わき道をゆく第187回 現代語訳・保古飛呂比 その⑪

▼バックナンバー 一覧 2022 年 6 月 2 日 魚住 昭

嘉永六年八月

一 日本よりアメリカへの返事の手紙になぞらえて、ある人が書いた文章は次の通り。

前文、

この夏、「アメリカ」船が浦賀へ渡来した折、渡された書翰(米大統領親書)を和訳して、諸大名や、その他の主な幕臣たちに(これを読んで)意見を申し上げよとのご命令があったが、身分の低い我々はその書面を見ることもかなわず、世上の風説を聞くだけで、ただ薄氷を踏む思いをするばかりである。

その風説によれば、「アメリカ」の親書はこう述べている。「我が国は文明国であり、国民は優れた才知を持ち、日本同様、大国なので産物も多い。それだから、米国が日本と和を結んで交易し、互いの才知が和合すれば、両国に利があることは疑いない。ゆえに(鎖国という)先例を改め、和を結び交易を許すべきだ。不安があれば、これから五年か十年ほど試してみて、損があったら、そのとき(交易を)止めたらどうか。もしも、(幕府が)先例や国の習わしを守って交易を許さないのであれば、軍艦を向かわせて戦うつもりだ。そのときになって後悔しないよう、よくよく思いを巡らして天子・将軍の安全と長寿を考え、来春までに返事をもらいたい。その際は軍艦の数を増やして来るつもりである」

返答次第では早速数百艘の軍艦を向かわせるという内容の書翰のようである。であればこそ、今でも幕府に意見を述べようとする者が多い。そのため、(遅くとも)今月中には(意見書を)差し出すよう(幕府からの)ご命令がまたあった。

われらも要職にあるならば、(米国への)返事を綴って差し出すところだが、小身(=身分が低いこと)の哀しさはあたかも平地において星をつかもうとするかのようなものである。ただ庚申さま(注①)の見ざる・言わざる・聞かざるの猿となって、耳目口を閉じているほかない。

世のありようを考えるに、賢人ならばたまに自分一人で意見を表明することはあるかもしれないが、大将が部下の意見のよしあしを見分ける能力が低いときは、(それもできず)ただ多数意見に賛同するしかない。そうなれば一人の智者も十人の愚者のために(悪い方向に)吸い寄せられる。そういう例は昔から少なくなかった。

しかしながら、自分の意見が採用されないとわかっているからといって、それを述べないのは正義ではない。善を知って、大将がそれを用いるときは世界の幸福、用いないときは世界の不幸である。大将たる者に優れた才知がなければ万民が苦しくなる。

我も大将の身分ならば、愚かで才能なしといえども、天下国家のために意見を述べ、次のような趣旨の文章を学者に頼んでオランダ語に翻訳してもらい、来春「アメリカ」が来たとき渡したい。しかし、それは無理だから、ただいたずらに自分の愚かな考えを記しておいて、(のちのち)他の賢人たち(の文章)と見比べることぐらいしかできない。

【注①百科事典マイペディアによると、 庚申信仰(こうしんしんこう)は「十干十二支の一つ庚申の日の禁忌を中心とする信仰。中国では道教の説で,庚申の夜睡眠中に体内の三尸虫(さんしちゅう)が逃げ出してその人の罪を天帝に告げるといい,虫が逃げぬよう徹夜する風習があった。この守庚申(しゅこうしん)の行事が平安時代日本に伝わり,貴族は庚申御遊(ぎょゆう)と称し徹宵詩歌管弦の遊びをした。武家でも庚申待として会食が行われた。のち民間信仰となり,サルを神使とする山王信仰と習合,またサルの信仰と結びついて【さる】田彦や道祖神をまつったりした」】

(米国への)返事

貴国は昨年夏、浦賀表に(軍艦)四艘を向かわせ、和を結び交易をしようという書翰を提出した。その内容をことこまかに検討したところ、すべて利欲優先で道義がない。我が国は利をもって利とせず、道義をもって利とする習わしなので、その書翰の内容を知った諸侯はじめ万民に至るまで(衝撃を受け)蜂の巣をこわしたような状態になった。

この書翰に対する返事を出す必要なく、焼き捨てにすべきところであるけれども、我が国の考え方を示さなければ、我が国の正しさが知られることもないであろう。

こちらからの返事の要点の第一は、和を結ぼうという(米国側の提案)の意味がわからないことである。昔から米国と我が国の間には何の不和があったというのか。(太平洋の)波濤を隔てた国だから、お互いの音信や贈答がないだけで、仇敵とも思わなかった。音信や贈答がないからといって、それを不和と言うべきではない。不和でないから、鉾先をまじえたり弓・鉄砲を放ったこともない。なぜあえて和を結ぶ必要があろうか。

また、(米国からの書翰にある)外国船が近海に来たら(日本が)まるで仇敵のように対応するという趣旨のことも愚智にすぎない。大洋は(いろんな国の者が共同利用する)入合であって、別船(※原文は「別船[ママ]」となっている。つまり別船という言葉遣いは正しくなく、他の言葉に差し替えるべきだと編者は判断している。問題は別船が何を意味するかだが、文中では賊船の反対語として使われている。つまり別船とは、賊船のような危害を与えることのない船と考えられる)のみではない。賊船が多く、漂流のふりをして近海にやってきて、我が国の商船に乗り移り、米穀等を奪うことが少なくないため、外国の船を見かけると、(我が国の)商船は盗賊や猛獣のように恐れて港へ逃げ入ることになる。それに外国船はちょっと油断すると、上陸してきて民家の住人に乱暴をはたらき、米穀を盗んだりするのが常だからやむを得ず、(外国船の船員を)殺すことになる。そういうことを嫌うがゆえに海岸に大砲を並べ、武器を見せつけて上陸させないようにしているのだ。殺生を嫌うのは(我々が)仁愛に満ちているからである。

ゆえに外国の船が我が国の近海に来たとき、海岸の警衛が厳重で、まるで仇敵に向かうような対応だと思うのは無理もない。しかし、これを恨むのは、そうなった根本原因を知らないからである。賊船は(その船が属している)国を偽り、印を(別の国に)似せて油断をうかがうのが常套手段だから、印を見て別賊(原文は別[ママ]賊。別賊の意味は、賊船かそうでないかの区別と解して差し支えない)を見分けるのは難しい。だから外国の船が来て、正邪の区別がはっきりしないうちは警衛が厳重にならざるを得ない。(賊船ではないとの)見分けがついたら、どうして仇敵のように思うだろうか。

この道理を悟ることができないのは(米国の)知力が足りないからだ。決して我々を恨んではいけない。賊船を防ぐために、仇敵を見るような目つきで海岸を見るのだから、もし恨むのであれば、賊船を恨むべきである。

また、交易をしたいという(米国の)望みは、もし貴国が貧国ならやむを得ないと思えるけれど、貴国は大国中の大国であって、産物・金銀がたくさん産出されるという意味のことを(大統領親書の)前文に書いている。そのうえで、交易をすれば日米両国に利益が生まれる、もし交易しなければ軍艦を向かわせると言うのは支離滅裂で児戯にひとしい。

本当に交易を望むのであれば、自国の貧しさを前文に書き、産物がなく人民を養うに足りないと言って頭を下げるべきだろう。そうした後に交易を求めれば、我が国は仁愛を大切にする国風なので、憐れみを感じてうっかり交易を許さないわけでもない。

自国のことを自慢したうえで、和を結んで交易を許せ、欲を知らないのは愚かだなどと言って我が国を嘲り、昔からの先例を守って交易を許さないのであれば軍艦を向かわせるとは、俗に言う、できない相談というものだろう。

たとえて言えば、見ず知らずの魚売りが我が家の門前に来て、「自分は金銀に困らず不自由もしていない。利発で聡明なお前も、利発なのだから魚を買え。そうすれば双方の利益になる。もし、買わなければ座敷に踏み込んで暴れてやるぞ」と言うようなものだ。

こうなれば、どれほどお人好しでも、怒り出さない人はないだろう。手勢の者がいれば、魚売りをぐるぐる巻きにして懲らしめようとするし、手に余れば殺すかもしれない。交易を許さなければ、軍艦を向かわせるぞというやり口は、(この魚売りのやり口と)同じだ。

たとえ当方に交易をしようという意思があったとしても、これだけで許すことができなくなった。この一言で永久に交易の話は断絶したのである。

こうしたことを思えば、(米国は)交易を望んでいるのではない。戦いを望んでいるのである。しかし、戦いを望むのであれば、なぜ(予告をせず)不意に軍艦数百艘を向かわせないのだろうか。なぜ、合戦の始まりを予告するようなことをするのだろうか。

以上のようなことを考えると、(米国は)戦いを望んでいるとも思えない。では、本当に交易をしたいという意思があるのだろうか。なおざりの書簡を渡しただけでは日本の(鎖国という)旧例を改めさせることができないと思ったのだろう。そして、日本は長年戦争をしていないので、軍艦を向かわせると言えば、怖がってすぐに交易を許すはずだという拙いはかりごと巡らしたのであろう。愚か者は哀しいことに、(そうした拙い計略を)妙計と心得て子供を脅すようなことをするのである。

(※以下の1行分は、脱字や誤字があって解読が難しいので原文をそのまま書き写す)

□[元ノママ]書翰ヲ波濤ヲ隔テ持参ナスコトハ、苦方[元ノママ]シナキ故カ、

交易を許せば、(日米)両国に利益になるであろう、利益がないときは、その時になって(交易を)止めることもできるというのは、愚か者が言うことだ。やってみなければ知ることができないのは愚か者である。賢い者は試してみなくても、その損益は目前に見るがごとく判断できる。

たとえ利益があったとしても、我が国は利益を好まず、道義をもって利益とする。旧例だけを専ら守るのではなく、利益を好まない国風であるがゆえに交易を許さないのである。そういう国に対して軍艦数隻を向けようというのであれば、勝手にすればいい。

(我が国が)外国の盗船を防ぐために用意した大砲は数知れないほどある。今回新たに百里を走る大艦百艘を一発で砕く大砲数千を東国(関東の意か)で製造した。その他、全国六十余州で造る大砲は数えるにいとまがない。それだからいささかも武器に不足はない。米国は大国と聞いている。定めし人数も我が国より百倍もあるだろう。軍艦もそれに準じてたくさんあるだろう。あらん限りの軍艦を(我が国に)向かわせればいい。仁愛を大切にする国風なので殺生を嫌うとは言っても、義を見てせざるは勇なきなりである。(貴国の)交易を口実にして死を望み、人民を捨てようとする心持ちを憐れに思うから、大嫌いの殺生ではあるが、そちらの望み通り、一人残らず殺し尽くしてやろう。

我が国は外国と違って、どの人間も才知があり、雑兵や庶民に至るまで智謀がある。戦う力も強い。我が国の一人の力量は外国の百人に相当する。そのなかでも一騎当千の強者は数えるにいとまがない。ことに海岸に台場(砲台)を構え、土俵を積み、竹の束を並べ、ボンベン(洋式大砲)の砲弾をしのぐために大材(大きな木材の意か?大材には優れた才能という意味もあるので、どちらとも断定しがたい)で覆い、警固の備えが厳重であるから、軍勢を一人といえども損することはあり得ない。

しかしながら貴国(のような大国)であっても、米穀が不足して人民を養うのに足りないのだろう。だから、我が国と和を結んで交易し、羅紗(らしゃ。厚地の毛織物)や猩々緋(しょうじょうひ。デジタル大辞泉によれば、「やや青みを帯びた鮮やかな深紅色。また、その色に染めた舶来の毛織物」)、金銀石等と米穀との交易を許さなければ軍艦を向かわせるというのは一時的な手段としてのウソであって、そういうふうに言えば、軍艦を恐れて交易を許すだろう。そうすれば(米穀不足に悩む)人民をなだめるのに足りるだろうという計略であることは火を見るより明らかであって、浅ましくも言語道断である。

我が国は米穀に不足していないので、和を好まない。ゆえに交易を嫌う。交易しないがゆえに、国中で食べるほど(多くの量の)米穀をつくると言っても、外国へ送るような余分のものはつくらない。漂流船等が来れば、(船員たちが)この国で食べるものを与えるだけである。米穀よりも貴重な宝はあり得ない。金銀にまたがり、羅紗・猩々緋にまとわれているとしても、米穀がなければ生を保つことはできない。

一国に交易を許せば、万国がそれを聞きつけてやってくるであろう。小国が数百の大国と交易をすれば、日本に羅紗・猩々緋や珍しい物が山のように積まれ、米穀は一粒も残らぬようになるにちがいない。

一方に損があれば、もう一方に利益がある。ゆえに交易に両利(=両方とも利益を得ること)なし。両国に利益があるなんてことを賢い者は信じない。たとえば、一俵の米を金百両と交換したら、愚か者は大きな利を得たと思うにちがいない。しかし、米穀が尽きるような事態になったら、一俵の米を持つ者は十両の金を持つ者に勝るはずだ。この時に至って、万両の金と交換しようと言われて自分の米を譲る者がいるだろうか。だから昔から交易を許さなかったのである。オランダは万国の産物を仲買して売る商売人だから、今でも便宜上のてづるとして利用しているだけであって、交易をしているのではまったくない。

交易を許さなければ軍艦を向かわせるという書翰を出し、その交易を拒まれたら、ウソつきと思われることを恥じて軍艦を派遣するようなことは愚か者のすることで(※以下七字は意味がよくわからないので原文を引き写す)左ニテハ有度事、(※私には、そうであってほしいこと、という意味にとれるのだが、とすると脈絡がつかなくなる)。

それとも、もともと道理に基づいて贈った書翰ではなく、利益を得るための書翰なのであれば、恥を捨て利益の追求に専心することこそ肝要だろう。もし恥を思わず、(日本を)小国と侮って軍を差し向けたら、多くの軍艦を失うだろう。決して粗忽な振る舞いをするべからず。交易が実現しないのを恨んで軍艦を向かわせ戦争をするのは、利益が得られないのを恨んで、さらに損を重ねるようなものだ。何が利益で何が損なのか、よくよく分別して損をしないようにすべきである。利益を得ようと思うのなら自分の国を守って、日本には来ない方が安穏であって利益もある。死ぬことはたやすい。生きることは難しい。(米国の)帝は国にあって安穏であるとはいえ、戦場に赴く大将たちから雑兵に至るまで、日本に来れば残らず死ぬにちがいない。米国に残された妻子は全員が討ち死にしたと聞いたなら、あふれる涙が川となって流れるだろう。嘆き悲しむ声は大山を動かすにちがいない。

ああ、その声は日本人の耳には聞こえずとも心には聞こえるだろう。王国(米国のこと)よ、そうなるのがいやなら軍艦の派遣を止めよ。こうして(米国の親書に対する)返事を送るのは、我が国においては軍艦百万艘が来ても、防戦して皆殺しにする用意が完全に整っているからこそである。我が方の返事が届き、軍艦が出動しないということになったら、貴国の大将たちや雑兵に至るまで安穏であるから、国は永久に続くだろう。我が国の諸侯や多くの侍たちも安穏であることを望んでいる。外国人であっても殺生はしたくない。(親書に対する)返事は以上の通りである。

嘉永六年 日本より
アメリカ国へ

右の返事は誰が書いたのかわからないが、今の時代の人心がどういうものであるかを知るために書き写しておく。

一 同月二十二日夜半、永国寺から出火。我が家から三丁ばかりのところなので、ひと働きしようと駆けつけたが、早くも火が一面に広がり、何の働きもできなかった。幸いに風がなくて鎮火した。もしも風が激しくなっていたら、類焼したかもしれず、何はともあれよかった。しかしながらどうしたことか小柄(こづか。小刀)を落とし、紛失してしまった。貧窮の身であるから小柄一本(の紛失で)も大いに困る。

一 同二十三日、西洋流大砲の試し打ちにつき、明け方から吸江渡場に集合し、それから舟に乗って、早朝、仁井田浜に着いた。

ちょうどそのとき久万清之丞が来た。久万が言うには、昨夜の永国寺の火事に一番で駆けつけ、働いたのだそうだ。それを聞いた人々はひそひそ話に(永国寺に)一番に駆けつけた人はもうひとり来るはずだと言った。やがて仙石庄助が来た。果たして仙石は一番に駆けつけたと言ったので一同大いに笑った。久万と千石はいつも大ぼらを吹くので、彼らの手柄話を信じる者はいない。平常の心がけを慎むべきということである。

当節、西洋流の大砲はまだなく、大庭恒五郎方に「ホーイスル」砲というのがある。六貫目である。大庭の「ポンベン」と呼んだ。同家は(門閥ではない、馬廻り以下の)平士(ひらざむらい)だが六百石の知行とりで、大いに砲術に力を注いでいる。そのおかげで、自分もいささか(砲術の実技を)試みることができるようになった。

[参考]

一 先月中旬、「オロシヤ」船長が交易の件について願い出るため長崎表に渡来したとのこと。今月、蓮池町の商人・大徳屋某が長崎へ仕入れに出かけて帰ってきたが、大徳屋は露国船長の供述書を(長崎の)町役人から取り寄せ、土佐藩庁に提出した。(この一件で米国だけでなく露国までもが日本を狙っているということが知れ渡り)これよりますます諸武芸が行われ、なかでも砲術が盛んになった。

九月

一 この月朔日、将軍の喪の期間中なので、毎月恒例の拝謁は取りやめ。

今月初めのお達しにより、もろもろの神をまつる儀式・祭りは一切中止とのこと。

[参考]

一 同七日、土佐七郡が取分(※たぶん、とりわけと読み、それまで高知に集中していた行政機関の各郡への分散配置を意味しているのではないか。あくまでも私の推測だが)となる。

ただし(土佐の西端にある幡多郡は)古来から郡役所が(中村に)あり、御郡奉行(郡の行政を司る役職)が二人ずつ常駐していた。

このたび新たに、香我美郡は赤岡に、安芸郡は田野に、高岡郡は須崎浦に郡役所が設置され、その後、郡奉行が二人ずつ常駐することになるはず。[吉田元吉の参政のとき、改革の第一歩である]

新設の郡役所は、(翌年の)安政元年二月二十八日に落成、郡奉行はじめ下役等の家族が引っ越しとなる。(注②)

【注②。この郡役所新設は、山内豊信(のち容堂)・吉田東洋ラインが行った藩政改革の一環。その狙いは二つあって、一つはこれまで藩政を牛耳ってきた家老たち(土佐藩には十一人いた)の権限縮小である。『佐佐木老候昔日談』で佐佐木はこう語っている。

「なほ家老の権力を抑える為に、吉田元吉の献策を容れて、九月新に郡府(=郡役所)を設けることにした。但し幡多郡には、昔から郡府があつて、奉行が両人詰めて居たが、他の郡にはなかつたのだ。然るにこの時、香我美郡は赤岡に、安芸郡は田野に、高岡郡は須崎に、また土佐、長岡、吾川三郡を一括して、高知に郡府を新に設け、奉行両人づつ詰める事になり、翌年二月出来して、奉行始め下役の家族までも引越した。これ迄は各郡とも、土居付きの家老(実質的な支城=土居と私領を持つ譜代家老)に領内人民の賞罰を許し、就中(高岡郡の)佐川など生殺権まで与えて居つたが、ここに至りて悉く夫を取上げて終つた。

土居付の家老は、佐川が深尾鼎で一万石、宿毛[幡多郡]が山内太郎左衛門[本姓安藤、維新後伊賀、後男爵]で八千石、安芸が五藤主計で三千石。

さて豊信公が、家老をヒドイ目に會はせたのは、その権力を押へ付ける思召に相違ないが、(中略)土居家老の賞罰の権を回収されたのは、まづ中央集権とでも言ふべきであらう」

郡役所新設のもう一つの狙いは、海防の強化である。『山内容堂のすべて』(山本大編・新人物往来社刊)所収の論考『山内容堂と吉田東洋』(福地惇著)に次の記述がある。

「黒船襲来の衝撃を契機に豊信の藩政指導が強化され、上述したように吉田元吉は大目付に抜擢され、しかも三カ月後の十二月、さらに仕置役(参政)に昇任した。仕置役とは、藩政運営の実質的最高責任の役職である。豊信が如何に元吉の才覚・手腕に期待をかけていたかがわかろうというものである。

元吉は、まず初めに以前(弘化二年)豊煕に提出した意見書に提示した海防構想を政策化した。嘉永六年九月から翌年において実施した、いわゆる郡府増設と民兵制度の整備がそれである。これ以前から、西部の幡多郡の中村には郡府が置かれ、二名の郡奉行が詰めていた。この度は、東から安芸郡は田野、香我美郡は赤岡、土佐・長岡・吾川の三郡は高知、高岡郡は須崎というように、それぞれ郡府が新設され、奉行両名が常駐して、所轄の郷士・地下浪人[いわゆる「駆け付け郷士」]を統括・指揮することにした。そして、翌安政元年九月には、不足兵員を補充するために庶民のなかから強壮な者を選抜、生業の余暇をはからってこれらを郡府に集めて軍事訓練を施すという民兵制度を採用したのである」】

一 同月八日、(太守さまが)御家老たちをはじめ役職にある家臣たちを召され、次のような宣言をされた。

我ら万事不行き届きのため、いつのまにか上下の隔絶ができて弊害が生ずることが少なくなく、無益の出費のみに成り果てた。しかしながら、これまでのいきさつは差し置き、この度、御先代様(第十二代藩主・豊資。隠居後も藩政に影響力を持っていた)の御趣意に従い、政事改革により積年の流弊を洗い落とすよう役人たちに命じる。いずれも政体に関係する事柄である。これに対し、それぞれに意見があれば、速やかに申し述べよ。もちろん文武の道に励み、公正廉直の心を持って、我らの用を待つのが肝要である。(注③)

【注③『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』のなかで佐佐木は「(豊信公は)上下疎通、言語開放といふことを新太守としての立場とせられた。九月九日、御家老中有役の面々を召されて、夫を宣言された。自分等も支配頭の宅で、その思召を拝承した」と述べ、豊信公の宣言の内容を紹介したうえで「従前は献言などを致す場合は、支配頭へ申出る等、種々面倒な手続があつたが、スッパリ夫を廃して仕舞ひ、御近習目付へ直接申出る。もし近習目付が出勤して居ない時には、御用役迄、御用役が詰刻中ならば、直に二ノ丸(=本丸に隣接した城主の館)へ罷出で苦しうないといふことになつた。実に思ひ切つた英断である。家中一般も余程感動した模様であつた」と振り返っている】

[参考]

一 同八日、(以下は例によって解読困難なので原文のまま引用し、私がわかる範囲で注釈をつける)御山方(=林政官。そのトップが御山奉行)・御免方(=徴税官。そのトップが御免奉行)・御浦方(=沿岸部の警固や、海事対策などにあたる。そのトップが御浦奉行)、右三場所、御郡奉行ニ属シ、初メ先遣場所御人増ヲ以テ、郡々家族引越シヲ以テ、一郡ニ二人、或ハ三人、被仰付之(※郡役所の新設に伴い、各郡役所に2~3人が派遣されるということはわかるのだが、それ以上のことは解読できない)、

幡多郡

後藤勘四郎 山川孫次郎

高岡郡

坂井堅吉 千屋衛守

三郡(土佐、長岡、吾川の三郡)

末松務左衛門 小八木貞之助

麻田楠馬

香我美郡

市原八郎左衛門 浅井始馬

安芸郡

真邊栄三郎 間 又右衛門

(続。今回もまた意味不明なところがたくさん出てきました。素養のなさを恥じ入るばかりです。このほか私がわかったつもりでも、実はそれが誤訳だったという箇所もたくさんあると思います。いずれは専門家に見てもらって誤りを訂正するつもりですが、それまではどうかご勘弁を。なおこの原稿は再三お断りしているように、東京大学史料編纂所編纂、東京大学出版会刊行の『保古飛呂比 佐佐木高行日記 一』を底本に現代語訳を試みたものです)