わき道をゆく第192回 現代語訳・保古飛呂比 その⑯
一 右に関連して(藩行政トップの)御奉行職一同による添付文書は次の通り。
近年、藩の借財が増え、財政状況が悪化しているところ、一昨年の秋以来、異国船の動向が穏やかならず、海防対策の充実が看過できない問題となったので、先ごろの藩政改革により(太守さまの)身のまわりを始め諸事の簡素化・経費節減が命じられた。そうした折りに、昨年冬の大災害が起きたので、またまた出費がかさんで藩の借財は莫大となったため、(太守さまは)藩財政の行く末を案じて悩み苦しまれた。人びとの被災状況を見聞するにつけ、それは堪えがたいほどの苦しみではあるが、藩財政の建て直しを人任せにはできないと決意された。これにより、このたびあらかじめ年限を決め、今年から次の酉年までの七年間、公務をはじめすべてのことを従来に比べて半減するよう命じられた。太守さまは万事において不自由を厭わず、必ずや実行されるおつもりである。以上のような次第で(向こう七年の)年限中はなおまた分格差略(※それぞれの身分に応じた生活の規制を緩めることか?)を仰せつけられ、今後、郷居(さとい。家臣が城下に住まず、田舎住まいすること)も許される。先だっての御自筆の書き付けや、このたびのご命令の趣旨をよくわきまえて、いよいよ倹約質素に基づいて出費を償い、風俗を正しくし、文武の道を励んで、実用の武備を強化するよう心得るべきである。かつまた一昨年の秋に御趣意を述べられた際、それ以前のことについては咎め立てしないとおっしゃられた。ところが、それ以後のことについても(太守さまの)御趣意を貫くことが難しくなり、申し訳なさに心が痛む。このたびまたまた(一昨年の秋と同様の)お含みの筋があり、(太守さまの)御慈恵の思し召しを示していただいたうえは、これから必ず(その思し召しに報いるよう)心得るべきである。なお詳しいことはお目付役より通達する。以上。
二月二十五日
深尾弘人
福岡宮内
五藤主計
山内太郎左衛門
[参考]
一 高知のある人がその手紙に曰く。
昨二十四日、太守さま[豊信公]が南会所(藩の政庁)へ入られ、諸儀式の簡素化や経費節減を進める意向だということを述べられた。太守さまは同日八ツ時(午後二時ごろ)、お供の者たちとともに馬に乗って出かけられた。お側衆が四、五騎ついた。草履取りは御両口まで(お供した?)。(太守さま一行の)後先につくお供はなく、槍持ちもつかなかった。(太守さまは)これからどこへ向かうかも示さないまま、蓮池町を下って新町に渡られ、それより下地塘を南下され、農人町を西に進まれ、種崎町通りを経由してお帰りになったとのこと。
一 二月二十六日、(江戸の)築地御屋敷の西外輪長屋より出火、過半が焼失した。
この日、南風が吹いていて、出火すれば大火になる(から注意しなければならぬと)と日比谷邸で申し合わせたのに、巳ノ刻ごろ(午前十時ごろ)築地の方に出火との知らせがあった。自分は智鏡院さま(亡くなった第十三代藩主・豊煕の正妻)の緊急避難要員に指名されているので、早速仕度して駆け付けた。数寄屋橋あたりでは、火元を見に行った野次馬が帰りしなに「築地の土佐藩屋敷だ。この大風に火を出すのは馬鹿だ」などと罵りながら駆けてゆく者が多かった。我が藩邸から出火と聞き、一生懸命に駆け付けたところ、通用門は炎に包まれていて、辛うじて邸内に飛び入り、御殿にまかり出た。そうしたら智鏡院さまは早くに本願寺へ避難されたということだったので、同寺へ行ったところ、まずもって(智鏡院さまに)異状はなく、大いに安心した。
この火事は、このごろ(藩が)小蒸気船をつくるために設けた製造現場から失火したものだ。さいわいに船そのものは(出火場所から)少し離れていたので無事だった。
一 翌日、若山壮吉先生の講義を聴きに行ったところ、先生がこう言われた。「昨日は御屋敷で火事があったが、早速鎮火して不幸中の幸いだった。昨日のような大風のときには必ず大火になると思っていたら、そうならずに安心した。さて、(早くに)鎮火したのは(土佐藩の)御屋敷の策略が図に当たったとの風評だ」。その策略とはどういうことなのですかと尋ねたところ、先生はこう言われた。「町火消しの人足たちは大風のときは必ず火を他に誘導して、わざと大火にする弊がある。ところが(土佐藩の)御屋敷では、風下の御蔵に火薬を積んでいると申し立てたので、火消し人足たちは恐れて一人も近づかなかった。ゆえに(いつものように)わざと大火にすることができなかった」とのことである。「そういうところには私は気づきませんでした」と答えた。これは結局のところ、我が藩は、他の藩から「武の国」と見なされ(恐れられ)ているからこそ、たまたま風下の蔵に火薬を積んでいると言ったのが(奏功した)のだろう。おかしなこともあるものである。
一 芝の(土佐藩の)御屋敷が薩摩藩に譲渡される。
この御屋敷は薩摩藩邸の隣りにあるので、我が藩の辻番所(注①)の前を薩摩藩士が往来する際、しばしば喧嘩が起きた。そのために罰を受ける薩摩藩士も多かった。のみならず、とにかく混雑を引き起こす懸念があった。それに、最近の時勢により屋敷内で操練する際、薩摩藩邸の方に(銃砲の)筒先を向け、空砲を発するようになった。もっとも(土佐藩邸と薩摩藩邸の間は)空き地ではあるけれども、時として込矢(注②)を飛ばし、あるときは野戦砲の込矢が飛んでゆき、大いに心配になることがあった。そうした事情で譲渡されることになった。替わりの屋敷には、巣鴨にある雲州(出雲の国)松平出羽守さまの御隠居屋敷を買い求める手筈となった。
この屋敷は出羽守さまの御隠居中すこぶる奢侈を極めたご住居の跡という。しかしながら至って不便な場所にあり、かつ建物もすこぶる小細工にできていて、はなはだ土佐藩の面目が立たない。畢竟、薩摩藩のために我が藩の重役どもがなされたことであると、江戸勤番の藩士一同が大いに不平を鳴らした。
【注①辻番所とは、精選版日本国語大辞典によると「江戸時代、辻斬りが横行したことから寛永六年(一六二九)に江戸市中の武家屋敷町の辻々に設け、辻番人を置いて路上や一定地域の警備をさせた番所。町方で辻番所にあたるものは自身番である」】
【注②精選版日本国語大辞典によると、この場合の込矢は「初期の、先込め銃に使う道具。木、または、鉄の細長い棒で、弾薬を筒の底まで込み入れるのに用いるもの。こめや」のことと思われる】
一 同月、藩より次の達しがあった。
覚
近来、太守さまが文武の道をとりわけ奨励され、すでにこのたび他藩より槍術・剣術に熟練した者を呼び入れ、武芸所において諸流派の打ち込み稽古を命じられた。それゆえ家臣一同は太守さまの御趣意を厚く受け止め、真実の修業に励むことが肝要である。
しかしながら、このごろ見物人の数がおびただしくなっているとのこと。それに伴い煩雑な状況になってしまっては、他藩の人に対して外聞もよろしくない。かつ稽古人の妨げにもなるので、今後は一日の見物の人数を限って見物するよう命じられた。よって、志のある輩は、そのつど文武方へ届け出て指図を受け、礼儀正しく見物するよう命じられた。
ただし武芸師家ならびに(特命を受けた)御用懸の面々はもちろん貴賎を問わず、特別待遇とする(つまり、届け出の必要はないということか)。
一 右の槍術・剣術の他流打ち込みを命じられた件については、次のような経緯がある。
最初、幡多郡に住む徒士(かち。下士のなかで白札、郷士に次ぐ身分)樋口眞吉、同樋口甚内の両人が筑後柳川藩の大石進先生の門人となり、大石流を学んだ。同流は四ッ割の竹刀(現在のタイプの竹刀)で、すこぶる長刀を用い、他流試合をすることで技術を磨くやり方だ。樋口兄弟は帰国して、他流試合を積極的にしようと唱えた。自分は樋口兄弟と懇意である。そのうえ自分の流儀は眞影流で、同流の古流は袋竹刀(丸竹の先の部分を細かく割り、袋で包んだもの)だったけれども、新流は四ッ割の竹刀なので、師匠の許可を得て樋口と試合を始めた。もっとも古流は上段の構えだったが、新流は下段である。大石流はもちろん下段を主とした。
そのころ寺田小膳と、その弟の寺田忠次の両人が筑後に行き、大石の門人となって帰国した。忠次は内江ノ口に道場を開き、追々門人もでき、自分も時々行って試合をした。
また一刀流の師である麻田勘七も新たに鷹匠町に道場を開き、門人も多くでき、毛利夾輔・山田廣衛・馬場來八等がしきりに修業した。一刀流は四ッ割竹刀を用い、下段の構えである。他流試合をすることもあるけれども、麻田勘七先生は固陋家(=頑なで新しいものを好まない人)だから他流試合を好まないようだ。それでも馬場・毛利・山田の面々は他流試合の仲介に奔走した。よって大石流の寺田、一刀流の麻田は他流試合を行った。しかしながら、藩の門地家(名門の一族)は小栗流・無外流の二派の門人が多数を占めているので他流試合を嫌った。右の二流とも袋竹刀を用いて上段打ちである。もっとも、小栗流一門のうち日根野辯治(後年、坂本竜馬の剣術師匠として知られるようになる)は他流試合を主張したが、日根野は至って身分・俸禄が低く、ことに郷士の家から養子に来た関係もあって、門人も軽格の者が多く、士分(正規の武士身分)は少なく、権力なく、門地家の同流からはかなり憎まれた。このようなありさまで議論がやかましく、他流試合が一般に広く行われることはなかった。
しかし、そうしたなか吉田元吉が、これまでもっぱら読書していたにもかかわらず、寺田忠次に就き、[吉田氏の寺田への入門は嘉永四年の末か同五年のことと思われる]、修業を始めたのである。吉田の門下で小栗流・無外流等を学んでいた市原八郎左衛門・由比猪内・真邊栄三郎、そのほか後藤良輔[後の象次郞]等も寺田の道場で修業するに至って、大いに勢力を得た。それでもまだ他流試合は一般には行われず、物議は絶えなかった。そういうときに、太守さまの思し召しをもって、諸流派の打ち込み試合を命じられたのは、まことに干天の慈雨のごとくであった。
三月
一 この月八日、このたび豊信公(第十五代藩主・山内容堂公)の思し召しが示された件に関して、少将さま(第十二代藩主・豊資公)からもご自身の意向が示された。次の通り。
土佐守(容堂のこと)の思うところがあって、さる丑年に政事改革が行われ、諸事の簡素化・経費節減が実施されている最中の昨冬に大災害が起きた。このため、莫大な費用がかかり、藩の財政はいよいよ難渋さを増した。それゆえ年限を立てて諸事の簡素化・経費節減を必ず実現するなど、その他の考えの数々を(容堂公が)文書で示されたことは承知している。我らは隠居の身分により、表立って経費節減についての申し出は受けていないが、右に準じてなおまた諸事の簡素化・経費節減をすべきだと存じている。我らの手許だけは特別扱いを受けようと思わず、誰もが(容堂公の)趣意を厚く引き受け、簡素化や経費節減の効果がはっきりと現れるようにするつもりである。と同時に、文武の道も油断なく励むことは言うまでもない。
[参考]
一 三月、朝廷が諸国の寺院に対し、梵鐘を溶かして大砲・小銃を鋳造するよう勅語を発せられた。
一 江戸滞在中、中浜万次郎を訪ねた。中浜は新銭座の江川太郎左衛門の邸内に住む高島秋帆のところにいた。秋帆先生はよほどの老人と見受けた。万次郎はその邸内の家にいたので、秋帆先生にも会った。中浜が言うには、自分は幕府に召され、(直参の旗本に列せられて)格式もよろしいという。別に学問もないので、格式なぞは知らぬのだろう。また万次郎が言うには、米穀の馬は大きくてたくましく、日本の馬は小さくて弱いという。自分はまた中浜が虚構の話をつくり、異国を褒めて自国を貶すのかと思い、腹立たしかった。
四月
一 この月七日、江戸表を発った。
その夜、川崎に泊まり、翌日の夜は藤沢に、次いで小田原に泊まり、同十日、箱根宿の石内で昼食し、三島に泊まり、それより東海道の宮宿(現在の名古屋市熱田区)から桑名へ船で渡る。伏見より大坂、大坂より船便で帰国する。
[参考]
一 四月十九日、幕府の達しは次の通り。
覚
一 小判(金貨一両)は銀貨七十四匁(に相当する)
一 貳朱判(貳朱金)は銀貨九匁貳分五厘(に相当する)
一 正銀(兌換紙幣の銀札ではなく銀貨の現物)は一匁につき(銭で)九十六文(に相当する)(注③)
ただし平両替は、金一両につき八銭八分を手数料として受け取るとのこと。
右は銀と銭の相場の間に不平等があるので、このたび上方の相場にしたがい、右の通りに変更し、江戸でも大坂でも一様に通用するよう仰せつけられた。両替は但し書きの通りに定められた。もちろん貸借品代(※さまざまな物品を一時的に貸す貸物屋の料金のことか)等は一切元のままにしておいて、相場によって取引されるよう命じられた。もし、それに背く者があれば必ずお咎めを受けることになるはずだ。以上。
【注③江戸時代の三貨制度。百科事典マイペディアによると、「金・銀・銭(ぜに)の3種類の貨幣。古くは銭が用いられていたが,安土・桃山時代に金・銀貨が加わった。江戸時代,金・銀・銭を発行したが金銀貨中心で,銭は補助貨幣とされた。交換比率は1609年金1両=銀50匁=銭4貫と公定されたが,1700年金1両=銀60匁と改められ,以降も時期により変動があった。」】
一 同月二十九日、(高行の乗った船が)浦戸に入港、夕刻、永国寺町の自宅に着き、同夜、杓田村に転居した。
もっとも、留守中の大地震で(永国寺町の)家屋が破損し、かつ、(永国寺町の家を貸してくれていた)齋藤叔父上が帰国するというので、かねて杓田村に家宅を求めていたところで、同夜、(高行が着くとすぐに)杓田村に引っ越したわけである。
大地震で家屋が半壊し、そのうえ津波に洗われたので、(齋藤叔父上の)屋敷裏の藪のなかに仮設の小屋をつくり、留守家族一同が住んでいた。そこから杓田村に引っ越した。杓田村の大谷茂次郎が所有する扣山(読みは、はたきやまか?)の崖の、ごくわずかな地面に百姓・直平という者が住居用の家屋を買い求めたもの。家賃は八銭三百目である。[土佐では銀一匁は銭貨で八十文である](※原著には杓田村の家の簡単な見取り図が描かれている。納屋と土間の他に四畳・六畳・二畳の三間。四畳は押し入れに用いると注記あり)
この家に家族十人が住む。畳の部屋はなく、すべて板敷きである。父上ハ土間ヘ根臺ヲ上ゲテ御住居(※この部分は意味がよくわからないので原文を引き写した。ひょっとしたら根臺は寝台の誤記かも)、我が家の困窮は甚だしい。
[参考]
一 四月、将軍が我が藩に下賜された判物(注④)を、大目付の某ならびに馬廻りの某が護衛して(江戸より)高知に至る。これを倉庫に納めた。
【注④。百科事典マイペディアによると、判物は「室町時代以降,将軍・守護・大名が発給した直状(じきじょう)形式の文書で,発給者みずからが花押(かおう)を据えたものをいう。所領の給与・安堵(あんど),特権の付与などを行う場合に用いた。江戸時代には,将軍が10万石以上の領知(りょうち)を大名に与える場合やその安堵に用いられた」
五月
一 この月五日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同十日、(太守さまが)剣術(の演武を)ご覧につき出勤。
一 同二十九日、次の通り。
御留守居組筒役
高村造酒之丞
右の者、先だって鉄製砲二十挺を製造するよう命じられたが、製造にあたらせた職人の技術が未熟のため、できあがった砲に思わぬ疵があった。また、その疵を補修して試し打ちをしたところ、種々の不具合があった。畢竟、当人の思慮、指図ともに不行き届きがあったためにそうなったと、(当人は)よくよく恐れ入って(藩当局に)申し出た。しかしながら、砲の製造に不具合があったことを、(最初の段階の)数挺ができる以前に、詳しく報告していれば、(藩として)検討の余地があったはずなのに、(当人が報告しなかったので)夥しい出費を余儀なくされた。(太守さまは)そうしたいい加減な態度をご不快に思し召された。このため、謹慎を仰せつけられていたが、同二十九日、処分を解除する。
(高行の追記)右は自分が江戸滞在中の出来事で、帰国してから聞いたことではあるけれども、砲の製造に関することだから、ここに書き記す。
六月
一 この月朔日、病気につき出勤せず。
八月
一 この月朔日、病気につき出勤せず。
[参考]
一 薩州侯よりの回状(=回覧して用件などを伝える手紙)は次の通り。
回状をもって申し上げます。昨日の十三日、阿部伊勢守さま・久世大和守さま(御老中)の招きで(薩摩守が)参上したら、ロシアはじめ各国と締結した条約書を渡されました。大和守さまからも(外国船による)日本周辺での測量等の実施について達しがありました。
その旨を国持大名ならびにその分家の方々に通達するよう(薩摩守から)命じられました。(老中から渡された)文書類は数が多いので、追って(その写しを)お渡ししますが、まずこのことを皆様にお知らせしておくよう、薩摩守から申し付けられましたので、回状をもって御意を得たく、このようにご連絡した次第です。以上。
八月十四日
松平薩摩守内
西筑右衛門
早川五郎兵衛
半田嘉藤次
順不同
細川越中守さま
御留守居中さま(=細川藩の江戸留守居役一同)
松平内蔵頭さま
御留守居中さま(=備前岡山藩の江戸留守居役一同)
松平土佐守さま
御留守居中さま(=土佐藩の江戸留守居役一同)
一 薩州さまより太守さまへの手紙は次の通り。
口述筆記
一昨日の十三日に呼び出しがあったので伊勢守殿の宅に行ったところ、別紙[略す]の書面を渡されました。なおまた、その席で(伊勢守殿が言うには)、名指しでは言いにくいのですが、「特段の(海防)対策をしていないところもあり、あるいは名目のみで実際の備えをしていないところもあるように聞いている。なので、以後は必ず(海防)対策を充実させるように。もしもこのうえ、いい加減にすませるような藩があれば(幕府から)お咎めを受けることもあると、国持ちの大名からその分家まで残るところなく申し伝えるよう。なお(外国による日本沿海の)測量等について、今日(これから行くことになる)大和守殿の宅でお達しがあるので、間違いなくきちんと伝えるように」とのことでした。
そうして、(幕府への)要請があれば、(文書を)ご覧のうえ、使者を立てて伊勢守殿へその旨を伝えるよう、御令息方にも伝えられたいとのことでした。
右の話が済んだ後、大和守殿の宅へ行ったところ、別紙[略す]を渡され、(大和守殿は)「(異国船は測量のため)五月すぎに來ると申していたので、もはや近々参るであろう。しかしこれは幕府が断るつもりだ。もちろんこちらから事を構えるつもりはないのだが、応接の次第によっては、いつ戦争になるかもわからない。そのつもりで海防対策を充実させるようにとの将軍の御趣意なので、漏らさず伝えるように」とのことでした。また、(幕府への)要請の使いその他のことは伊勢守殿と同様だということです。
八月十五日
松平薩摩守より
松平土佐守さま
一 八月十九日、薩州家より使者があり、次の旨を伝えた。
阿部伊勢守さまよりロシア・イギリス・アメリカと締結した条約を日本語訳したものと、その添付文書、かつまた久世大和守さまより、アメリカが日本海を測量する件について(米国側が提出した文書の)日本語訳ならびに添付文書、(幕府から米国に)口頭で伝えた内容、それに薩摩守による説明書一通を添えて通達いたします。
右は、(土佐守が)国許におられるので、(江戸留守居の)ご重役が封書を開封され、(内容を)ご覧のうえ、お国許へ廻してくださるように。(内容を)ご承知になったうえで、その旨を薩摩守にご連絡いただきたいと存じます。(※この部分の訳が間違っている可能性があるので、念のため、原文を引き写しておく。御承知之上薩摩守方ヘ其段仰遣度儀ト被存候)
右の通り心づもりとしてお伝えするよう、薩摩守から申し付けられました。以上。
松平薩摩守内
野村源一郎
一 八月二十六、七、八日、当村(杓田村)の産土神(=生まれた土地の守護神)の祭礼につき参詣した。
一 同二十九日、(太守さまが)剣術の演武を再びご覧になった。ご指名を受けたが、病気につき出勤できなかった。
[参考]
一 同月、幕府が諸事を簡素な制度に戻す旨の布告を出した。太平の世が長くつづいたため人心が軟化して虚飾に流れ、万事につけて必要以上に丁寧になったので、質実の士気を取り戻そうという趣旨である。
幕府が発した文書は次の通り。
(将軍は)ご政務については代々の将軍の思し召しを受け継いで、つねづね心を砕いておられるが、長年にわたって太平の世がつづいたため、人心がとかく外見の虚飾に流れ、あらゆる事柄が必要以上に丁寧になり、無益の手数のみが増えたので、実際に役立つ備えについて(将軍は)しばしば不安を覚えておられる。
ことに近来、諸外国の船が相次ぎ入港し、それぞれに対してのご処置は施されたけれども、この後、特に非常時の対策が肝要となるので、このたび諸事を格段と簡素な制度に戻され、総じて無益の旧習や必要以上に丁寧な古くからの格式を省き、質実の士風になるようにしたいとの思し召しであり、追々お指図があると思う。したがって一同は右の思し召しに基づき、すべての事柄を厚く申し合わせ、いささかもなおざりにするようなことがないよう、精一杯忠勤を励むようにされたい。
ご政務につき、このたび改めて言いつけになったこともある。(将軍ご自身の)身のまわりから万事格段に倹約されるので、金銀の御道具類は、武器などのよんどころない物以外はお使いにならない。神社・霊廟・(江戸城の)大奥などの装飾品をはじめ重器(大切な宝物)にいたるまで、今後は金銀の道具・金箔・金泥の類は使用を差し控えられるので、一万石以上の大名も、それ以下の者も、これからは無益の玩具等に金銀を用いることがないようにされたい。武器は、それぞれの身の程の応じて嗜むべきものであることはもちろんではあるが、これも無益の飾りは、なるべく省くよう心懸けよ。神社・仏閣の装飾品、神器・仏具の類も新規にできあがった品は、金銀の道具でないものは、後に修復する際に他のものを使って差し換え、金箔・金泥をつかった品も右に準じて、武器の他は新規につくるものをなくし、すべてなるべく質素になるよう心懸けよと仰せつけられた。
九月
一 この月九日、(太守さまに)お差し支えがあり、毎月恒例の拝謁のための登城が中止された。
一 同十四日、太守さまが日光御坊(御坊は寺院のことなので、日光山輪王寺を指すと思われる)向け、そのほかの(将軍家による)修復事業のお手伝いの役目を滞りなく済まされた。これにより、十四日、御時服(=将軍家から賜る衣服)を拝領し、万端首尾良く済まされ、恐悦至極のことである。
(右は十四日、江戸よりの飛脚が到着して知らされる)
一 九月二十五、六、七日、藤並宮御例祭。二十五日は雨天につき、御神幸(デジタル大辞泉によれば、祭事や遷宮などのとき、神体がその鎮座する神社から他所へ赴くこと)は二十七日に行われた。
十月
一 この月朔日、病気につき出勤せず。
[参考]
一 同二日、江戸大地震、死者がはなはだ多く、水戸の藤田東湖も圧死した。
一 同二十九日、太守さまが政事庁[南会所のこと]に臨まれ、槍術者の演武を見られた。(出演者を)懇ろに待遇して物を与え、かつ酒肴を賜うた。この演武会に集まってきた他藩人は六人。宇佐美叶[稲葉伊予守の家臣]・飯沼千之助[同上]・稲葉重五郎[同上]・伊原勝司[松平周防守の家臣]・今西喜蔵[内藤能登守の家臣]・間角彌[黒田甲斐守の家臣]、ことに間角彌は(槍術の)教師であるので、手厚く遇されたという。
十一月
一 この月朔日、病気につき出勤せず。
一 平井善之丞が大目付になった。
これは自分が最も信用する人である。
十二月
一 この月朔日、病気につき出勤せず。
貧窮はなはだしくなり、やむを得ず時々病気と称して欠勤している。(魚住注・高行が江戸から帰って以来、「病気につき出勤せず」の記述が目立っていたが、病気は単なる口実にすぎず、実際には貧窮のため出勤できる状態ではなかったことがここで初めて明かされた)
[参考]
一 同朔日、我が藩にて次の通り。
ご家老たちはじめお侍一同・奉公人に至るまで、一カ月おきに紙(の配給?)があったが、それは差し止めになった。これまでは足軽身分の者の跡を惣領(長男)が継いでいたが、それも差し止められた。さらに新規の足軽の召し抱えも差し止められた。そして、他支配組抜・下代・足軽類、さらには古支配(の足軽)どもへも江戸勤番を仰せつけられることになった。(注⑤)
【注⑤。平尾道雄著『近世社会史考』によると、土佐藩では足軽身分がさらに細かく九階に分けられ、上から順に古支配・他支配組抜・下代類・小組抜・大筒打・五百人方足軽・新足軽・足軽類などと呼ばれていた。また、総じて足軽身分の者は名字を名乗ることを許されず、雨天の際の下駄の使用も禁じられた】
[参考]
一 同月三日、御目付役より口頭で次のような達しがあった。
中老をはじめ平士(ひらざむらい。馬廻り組以下の上士)はその知行高により行軍砲・小銃等を今年中に備えるよう、一昨年に命じておいたが、その後の昨冬の大災害が起きたため、(行軍砲や小銃の)鋳造が難渋する面々もあるであろう。それゆえこのたび評議した結果、年限を延ばし、来年中に備えることとなった。以上は太守さまの命である。(注⑥)。
十二月三日
【注⑥。既に紹介した嘉永六年十二月の達しのこと。記憶喚起のため再録しておく。
一 中老はもちろん、物頭・平士で知行高二百五十石以上の面々は各自、重さ百五十匁(一匁=3・75グラム)以上の弾を放つ行軍砲を再来年の卯年中までに備えるよう仰せつけられる。
ただし、現在行軍砲を所持している者、ならびにこれまで(行軍砲を藩に)寸志として差し上げた者は、このたび新たに(行軍砲を)鋳造しなくとも構わない。(行軍砲の)鋳造ができた者たちはその都度(藩に)届け出ること。
一 平士で知行高百石以上二百五十石未満の面々は、十匁より五匁までの(重さの玉を発射する)小銃二丁以上を再来年の卯年中までに備えるよう。もっとも百石に満たない者たちはこの限りではない。
なお、自分の意思で軍砲を備えている者は小銃を備える必要はない。ただし(小銃を)すでに所持あるいは寸志として(藩に)差し上げた者たち、ならびに新たに(小銃が)できた者たちは前文の通り(藩に届け出ること)】
【※魚住注。次の記述の前段を理解するには、江戸時代に一般的だった蔵米知行制(くらまいちぎょうせい)についての知識が不可欠なので、あらかじめ日本大百科全書(ニッポニカ)の「蔵米知行制」の解説を引用しておく。
「大名から石高(こくだか)(草高(くさだか))ないし、所付(ところづけ)(村付)だけの名目的な知行地(給地、給知ともいう)を給付されてはいるものの、知行地を給付された家臣(給人という)は、土地と農民に対する個別的・直接的な支配権はまったく認められず、藩庫に収納された蔵米を知行高に応じて支給される(これを物成渡(ものなりわたし)という)、江戸時代独自の知行形態。江戸時代の知行制は、(1)地方(じかた)知行制、(2)蔵米知行制、(3)非知行の三つの形態に大別され、(3)の非知行とは、名目上の知行地さえも与えられない下級の家臣に対する給与制度で、扶持米取(ふちまいどり)といわれ、1日に米何合(5合が標準)を一人扶持と定め、何人扶持というぐあいに現物の米や金(扶持米、扶持銭、切米(きりまい)、切銭)を幕府や藩から支給される場合をいう。蔵米知行制も、知行地給与が名目化され、大名の藩庫から直接に現米や米切手を支給される蔵米取(切米取ともいう)であったため、現実的には扶持米取と同質であった。そのため、蔵米知行制は扶持米取を含めて俸禄(ほうろく)制と称する場合が多い。しかし、俸禄制を文字どおり家臣が大名から受ける給与制度の面だけで理解すると、蔵米知行制の歴史的意義を見失ってしまう。江戸時代の知行制は兵農分離制と石高制という幕藩制国家の支配原理によって特質づけられていた。将軍・大名によって家臣団が城下町に集住することを強制された結果、給人と知行地農民との支配関係は間接的なものにならざるをえず、また、石高制の採用によって、禄高さえ一致すれば知行地を分散しても差し支えなくなったため、在地領主制の基礎である土地と農民に対する個別的・直接的な支配権は、基本的には大名によって掌握され、地方知行制が形骸(けいがい)化ないし廃止されて蔵米知行制の方向へ進む可能性は最初から内包していた。しかし、江戸時代初期には、大名が軍事動員や普請(ふしん)役などの幕府軍役を家臣に転嫁する必要性などから多くの藩で地方知行制がとられた。ところが、給人の恣意(しい)的支配によって農民の疲弊と抵抗が激増したため、知行地割替(わりかえ)や年貢率の定率化(平均免(ならしめん)という)、給人の年貢収納権の収公などの初期藩政改革を実施して、地方知行制の廃止ないし形骸化を図ることが緊要の課題となった。蔵米知行制はこのような歴史的所産として登場し、幕藩制社会にもっとも適合的な知行形態となった。[吉武佳一郎]」
ちなみに佐佐木高行の実父は百石取りだったが、高行が生まれる直前に死亡したため、急遽、佐佐木家では高行の姉に養子を迎えて、高行の養父とした。このとき藩法の規定により、百石だった蔵米知行が「三十石減ぜられて七十石となつた」と『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』に書かれている】
一 同月中旬、郷士養育人(注⑦)で大埇村在住の谷田卯之助より毎年、為替米を致している。為替米というのは、七月下旬から八月上旬に新米がとれるので、(年貢として藩庫に入れる)米石を為替と引き換えに先取りするやり方である。(数カ月後に為替を決済するときは)自分の蔵米知行(藩からの俸禄。高行は七十石取り)のなかで、先取りした石高の分を切手(藩から現物の米の換わりに支給される手形。これで米を買うことも、換金もできた)で(谷田に)渡せば、その切手で御蔵納め(年貢を藩の蔵に納めること)を済ませるやり方である。
(※この部分の訳は間違いの恐れがあるので、原文を引き写しておく。同月中旬、郷士養育人大埇村住谷田卯之助ヨリ、年々為替米為致候、七月下旬ヨリ八月上旬ニハ新米出来候ニ付、御蔵入ノ米石為替ニテ取リ、自分ノ蔵米知行ノ中ニテ、右石高ヲ切手ニ致シ相渡候得者、其切手ニテ御蔵納相済候仕法也)
ところが年々困窮して、約束のように切手を渡すことができず、本年はとりわけ難渋した。谷田が(我が家に)催促に来て一泊することになったので、父上が酒を出すよう仰せられた。父上は家事を知らず、しきりに催促されるが、金が一銭もなく当惑した。それでも何とか手段があるだろうと(妻の)貞衛と二人で新井口町へ行き、酒屋等に相談したけれども、(自分らは)近頃引っ越してきたばかりで、そのうえ困窮しているので貸してくれなかった。いよいよ困り果てたところ、徳増屋総平という小質屋があった。その嫁はいたって深切なので、尋ねて行って、少々借用できないかと相談したら、八銭四匁[一匁は八十文なり。ゆえに八銭という]を貸してくれたので、酒・醤油・豆腐を少々買い求めた。徳利もなく、皿を借りて醤油を入れたが、家まで七、八丁のたんぼ道がつづき、ことに寒さで氷も張っていて、はなはだ難儀する。そこでやっとのことで(皿に)笹の葉を入れてこぼれぬようにして帰った。徳増屋で四匁を貸してくれたときは、嬉しさで、いわゆる鬼の首を得たような心地がした。極貧の身ほど悲しきはなし。徳増屋の嫁の名はうた。また総平の娘の名はゑいという。この二人が世話をしてくれた。
【注⑦。郷士養育人は、平尾道雄著『近世社会史考』を読むと、「養子養育人」のように養子とセットで語られることが多い。では、両者の違いは何か。武家の養子は主に家督相続を目的に、養子縁組をして、その家に入った者を指すが、『近世社会史考』によると養育入りというのは「附籍人になることで、生計は別に立てるものでも士家の家籍に入ることによって武家の身分を維持したものである」という。つまり郷士養育人とは、郷士の家籍に入ったが、生計は別に立てている者ということになる】
一 この年、江戸留守居の面々に弊風がはびこっているので、これを改革しようと、朝比奈泰平を留守居とした。また太守さまが同列の諸侯と相談して無用の集会をやめた。これより先、太守さまが金を朝廷に献上して、皇室の費用を援助しようとされた。泰平に命じて金の献上計画を進めておられたが、幕府の祐筆(文書・記録の担当職)である某がこれを阻んだ。この某は道理に基づいて(金の献上をやめるよう)説得したので、これにより遂にその志は行われなかった。[藩政録の記述による]
(続)