わき道をゆく第188回 現代語訳・保古飛呂比 その⑫

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嘉永六年 佐佐木高行 二十四歳

[参考]

一 九月十日、大小の銃を江戸に送った。その届書に曰く。

一 鉄砲 五十三挺

うち六貫目玉(重さ約22キロの弾を放つ大砲) 一挺 ただし台車つき。

一貫目玉(重さ3・75キロの弾を放つ大砲) 二挺 ただし台車つき。

十文目玉(重さ37・5グラムの弾を放つ銃) 五十挺

一 玉薬箱(火薬や弾丸などを入れる箱) 一つ、ただし台車つき。

一 鋳玉(いだま。鉛を溶かしてつくった弾丸)ならびに鋳鍋(いなべ。鉛を溶かすときに使う鍋)そのほか小道具一式。

右は(異国との戦いに)備えて土佐の国より(海路)江戸表へ送ったものなので、浦賀御関所(江戸湾に出入りする船を検査する”海の関所”)を滞りなく通過できるよう、認証印をたまわりたい。

嘉永六癸丑年八月十四日

松平土佐守

老中宛て

一 九月十五日、太守さまが厚い思召しを示されたので、(支配頭の)渋谷左内殿のお宅で拝承した[八日参照]

我ら万事不行き届きのため、流弊が多岐にわたった。ついてはご先代さま(第十二代藩主・豊資公。隠居の身だが、藩政に影響力を持っていた)の御趣意に基づいて、政治の改革をする。手許においてもきっと無益の弊のないように致す。流弊を改めるため、古い格式に安住せず、私の思いを真正面から受け止め精励せよ、以上。

九月八日

今後、家臣が(藩上層部に)献言をする場合は、従来のように支配頭に申し出る必要はない。御近習目付(注①)へ直接願い出て、その指図に従うよう。もし御近習目付が出勤していないときは、御用役(=側用役)に申し出て、その指図に従うよう。御近習目付や御用役が出勤している時間なら二ノ丸(藩主が居住する御殿)へ直接参上するのはもちろん構わない。その際、御家老への挨拶を怠らぬよう。

御家老が二ノ丸へ出勤されているときは、御近習目付や御用役の勤務場所でご挨拶を申し上げ、格別ご自宅にまで挨拶に行く必要はない。

上申書を提出する者も、その手順は同じである。

【注①平尾道雄著『土佐藩』によれば、土佐藩の「行政機関は近習(きんじゅ)と外輪(とがわ)にわかれ、前者は内政官として藩主の江戸参勤に側近するものに近習家老があり、側用役や内用役・納戸役がこれに付属し、その勤務を監察するものに近習目付がある」。容堂・東洋ラインの藩政改革は、これまで複雑だった意見具申の手続きを簡素化した。これにより下層の家臣の意見もくみ上げられるようになった】

右の件につき、後年、ある人が残した筆記があると友人の山川良水が言ってきた。左の通りである。

このとき佐佐木三四郎(高行のこと)は進んで意見を申し上げ、森四郎もそれにつづいた。なお(二人は意見具申の際)肩衣を着て、袴をはいていた。

一 同二十五日、二十六日、二十七日、藤並明神の御祭礼があった。

一 この年、(容堂侯による)御改革が行われ、従来、土居付き家老に委任していた領内人民の賞罰権をとりあげた。なかでも(高岡郡)佐川は人民を生殺する権限まで委任していたが、それをすべてとりあげた。つまりこれは結局、家老の権力を削ったということだ。

なお佐川(の土居付き家老)は深尾鼎一万石、宿毛(の土居付き家老)は山内太郎左衛門[本姓は安東、のちに伊賀と改める]八千石、安芸(の土居付き家老)は五藤主計三千石。

十月

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。

[参考]

一 同七日、芝・品川の土佐藩両屋敷内における、大勢の軍事訓練ならびに三器音入(=ほら貝・鐘・太鼓の使用)、空砲の発射を幕府に申請した。

大勢の軍事訓練や三器音入稽古は、曲輪外屋敷(=江戸城の城郭の外にある屋敷)においてであれば(各藩の判断で実施して)構わないが、空砲を打つ場合は先ごろ命じた通り(事前に許可を得て)行うよう、このたびも幕府からお達しがありました。土佐藩では品川大井村の下屋敷、芝三田の中屋敷において大勢による軍事訓練ならびにほら貝・鐘・太鼓を使用した音入稽古を致したく、また品川屋敷では空砲も打ち放ちたいと存じます。土佐守は現在国許におりますので、この段、私より伺い奉ります。以上。

松平土佐守内

十月七日 原半左衛門

この文書には次のように記した付箋があった。

可為伺之通候(伺いの通りにしてよろしい。幕府からの返答)

[参考]

一 同八日、土佐藩から石立村字鍋屋(石立村の小字が鍋屋というところ。もとは鍋釜を鋳造していた場所らしい)へ、来年二月中までに大砲百三十挺を鋳造するようご命令があった。

しかし、人々はその製法を知らず、ただ鉄ならばよいのだろうと考え、粗悪な鉄を用いて大砲をつくったため、しばしば破裂して死傷者が多く、ついに使い物にならなかった。

[参考]

一 同二十七日、太守さまより小南五郎右衛門(容堂の側近。当時、側用役に抜擢されたばかりだった)に遣わされた御自筆の手紙は次の通り。

馬場源馬(明治の自由民権運動の闘士・馬場辰猪の祖父。西洋流砲術家・田所左右次に入門していた)が考えついた独輪車仕掛け大砲の工夫は、はなはだもっとも至極で、簡便であり、海岸防御のため備え置けばとても役に立つ道具と思う。

しかし、(源馬の提案を採用すれば)土佐の海岸の砲台三十余カ所は、すべて(源馬のように)田所左右次の弟子でないとうまく発射できなくなり、不自由なことになる。それに片歪み(組織の重心が一方に偏って歪になるという意味か)の恐れもある。大砲の工夫については先日、他の者からの提案もあった。大目付(司法警察の元締め)役場での詮議も行われるのだから、いずれの意見も私のところへもってくるよう、大目付たちへ返答かたがた指示してしかるべしと思う。便利のよい車台の工夫は、田所左右次の流儀のみに限らず、そのほかの流儀にもあるので、そちらの方もなお検討するように。(※いちおうわかる範囲で訳したが、誤訳の可能性あり。ご容赦を。注②)

【注②参考のため、前に訳した同年七月の記述を再度紹介しておく。

一 七月二十七日、西洋流砲術師家・田所左右次のところに入門した。

「メリケン」船の渡来以来、銃砲でなくては海防の役に立たないとのことで、にわかに砲術が行われるようになった。砲術は、これまでは身分の高い武士が荻野流等の古流を学んでいた。それも花火等を打ち上げる非実用的なもので、遊び事の道具みたいになっていたので、自分らのような貧しい者は学ぶことができなかった。しかし、このたびの事件より西洋流砲術が行われるようになったので、田所左右次に入門し、にわかに稽古するようになった。といっても大砲などは金がかかるので稽古できず、せいぜい手伝いをするくらいである。

田所左右次は非凡な人物で、家業の砲術はもちろん、何事も大胆な仕事を企てるので、多額の借金を抱え、大山師の風がある。世の人々は田所の大天狗と呼んでいた。しかし、西洋流砲術を早くから学んでいたので、「メリケン船」到来後は大いに時流に乗った。同門の人に馬場源馬[馬場辰猪の祖父]という老練の人がいる。(彼は砲術を会得するのに)種々工夫等をしていて、これまた非凡な人物である。】

[参考]

一 十月二十八日、再び鉄砲を江戸に送る。

一 鉄砲 三十四挺

内三百目玉野戦筒 一挺

ただし台車つき

百五十目玉野戦筒 一挺

ただし台車つき

一貫目玉筒 一挺

ただし台車つき

拾文目玉筒 三十挺

一 鉄砲玉 八千百

内一貫目玉 百

十文目玉 三千

五文目玉 五千

一 鋳鉛ならびにそのほかの小道具 一式

右は(異国との戦いに)備えて土佐の国より(海路)江戸表へ送ったものなので、浦賀御関所(江戸湾に出入りする船を検査する”海の関所”)を滞りなく通過できるよう云々。

嘉永六癸丑年十月二十八日

松平土佐守

老中宛て

[参考]

一 同月二十九日、幕府が御目付たちに渡した書きつけと添え書きは次の通り。

大目付(注③)へ、

武術修業については、それぞれの好みや意見があるけれども、砲術は異国船防御の要である。なかでもいろんな流派の西洋式打ち方は近年になって導入されたものだから、習熟している者はいまだ少ない。このたび江戸湾警固のため西洋のやり方で砲台(お台場)を築造することになったため、西洋流の砲術も手広く学ぶ必要がある。(幕府においては)そういう方針なので、その心得をもって、西洋流砲術に習熟した者に相談し、ほかの諸流派と同様に稽古に励むよう。右の趣旨を一万石以上の大名たちにその都度伝えられたい。

以上の公儀御書き付けの写し一通を御奉行中(これが誰を指すのか不明)が渡されたので、すぐに通知します。国許においても右の趣旨に沿って、砲台等は西洋流のやり方で準備し、(砲術や軍学などの)諸流派一同は西洋流の打ち方の稽古に励むよう、お仲間たちご家来の隅々に至るまでこの書き付けの趣旨を理解するようご指示ください。以上。

十月 日

村田仁右衛門

坪内求馬

ちなみに、この(幕府による西洋流砲術採用の件が)申し渡されたのは(家老に次ぐ身分の)中老たちだった。その後、追々、ほかの家臣たちにも言い渡された。

(※高行がこういう注釈をつけたところを見ると、幕府による西洋流砲術採用のニュースはこの時点では公になっていなかったようだ。江戸駐在の中老身分の村田らが独自で入手したニュースを国許の中老たちにいち早く知らせたということだろう。その証拠に文中に「御仲間中御家来末々ニ」伝えろという文言がある。高行が早くからこうした狭い身分意識に批判的な視点を持っていることに注目したい)

【注③精選版日本国語大辞典によれば、幕府の大目付は「老中支配に属し、幕政の監察にあたるとともに、諸大名の行動を監視した。旗本から選ばれ、定員は四名か五名で、うち一名は道中奉行を兼ねた。はじめ総目付と呼ばれ、大横目、総横目の称もある」】

十一月

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。

[参考]

一 同じ朔日、 (老中首座の阿部)伊勢守より渡された(書き付け?)

アメリカ合衆国よりの書簡の件について(諸侯らの)建議をじっくり検討し、参考にさせてもらった上で(将軍の)お耳にも入れた。諸説それぞれの違いはあるけれども、詰まるところは和戦の二字に帰着する。しかしながら、(諸侯らの)建議にあった通り、現時点では近海をはじめとした防御の態勢は万全とはいえない。(米側の)書簡の通り、いよいよ来年に再びやってくるとしたら、(そのとき米側の要求を)聞き届けるかどうかはともかく、なるべく平穏に取り計らうつもりだが、向こう側が乱暴に及ぶことがまったくないとは言い難い。そのときに至って覚悟が定まっていなければ、国辱を被ることになる。(そうならないよう)実際の防御に役立つ備えを一心に心がけ、憤りをおさえ、義勇を蓄え、米国側の動静をよく観察するよう。万一米国側から戦端を開いたなら、一同奮発して毛筋ほども御国体を汚さぬよう、上下を挙げて精神力を尽くし、忠勤に励むようにとの(将軍の)上意である。

[参考]

一 同月五日、幕府が(土佐の漂流民で、米国から帰還した)中浜万次郎を招聘して普請役(注④)に任じた。その辞令は次の通り。

松平土佐守家来

中浜万次郎

右は御普請役に召され、御切米二十俵二人扶持を下されたので申し渡す。その俸禄米の支給を勘定奉行が承け合うように手配する。(後段の原文は、尤御勘定奉行へ承合候様可仕候。誤訳かもしれないので念のため書いておく)

【注④。精選版日本国語大辞典によれば、御普請役とは「 江戸幕府の職名の一つ。勘定奉行に属し、江戸・関八州、その他の幕府領、および幕府の管轄した河川の灌漑・用水、ならびに道や橋などの土木工事をつかさどったもので、勘定所詰、在方掛、四川用水方の三課に分かれ、元締・元締格・普請役などの役職があった」】

【注⑤世界大百科事典第2版によると、切米(きりまい)は「江戸時代,給地を持たない武士に主君が支給する俸禄米のこと。蔵米ともいう。江戸幕府においては,直属の家臣(旗本,御家人)のうちに,知行地を与えられた知行取と,知行地をもたない蔵米取がいたが,後者に与えられたものが切米である。切米の支給は通例,春(2月),夏(5月)に4分の1ずつ,冬(10月)に残りの全部を渡すのを原則とし,このうち春,夏の分を春借米(はるかりまい),夏借米と称し,冬の分を冬切米と呼んだ」

またブリタニカ国際大百科事典によると、扶持とは「封建時代の武士が主君から与えられた俸禄。鎌倉~室町時代には土地と百姓を与えるのが原則であったが,戦国時代,米を給与する方法が起り,江戸時代になると,武家の離村が進んで城下町に居住するようになり,所領を米に換算する方法が一般化した。特に蔵米取の者に対して行われた給与方法をさすようになった。1人1日5合の食糧を標準 (一人扶持と呼ぶ) に1年間分を米や金で与える方法が普通で,下級の旗本,御家人,諸藩では下級武士に,身分に応じて何人扶持と定めて,広く行われた。また武士だけでなく,特殊な技能者なども何人扶持でかかえるという方法が行われたり,幕府,諸藩に尽力した商人,百姓にも与えられた」】

十一月五日

[参考]

一 同十三日、品川大井村にある土佐藩私邸の外の海岸に砲台を築くことの許可を幕府に願い出た。その(幕府あて)文書に曰く。

来春、アメリカ船がやってくれば戦争におよぶかどうかはわかりませんが、浦賀より内海(の江戸湾)に大砲や砲台を備えるよう厳重に仰せつけられました。私は何代にもわたって御厚恩を受けている身なので、このたびは戦艦がやってくる要衝の地の警固を願い出て、手勢を存分に働かせ、御厚恩の万分の一にも報いるつもりです。

私の領国である土佐は南洋に突出している土地であります。アメリカ人が再びやってきたとき、浦賀表の厳重な警固態勢を目の当たりにすれば、艦隊を分散させ、(太平洋に面した)沿海諸藩を脅して略奪しようとするに違いありません。私の領国はその際、軍事上の要衝にあたるでしょう。辺境の地といえども一度、外国による辱めを受ければ、私自身の恥辱のみならず、恐れながら御公儀の恥辱にもなると存じます。

ついては、これまでの海防手配のやり方では、このたびの賊艦(米国戦艦)に対抗する態勢を整えるのは難しいと存じます。にわかに大砲・砲台や番兵をそろえようとしても、広大な海岸なのでその費用は莫大になりますので、日本中の精力を尽くしても足りないでしょう。私が江戸に参勤したとき、一廉のお役に立つよう働く準備もうまくできず、心外の至りでございます。このうえははなはだ恐れ多いことではありますが、どうか(前述の)土佐特有の事情をご検討のうえ、相応のご指示をいただきたく存じます。

すでに(幕府からは)海岸通りに屋敷を持つ諸侯は、その地理に応じ、防御態勢の構築に万全を期すよう仰せつけられております。ちょうど品川の浜川町に私の控え屋敷がありますので、そこに砲台を構え、私が江戸にいる間、一手に取り仕切るよう仰せつけられ、近海の警固にあたるよう命じていただければ、もし賊船が品川の海辺に乗り入れてきた場合、兵の人数は少なく、器械は粗悪であっても、粉骨砕身いたします。

(品川に設ける)砲台などの警固態勢については追々図面をもってお伺いを立てますので、この件についてご検討のうえ、御許可いただけますようお願い申し上げます。以上。

十一月十三日       松平土佐守

(高行が)思うに、幕府は九月二十六日、江戸の海沿いに邸宅のある諸侯に命じて、地勢を考慮に入れて砲台を作るよう命じた。我が藩の(幕府への)要請はおそらくこのためだろう。

[参考]

一 同二十六日、(土佐藩の)芝三田邸の中に鉄砲射的場をつくることの許可を幕府に願い出た。その(幕府あて)文書には次のように記されていた。

芝三田の藩邸内に角場(射撃場)をつくり、家来たちがいつでも鉄砲の稽古ができるようにしたいのでよろしくお願いいたします。

十一月二十六日     松平土佐守

右の文書には次のような(幕府の返答を記した)付箋があった。

伺いの通りにしてよろしい。ただし鉄砲玉の重量については百目(百匁=375グラム)以下で稽古をするよう。

一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。同夜、臨時御用のため、来春、江戸表へ行くよう仰せつけられた。

夜半、藩から切紙(注⑤)が届けられた。その切紙には次のように記されていた。

(佐佐木)三六の惣領  佐佐木三四郎

右の者、臨時の藩の用務により、来春、江戸表に差し向けられる。前もってその用意をしておくよう。

嘉永六丑年十二月朔日

別紙の通り云々、

渋谷左内(支配頭)より

佐佐木三四郎殿

三六惣領   佐佐木三四郎

右の者、臨時の藩の用務により江戸表に差し向けられる。(江戸)在勤中、俸禄を百石と定めて支給するので、この旨を告げ知らせておく。以上。

嘉永六丑年十二月

別紙の通り云々。

渋谷左内より

佐佐木三四郎殿

【注⑤世界大百科事典第2版によると、「ふつうの文書の大きさの料紙を竪紙(たてがみ)といい,それを縦横適当に切ったのが切紙である。正式な文書は,かならず竪紙に認めるが,簡単な私的なものには,はやくから切紙が用いられ」た】

(切紙が届いた)翌日、廻勤(任官したときなどの挨拶回り)をお受けした。

今回、中老・物頭・平士ならびに郷士の百二十九人が(江戸行きを)仰せつけられた。いずれも江戸表の御警衛のためである。私はこのたびのご命令を受けたことを名誉だと思った。(一斉に出張命令が出たため)武具の用意に人々が奔走した。太平の世がつづいたため、いずれも十分な武備を持っておらず、実に滑稽なさまである。自分は大貧窮で、はなはだ困却したが、幸いにも、質入れしていた家伝の鎧を取り出すことができ、それを修復したので、まずもって安心した。

この頃の俗謡に曰く。

    俄か細工の皮具足

    盗人捕へて縄を綯(な)ふ

一 同十二日夜、石立村の大砲鋳造場から出火した。まさに今、大事の御場所なので、駆けつけ、大いに(消火に)尽力した。衣服が水びたしになり、ひどい寒気がした。自宅から半里も離れていたので大いに難儀した。

ちなみに記しておくと、後年、ある人から来た手紙に「鋳造場出火のとき三四郎殿は壮年で、すこぶる働いた」と福岡謙三翁が語っていたと書かれていた。福岡は宮内と称し、家老で、当時執政を勤めていて、火事現場に出向いて指揮を執っていたのを覚えている。そのとき、私の働きを目の当たりにしての談話だろう。

(続。今回もまた難渋しました。以前、ざっと読んだときはわかったような気がしていましたが、いざ訳すとなると、わからないことだらけで、途中で何度も立往生します。誤訳だらけで、読者にはご迷惑をおかけしますが、それでもいったんやり始めたことは最後までやり通すつもりです。どうかよろしくお付き合いを願います)