わき道をゆく第191回 現代語訳・保古飛呂比 その⑮
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一 九月ごろ、我が藩において万事、儀式の簡素化や経費節減が行われる。
この年、江戸において重大な書付(=幕府の命令を伝える公文書)等も出て、非常時のため儀式の簡素化・経費節減が命じられた。諸役場の悪弊を必ず改革するよう仰せつけられ、(改革の実を挙げた)諸役場や税の徴収に携わる役場に対し、役人をはじめ下役に至るまで、ご褒美として銀を拝領するよう仰せつけられた。
右に関連して、江戸市中の(土佐藩邸)お出入りの町人に説明書を拝見するよう命じられた。その説明書の内容は次の通り。
昨年夏に異国船が渡来して以後、海防対策費用が激増したため、今回の(太守さまの)江戸参勤を機に当地の諸入費をひときわ節減するので、そなたたちも(節減の)趣意を十分に理解し、(藩邸に)納める品をできるだけ安くするように心懸けよ。もし他のところで、品質がよく、そなたたちが納める品より安いものがあれば、早速買い入れるようにする。そうなった場合、そなたたちが当屋敷のために配慮していないということになるのであって、長年出入りした甲斐もないので、よぎなく出入り差し止めを言い渡すことになる。品質を厳重に吟味して(当屋敷に)納めるようにせよ。(そなたたちは)役人たちへ進物をしているとも聞くが、これまた費用がかかり、自ずから(当屋敷に納める品の)値段も高くなるので、これからは厳重に禁止する。もちろん役人たちにも進物を受け取らないよう申し付けたので、よくよく物事の善し悪しを考えて対処するように。
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一 また江戸表の(土佐藩)勘定方(=財政係)のお触れは次の通り。
先だって以来、臨時の出費が莫大な額に上っているため、(太守さまが)今回、江戸参勤中は厳しく経費節減を命じられたので、先例のあるなしにかかわらず、諸役場は右の御趣意を受けて、できる限り太守さまのために働き、(これまでに積もり積もった)悪弊の数々を必ず改善するように。出費についてはごくわずかな額に至るまでその都度伺いを立て、翌月十五日までに詳しく記帳し、恒常的な費用と臨時出費を区別して、毎月頭取役場(※勘定方のことか?)へ(記帳したものを)差し出すようにされたい。以上。
安政元寅九月
十一月(安政元年)
一 この月四日、辰ノ刻(午前八時ごろ)江戸で地震あり。本日は山鹿流の操練があったので、早朝より巣鴨に行き、夕刻に戻った。
日比谷藩邸はところどころ壁などが落ちており、留守の家来たちは大いに驚いて話した。(それによると)南部侯の長屋はかなり破損したらしい。花川戸(現在の台東区の東端。隅田川沿い)から出火して、芝居小屋三カ所、その他焼失したと聞いた。
一 同四日、遠州(遠江の国。現在の静岡県西部など)・駿州(駿河の国。現在の静岡県中央部)で地震。荒井宿・豆州(伊豆の国)下田高浪で人畜の死傷が数多あった。
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静岡人の萩原四郎兵衛の筆記に曰く。
四日朝五ツ時(午前八時ごろ)、静岡で大地震が起きた。気が顚倒して驚愕した。人家が崩れ、皆々が往来に出て、仮小屋をつくった。火番鉄棒[火の番のもつもの]が激しく(動いた?)。米価がだんだんと値下がりし、当国(遠州か駿州のことか)のほかでは取引がない模様。先だってよりすべての値段が四、五匁下洛したとのことである。
高行が言う。このときロシア艦が下田に碇泊していたが、突然津波が起きて、艦底が暗礁に触れ、ほとんど覆没しかけた。このためどうしようもなくなり、津波がおさまった後、(ロシア艦の乗員らが)上陸したが、陸上はまた(住民が逃げて)無人地帯と化していた。しかも、(戦争相手の)イギリス艦が各国の諸港を巡視警戒している。このためロシア人らは幕府に談判して、戸田港(現在の沼津市にある)を借りて修復をしようとしたが、損傷が甚だしく、海水が浸入してきてついに沈没した。それでも(ロシア人の)意気はまったく阻喪せず、われわれに木材や工事要員を要求した。そうして、沈没艦に乗り組んでいた船大工や鍛冶が(日本側の工事要員を)指揮して「スクネル船」(マストが二本以上ある西洋型帆船)二艘をつくり、北海に向けて去っていった。このときより我が国の造船術は一段と進歩したという。
一 十一月五日、土佐で大地震が発生。畿内および南海道・東山道の三道でもまた大地が震えた。土佐地震に関し、小倉氏の筆記に曰く。
夕方七ツ時(午後四時)ごろ、大地が大いに震え、国中罹災せぬところはなし。なかでも高知およびその近傍の諸村(の被害)がもっとも激しい。家屋や倉庫が崩れる響き、男女老幼が号泣する声、水鳥が驚いて飛び立つ音が地震とともに耳目を驚かすのみならず、川の水が濁って減少し、井戸の水が時に涸れ、堤が破れ、樹木が抜けた。さらには北町では煙が天を焦がして数百千家を焼き滅ぼし、津波がまた襲ってくる。このため、いろんなところの堤が破れ、ついに潮江・新町・下知・比島・田邊・島・新木・高須・葛島等が一面の海となり、海上は人家・諸道具が乱流した。津波はいつ襲ってくるかわからないまま一日数度におよび、北町・原野・新町の人家はみんな水に沈んだ。浦戸町・朝倉町の人家は二丁四方が焼失した。そのほかは皆大破した。上町辺りは土地が堅固なので、潰れた家は少なく、傷んだ家が多い。
この地震について土佐藩より幕府への届書を左に記録する。[以下、政録による]
天守壁 | 破損 | |
矢倉 | 九カ所 | 大破 |
門 | 三カ所 | 大破 |
城内 | 十二カ所 | 破損 |
土蔵 | 五十一カ所 | 破損 |
塀 | 三十六カ所 | 大破 |
旅屋敷 | 三カ所 | 破損 |
土居屋敷 | 三カ所 | 大破 |
役家 | 二百十四軒 | 焼失・流失・潰家 |
船倉 | 十一カ所 | 潰 |
厩 | 二カ所 | 焼且潰 |
高札場 | 十二カ所 | 焼且潰 |
侍屋場 | 三百五十九カ所 | 焼失・潰家 |
市郷家数 | 一万七千四百六十九軒 | 焼失・流失・潰家 |
亡所 | 四カ所 | |
土蔵・納屋 | 三千九百六十軒 | [欠字の恐れあり] |
田地 | 二万千五百三十石九斗 | 損田 |
神社 | 四十六カ所 | 焼失・流失・潰共 |
諸堂 | 百三十七宇 | 焼失・流失・潰共 |
土堤 | 三千五百五十二間 | 破損 |
往還 | 九千二百二十七間 | 破損 |
井流 | 三十八カ所 | 流失・破損 |
橋 | 六十五カ所 | 流失且破損 |
湊 | 七カ所 | 破損 |
砲薬室 | 三カ所 | 破損 |
大砲 | 十五挺 | 流失 |
小筒 | 百十挺 | 流失 |
船 | 七百七十六隻 | 流失且破損 |
引綱 | 三百七十七挺 | 流失 |
筧 | 四カ所 | 流失 |
米 | 一万七千五百八十九石 | 流失・焼失・濡傷 |
籾米 | 二千九十四石八斗 | 流失・濡傷 |
雑穀 | 三千六百三十九石 | 流失・焼失 |
鰹節 | 十五万 | 流失 |
菜種 | 二百六十六石八斗 | 焼失 |
燈油 | 二百挺 | 焼失 |
甘蔗 | 二万二千貫目 | 流失 |
甘蔗車 | 二挺 | 流失 |
蜂蜜 | 千貫目 | 焼失 |
怪我人 | 百八十人 | |
死人 | 三百七十二人 | |
死牛馬 | 三十八疋 |
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一 十一月六日、同四日の諸国の地震について、老中・阿部伊勢守より渡された書き付けは次の通り。
覚
このたびの度重なる地震発生について、今後どうなるか予断を許さない。(万一また地震が起きたら)銘々で避難の心得があるであろうけれども、かねがね火の元の管理を厳重にしたうえで素早く避難するよう、諸方面に通達すること。
一 同六日、太守さま御自筆の書き付けは次の通り。
先日の国許の大地震について、このまま手をこまねいていたら、国家累卵の危機に至るにちがいない。よって(幕府に)お暇を願ったので、帰国のうえ、必ず諸儀式の簡素化・経費節減を実行するつもりである。昨今の天下の形勢は、文武をもって士気を培養することを一日も怠ることはできない。こうなったうえは,私自身の身の回りをはじめすべての冗費を省き、万事にあたって非常の覚悟が肝要である。以上。
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一 同月七日、村田仁右衛門が市原八郎左衛門および浅井始馬両氏に送った手紙の中に次のような一節がある。
一昨日、前代未聞の大地震があり、その後津波も押し寄せ、ことのほか大変でした。ただ少将さま(第十二代藩主・山内豊資)・若殿さま方をはじめ御方々さまの御機嫌はよく、何らお変わりがなく、恐悦に存じます。云々。
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一 十一月八日、高知の村々に立った高札に曰く。
このたびの混乱に乗じて盗みをする者は、その身分の貴賎にかかわらず、召し捕って構わない。もし手向かいする者があれば切り捨ててもよい。
右の通りご命令があった。
御郡方(=郡役所)
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一 同十四日、御勘定方より次のお触れあり。
この度の大災害に関連して、御町方御貸付銀(=藩が町人に利子を取って貸し付けた金)のうち今年の暮れに取り立てることになっていた分は、今年は取り立てをやめ、一カ年延ばして来年より取り立てるよう(太守さまから)ご命令があった。もっとも、今年の分割払い分としてすでに納めた金はそのままとし、分割払いをまだしていない分については一年延期とするので、その旨を管轄下の者どもに周知されたい。以上。
十一月十四日 柏原内蔵馬
また、次のお触れあり。
一 この度の大災害により、被害を受けたり、出費を余儀なくされたりしたのは、身分の上下にかかわらず皆同じである。金銭の融通ができない状態にあることは明らかなので、極めて難渋している面々は、願い出れば、藩から借り受けている公金の返済を一年延期できるようにせよと(太守さまが)命じられた。
一 扶持米(主に下級家臣に俸禄として支給される米)の不足に直面した面々は、願い出れば、御囲籾(藩が非常用に備蓄している米)の範囲内で相応の借り入れを許される。
ただし(借り入れの)返済についてどうするかは今後、詮議のうえ仰せつけられる。
一 居宅が壊れた者や、外囲い・仮設住居をつくる者らのため、竹や木を用意するよう仰せつけられたので、願い出れば、相応の代金と引き換えに別紙[略]の通り引き渡す。
希望者は願い出よ。今月二十日までに頭(組頭のことか?注①)が希望者をとりまとめ、御山奉行(林業の管轄役)へ取り次ぐように。ただし、この措置は、城下とその近傍四カ村の住居以外には適用されない。
【注①。すでに記したように、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、組頭(くみがしら)は「江戸時代,大名の家臣団組織のなかで,組を指揮した頭。一方農村では,村方三役 (→村役人 )の一つで,名主,庄屋を補佐する役目をもつ。または,組合村の代表者をいうこともあった】
一 十一月十八日、梅原伊豆守[神官]が覚助に与えた書簡中に曰く。
そのような次第で無事に逃げました。まことに不安な事態に出合い、今も夢のような心地がします。恐れながら、少将さま(第十二代藩主・豊資公)におかれてもご苦心遊ばされておられます。(少将さまから)平穏の祈念を日々執り行うよう(私どもが)命じられましたので、神前に勤めています。
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一 同月中旬ごろ、お仕置き役(トップの奉行職に次ぐ重役)より次の通り。
昨年秋、(太守さまが)政事の改革を命じられ、ご自身の身辺をはじめとする諸事の簡素化・経費節減により海防対策の強化をはかられたが、このたびの大災害によってまたまた莫大な出費となり、藩の財政事情は窮迫必至となった。これにより、江戸表(の太守さま)から追々お指図があるはずだが、遊慰・飲食にふけるのは言うに及ばず、進物・贈答・饗応など無益の浪費は一切停止すること。
一 御家中をはじめそれ以下の身分の者たちまで、(地震で)潰れたり破損したりした居宅を、雨露しのぎのために修復するのはもちろんのことだが、必要以上に贅沢な作りにするのはこれまた禁止する。
一 地震の被害を受け、居宅の修復ができるまで、家内の者ともども一時(城下近傍の)四カ村から立ち退くのは、身分にかかわらず、願い出たうえでのことなら構わない。
一 最近、銀や米の流通が滞っている折から、今回の大災害が出来したので、盗賊らの横行を防ぐため、取り締まりを昼夜厳しくしている。このため、家臣一同はもちろん、夜分に道路を往来する者で、覆面とか頭巾そのほかをかぶったりする不作法の輩があれば,取り締まりにあたる者が尋問や制止をするよう申し付けたので、家臣一同はそれぞれの主人から油断なく注意を受けるように。
右の通りご命令を受けたので、お侍たちはことさら風俗を正しく保ち、質素にし、また身分相応に実際の役に立つ武備を構え、日常の海防対策を心がけるのが肝要である。もしも心得違いの輩があれば、必ず御沙汰が及ぶであろう。
右の趣旨を我々より申し聞かせるよう、御奉行職一同から命じられたので、配下の者たちに言って聞かせるように。以上。
[参考]
一 十一月二十二日、お仕置き役より次の通り。
このたびの地震で、さまざまな職人や日雇い働きをする者たちが、その働きぶりに応じて定まった分より過分の賃金を貪り取ることのないよう、それぞれの支配頭に言って聞かせてあるので、御家中をはじめ白札(下士のなかの最上位身分)以下が雇う者たちに規定外の賃金をやることがないようにせよ。
以上の趣旨をご奉行職一同から命じられたので、配下の者たちに言って聞かせるように。以上。
十一月二十二日 お仕置き役一同
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一 同二十四日、幕府の御使い・品川式部大輔(高家旗本)により次の通り。
一 銀百匁 日光御門跡より
このたびの諸国の大地震ならびに洪水に関して、世上の安全のためのご祈祷料としてこれを遣わす。
上使(=幕府の使い)太田摂津守(寺社奉行)
一 銀百匁 増上寺方丈より
同断につきこれを遣わす。
一 同下旬、外祖母つまり齋藤内蔵太さまの母君が大病にかかられたので、願い出て、麻布古川屋敷[古川は山内家の末家・山内遠江守さまの御屋敷で、一万三千石取り、江戸に常駐している。齋藤叔父上はお付きの家老で、ご家族と共にお仕えしている]に看病のため参上した。およそ一週間も経て次第に快方に向かわれたが、ご老人のことだから夜中にお伽をした。ちょうど剣術の寒稽古の最中で、暁の八ツ半ごろに古川屋敷を出て、梶橋屋敷に行った。その途中、麻布一ノ橋より新堀の黒田家屋敷辺りで、毎度野犬に吠えられた。一匹吠え始めると、多数の犬が前後左右から群がり来て、大いに困却した。竹刀や真剣などで追い払い追い払いしながら通行した。西ノ窪町辺りは、女子供らが寒声を出すといって、矢切の上で寒風をしのぎ、三味線の稽古をしていた。土橋広小路には乞食どもが菰や筵などを着て路頭に伏せる有様で、人間とは見えなかった。まことに犬猫の世渡りだと毎度感じ入った。外祖母上の申されるには、江戸は辻斬り等があり、ひとりで深夜に歩くのは不安心だと言う。しかし外叔父(齋藤内蔵太)は笑ってこう言われた。「辻斬りなどはお前のような者がすることだから、決して気遣いはいらぬ。かえって辻斬り者と見誤られないよう注意せよ」とのことで、一同大笑いした。
十二月
[参考]
一 この月二日、藩において蒸気船が完成する。よってこれを幕府に届け出る。[欄外注。このくだりは安政二年の記事なので、そこに入れるべきだ]
先だってお指図を受けました蒸気船のひな形がこのたびできました。かねてのお達しの通り、船印は白地に日の丸の幟を用います。帆印船印については上下が紺色で、中には白色を用いたいと思います。もっとも、今月から武州の金川辺りまで内海を試乗し、相応に乗れるようでしたら、先だって伺いましたとおり、海路国許へ差し遣わせたく、それについて(許可をいただけるかどうか)お伺いします。以上。
十二月二日 松平土佐守
これには次のような付箋がついている。(幕府の返答)
伺いの通りにしてよろしい。もっとも浦賀奉行へは船印そのほかの絵図面をもって届け置くよう。試乗のうえ、国許に差し向ける際には、なお届け出をするように。
一 同月五日、安政と改元された。
それについて、我が藩にて次のような達しが出た。
口上覚
このたび年号を安政と改元する旨、江戸において今月五日、御書をもって命じられた。その(将軍の)意図を周知し、組頭たちから配下の面々に申し聞かせよ。以上。
十二月二十五日 五藤主計
[参考]
一 同二十一日、幕府がロシアと条約を結び、下田・長崎・函館の三港を開いた。
一 同二十二日、土佐にて次の通り。
覚
このたびの地震で(少将様の)御屋敷の玄関はじめさまざまなところが傷み、座ることにも差し支えるありさまなので、今度の元旦は、かねてから中老はじめ組頭・物頭らが少将さまに申し上げていた御祝詞を三ノ丸で受けられることになった。
一 十二月二十七日、武芸に精励した褒美として梶橋邸で御酒をいただいた。
なお、右の際、文武に精励した面々二十四名が御酒を頂戴するよう仰せつけられた。
[参考]
一 土佐国の海防兵籍の定め(注②)は次の通り。
一 郷士ならびにその子弟・養育人。
右の子弟・養育人等が貧窮のため、無給で操練に出ることが難しい場合、御郡奉行に願い出れば、民兵への編入を仰せつけられる。
[以下は付箋の記述]郷士は、武技によって前々から仕え、領知を与えられている者であるから、その養育人等は民兵の部に組み込まない。
地下人・浪人(※次に出てくる地下浪人とどう違うのか不明)当人は武技により仕える者ではあるが、無給なので、その子弟・養育人等は民兵の部に組み込む。
一 地下浪人(郷士株を売って浪人となった者)
以上。
民兵の定めは次の通り。
一 地下浪人の子弟・養育人
一 庄屋ならびに名本(なもと)老(としより)どもの子弟は民兵に編入して構わない。(注③)
一 百姓・出作り百姓(別の地域に耕作地のある農民)・水手(かこ。下級船員)・猟師。
右の身分のうちから、海浜に近い土地で、壮健な者を選び、かねて定めておいた員数の通り、十七歳から五十歳までを兵籍に編入する。もっとも、十七歳未満でも体格の優れた者、五十歳を過ぎていても技術優秀な者は、その志があれば兵籍に入れても構わない。
一 数年にわたって操練への参加を怠らず、腕前も達者であり、いったん緩急があった際には必ず藩の御役にも立つにちがいない人材については、御郡方(郡役所)から御目付方(藩の監察役)へ(褒賞の)御沙汰がある。
一 民兵は、(本業の)農業の合間に出動することを命じられるのであって、たとえ腕前がどんなに達者であったとしても、本業を怠る者に対しては御褒賞はないものと心得よ。
【注②。平尾道雄著『土佐藩』によると、「(文政八年二月に)異国船打払令が発せられて、土佐藩でも海岸警備には万全を期した。長い海岸線をもっているので、いつ接岸するか予測することができない外国船を警戒するためには特別の考慮が払われなければならなかった。非常の際にあたって高知城下に集結されている武士団を派遣することは時機を逸する不利もあるし、常時これを海岸要地に分散配置することは藩財政にも支障すくなからず、戦力低下もまぬがれない。これらの不備を補うために在地の郷士・地下浪人、または小銃をもつ猟師を動員することが計画実施されたのであるが、ペリー来航以後海防問題が緊迫するにおよんで、安政元年(1854)九月十二日に民兵募集のことが告示された】
【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)の「土佐藩」(山本大著)によると、「郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた】
安政貳年乙卯 佐佐木高行 二十六歳
一 この月元旦、梶橋の上屋敷に参上し、(太守さまに)御祝詞を申し上げた。
一 同十七日、太守さまが江戸表を発たれるので、お見送りに参上した。
ただし、梶橋邸の御門内で、である。
(太守さまがこの時期に国許に帰られるのは)常例ではないけれど、昨冬、国許で大地震が起きたので、(幕府に)お願いして、早くお暇をいただき、ご帰国あそばされた。
二月
一 この月十四日、太守さまが国許に到着された旨を拝承した。
一 同二十三日、太守さまが家臣一同を三ノ丸に召され、(御意を記した文書を)御祐筆役に読み上げさせられたとのこと。御意は次の通り。
昨年の大地震は宝永(宝永四年の大地震)以来のことで、国許はとりわけ津波による被害が甚だしかった。当今は海防をはじめさまざまな物入りがある折から、またまた莫大の費用がかかり、当惑の至りである。よって本年から年限を限って 、厳しく経費節減することにする。災禍が起きたのはいわゆる天命だと考えられるけれども、我らはいずれも天譴と心得、しっかり奮発して、万一の際の覚悟を怠ることがないよう、災いを転じて福となす深慮が肝要である。
一 人材を選ぶことは政事の根本である。一昨年の改革より始めた人材登用については、とりわけ世間が喧しく、重要な地位に就いた者に過失があれば、躍り上がって喜んでその罪状を責め、あるいは根拠のない流言を流布させ、有力な役人を退けようとする。これはどういう心底によるものか承りたいものだ。古の聖賢といえども小さな欠点のまったくない者はいない。積年の旧弊を改めようとする時節なのだから、たとえ小さな欠点があったとしても、志のある者はその短所を捨て、その長所をとって挙用するものである。だから小人がぺらぺらしゃべることをいささかも気に懸けるつもりはない。もっとも我らは才なきがゆえに役人の登用や政事の処置等を誤ることもあるであろう。そういうときは、いずれも自分の意見を申し出よ。そのために言路を開いているのだから少しも遠慮することはない。君臣の間柄となった以上は、我らの欠点や失敗を取り繕うのは臣たる者の道である。それは国の内外を問わない、普遍的な真理である。
一 士気を養うのは当今の急務であり、それについて考えがあれば速やかに承りたい。最近の天下の形勢を考えるに、国防問題への対応について幕府を軽蔑する者がいるようだ。このたびの天災に加えて、万一凶作ともなれば、ますます諸国は困憊に至ることになる。そうしたとき、奸智に長けた人物が機に乗じて蜂起するようなことになったら、世の中が乱れて騒然となるのは必然である。海防についても士気がなければ、千万の木彫り人形を備えているようなものだ。たとえ砲台を築き、大艦や巨砲を設置したとしても、みんな無用となると言うべきである。そうであるならば、士気を養うのは当今の急務というべきだろう。毎度、文書により申し聞かせているものの、一時逃れで聞き流す傾向が甚だしく、ややもすれば武士にあるまじき振る舞いがあるとも伝わってくる。これは畢竟、我らの不行き届きにより、そういうことが起きるのだろうと思うと、慚愧に堪えない。今日よりもし政事を妨げるようなことがあれば、厳しく対処するつもりである。
大通院さま(初代藩主・山内一豊)はその武功によって当国を拝領された。その子孫にいたって政事をめちゃくちゃにしてしまっては不孝このうえない。また、いずれの家臣も先祖の忠誠により、御先代さま(歴代藩主)より格禄を拝領した。その子孫にいたって、ただ安閑と過ごしたり、あるいは政事を妨げたりすれば、祖宗(藩祖・一豊)に対して不孝であり、御先代に対して不忠ではなかろうか。人と生まれて不孝不忠の名を受けては、下賤の者であっても一日たりとも世に立ちがたい。いわんや、武士たる者はよくよく思慮をめぐらすべきことであろう。
一 学問は決して怠ってはならぬ。無学であっては、一通りの才がある者でも大事は決しがたい。我らは才がないうえに無学であるから、毎度当惑している。それゆえますます家臣一同に学問をするよう言っている。それもただ詩文にのみ心を尽くし、彫虫篆刻の末技(虫を彫ったり、飾りを刻んだりするような詰まらない技)をもって学問と心得ては、たとえ千巻の書物をそらんじても無益である。とにかく国家の興廃・政事の得失に目をつけ、修行したいものである。武芸もただいままでは互いに自分の流派を主張し、某流は某流を誹謗する。砲術にいたっては、それが最も甚だしい。これは武の道をわきまえていないからである。今後、槍術・剣術等は他流派と互いに打ち込み、流儀を選ばず、実用に基づいて、しっかりと修業すべきである。以上。
二月二十三日
(続)