わき道をゆく第190回 現代語訳・保古飛呂比 その⑭

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安政元年三月

[参考]

一 同十日、(老中首座の)阿部伊勢守殿へ口上を添え、左衛門尉(幕府の勘定奉行と海防掛を兼務する川路聖謨のこと。前年、長崎に来たロシア使節プチャーチンとの交渉にあたった)が直接、上申書を出した。その書に曰く。

ロシア(使節)が渡来したときのことについて申し上げた件もございますのに、いまだ(その件についてのご公儀の)お指図もないうちに、神奈川表でアメリカ人との交渉がまとまったようだと聞きます。もちろん(対米交渉の)詳しい顛末は(私どもには)分かりませんが、薪水・食料、欠乏の品、石炭の置き場(の提供)を許されただけでなく、下田と松前(函館のこと)の両所で港を開かれ、そのうえどういうわけか、アメリカ人が下田の七里四方の区域へ上陸すること等を許されたとのことであります。

これらの情報はいろんな立場の役人たちから得たもので、ご公儀の御趣意とは食い違う点があるやも知れず、また(米側との)詳しい交渉経過を記した書面を見ることもできないので(対米交渉の正確な経緯は)さらに分かりません。

このため、私どもが内心はなはだ心配し、当惑しているのは、以前にも申し上げた通り、今回の対露交渉での応接の難しさはもとより覚悟の上ですが、万々が一、浦賀やその他の場所で応接する者たちが「ロシア」人との対話の際、長崎表では(川路らが)通信・通商を好まぬゆえ厳しい態度で臨んだが、今回の「アメリカ」人との応接掛は通信・通商等を解禁する含みで交渉に臨んでいるので穏やかな態度になるに違いない(と言うのではないかということです)。一時的に余儀なく権謀を巡らして言いがかりをつけるようなことが、少しでもあれば、右のような意図が「ロシア」人に伝わることは避けられません。ロシア人たちは(幕府が)長崎表において通信・通商等を許すつもりだったのに、私どもが勝手に(ロシア側の要求を)拒否した(と思うでしょう)。

すでに(ロシアの国書に対する老中からの)返事にも、「誠に古例律令を取る能わず」(※鎖国をいつまでも続けることはできない、という意味にとれる)という一節がありました。その文面からも幕府が国法(の鎖国)を改める可能性があるということは明らかでしたが、それを指摘するロシア側を遮り、うまく話をそらして、私どもが相手の期待を裏切る結果にもっていったのは、(ロシアにとっては)苦々しいことでした。

彼らは私どもが政府の命令に背いて「ロシア」国の要求を拒んだと見なすでしょう。それと「アメリカ」への対応を引き比べ、さらには以前から疑惑視していた老中からの返事の(開国を示唆した)一節を付き合わせると、私どもを憎むのは必定だと思います。

私どもを憎んで打ち殺すとも、あるいは狼藉に及ぶとも、すでに長崎表において、そういう事態になれば、日本の国体にかかわることなので、「ロシア」人一同を焼き殺しても異存はないということを松平美濃守(第十一代福岡藩主・黒田長溥のこと。黒田は当時、佐賀藩と一年交代で長崎港の警備にあたっていた)に通知していました。供船(本船に付き従う船)の中に火薬を積んだ船を紛れ込ませておくという話もしたぐらいですから、(ロシア側に打ち殺されても)少しも厭いませんが、(幕府の方針に反して私どもが勝手に拒否しているというような)疑念を(ロシア側が)持つのを断固突っぱね、是非御老中・若年寄に直接お目にかかっていただきたいなどといって(相手の話を)遮って談判しました。

私どもが口を開くこともなく、帰るくらいであれば、なお(幕府が)処置することもできましょうが、ロシア側が長崎で受けた扱いを憎み、意外な狼藉に及ぶようなことがあれば、私どもは恥辱に耐え、果ては死のうとも御奉公中の一事なので構いませんが、そうなると国体にかかわることになるので、こちらから兵端を開かなくてはならぬことになります。兵端を開くのを避けようとしても、そのままにしておけば、御国(日本)の士気のある人々は承知しないでしょう。御国の人々が承知しないとなると、ここでは申し上げかねるような次第にたちまち成り行くかもしれません。

今でさえ(外交交渉の)事情に暗い面々はいろいろと話を膨らませているという風聞もあり、万々が一のことがあれば、いかんともしがたいことになり、騒々しくなるのではと懸念しております。私ども二人がともに胸を痛めていることを申し上げず、(御老中の)お指図に影響が出るようなことがあれば申し訳ないので、余儀なく申し上げます。どうか私どもの心中をお察しいただき、お指図いただけますよう願います。浦賀表神奈川において(米国人を)応接した経緯が詳しく分かれば、なおまたよく考えて、穏当な対処法を申し上げるように致します。以上。(注①)

寅三月

筒井肥前守

川路左衛門尉

【注①】この川路聖謨の上申書の内容を理解するためには、次の3点についての知識が必要なので以下に記す。

1)川路聖謨のプロフィール。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「かわじとしあきら(1801―1868)江戸末期の政治家。幕府の徒士(かち)内藤吉兵衛(きちべえ)の子として豊後(ぶんご)国(大分県)日田に生まれ、小普請(こぶしん)組川路三左衛門光房(さんざえもんみつふさ)の養子となる。通称弥吉(やきち)、のち三左衛門。18歳のとき出仕し、下級武士の出身で初めて支配勘定出役(しはいかんじょうでやく)となったが、能力を認められて累進、小普請奉行(ぶぎょう)、奈良奉行、大坂町奉行を歴任し、1852年(嘉永5)勘定奉行となり海防掛を兼ねた。53年ロシア使節プチャーチンの来航に際しては外交交渉のため長崎に赴き、さらに翌54年ふたたび伊豆下田において折衝し日露和親条約を結んだ。ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。その後、条約勅許・将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派と目され、大老井伊直弼(なおすけ)にその地位を追われた。63年(文久3)外国奉行となったが、老齢のため数か月で辞職。68年江戸開城締約の翌日(3月15日)ピストル自殺を遂げた。彼の実弟松吉は、幕臣井上新右衛門(しんえもん)の養子となり、のち外国奉行井上信濃守清直(しなののかみきよなお)としてハリスの応接にあたり、兄弟ともに幕末外交史上に活躍した。[加藤榮一]」

2)長崎での日ロ外交交渉の経緯。川田貞夫著『川路聖謨』(吉川弘文館刊)によると、幕府の命を受けた川路は嘉永六年十二月八日、長崎に到着した。
「到着翌日の十二月九日、江戸から御用状が到来した。これは十月十八日付で露国使節プチャーチンが老中宛に提出した書簡の翻訳文で、内容は既述したように、①国境問題では特に千島・樺太の帰属を明確にし、②通商問題では交易開始と、最小限二港を開くことについて条約締結を希望する旨が記されていた。聖謨は早くも日露交渉の渦中にいる現実をいやがうえにも自覚しなければならず、「扨々(さてさて)国家の御ために心配の極みなり。身は差し上げ置きたれば心配なし」と覚悟を新たにしている」。
十二月十四日にロシア側との初顔合わせがあり、つづいて「十七日、(聖謨ら)応接掛は答礼のため露艦パルラダ号を訪問した。日本側ははじめ、この答礼について「御国体に拘り候義に付、参り難」しと回答して、譲らなかった。しかし、再三にわたる交渉をへて、表向きは見学という形で露艦に赴くことに同意した。ところが日本側は、露艦訪問に一抹の不安を拭いきれないでいた。つまり応接掛が露艦にいたるや、露国側は無理難題を吹っかけ「手荒の事を申し成し」て、とどの詰まりは北方領土と交易の二件に決着をつける算段ではあるまいかと憶測したのである。
たまたま十五日、長祥寺に応接掛一同が集まって露艦訪問を協議している最中に、福岡藩主黒田斉溥が顔を出して、とんでもない情報をもたらした。福岡藩は幕初以来長崎御番と称して、佐賀藩と一年交代で長崎港の警備に任じており、ちょうど今年が年番にあたっていた関係で来崎していたものである。黒田は、露艦の様子がどうもおかしいという。「日々帆を干し候て、いつにても出らるゝけしき」で、応接掛が露艦に乗り込んだら、そのまま出航してしまう魂胆らしいと。続けて黒田は、たとえ応接掛を乗せて露艦が解纜しても安心して欲しい。湾内の福岡藩兵のうち「死を潔くいたし候家来十九人を、我らが家来の内にて召し連るべく候。其の外、火薬を仕込み候焼船一艘を、供船の内へ加え申すべく候に付、夫へ火を附け、一同切り込み申すべし」と、万が一の際の助勢を買って出たのである。
聖謨は黒田の申し出に対して、「おもう旨も候えば、後刻御挨拶に及ぶべし」と、ひとまず引き取ってもらった。黒田が帰ったあと、聖謨は列席者に向って「殊の外に気のよく附く、御用立つ人也」と褒めながらも、露艦焼き討ちとなると、公儀に対して大国の敵を新たに作ることになりかねない。自分はこの御用を拝命した時点から国家のために身命を賭する覚悟でいる。露艦が不埒な行動に出たなら、自分一人が露艦に残って彼の国に赴き、皇帝に直接談判いたす所存である。荒尾殿は目付の役柄ゆえ、どうか成り行きをよく見届けたうえ、帰府次第老中に一部始終を報告して欲しいと発言した。(中略)会議は大いに紛糾した。そこでまず露国側の様子を探るのが先と決まり、通詞に書簡を持たせて露艦にやり様子を窺わせた。その結果は露国側は歓迎一色であるだけでなく、当日は「国事は言わざる」と明言していることまで判明した。このため黒田の申し出は明十六日、聖謨の宿所に黒田の家来を呼んで謝絶することで、一件はひとまず落着をみた。(中略)こうして聖謨は無事に職務を果たしたが、聖謨の長崎出発の前々日にあたる正月十六日、米国使節ペリーが前年の約束に従って浦賀に軍艦六隻を率いて再来し、聖謨が江戸に帰着した日のわずか十一日後にペリーとの間に日米和親条約が締結された。聖謨がプチャーチンの執拗な要求を入れずに果たした使命も、もはや水泡に帰したわけである。それのみならず、聖謨がプチャーチンとの間に取り交わした公約は自動的に発効することになったわけで、プチャーチンが日露間の条約を締結すべく日本に現れるのは、もはや時間の問題となった」

3)佐佐木高行の所感。『勤王秘史 佐佐木老候昔日談』によると「安政元年正月十六日、『ペルリ』は、前年の約に基づいて、浦賀と羽田沖へ乗込んで来た。幕府からは、林大学頭等を横浜に遣して応接せしめ、僅に漂民救助と、石炭給與の二件を許し、尋でまた下田函館港を開く事を諾した。然るに筒井肥前守[政憲]と、川路左衛門尉[聖謨]の両人は、露国水師提督『プチャーチン』と談判し、彼の要求を拒絶して、帰府の途中、その模様を聞いて、大に不平に思うて、帰京の後、直にその意見を具して、之を論争に及んだ。畢竟幕府の足並といふものは、全く揃って居らなかったのである」】

一 三月十五日、(高行が)江戸到着。土佐藩日比谷中屋敷の御己屋(=自室もしくは自分に割り当てられた部屋)に泊まった。

一 同十七日、松平能登守(乗喬。美濃国岩村藩主)さまの儒者・若山壮吉先生(注②)に入門した。

なお山鹿流兵学も若山先生に学ぶ。

【注②。デジタル版日本人名大辞典+Plusによると、「若山勿堂 わかやま-ぶつどう1802-1867 江戸時代後期の儒者。享和2年生まれ。江戸にでて佐藤一斎にまなび,天保(てんぽう)年間に美濃(みの)(岐阜県)岩村藩の儒員,文久3年には昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。門下に勝海舟,板垣退助ら。慶応3年7月16日死去。66歳。阿波(あわ)(徳島県)出身。名は拯。通称は壮吉。著作に「論語私記」など】

[参考]

一 同二十二日、(土佐藩士)黒岩某の筆記に、江戸に上る途中の話を載せていた。曰く。

安政元年三月四日、午後三時ごろ、太守さまの(江戸参勤の)行列が出発、同二十二日は非番(この場合の非番は、一時的に行列の正式な随行員から外れたという意味か)。

美濃と信濃の境の十曲峠で、(江戸から来た)彦根藩の藩士と行き会った。路上での会話ながら、「もし、あなた、江戸を何日にお発ちになりました?」と聞いた。

答え「十五日に発ちました」

問い「異船はどうしてますか」

答え「へい、四艘が帰り、七艘が残っています」

問い「これまでの幕府の対応ぶりはどうですか」

答え「いやもう、一時は夜か昼か月夜か分からぬほどの騒ぎでしたが、ようやくやっつけました」

問い「その次第は?」

答え「まず米を二千俵、鶏を数百羽、アヒルをいくらか、そのほかの品を遣わし、(米側の開国要求に対する回答を)五年間待つよう言い聞かせました。それで、異人の側からもあれこれの品を送ってきましたが、受け取りません。そういうことであればと、米側も以前け取った米などを船から運び出します。けれども相手側には物を贈り、こちら側では受け取りませんから、交易をしたことにはなりません。そういうふうに次々と骨を折り、日数をかけ、ようやくこのごろやっつけました」

問い「それでは四艘が帰って、七艘残ったというのはどうなんでしょう」

答え「これは(米国側が)品川のあたりから両国橋まで見物したいと言ってきましたが、幕府は許可しませんでした。それでも強いて品川あたりまでと申すので、これはお許しになったようです。もはや残っていた米艦もこのごろは皆帰ったようで、あなた、江戸に入られてももう何のこともない。ただ不景気なだけですよ」

と、言って別れた。

一 三月、事変が起きたとき智鏡院さまの御立ち退きの御用を(高行が)仰せつけられ、早速、お受けした。(注③)

智鏡院さまは養徳院さま(亡くなった第十三代藩主・豊煕)の正妻で、薩摩の島津家からお輿入れされた方である。何事につけても、(山内家では彼女を)手厚くお世話する。その訳は、将軍・文恭院さま(家斉)は生前、すこぶるご繁盛(子供をたくさんつくったという意味)にて、男子は諸侯に押しつけて養子にやり、姫君もしきりに諸侯へ輿入れさせており、養徳院さまへもご縁組みの話が持ち上がりそうだった。将軍よりお輿入れということになると費用もかかり、あとあとも面倒なことになるので、少将・豊資公が薩州に行かれ、直々に(智鏡院さまを養徳院さまの妻に)所望されたとのこと。

【注③。『勤王秘史 佐佐木老候昔日談』によると「三月二十六日、築地の藩邸から出火した。これは築地の御屋敷で小蒸気船を三隻造って居たが、其の作事部屋から出たのだ。此の日は朝からエライ南風で、こんな日に火災でもあると、屹度大火になると云つて居ると、巳の刻に、半鐘の音凄じく聞こえる。夫りや火事だと出て見ると、南方に当つて、火光焰々たる有様、何でも築地辺。築地御屋敷には智鏡院様[豊煕公室]が居らるゝ。自分は曩(さき)に智鏡院様御変事の節御立退御用を命ぜられて居つたから、早速仕度して、数寄屋橋まで駆付けると、大変の雑踏、取あへず火元を尋ねると、『土州屋敷ですぜ、こんな大風に火を出す奴もねへもんだ、やがて江戸は大半灰になるだらう』抔と火元見が罵り行く。サァ大変と、一生懸命御屋敷迄行つて見ると、ハャ鎮火しかゝつて居るが、通用門は煙が渦巻いて容易に這入れぬ。辛うじて邸内に飛び込み、智鏡院様はと伺ふと、既に本願寺に御立退との事で、ホット一息し、早速同所へ参り、御機嫌を伺うて、先づ以て安心した。作事部屋、両外輪長屋が焼失したばかりで済んだが、マァ不幸中の幸福であつた】

四月

一 この月三日、太守さま江戸梶橋邸に到着され、お出迎えにまかり出る。

一 同六日、皇居炎上、翌日になって鎮火した。

主上(天皇)・准后(注④)・敏宮(仁孝天皇の第三皇女)・和宮(仁孝天皇の第八皇女。後に将軍・家茂の正室)・祐宮(孝明天皇の第二皇子。後の明治天皇)・新待賢門院(孝明天皇の生母)は、下鴨へ立ち退かれた旨を江戸にて拝承した。恐れ入ることである。

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、准后(じゅごう)とは 「太皇太后、皇太后、皇后の三后(さんこう)(三宮(さんぐう))に准ずる待遇を与えられた者の称。准三宮(じゅさんぐう)ともいう。初めは経済的な優遇を目的としたが、のちには名目的な称号にとどまった。871年(貞観13)清和(せいわ)天皇の外祖父藤原良房(よしふさ)を初例とし、皇族、女御(にょうご)、摂政(せっしょう)、関白、大臣らに与えられたが、その後、皇后や女院になる前段階として後宮の婦人に与える例が多くなり、廷臣も有名な北畠親房(きたばたけちかふさ)など数例を除けばほぼ摂関に限られた。[橋本義彦]】

一 同九日、(老中の)牧野備前守さまが次の通り指示された。

大目附へ

このたび渡来したアメリカ船は内海(江戸湾)から退帆したものの、碇泊中にかれこれと我が儘な所業があった。このため突発的に兵端が開かれる恐れがあり、(諸侯は)それぞれ海岸防禦に注力されたが、軍艦の準備もいまだ整わぬ折から、ことを荒立てぬ処置を余儀なくされた。米側の要求のうち漂流民の救援と、航海の途中に薪水・食料・石炭など欠乏の品々を提供することについては(ご公儀が)許可された。その場所についての取り決めがなければ、どこの国の海岸にも勝手に渡来して、しかもそれを取り締まれなくなるので、豆州の下田港と、松前の函館で対応することにした。現在の容易ならざる事態に対処するため、以前にも命じたとおり、質素節倹を守り、さらに水陸の軍事をひときわ強化し、もし非常事態になれば、速やかに我が国の武威を立てるよう心がけよ。

右の通り、急ぎ通達する。

四月

右に対して、毛氏(※誰のことか不明)は次のように語った。

右の通りお触れが出たよし。豆州下田港では、米穀または種々の品を提供されたよし。いちおう交易ではないとの建前だが、同じことである。最近はどうも天下に(幕府の)威勢がなく、水戸もとかく引っ込みがちの様子である。アメリカ人は滞船中、たびたび上陸し、神奈川あたりでは番所にある鉄砲をみだりに取り出し、あちこちと引きずり回し、または川崎あたりまでも上陸したよし。さらには品川あたりまで参って海底測量をしたとのこと。まことに大胆なやりかたで、日本を侮るやり方である。

[参考]

一 同十一日、内裏(皇居のこと)炎上につき、御機嫌伺いとして惣出仕(※惣にはすべてという意味があるから、大名たちがみな将軍に御機嫌伺いに参上したという意味か?その後の一節もよく分からないので原文を記す)。「未ダ御向詰大名ニ付、此方様無構。」

一 太守さまが江戸に参勤されたので、幕府からの使者・牧野備前守殿(老中)が(土佐藩邸に)来臨されたとのこと。

一 四月二十三日、太守さまが江戸城に登城され、御参勤の挨拶をされた。

[参考]

一 同二十八日、伊豆下田港の組頭の報告書は次の通り。(注⑤)

【注⑤ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、組頭(くみがしら)は「江戸時代,大名の家臣団組織のなかで,組を指揮した頭。一方農村では,村方三役 (→村役人 )の一つで,名主,庄屋を補佐する役目をもつ。または,組合村の代表者をいうこともあった」】

当港に在留中の「アメリカ」船「シンテイ(ママ)」が、昨二十七日、申し立てたところによると、現在函館表にいる蒸気船二艘は十日ほどたったら下田へ再びやってくるとのことです。その他の三艘の軍艦は函館より直に琉球へ向かう予定。なお、その他に五艘ほどの船が近く次々と到来し、当港(下田)ならびに横浜・函館に配置される旨の話をしたので、再三(本当かどうか)確認したところ、繰り返し同様の申し立てをしております。(したがって事実に)相違ないように見えます。このことを念のため申し上げておきます。以上。

下田組頭

四月二十八日 黒川嘉兵衛

五月

一 この月九日、御旗本の儒学者・羽倉外記殿(注⑥)、水戸藩の藤田省之進(注⑦)、水野家臣の塩谷甲蔵(注⑧)の三人を吉田元吉(東洋)殿が自室に呼び、それから(太守さまの)御前へ出て、議論をしたということを聞いた。

【注⑥百科辞典マイペディアによると、羽倉外記は「江戸末期の儒者。名は用九,簡堂(かんどう),天則などと号す。若くして古賀精里に学び,また江川太郎左衛門,広瀬淡窓とも交わる。父は旗本で代官を勤めたが,その死後を継ぎ,関東・東海地方の代官を歴任,伊豆諸島を巡察した。天保改革に抜てきされて政務に参与したが水野忠邦失脚とともに隠退。その後《海防私策》を上申。ほかに《南汎録》《駿城記(すんじょうき)》等」】

【注⑦藤田東湖。デジタル版日本人名大辞典+Plusによると、「1806-1855 江戸時代後期の武士,儒者。文化3年3月16日生まれ。藤田幽谷の次男。常陸(ひたち)水戸藩士。徳川斉昭(なりあき)を藩主に擁立し,以後腹心として藩政改革を推進。斉昭が謹慎処分をうけると免職され幽閉されるが,嘉永(かえい)6年斉昭の幕政参加とともに海防掛,側用人,学校奉行などをつとめ江戸で活躍。「弘道館記述義」は尊攘(そんじょう)家に影響をあたえた。安政2年10月2日の大地震の際,小石川藩邸内で死去。50歳。名は彪。字(あざな)は斌卿(ひんけい)。通称は誠之進。著作に「回天詩史」など」】

【注⑧塩谷宕陰。朝日日本歴史人物事典によると「没年:慶応3.8.28(1867.9.25)生年:文化6.4.17(1809.5.30)江戸後期の儒学者。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵,宕陰は号。父桃蹊は医者として浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕えた。江戸愛宕山下に生まれ,文政7(1824)年昌平黌に入門,同学の安井息軒は終生の畏友であった。また11年松崎慊堂に入門。12年,翌天保1(1830)年と関西に遊び頼山陽と親しく交わった。2年父の没後,儒者として登用された。藩主水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となった。忠邦の退隠後は世子の輔導に当たる。弘化年間(1844~48)には海防問題に強い関心を持ち,『籌海私議』を著し,また清国の阿片戦争を聞き強い危機感から『阿芙蓉彙聞』を輯し,これらは広く迎えられた。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。徳川斉昭は藤田東湖を宕陰のもとに派し諮問している。文久1(1861)年将軍徳川家茂に拝謁,2年昌平黌の儒官となった。幕府の歴史編纂に従事中病に罹り没す。谷中天王寺に葬る。<参考文献>塩谷時敏『宕陰先生年譜』(沼田哲)】

一 五月十四日、若山(壮吉)先生から次の手紙が届いた。

貴兄の手紙を拝見しました。愛宕下で調練(兵士の訓練)を行いますので、皆様とご一緒にお出かけください。以上。

五月十四日 若山壮吉

佐々木様

右の調練は山鹿流で、師家は旗本の窪田助太郎殿である。若山は儒者だが、窪田の門で(山鹿流軍学)を学んだ。よって自分は若山へ入門し、練兵は窪田があらかじめ定めた日に時々参加していたので、本文の通り知らせがあった。

六月

[参考]

一 この月十四日、夜八ツ時(午前二時ごろ)より朝五ツ時(午前八時ごろ)まで、奈良大地震、死人およそ二百五十人、小児五十人、けが人数知れずという。

[参考]

一 同十四日夜九つ時(午前零時ごろ)、伊賀国(現在の三重県西部)で大地震が発生。同九ツ時、郡山ならびに南大和(いずれも現在の奈良県の地名と思われる)で大地震。郡山の死者およそ百三十人、小児十七、八人、けが人多数。南大和けが人少々、死者なし。

同夜九ツ時、江州(近江の国。現在の滋賀県)少々地震あり、暁七ツ時に大地震となる。

同夜四ツ時(午後十時ごろ)より始まり暁六ツ時(午前六時ごろ)まで、勢州(伊勢の国。現在の三重県の大半)四日市で大地震。同夜八ツ時(午前二時ごろ)、越前福井で大地震。以上の知らせは町便(民間営業の飛脚)で届いた。上屋敷にて聞く。

[参考]

一 六月、幕府の達しは次の通り。

大目附

このたび諸侯に対し、供連れ(お供の者たち)を省いて簡素にするようご指示が出たが、それについては陪臣の面々や使いを勤める者の類い、そのほか供連れをとりわけて減らすようにすべし。そうしてふだん駕籠を使っている者は歩行・乗馬に改め、駕籠はどうしても必要な場合を除き、使わぬようにし、すべて無益な供連れはなくすよう、銘々の主人より指示するようにされたい。

右の趣旨を言い聞かせなさい。

六月

七月

[参考]

一 この月十五日、英国軍艦が長崎へ入港した。英国側が言うには、ロシアと戦うので、その必要上、(長崎など)諸港に軍艦を繋留させることがあるという。

[参考]

一 七月二十五日、土佐の国の安芸郡下山村大山の麓に新しい港をつくることになった。(藩内での)議論はすでに定まり、その許しを幕府に願い出た。その願い書に曰く。

土佐の国は浦戸より室津までの海岸がおよそ二十里余りあるのですが、手結というところに小さな港があるだけで、毎度難破船が多く、長年にわたって難儀してきました。そのため、安芸郡下山村大山の麓の河野というところに自然の港の地形をした場所がありますので、別紙絵図の通り、速やかに掘り立て、ゆくゆくは船が碇泊できるようにしたいと思います。そうすれば、第一に海防の一助にもなると思いますので、(ご公儀のお考えを)伺いたいと存じます。しかるべくお指図をくださいますようお願いします。以上。

七月二十五日 松平土佐守

[参考]

一 同月、幕府において軍制を改正する旨の達しを出された。

筒井肥前守・川路左衛門尉等がその御用掛を命ぜられた。

閏七月

[参考]

一 この月十三日、我が藩において左の通り。

海防対策として中老の年番(一年交代の勤番)が十市砲台への駆け付け任務を仰せつけられた。これにより、白札の者(※土佐藩の武士は上士と下士に分かれ、下士の中でいちばん高い身分が白札、その次が郷士、徒士……となる)三十人、かつ募兵十五人が十市砲台付きを命じられた。要具等はその時が来たらお渡しになるとのこと。

[参考]

一 閏七月二十四日、我が藩が蒸気船のひな形を製造しようと、その許可を幕府に願い出た。その願い書に曰く。

蒸気船一艘 長さ六間 横九尺

深さ五尺四寸 砲数二挺

右の通りのひな形を築地屋敷内の手職人に命じて製造させたいと思います。長崎に住居のある大工・幸八と申す者が最近江戸に来ておりますので、その者を屋敷に呼び寄せて見繕いをさせたいと存じます。できあがったら(試運転のため)内海に出し、その上で本当に航海できそうだとなったら、(その船で)海路国許に赴かせ、水夫たちの訓練をさせ、江戸や大坂を往復させるなど、その都度ご相談したく、しかるべくお指図をいただきたいと存じます。以上。

閏七月二十四日 松平土佐守

右に付箋がついている(幕府の返答)

伺いの通りにしてよろしい。もっともひな形とはいえ、船印そのほかは(幕府の)規定の通りと心得るように。

八月

一 この月十二日、吉田(東洋)氏が次の通り罰せられる。

吉田元吉

右の者は嘉永七寅年春、江戸表に御仕置役として派遣され、在勤していたところ、同六月十日、(上屋敷の)奥向きへ松下嘉兵衛様がいらっしゃった。その席には太守さまもおられ、(松下様らを)饗応しておられた。元吉も太守さまの御前にいたのだが、どういう訳か、松下様に対し穏やかならざる挙動に及び、松下様[松下家は旗本で、山内家と縁が深く、御幕下と同様の待遇を受けている]はことのほか立腹された。このため元吉は翌日、国許に戻るよう命ぜられた。国許に着いた後の八月十二日、処分を言い渡された。次の通り。

吉田元吉

右の者、江戸在勤中の六月十日、(上屋敷の)奥向きでお客様を饗応の際、太守さまの御前で不敬の行いをし、ただただ恐れ入ってお詫びした。しかし、重要な席でのことであり、幾重にも思慮を巡らすべきであったのに、そうせず、あれこれ不穏当な挙動に及び、不謹慎で不心得の至りである。太守さまはご不快に思し召された。これにより格禄を取り上げ、御城下ならびに四カ村の禁足を仰せつけられた。

八月十二日

右の吉田元吉が松下さまを殴ったとのことを翌朝、日比谷藩邸で聞いた。元吉は割腹を命じられるはずだと、もっぱら取り沙汰された。吉田は臨時御用のため江戸に来ていた。(注⑨)

【注⑨佐佐木はこの事件のいきさつを『佐佐木老候昔日談』で次のように語っている。「六月、藩に於て、注目すべき一事件が起きた。それは吉田東洋が処罰されたことである。抑々この事件は六月十日に江戸上屋敷の奥向きで、藩公御一座で御酒宴があつた時に、幕府の旗本士交代寄合衆の松下嘉兵衛[三千石]と云ふ方が来て居られた。此の松下家は、山内家とは、深い関係があつて、御末家同様の御扱ひであつた。松下も段々酒が廻つてたものだから、頻に吉田の頭を撫でる。吉田が之を咎めると、理屈を言ふなと、また手を下さうとした。吉田は、利かぬ気の男ではあり、十分の酒気を帯びて居つたから、何ぞ堪らん、大に怒つて、松下の頭をサンザンに擲つた。何にせよ、階級の八釜敷い時分、こんな無礼を加へたのだから堪らない。松下も殊の外立腹する。どうしても厳罰に処して典型を正さなければならぬといふ議論もあり、旁翌日吉田は国許へ逐下しとなつた。自分は吉田の無礼の事をば、翌日日比谷の御邸で聞いたが、何でも吉田は割腹になるであらうといふ噂があつた。處が八月十二日になつて、格禄を召放され、御城下並に、四ケ村禁足を仰付けられて、事済みとなつた。これには色々訳があつたのだ。当時吉田は、大目付から参政に転じて、太守公の信任を得、内外の事知つて為さざるはなき有様。それで減刑されたのだが、偏侠の性自ら抑ふる能はずして、出府してから三月目に終にかういうことになつた。併しながら彼はさすがに人物だ。羽倉外記、藤田東湖、塩谷宕陰なぞが、藩に出入したといふのは、主としてその斡旋に依るのだ。吉田家は御馬廻で、二百石であつた。この時御取上となり、改めて百五十石を子息源太郎[正春]に下された。安政五年再び召出されて参政となつた時、新地百五十石、本知と合して三百石なつた様に覚えて居る」】

一 八月二十日、御筒奉行の池田歓蔵、西洋流砲術師範の田所左右次が薩州へ大砲鋳造のために派遣された。なお、このとき、絵師の河田小龍が図取之役(製図担当か)として随行した。

右の大砲鋳造の件、去年の嘉永六年以来、にわかに数十挺をつくったが、銅製の大砲はとても十分にはできず、(その代わり)鉄製にしたところ、何分その技術に乏しくて次々と破裂した。しかし、薩摩藩においては早くから西洋流の製造技術により鋳造していたらしいので、(薩摩藩と土佐藩が)相談のうえ、前記の面々が派遣されることになった。もっとも田所左右次は早くより西洋砲術を導入した、先験的な人物であるから、必ずその効験があるはずだと、一同楽しみにしているとのこと。江戸表でそう聞いた。

[参考]

一 八月二十三日、これより先、幕府が長崎で英国人と応接し、この日条約を結んで、長崎・函館の二港を開くことにした。

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一 この月十八日、幕府の達しは次の通り。

長崎表へ渡来のイギリス船が(幕府に対し)船を繋留させたいと願い出た。もっとも(日本の)御国法は堅く守ると申し立てた。これにより、今後、長崎ならびに函館の両港へ船を寄せ、薪水食料など船中で欠乏する品は供与することを許されることになった。先月の二十九日、(イギリス船は)残らず長崎・函館から帰帆した。このことを心構えとして諸方面へ通達されたい。

一 九月十八日、長州藩の吉田寅次郎(松陰)が渡米を企て、失敗した。この日、長州において蟄居を申し付けられ、真田藩の佐久間象山もまた吉田と共謀したかどで蟄居を命じられた。

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一 同月、ロシアの軍艦が大坂港に来た。町奉行が諭して下田に赴かせた。

[参考]

一 同二十三日、(土佐)藩より尼崎藩へ(異国船の動向について)問い合わせた。その返答は次の通り。

さる二十一日、国許よりの使者が伝えるところでは、さる十五日、紀州盬屋崎の沖合六里のところに異船三艘が見えた。同十六日未ノ刻(午後二時ごろ)に至り、同所の加田浦に、うち一艘が乗り入れ、同十七日未ノ刻、泉州の沖合いに現れた。申ノ刻(午後四時ごろ)、尼崎藩内の中濱というところに向かい、大坂表に乗り込んでいく様子に見えたという。なおまた、ただ今着いた使いによれば、尼崎の城下一里半ほどのところに碇をおろした様子だという。

一 九月、大坂御廻文は次の通り。(注⑩)

【注⑩。廻文は精選版日本国語大辞典によると「二人以上の宛名人に順次に回覧して用件を伝える文書」。また、文中に出てくる蔵屋敷とは、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典によると、「江戸時代,幕府や大名,旗本,社寺,諸藩の重臣などが年貢米や自己の領地の特産物を販売するために設置した倉庫兼取引所」のこと。大坂御廻文は、その内容から推測して、幕府の大坂城代もしくはその指揮下の機関から諸藩の蔵屋敷あてに回された文書ではないか】

大坂の近海に異国船が渡来した際は、以前から最寄りの海岸の防禦対策が仰せつけられ、諸方面から人員を差し出すことになっているが、(このたびは)諸藩の蔵屋敷に詰める面々も速やかに安治川口へ向かい、居合わせた人数を差し出し、それぞれの持ち場については同所で指図を受けるよう達しを出したところ、早速居合わせた人数を差し出し、適切に対応したのは良かった。ではあるが、元来当地の蔵屋敷は「諸家勝手用辯等ニ取リ補理有之儀ニ候。自然詰合人数少之向モ可有之處、右體有合ノ人数出払候テハ、此節彼方用辯差支候向モ有之哉ニ相聞候、無余儀譯」(※意味がよくわからなので原文のまま記す。蔵屋敷は諸藩の勝手向きの用事のためにしつらえられたものなので、ふだん詰めている人数も少ない傾向があるが、右のように居合わせた人数が出払ってしまっては、用事に差し支えが出てくるという話もある、といった意味にもとれるが、自信がない)そのうえ最寄りの大名衆からも追々人数を差し出す。異船は、(幕府に対する)お願いの筋があって渡来したもので、先々事を荒立てる様子もないので、(蔵屋敷の面々は)この後の事態の変化に応じて、なおまた機会を失わずに出動する態勢を保ちながら、当面(蔵屋敷の仕事に)差し支える面々は、当分出動人数の内から目立たぬよう減らしても構わない。以上のことについて承知するよう、諸藩の蔵屋敷詰めの面々に漏らさず通達されたい。

寅九月

[参考]

一 (土佐藩の)大坂詰め某氏から国許の某氏へ届いた端書(注⑪)に曰く。

【注⑪。精選版日本国語大辞典によると、端書は「文書、手紙などの初頭や末尾に、行を改めて書き添えること。また、その語。本来は紙端に書いたもの。おってがき。」】

(土佐藩は)蔵屋敷の総人数を三十人ばかりとお届けになった。

加州(加賀藩)御屋敷より御留守届(注⑫)に、「当屋敷は米を取り扱う蔵屋敷で、武辺に携わる者がいませんので、(海岸防禦の)人員を差し出すことはできません。その代わり、兵糧米がご入り用の節はいくらでも仰せつけください」と申し出て、はなはだ評判になった。

【注⑫精選版日本国語大辞典によると、留守居には「江戸時代、諸大名が、その大坂蔵屋敷に配置した職名の一つ。藩の産米あるいは特産物などの町人への売り渡し、会計事務などの一切をつかさどった。」という意味がある。したがって、この留守届というのは加賀藩蔵屋敷の留守居役が出した届と解していいのではないか】

(続。毎度のことながら訳出作業がスムーズに進みません。たった一つの言葉の意味を突き止めるのに三日も四日もかかったりします。たぶん誤訳もたくさんあって読者にご迷惑をおかけしますが、ご容赦ください)