わき道をゆく第189回 現代語訳・保古飛呂比 その⑬
嘉永六年十二月
[参考]
一 同二十四日、藩より次の通りの通達があった。
来年の海防軍配(=軍勢の配置)
一 浦戸(軍事上の要衝である浦戸湾の湾口左岸) 深尾内匠(家老)組
一 種崎(同じく浦戸湾の湾口右岸) 深尾弘人(家老)組
一 仁井田(種崎の北側。浦戸湾の右岸) 桐間蔵人(家老)組
右の年番(=一年交代での勤番)三組が(浦戸・種崎・仁井田の)各砲台を担当。
一 十市(仁井田の東側) 山内掃部(中老)
右の年番一組が砲台に駆けつけ。
一 屯集場(=集合場所) 里改田(十市の東側) 山内昇之助(家老)組
右は前ノ浜より久枝に至る海岸(里改田のさらに東側)を担当。
一 屯集場 西孕 二ノ明組
右は種崎より十市海岸を担当。
一 屯集場 長浜(浦戸の西側) 山内左織(家老)組
右は浦戸より仁ノ村に至る海岸を担当。
以上の三組は援軍で、右の通り定め置くけれども、当然、強弱の勢いに応じて互いに助け合い、防御することになる。
なお、年番・援軍ともに大頭の宅に集まり、形勢に応じて砲台あるいは屯集場に赴くこと。もっとも明組は(大頭の屋敷ではなく)武芸所に集合し、形勢に応じて砲台あるいは屯集場に赴くこと。(注①)
【注①。ここで、土佐藩の軍勢配置の基本単位についての佐佐木の談話をもう一度確認しておく。「もと土佐には何組、何組といふて、すべて十二組ある。之を御馬廻組と称して、家老がその組頭となる。尤も一明組と二明組は、家が断絶した為に組頭も家老ではなかつた。外に扈従組と云ふのがあるが、これは旗本である。又御留守居組は平士の下級にて十二組扈従組の以外の者だ。この十二組の中に、一組二十人位づつ郷士を組入れた。郷士は総計八百戸あつた。組以外の者は、小組郷士というて、郷士頭が支配した」。つまり土佐藩の家臣団はその身分に応じて各十二組に分けて構成され、その一番上が御馬廻組で、家老がその組頭(=大頭)になる。ただ一明組、二明組だけは家老より格下の者に率いられた御馬廻組集団ということになる。】
寄合組(※これがどういう集団か不明)
右は月番(=一カ月交代の勤番)の宅へ集合。
山内下総(家老)組
一明組
右は大頭の宅に集合。もっとも一明組は教授館に集合。
柴田備後(家老)組
左御扈従組
福岡宮内(家老)組
右御扈従組
右は大頭の宅へ集合。
右の御城下を守る七組は形勢によっては援軍に差し向けられることになる。
御留守居組
右はほかの諸組が押し出していった後、追手・御屋敷・北ノ口の三つの御門番を取り仕切って警固にあたることになる。
以上。
このたび詮議のうえ海防対策を右の通り仰せつけられた。異国船が来たという急報があったら、早速、右の持ち場に集まり、形勢に応じてそれぞれ出動するよう仰せつけられたので、各自その心得をもって、あらかじめ武備等の用意をしておくように。
なお、本文の通り定め置かれたけれども、事態急変の際、最寄りのところにすぐさま駆けつけるようにするかどうかは大頭の指図次第とする。
丑年十二月
[参考]
一 同二十五日、藩の通達は次の通り。
来春、浦賀表へアメリカ船が再び渡来した場合、公儀において(米国と)交易されるかどうかは聞かされておらず、戦争におよぶ可能性もある。その場合、土佐は南海に突き出しているという地理的条件があり、賊船による略奪が起きる恐れが往々にしてある。それに備えて実用に適した海防態勢を整え、(太守さまの)手配りにより大砲や砲台を準備するよう仰せつけられることになるので、家臣一同もそれぞれの身分・俸禄に応じて大砲や銃を用意し、その打ち方の技術などを身につけるように。かつまた先日、拝見した(太守さま)御自筆の書き付けにあるように、以前からの悪習に流されているところが少なくなく、藩の財政状況も悪化しているので、(太守さまの)お手元においてもさまざまな無駄を省かれる意向である。皆も(太守さまの)御趣意を厚くお守りするよう心がけよ。
さらに、これまでそれぞれの身分に応じて定められていた格式(※原文は分格)を別紙のように簡素化し、古風質素なものにする。(異国船)来襲の報があったとき、速やかに対応できるように心がけることが肝要である。云々。
丑年十二月二十五日
[別紙]
覚
一 中老はもちろん、物頭・平士で知行高二百五十石以上の面々は各自、重さ百五十匁(一匁=3・75グラム)以上の弾を放つ行軍砲を再来年の卯年中までに備えるよう仰せつけられる。
ただし、現在行軍砲を所持している者、ならびにこれまで(行軍砲を藩に)寸志として差し上げた者は、このたび新たに(行軍砲を)鋳造しなくとも構わない。(行軍砲の)鋳造ができた者たちはその都度(藩に)届け出ること。
一 平士で知行高百石以上二百五十石未満の面々は、十匁より五匁までの(重さの玉を発射する)小銃二丁以上を再来年の卯年中までに備えるよう。もっとも百石に満たない者たちはこの限りではない。
なお、自分の意思で軍砲を備えている者は小銃を備える必要はない。ただし(小銃を)すでに所持あるいは寸志として(藩に)差し上げた者たち、ならびに新たに(小銃が)できた者たちは前文の通り(藩に届け出ること)。
一 中老・物頭・平士の知行高百石以上の者たちで、旅勤の輩(江戸・京都・大坂などの出先で勤務する者という意味か)は、その役についている間は(新たに行軍砲や小銃を)鋳造しなくても構わない。
ただし(出先での)役務を免じられ、あるいは国許での役務を命じられた者たちは、その時から二カ年のうちに(行軍砲や小銃を)備え、もちろん(鋳造が)できたときは届け出ること。
一 芸家(兵学・砲術・弓術・剣術・馬術などの師範)の面々は知行高にかかわらず、(行軍砲や小銃を備えなくても)構わない。
ただし、自発的に行軍砲あるいは五匁以上の小銃を備える面々は届け出ること。
一 中老・組頭・物頭・平士は知行高にかかわらず、ふだん馬を繋げなくても構わない。
一 御馭初め(土佐藩の重要な伝統行事)の際、中老・組頭・物頭の嫡子等は乗馬せずとも構わない。
一 平士の知行高百石に満たない面々は乗馬せずとも構わない。
一 来年の(御馭初めで騎馬武者が一斉に駆ける)武者押しは(実施の)お許しを得た。
一 中老嫡子・組頭・物頭等は年頭三カ日の出仕や、(太守さまの)お見送り・お迎え、それに諸々の御代参(=本人の代わりに神社や寺に参ること)、歴代藩主さまの法事やその当番の際に、槍を持っていかぬこと。
ただし番所や幕張り(幕を張って特別に警戒する場所の意か)の勤番(=交代勤務)の面々は従来の通り。
一 中老・同嫡子は押立御奉公役(※どういう役か不明)の際でも従者二人を召し連れなくても構わない。
一 物頭の類いは公用であっても従僕を召し連れなくても構わない。
一 平士で知行高二百五十石以上の面々は公用であっても従僕を召し連れなくても構わない。
私用での往来の際、従僕がいなくても構わない。
[参考]
一 この月、土佐藩の異国船に対する戦闘配置は次の通り。
覚
一 幡多郡
宿毛より柏崎まで 山内太郎左衛門
一 同
小満目より鈴まで 幡多御奉行所
一 願岡郡
興津より野見まで 高岡御奉行所
一 同
久通より新居まで 深尾鼎
一 吾川郡
仁ノ村より長浜まで 高知御郡奉行
一 浦戸
長岡郡
種崎・仁井田 年番三組
一 十市 年番中老一人
一 香我美郡
前浜より手結まで 香我美御郡奉行
一 安芸郡
和食より大山まで 付属持場 五藤主計
一 同郡
唐浜より甲浦まで 安芸御郡奉行
一 この年夏七月、冬十二月、肥州長崎へ「ロシヤ」船渡来の風聞あり。
[参考]
一 同月、幕府の町触れ(町の住民に対するお触れ)は次の通り。
ことし六月に浦賀表に異国船が渡来したが、ほどなく退帆した。これは(幕府に)願いがあって渡来したもので、みだりに騒ぎ立てることではないが、非常時に備えて砲台ができ、国持ち大名による厳重な警固も仰せつけられた。今度異国船が渡来したら、火消し役はじめ武家、町家でも早半鐘(=急を知らせる半鐘の連打)を打ち鳴らすので、決して騒ぎ立てをせぬよう致すべきこと。
一 同年、幡多郡奉行の山川孫次郎が中村の郡役所に在勤中、山川の長男・久太夫[良水こと]の建議により、幡多郡の下田港に砲台を設けることに着手した。土佐第一の砲台だという。縄張りは樋口眞吉である(※この縄張りという言葉をどう解釈するか難しいのだが、ここは企画・設計という意味にとっておく)樋口は幡多郡の人で、文武に通じた人である。自分(高行のこと)は昨年来、江戸本郷住まいの浪人・石山孫六宅で、樋口と剣術修行を共にした。その際、(樋口は)佐久間象山の門人になり、砲術を学び、今春(高行と)一緒に帰国した。このため西洋流のやり方で建築したという。(高行は)まだ見ていない。
[参考]
一 同年、小倉氏は次のような筆記を残している。
アメリカとロシヤが浦賀へ渡来するに至って、兵端が開かれることを恐れたためか、迅速火急に中村・須崎・赤岡・田野の四カ所に郡役所を置き、武備海防を兼務させた。そして郡ごとに民兵を設け、郷士や地下浪人(郷士の資格を他人に譲渡した者)とともにその兵卒とした。また大いに大砲を鋳造し、海岸の砲台に設置し、国中のどこでも大砲連発の音が響かぬところがない。月を重ね、年を経るごとに外患内憂が激しくなり、兵隊の訓練が大いに行われるようになった。およそ士卒の兵籍に入る者が十大隊あって、そのうち五大隊がすでに熟練している。そのほか浪人や民兵がまた数大隊ある。これに加えて、下田・須崎・種崎・浦戸の四砲台は非常に堅固であって、そこに備わる大砲は数千挺にのぼり、これにより鉄製の船を粉砕するにちがいない。云々。
保古飛呂比 第三巻 安政元年より同二年まで
安政元年甲寅 嘉永七年十二月に改元 佐佐木高行 二十五歳
正月
一 この月元日、新年の御祝詞を述べるため登城、例年通りお流れ酒を頂戴した。また本日の日行司(当日の世話役のようなものか?)を仰せつけられた。
今年から諸事倹約を命じられた。これにより、従来のような身分に応じた格式を守らなくても構わないとのこと。
一 同十一日、御馬御馭初めを拝見しに行った。
御倹約中、知行高百石未満は乗馬せずともよいとのことなので、拝見に出かけた。
一 正月十四日、相州浦賀へ「メリケン」船が渡来、武州大森羽根田沖へ乗り入れ、神奈川沖に碇泊した[三月十三日、豆州下田まで退帆。その後、四、五月に下田より帰帆という。ただし交易の約束は取り交わした。名目は交易とは言わず。これらのことは同年三月十五日、(高行が)江戸に着いて承知した]
[参考]
一 同月十四日、米艦が再渡来。品川の土佐藩私邸に警固要員が派遣された。稲毛氏の筆記に曰く。
豆州松崎・長浜沖へ異国船七艘が渡来したとの知らせを聞いたが、その後、帰帆したのか、行方知れずになったため、(いったん出動した)警固要員は同十三日、引き取った。ところが、昨日の十四日の九ツ時(正午)ごろ、異国船四艘が浦賀へ乗り込み、ほかに一艘が川崎・神奈川の沖合い、杉田村沖へ乗り込み、碇をおろした。そのことを神奈川宿の間瀬源右衛門より急報してきたので、品川の土佐藩私邸に侍数人、足軽小頭五人、足軽七十人が直ちに駆け付けるよう命じられたとのこと。
右(の情報)は正月十五日に江戸を発った早追い飛脚により、同二十八日、高知にもたらされた。
[参考]
一 同十五日、異国船渡来について、(江戸藩邸の)留守居役より幕府あてに出した御伺い書は次の通り。[十九日参照]
このたび浦賀表へ異国船が渡来したとの風聞は承知しています。よって、品川・大井村・浜川町の辺りの警固にあたるようにというお指図をすでに伺っていますので、今は早速国許に警固要員を派遣するよう求めています。(そんな状況なので、国許からの要員が江戸に到着するまでは)警固態勢を万全にすることはできませんが、以前から手配していた屋敷固め(藩邸守備)の人員を繰り出していいものかどうか御伺い致します。以上。
松平土佐守内
正月十五日 原半左衛門
[参考]
一 正月十六日、幕府より(の達し)は次の通り。
このたびアメリカ船が浦賀表に渡来したが、(戦闘態勢というより)穏やかな雰囲気でもあるので、右顧左眄して動揺せず、火の用心を特別念入りにするよう、諸方面に通達すること。アメリカ船渡来の際の心構えは去年十一月、将軍のありがたいお言葉を伝えてあるので、(諸侯においては)いささかも油断はないと思うが、今後の応接次第では万一、米国側から兵端を開くこともないとは言いがたい。そのときは一同奮発することは言うまでもない。しかし、米国船が滞留中の警固態勢については、外見のみ拘り、夜中も海岸に提灯などを多数つけている藩もあると聞く。そんなことをすればかえって(米国船の)標的になり、そのうえ(日本側が)疲弊するので、警固要員として招集された面々や、番小屋などの要所は別として、その他は要害の土地を見計らい、山陰や木陰などに人員を配置してなるべく外から見えないよう配慮すること。また行列を正して、昼夜時々海岸を見回ったり、かつまた街道沿いの各宿場での人馬の往来もなるだけ減らすようにすべきである。
それぞれの藩邸で用意している人員についても同様である。外見の虚飾は一切取り払い、士卒の鋭気を養って落ち着き、大小の砲の配置はもちろん、剣や槍を用いて厳しく勝負する実地の接戦を専一に心がけるよう厳重に申し付ける。
なお大きな軍艦をはじめとした諸装備が整ったあかつきには、改めて命じられることもあるだろうが、まさに今、さしあたっての状況下でのご命令なので、それぞれが必死の覚悟でことに臨み、実用の工夫をすべきである。もっとも、いよいよ米国側から兵端を開くことになったら、小船をもって神速の勝負をいどむこともありうる。
右の通り、一万石以上(の大名)も、それ以下も漏らさず、速やかに通達されるよう。
[参考]
一 正月十九日、我が藩の(江戸)御留守居役が呼び立てられ、(老中首座の)阿部伊勢守の公用人から次の通り言い渡された。
(先日の土佐藩からの)伺いの通り、(邸内警固の)要員を屋敷内にそろえおくよう。また、国許から派遣された人数が到着するまでは、場合によっては、浜川町に限り警固態勢を組み、人数を繰り出すときはなるべく穏便に取り計らうようにすること。
[参考]
一 正月二十日、(幕府に対する)異船渡来についての再度のお伺いは次の通り。[二十一日の項を参照]
(幕府に)お伺いのうえ(邸内警固の)要員を屋敷内にとどめ置き、かつまた国許より人数が到着するまでは、浜川町に限り、場合によっては警固態勢を組むようにというご命令を受けておりますが、(米国側が江戸に)乗り込んできたり、あるいは海岸に上陸しようとしたりしたときは、打ち払ってもよろしいでしょうか。(海岸防備のため)現地に出張する者たちの心構えを伺いたいと存じます。
[参考]
一 同二十一日、阿部伊勢守様から呼び立てられ、渡された書き付けは次の通り。[同二十日の項を参照]
かねて言い渡されたことの趣旨を心得て、失礼にならぬよう、穏便に取り計らうようにすること。
右の書き付けを渡された際、阿部様の御用人が口頭で言うには、仮に異船より一発打ってきたとしてもなるべく穏便に取り計らうようにということだった。
(土佐藩の)廣瀬源之進へ(阿部さまの)公用人がそう言われたとのこと。(江戸留守居役の)原半左衛門に対しては文書でその旨を伝えられた。
右の、かねて云々は、嘉永六年丑十一月、阿部伊勢守さまより通達の出た、アメリカ合衆国より届いた書翰云々という文書であろう。
藩政録(土佐藩の幕末維新史を記録した文書)に、嘉永二年十二月の口達書を引用しているのは誤りだと思われる。
一 樋口氏からの書簡は次の通り。
ますますご機嫌よくお過ごしのことと恐悦しております。江戸へご出立の日が近くなるにつれ、あれこれご心配なことがおありだろうと存じます。私も(貴方と同じように江戸行きを)したいと思っておりますが、埒が明かず、かれこれ申すうちに、辺境においてとやかくの繋がりに(縛られて)遺憾至極に存じます。愚弟(樋口の弟・甚内)はこのたび長崎にて軍艦製作の技術者に出会いました。この技術者を土佐藩に招請していただければ、藩の利益になると存じております。なにとぞ吉田(東洋)先生に推薦していただければありがたき幸せに存じます。愚弟は今朝、こちらを発ち、参上して、万々お願いをするつもりですので、よろしくお引き回しをお願いします。年若の山先生[山田と補注してあるが、山川の間違いでは?]も先日、お帰りになり、下田の砲台がこのたびできあがるはずです。はなはだ用事が多くて、疎略な手紙を差し上げました。恐れ畏まり、慎んで申し上げます。
正月二十一日 樋口眞吉
佐佐木三四郎様
侍史
右の樋口眞吉は幡多郡の人で、大石流の撃剣を初めて土佐に伝えた。かつ学問もあって、私と江戸に遊学したとき、佐久間修理(象山)の門に入り、砲術書などを買い求めて帰国した。いちばんの親友で、海防の策などについて議論することがしばしばあった。眞吉の弟の甚内も撃剣家で、時々九州に遊び、長崎に至って本文にある造船のことを学んだ。
[参考]
一 正月二十一日、(藩主側近の中堅幹部である)御用役たちの書簡は次の通り。
さる十五日、臨時飛脚便でお知らせしたアメリカ船の浦賀表への渡来に関して、品川屋敷に邸内警固の要員を差し向けることについて(老中の)松平和泉守へ御伺い書を差し出したところ、一昨日の十九日夕、文書で別紙の通り[便宜のため十九日に掲げる]お達しがありました。すなわち、以前から考えておくよう命じられていた通り、一番手の派遣要員が昨日二十日の日中、品川屋敷にそろいました。(私こと寺田)左右馬も二十日より品川屋敷に参りました。かつまた、万一異船が乗り込んできたり、あるいは海岸に上陸しそうなときは、打ち払ってもよいかと伺い書を出したところ、これまた文書の通り[便宜のため前に掲げる]命じられたので、その旨を派遣要員たちに伝えました。さらにまた公儀よりの別紙[正月十六日の幕府の口達が前にある]の通り通達がありましたので、これまた皆様方にお知らせしたいと存じます。恐々。
正月二十一日
寺田左右馬
後藤八左衛門
長瀬萬治
渋谷 伝様
小南五郎右衛門様
西野惣右衛門様
間 佐平様
なお、先便では浦賀へ異船が十艘渡来したとお伝えしましたが、さまざまな風説がありましたので、確認のために浦賀へ担当者を差し向けて調べさせたところ、今月十四日、相州神奈川沖へ一艘乗り入れ、同十六日、六艘がまたまた同じ所に乗り入れ、あわせて七艘が並んで碇をおろしていて、だいたいが穏やかな状態だそうで、このこともお知らせしておきます。
[参考]
一 同二十四日、幕府の達しは次の通り。
明日二十五日、異船において祝い事があり、空砲を連発するそうなので、動揺せぬように、海岸屋敷を持つ諸侯にあらかじめ伝えよと和泉守殿が命じられたので、その旨を申し伝える。以上。
[日付なし] 岩瀬修理
岩井岩之助
堀 織部
松平土佐守殿
留守居
[参考]
一 正月二十五日昼ごろ、神奈川の方で大砲の音が八十発ほど聞こえた。[稲毛氏筆記]
[参考]
一 同月、小倉氏の筆記に曰く。
合衆国の軍艦が渡来して通信交易を求めたが、許さず。たちまち兵端を開くような勢いを示す。天下大いに恐れ、人心の動揺甚だし。よって我が国も海防大いに興り、砲台を建築し、銃砲を鋳造し、陣営を設け、武備を強化し、人心の様相が変わった。
二月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 少将豊資さま(第十二代土佐藩主)の六十一歳の還暦を祝い、罪人赦免の命令が出た。
一 中老の山内左近ならびに馬廻り役数人が北山通りから江戸表に向かった。
[参考]
一 二月九日、幕府より次の通り。
アメリカ人が明日十日、客の応接のため船中で祝砲数発を放ちたいと申し入れてきた。砲声が聞こえても動揺せぬよう。しかし、米国側の事情はまだ計りがたいので、その心づもりで油断せぬようにいたすべきこと。
右の趣旨を諸方面に速やかに伝えるように。
一 同十三日、家老の福岡宮内が北山通から江戸表に向けて発った。
御奉行職の福岡宮内は御近習家老を兼任。
一 同十五日、御留守居組二人、御旗付き郷士五人、小組郷士十人が北山通りから江戸表に向けて発った。
一 同二十三日、(高行が)永国寺町の自宅を出立して江戸表に向かう。
この夜、師田村に止宿。同行は大谷源四郎・野常之丞・森四郎等数人である。
一 同二十三日、仁井田浜で鉄製大砲が破裂し、徒士(かち。土佐藩士は上士と下士に分かれ、下士の中でも郷士、用人、徒士、足軽、武家奉公人の身分差があった)の高見某が即死、そのほか負傷者もあったとのこと。
右のことは江戸に到着して聞いた。鉄製大砲は相次いで破裂するので(製造を)中絶することになった。原因は製法が未熟なためか、鉄質が悪いためか、議論が分かれて結論がでなかったという。
三月
一 この月三日、林大学頭(幕末の儒学者・外交官)等がさらに「ペルリ」と協議し、和好の条約を定めた。
一 同四日八ツ時(午後三時ごろ)、太守さまが国許を発たれた。ただし事前に幕府の許可を得て、(東海道ではなく)木曽路から参勤される。
(続)