川御屋敷詰
惣頭取 山田八右衛門
同御屋敷詰
細川半之進
半之進弟 細井(ママ)半十郎
三平惣領 安養寺善平
鉄右衛門弟 井家馬次
善平弟 勝賀瀬専吉
一 鮫洲御屋敷の御警衛
鮫洲御屋敷は品川御屋敷の付属ナレバ、品川御屋敷ヨリ御堅メ海岸ニツキ(※この部分、意味不明瞭のため原文のまま記載)、追って砲台を築く。
一 芝御屋敷詰
御物頭 落合儀八郎
森本三蔵
谷免毛
柴田茂之助
中山右衛門七郎
一 品川御屋敷
足軽小頭 五人
足軽 五十人
小人 四十人
[参考]
一 伊勢の国の人である杉原礼蔵より五藤甚之丞へ送ってきた勅文(天皇の言葉)の写しは次の通り。
この頃異国船が相模の国三浦郡浦賀沖に来た。その実情は知りがたく、防御の備えを厳重になすといえども、最近たびたび異国船が近海に現れる。天子の御心ははなはだ安からず、ひとえに神明の冥眷(神の人知を超えた力)を仰ぐにあり。速やかに夷類を退攘(追い払い)し、国体に拘わらしむるなかれ。四海静謐、天下太平、宝祚(天子の位)長久、万民娯楽を祈り、これから七日間、一社(伊勢神宮)一同で真心をこめて勤行すべし。
六月十五日 祭主(注⑦) 三位 判
大司宿館
【注⑦この勅文は伊勢神宮祭主の藤波教忠(京都在住。正三位)より伊勢神宮の大宮司あてに送られたものと思われる。要は夷狄を打ち払うため七日間の祈祷をしろということ】
一 同十八日、無刻早飛脚(江戸幕府が使う至急便の飛脚)が土佐に到着。相州の浦賀へ去る三日、異国船が渡来したとのこと。
右につき人心不穏になり、太平無事の夢はたちまち覚めた。
(参考)
岡崎菊右衛門氏が日記に次のように記している。
六月十八日、早飛脚が到着。浦賀表に異国船が渡来した件のあらまし聞き書き。
一 今月三日夕七ツ頃(午後四時頃)、浦賀表へ異国船(長さ)七十間くらい、ほかに二艘、合計四艘(マシュー・ペリー提督率いる東インド艦隊は外輪つきの蒸気船=文中では大船=が二隻。帆船=同小船=が二隻の計四隻からなる)が陸の近くに乗り付けたので余儀なく大砲を相次ぎ打ち放したところ、そのうちの彦根藩の放った弾が大船のみよし(舳先)へあたったため、沖合五里ほどのところに係留したとのこと。
一 北「アメリカ」ガシウ(合衆)国「フランス」と申すこと。
一 大船の帆柱はおよその長さ四十間くらいあるとのこと。二艘の舳先には八十貫くらいの大砲三挺があり、元船(船団の中心となる船)の長さは七、八十間くらい。
先手船(先頭に立つ船)の長さは三十間くらい。
一 小船の帆柱は三本あって、そのおよその長さは二十八間くらい。六貫目くらいの長筒(大砲)が片側に十一挺と、もう片方に十挺、あわせて二十一挺ずつ備えたのが二艘。
一 大船の方がこれより前に車仕掛けで煙を上げたもようで、蒸気船であろうか。(※原文は大船ノ方先ニ車仕掛煙上候趣、蒸気船ニモ有哉。「先ニ」を私は検使舟が現場に到着する前に、と解釈したが、間違っているかも)
右の通り、検使舟(事実を見届けるために派遣された舟)が申し出た。
[参考]
一 六月二十日、幕府が我が土佐藩の領民である中浜万次郎を呼び出した。万次郎は元幡多郡中浜浦の漁民であり、風浪のため漂流して米国に至り、先年、故郷に帰った者である。幕府の徴書(呼び出し状)は次の通りである。
(老中筆頭の)阿部伊勢守さまがお渡しになったもの
先だって長崎奉行より引き渡した土佐守の領民で外国へ漂流した者のうち万次郎と申す者、外国の様子を尋ねたい事柄があるので、当地(江戸)に呼び寄せおくようにせよ。
ただし、心配することはない(から安心せよという)旨を(万次郎に)申し聞かせておくように。
(続)。(魚住より読者の方々へ。再三お断りしていますが、これは東京大学史料編纂所編纂、東京大学出版会刊行の『保古飛呂比 佐佐木高行日記』を底本にして私が我流で現代語訳したものです。誤訳や不完全な訳が多々あると思います。その旨どうかご了承ください)