わき道をゆく第186回 現代語訳・保古飛呂比 その⑩

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嘉永六年六月

[参考]

一 同二十日、百々礼三郎以下が江戸詰めを命じられた。

岡崎水筆(前出の岡崎菊右衛門と同一人物で、水筆は雅号と思われる)は次のように記している。

何年か前に来た異国船は一艘につき八百人乗りの舟だったが、このたびはそれより人数が増えたように見える。このたびの四艘は軍艦で、「アメリカ」国船の模様、国王の書簡を持参したとの噂もあるようだ。

一 さてこの節、当家の江戸留守居役より、(異国船対策にあたるには)人数が少なすぎて御備(おそなえ。戦時に編制される戦闘部隊)の一端にも足りないと重役どもは案じているとの連絡があった。

品川御屋敷へ物頭(注①)の山田八右衛門を、芝御屋敷へは同じく物頭の落合儀八郎を派遣し、平士(ひらざむらい)と両屋敷の足軽五十人が品川御屋敷へ詰める。

 【注①物頭。imidas時代劇用語指南(山本博文著)によると「物頭は、徒歩で従軍する下級武士である御徒(おかち)、弓の者や鉄砲の者といった足軽クラスの下級家臣を束ねる中級家臣である。これは、馬廻の藩士のうちから選抜される、いわば中間管理職である。城下町の行政や裁判にあたる町奉行、また農村支配や年貢徴収にあたる郡奉行(こおりぶぎょう)は、物頭から昇進する」】

(※以下は意味不明瞭な部分がいくつもあるため、例によってまず原文を書き写し、その後で私にわかる範囲の注釈をほどこす)

焚出(炊き出しのこと)御勘定方ニ従ヒ、

右ニ付、御国許ヨリ御人数被差立旨ヲ以、六月二十日、相蒙[仰脱カ]御使母衣ニ被仰付、野本源蔵・森藤太夫勤番ヲ以、

百々礼三郎 郷権之丞

島崎実吉 野口孫三郎

馬淵馬太郎 武藤貞次郎

高畠彦平次 森九平

御足軽小頭ヲ以、砲役

島村源吉 小松慶吉

中城直右衛門

御足軽三拾人、

来ル廿九日、北山通直乗ヲ以被指立、

(※全体としての文意は、江戸留守居の重役からの人員不足のSOSを受け、本藩から必要な人員を送ることにしたということ。御使母衣というのは、もともとは戦時に主君の指示を前線に伝えたり、現場の情報を主君に伝えたりする役目のことだが、「相蒙[仰脱カ]御使母衣ニ被仰付」という部分はどう解したらいいのか私にはわからない。御使母衣はもしかしたら、緊急事態に対応するため急派される要員という意味かも。

「野本源蔵・森藤太夫勤番ヲ以」も意味がよくわからない。「勤番」というのは国許から交代で江戸に出て勤務することを指すのだが、この場合はどう解したらいいのだろうか。

北山通は前に述べたように、参勤交代でも利用される陸路。高知から北上して瀬戸内海に出る。直乗は主に航海で使われた言葉で、目的地に直行することを指すらしい。私の力量不足でわからないことが多く、読者に対し申し訳ないかぎりである)

[参考]

一 六月二十一日、柏島(いまの高知県南西部の大月町の西南端に浮かぶ小島)から笹送[至急のとき、竹を切ってその笹の枯れぬうちにどこまで行くという意味である]により、異国船が南東方向に走っていったという急報があった。

同日、清水(現在の土佐清水市か。柏島から東へ数十キロに位置する)から同様の急報があった。同じ船のことであろう。[記録抄出]

[参考]

一 同日、伊勢の国の杉原礼蔵より五藤甚之丞へ送ってきた勅文の写しは左の通り。

浦賀に来た異国船が十二日に帆をあげて帰っていったことは(天子の)お耳に入ったものの、(前に命じた七日間の)御祈祷を終えた神社はまだない。このうえは、より一層、真心を込めて四海静謐と万民安穏を祈るよう伊勢神宮などに知らせよと(天子が)仰せになった。よって取り急ぎこのように伝える。

六月二十一日

一 同二十二日、第十二代将軍徳川家慶(いえよし)が亡くなられ、慎徳院という諡号を贈られた。

一 同二十三日、太守さまが御家老・中老を残らず二ノ丸に召し出され、訓戒された。その際、お示しになった書き付けは次の通り。

先だって組頭(注②)どもへ武士の風俗について言い聞かせた。このうえは誰もがなおさらその趣意に従い、文武の道を心がけるように。ただ日々うかうかと遊び事や慰み事にふけり、音曲や禽獣を好み、国家の盛衰に心を用いないのは不忠の罪を免れ難いことである。中老どもも同様に心得よ。

六月二十三日

右の文書は渋谷左内殿宅で慎んで承った。父上の名代として、である。

【注②日本大百科全書(ニッポニカ)によると、組頭(くみがしら)は「戦国時代から江戸時代の武士の役職。戦国時代から江戸時代には、武士は、軍事のための番役を課せられ、番頭(ばんがしら)に支配されたが、番役はさらにいくつかの組に分けて編成された。その各組の長を組頭といい、番頭の下で組下の武士の統轄にあたった」】

[参考]

一 同二十三日、江戸へ派遣されるはずだった要員たちの出発は中止になった。

浦賀表の異国船が今月十二日、帆をあげて帰ったとの知らせを町便(民間営業の町飛脚のことか)で伝え聞いた。浦賀の異国船帰帆につき江戸派遣中止とのこと。

一 「メリケン」船が渡来したとき、土佐藩は鮫洲村の警護を担当したが、 荻野流(江戸時代初期に荻野安重が創始した和製砲術)の二百目筒(約750グラムの砲弾を放つ大砲。幕府の大砲に比べても、かなり小さめだったようだ)二挺しかなく、その他の装備も貧弱だったから、評判がよくなかった。

ついでに言っておくと、御側用人の後藤八右衛門は金満家であるけれども(いざ合戦というときのための)甲冑を用意しておらず、つねにこう言っていた。金をもっていればいつでも出入りの古道具屋や御成道の名太刀屋へいけば甲冑を手に入れられる、と。ところが、異国船が到来したとき、(古道具屋や名太刀屋に甲冑を)求めに行ったら、時刻が遅くなったため、一領も手に入れることができず、大いに狼狽したとして、家中の笑いものになった。平素の心がけが肝要だ。忘れてはならない。(注③)

【注③。『勤王秘史 佐佐木老候昔日談』には当時のこととして「聞けば江戸は大騒ぎで、鎧具足は俄に騰貴する、刀剣も平素に数倍する。市民はもうはや戦争が始まつた様に、内々――その準備をして居た相だ」と記されている】

(異国船騒ぎで出動した)長州の部隊は立派だという評判が立った。ことごとく甲冑を背負っていたとのこと。後で聞いたところでは、ある者は兜だけ、またある者は籠手(こて)や腰当てだけなどとそれぞれが分けて身につけていたため、ちょっと見には十分装備が整っているよう見えたらしい。これも軍略にかなったやりかただろう。(品川沖の)第一、第二御台場(砲台)の警固には熊本藩と川越藩があたった。熊本藩はしきりに力んでいたそうで、そのころ流行った俗謡に次のようなものがあった。

川越藩

「 誠丸(川越藩主・松平典則のこと、幼名が誠丸)堅めに火蓋を切れば細川滅亡と思ふべし」(注④)

【注④。松平典則はこの翌年、眼病を理由に隠居している。ペリー来航当時、すでに典則の眼病は世間に知られていて、「片目」と「堅め」をかけたのではないだろうか】

浦賀警固のうち、彦根藩は赤備(あかぞなえ。甲冑などを赤く染めた)で見事だったが、その侍大将が床几に腰掛け、指揮用の采配を持ちながら居眠りしたといって、同じ場所の警固にあたった会津藩が大いに笑ったと、(兵学師匠の)若山(壮吉)先生の談。

[参考]

一 このころ左の狂歌等があった。

阿部川(あべかわもちと老中首座の阿部伊勢守をかけている)も評判程になかりけり

蒸気船(上喜撰=上等なお茶=とかけている)にはまづゐ御茶菓子

阿部伊勢守が老中ですこぶる評判のいい方だったのに、期待ほどではなかったという意味で、このような悪口を言われた。

陣羽織一寸異国の洗張(当時は着物をいったんほどいて水洗いした)

ときてみたれば浦賀(裏が、とかけている)大変

(異国船騒ぎで儲かった)具足師は「アメリカ」様とそつと云ひ

一 六月二十六日、幕府が米国の文書(大統領親書)を主だった役人に示し、翌日、徳川御三家と相州(神奈川)房州(千葉)の警固にあたった諸侯に示し、それぞれの意見を述べさせた。ついで同じ文書を全国の諸大名に示し、意見を述べさせた。

七月

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。

[参考]

一 同三日、西方に異星が現れた。同年、土佐国は大旱(ひどい日照り)に見舞われた。

一 同初旬、長女の千勢と二女の玉輝に種痘を受けさせた。

種痘はオランダ医学ということで、いまだ世に普及していないが、廿代町の医師・島崎洋庵が長崎から(種痘の技術を取得して)帰り、施術している。田内(姓だけしか書かれていない。島崎と佐佐木の共通の知人か)は平素懇意にしているので、(種痘を受けるよう)勧められた。しかし、父上は種痘のようなことを好まない性質なので、如何なものかと心配しながらお伺いしたところ、意外にも同意され、速やかに種痘を受けよとおっしゃったので大いに喜んだ。とはいえ、種痘については世上いろいろな異説があって、もしその効き目がなかったら、かなり誹謗されるだろうとひそかに心配した。

一 七月十七日、御使母衣の藤井猪三郎が早追(昼夜兼行で籠をとばすこと)で帰着。先般の異国船渡来につき、幕府より諸大名に意見をご下問とのこと。(幕府の書面には)外人書簡(ペリーが持参した米大統領親書か)の和訳が二冊添えられているそうだ。

藤井氏帰着の件は、同十八日、唐人町の寺田忠次(の道場)の剣術稽古開きで祝宴があり、そこで聞いた。その席に吉田元吉(東洋)・由比猪内・真邊栄三郎・市原八郎左衛門等がいて、そのとき吉田元吉が慷慨して言った。今度の事件は局外といえども傍観黙視はできない、と。これに対し由比猪内は局外者なのだから仕方がないなどと、それぞれいろんな説を吐き、意見を戦わせるのを傍らで聞いた。やがて一同思い思いに帰った。(注⑤)

【注⑤この場合の局外とは、藩の方針決定に参画できないことを意味すると思われる。吉田元吉が山内容堂により大目付に抜擢されるのは、この直後の同月下旬のことである】

一 七月二十七日、西洋流砲術師家・田所左右次のところに入門した。

「メリケン」船の渡来以来、銃砲でなくては海防の役に立たないとのことで、にわかに砲術が行われるようになった。砲術は、これまでは身分の高い武士が荻野流等の古流を学んでいた。それも花火等を打ち上げる非実用的なもので、遊び事の道具みたいになっていたので、自分らのような貧しい者は学ぶことができなかった。しかし、このたびの事件より西洋流砲術が行われるようになったので、田所左右次に入門し、にわかに稽古するようになった。といっても大砲などは金がかかるので稽古できず、せいぜい手伝いをするくらいである。

田所左右次は非凡な人物で、家業の砲術はもちろん、何事も大胆な仕事を企てるので、多額の借金を抱え、大山師の風がある。世の人々は田所の大天狗と呼んでいた。しかし、西洋流砲術を早くから学んでいたので、「メリケン船」到来後は大いに時流に乗った。同門の人に馬場源馬[馬場辰猪の祖父]という老練の人がいる。(彼は砲術を会得するのに)種々工夫等をしていて、これまた非凡な人物である。

一 この年七月下旬から藩政の大改革が始まった。先年、養徳院さま(十三代藩主・山内豊熈)は、いわゆる太平無事のご時勢だったのに、藩政改革を着々と進められたが、途中でお亡くなりになった。その後はまたまた太平の時勢に逆戻りした。執政(藩政を取り仕切る家老)は門閥出身だから、平々凡々で、それは今日に始まったことではない。(執政の下の)参政・大監察にはそれにふさわしい人物が用いられてしかるべきだが、どれも俗物で因循固陋の輩のみ。御仕置役[参政のこと]大庭三左衛門・乾内蔵之丞・野本源左衛門、大目付等いずれも老人だった。ところが、去る六月三日、墨夷(アメリカ)渡来の報があってから、藩を挙げて人心が大いに騒ぎ立ったので、いよいよ因循に過ぎることはできない時勢となった。

太守さまである豊信公[ご失策あり。ご述懐の詩は後に記す]には家督相続された当初から改革を実行するご意思があったが、南邸(山内家の分家)より家督相続[ご不幸つづき、意外なことに]された(ので思い通りにできない)という事情があった。ことに御隠居・景翁さま(十二代藩主・豊資公)は太平のお大名だから、やはり古いしきたりにこだわられるので、(豊信公は)たやすく藩政改革に着手できないようだったが、米船渡来をきっかけに大改革に着手された。

五藤主計 奉行職、執政とする。

坪内求馬 仕置役、参政とする。

大崎健蔵

吉田元吉

片岡範三郎

右の三人は大目付に仰せつけられる。

ただし吉田元吉はほどなく参政となる。

乾内蔵之丞・大庭三左衛門の両人は仕置役を免じる。

ただし奉行職に深尾弘人も仰せつけられる。(注⑥)

 【注⑥。平尾道雄氏の『土佐藩』に藩政機構についての解説(一部前出)があるので、少し長くなるが、それを引用しておく。「行政機関は近習と外輪にわかれ、前者は内政官として藩主の江戸参勤に側近するものに近習家老があり、側用役や内用役・納戸役がこれに付属し、その勤務を監察するものに近習目付がある。江戸藩邸や京都藩邸には留守居役が任命されて渉外関係の任務に当り、大坂には在役が常駐して蔵屋敷を預かり、主として財務を作配した。後者は外政官として執政の任に奉行職二人または三人が家老のうちから選任せられ、月番をもって政務を担当するのである。その下に仕置役を置いて参政の任に当て、その付属機関には民政方面に町奉行・郡奉行・浦奉行があり、徴税官としては免奉行、営繕関係には普請奉行と作事奉行、会計事務には勘定奉行や銀奉行、林政官には山奉行があり、船奉行は造船や航海を管掌した。寺院や神社のためには特に社寺奉行を置かず、仕置役が直接これを管理することになっていたのである。司法警察には大目付があり、その下に小目付・徒目付・下横目を任命して風紀を監察させたのである。民政は町および郷・浦の三支配に区分された。町は町奉行、郷は郡奉行、浦は浦奉行が管掌するのであるが、その下部はそれぞれの地域において自治組織をもち、庄屋がこれを支配した。これを地下支配と称し、地下支配に対して仕置役場の直接支配するものを直支配と称し、地下人のうちでも直支配に入る機会をもつことをその栄誉としたのである」】

八月

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁登城を病気のため休んだ。

[参考]

一 同日、藩士九人が江戸表に御手当(異国船対策要員としての意か)として派遣される。

横田源作 山田太助 藤岡勇吉 阿部喜藤次 高村酒之丞 その他の名は聞き漏らす。

[参考]

一 同日、御家老以下が処罰され、ついで役職を免じられた。(以下は藩の文書の写しとみられる) 

福岡宮内 御家老職

(福岡は)さる四月三十日夜、作事方囲(建築工事の囲い?)から出火した際、不心得な行為があったと聞く。自らの職分を顧みず、そのような行為に及ぶのは不埒の至りである。よって閉門を申し付けたが、八月二十六日、赦免する。

(以下は高行の注記)なお、宮内殿は四月三十日の当夜、深尾弘人殿の招待を受けて深尾邸に行ったが、(作事方囲から)出火と聞くやいなや、刀一本で従者もつれずに駆けだしてそのまま帰宅した。その振る舞いが御家老に似つかわしくないという風聞が立った。

一 同日、(藩の文書の写し)

五藤繁次郎[家老・五藤主計の長男]は、去年十月、深尾弘人・桐間将監が五藤のところに来たとき、その滞在中に(三人で)外出した件で不都合があった。身分のほどをわきまえず、不愉快な行為なので遠慮(軽い謹慎刑)を申しつけていたが、八月十三日、赦免する。

(以下は高行の注記)なお弘人殿・将監殿・繁次郎殿は夜分、三人一緒に、従僕を連れずほおかむりして、卑賤の者のところに忍んで行ったとの風聞があった。

一 同日、

五藤主計[御家老職]も右と同様に遠慮を申しつける。(しかし、こうした不祥事が起きた原因は)結局のところ(主計の息子に対する)日頃の指導が行き届かなかったことである。これにより慎(つつしみ)を申しつけたが、同十三日、赦免する。(注⑦)

【注⑦。藩士の自宅謹慎処分は重い順に「蟄居」「閉門」「逼塞」「慎」「遠慮」「差扣」があった。「慎」は「遠慮」より重く、「逼塞」より軽い】

一 同日、

深尾弘人[御家老職]は去年十月五日、五藤主計のところに行ったとき、そこに滞在中に外出した件で不都合があった。また今年三月、山田野地町へ遠乗りしたとき不心得があった。身分のほどを顧みず、不愉快な行為なので、遠慮を仰せつけたが、同十三日、赦免する。

(以下は高行の注記)山内下総殿・深尾左織殿・深尾丹波殿は一緒に徳弘瀬平方に招かれてご馳走になったとき、お気に入りの瞽女(ごぜ。女性の盲人芸能者)二人を呼び寄せ、大騒ぎしたとの風聞あり。この三人には今後処分の言い渡しがある。馬廻の小森六弥・酒井栄馬もその席にいたが、格別処分を受けなかった。

一 同日、

桐間将監[蔵人の長男]は去年の十月、五藤主計のところへ行き、そこに滞在中に外出した件について不都合があった。身分のほどを顧みず、かつ、その役目の手前、不愉快な行為である。これにより遠慮を申しつけたが、同十三日、赦免する。

一 同日、

桐間蔵人[御家老職]に右と同文を申しつける。(しかし、こうした不祥事が起きた原因は)結局のところ、(蔵人の息子に対する)指導が行き届かなかったことにある。これにより、慎を申しつけたが、十三日、赦免する。

(以下は高行の注記)右のような御家老たちに対するお咎めは近来希なことであり、当代の家老の権力を抑えるため(太守さまが)打った手の第一歩だったとみてまちがいないだろう。もっとも、養徳院さまの御代には一人二人の家老がお咎めを受けることはあったけれども、今回は大勢なのでことさらに記す。

一 同五日、西洋流大砲の下撃(下撃の正確な意味は不明。ただし同月二十三日の記述に、同じ仁井田浜で「西洋流大砲試打」が行われたとあるので下撃=試し打ちかもしれない)があるというので仁井田浜へ行った。

[参考]

一 御筒役御足軽(砲術担当の足軽の意か?)等を(江戸に)派遣される。

一 同七日、急ぎの伝令使・中山右衛門七郎が(江戸から)到着、先月二十二日、将軍が亡くなったとのこと。(実際に亡くなったのは六月二十二日。発喪つまり死亡の事実公表が一カ月後の七月二十二日になった)よって切に慎しむようお達しが出た。市中の家々は門戸を閉じた。

(将軍逝去の)凶報の正式な使者が到着する前、非公式の使者が着き、(将軍の死を伝えた)。(喪の期間に入ると)米つき・薪割り等(ができなくなるので、そうした)日用に差し支えがないよう、(今のうち)内々で用意しておくよう注意喚起がなされた。

一 同二十一日、喪の期間中ではあるけれど、武芸の内稽古は許すという旨のお達しがあった。

一 同二十一日、将軍家からのご下問に対する建白書を(届けるため)、本日、中山右衛門七郎が江戸表への早追い使者として派遣された。その建白書は次の通り。[ただし九月十六日に書き留めた]。この建白書は専ら吉田元吉が作製の任にあたった。

このたび米国は浦賀表に軍艦を派遣し、大統領からの書簡を(幕府に)奉呈しました。(それによれば)今後、石炭や食物等の交易を求め、それに対する回答をもらうため再び渡来するとのこと。それを拒絶すれば、容易に兵端を開くという形勢にありますので、たとえ(幕府の)忌諱に触れても申し上げなければならないことがあります。

総じて西洋の人情を察しますところ、大鑑・大砲の製造(技術)が日に日に精密になって、狂風激浪をものともせず、大洋の中を平らな道のごとく往来して、東洋のあちこちで盗みをしているようです。(そのやり口を見ると)兵威を示して交易を開き、優しげな素振りを見せて無知な者を手なづけ、ついには日本国を思うがままに支配しようというたくらみではないでしょうか。支那とイギリスとの戦争(1840~1842年のアヘン戦争)は今日の殷鑑(戒めるべき、失敗の事例)にちがいないので、交易の件は一切拒絶され、速やかに海防対策を厳重になされるべきです。

あらかじめ年限の定められた交易であっても、一度アメリカに許されたならば、イギリスにも許すことになるでしょう。それに他の東洋、西洋等の諸国からも追々交易を求めてくるでしょう。そうなれば次第に国力も尽き、万民が困窮することでしょう。

かつ、先年(交易を)拒絶されたロシア等へはどうお答えになるのでしょうか。それゆえアメリカの無礼な申し出等を決してお取り上げにならぬようお願いします。

なにとぞオランダから技術者を招聘し、西洋に倣って軍艦をつくることで、諸藩の防備体制も整えるよう命じてください。また、大砲製造の件も新しく外国から渡来した精密な工法がますます諸藩で行われるよう急いで命じられ、(外国による砲撃で被害が拡大しないよう江戸のような)大城下の混み合った家々を減らすように仕向けられれば、ただ今戦闘が始まっても、勝算の目途が立つようになるでしょう。

もしも、当面の臨時措置として年限を切った交易を許され、その間に海防の設備を整えるよう命じられても、長年の太平無事で染みついた悪弊が多方面に及んでいます。それゆえ、せっかくの機会も失われ、人々の意欲も奮いたたず、何年たっても防備体制をつくれず、結局は不安な時勢になってしまうと思われます。

近年、海防に関する意見を申し出る者は数多く、こうした(防衛力強化の)問題についての詮議は済んでいると思いますが、なお今の情勢を考慮に入れても、新たに別の方法を考えつくこともありませんので、おおよそのところを申し上げたわけでございます。(続)