わき道をゆく第193回 現代語訳・保古飛呂比 その⑰
保古飛呂比 巻四 安政三年から同六年まで
安政三年丙辰(ひのえたつ) 高行二七歳
正月
一 この月元旦、登城し、御流れ酒を頂戴した。
[参考]
一 同四日、幕府が次のような指令を(各藩に)発した。
近来、異国船渡来に関して海防対策の出費が増えたところに、禁裡(京都御所)が炎上し、かつ今般の地震が発生した。この地震で江戸城の内外、芝増上寺・上野寛永寺のお堂や歴代将軍の御霊屋(みたまや)等が大破した。そのうえ東海道筋・関東筋の河川では堤防まで夥しく破損した。(各藩においては)それぞれの修復工事について(幕府の)お手伝いを命じられるはずのところであるが、どの藩も江戸屋敷そのほかが大破し、難儀している折からなので、江戸城内外ならびに芝増上寺・上野寛永寺の御堂・御霊屋、かつ各河川の修復工事に至るまで、思し召しをもって公儀御入用(幕府が費用を負担すること)を命じられ、お手伝いは不要になった。京都御所の修復工事については、天明年間の先例(天明八年=1788年の京都市中を焼き尽くした大火)に従うと、五万石以上の大名に御築地方(=上流貴族の邸宅)の修復費用の献納を仰せつけられるところだが、五万石以上の大名の面々も、近来、海岸防禦の軍備のために出費がかさんでいる折から、このたびの震災等でなおまた出費が重なっているのを考慮し、格別の思し召しをもって、今回は御築地方の修復費用を献納するに及ばずと(将軍は)仰せられた。
[参考]
一 正月十一日、一昨年の寅年に起きた地震以来の損害の状況を幕府に報告した。その書に曰く。
土佐の国は一昨年寅年の強い地震により破損した箇所等詳細はその際、幕府に届けております。地震発生以来、とにかく高潮が来て、田んぼの堤が押し切られ、畑は潮につかりました。そのうえたびたび風雨に見舞われ、虫害等もありました。このため、昨年(卯年)の収納状況を調べたところ、損害高は次の通りとなりました。
一 六万七千九十八石八斗二升
右の通りです。以上。
正月十一日 松平土佐守
一 若山(壮吉)先生の返事は次の通り。
貴殿のお手紙、拝見しました。余寒(よかん。寒があけても残る寒さ)去りがたいところ、いよいよ健勝にて新年を迎えられたことは喜ばしい限りです。我が住まいも異状なく時を過ごしております。さてこの度の大震災はお聞き及びの通りです。言葉で言い表せないような天意であります。我が家は異状がなくとも、各家々の破損状況はかなりひどいものです。早速、(安否を)お尋ねくださり、貴殿のご厚意に恐れ入るばかりです。ついては、阿部侯(老中首座の阿部伊勢守)もお住まいが総崩れのありさまで、側室そのほか即死者の人数多く、阿部侯自身も御刀一本持ってようやく這い出されたということです。竹藪の先見(注①)も役立たなかったようで、お笑いぐさです。この正月にはアメリカ船が入港する見込みですが、(幕府が米国側による日本沿海の測量を)重ねてお断りになったらどうなることかと心配しております。(貴殿は)武道の講習に日夜励んでおられることと存じます。とにかく見苦しい死に方をしないよう心懸けるしかありません。まずは年賀まで、早々。
不一。
正月十五日 若山壮吉
佐佐木三四郎様
なお本山君からたびたびお手紙をいただいておりますが、こちらからはご無沙汰したままです。ついでによろしくお伝えいただけませんでしょうか。どうかご自愛専一に。
(以下は、高行自身の追記)本文の竹藪云々とあるのは、寅年に諸国で地震が相次いだため、阿部閣老(老中のこと)が庭前に竹藪を植え、地震の際の立ち退きの用意をしたという風聞がそのころあった。それを聞いて自分たちは、どうも閣老のやり方としては用意が周密にすぎると、笑い合ったことである。
二月
一 この月十三日、黒田甲斐守家来の間角彌が国許に帰ったとのこと。
一 太守さまが南会所(土佐藩の政事庁)へ入られ、上田馬之助[細川能登守家来]・村上圭蔵[中川修理太夫家来]・多羅尾勢五郎[松平次丸家来]・島田勘之丞[浪人]等の剣術の演武をご覧になったとのこと。
三月
[参考]
一 この月、幕府、太守さまの参勤延期を許す。
四月
[参考]
一 同月二十四、五日、太守さまが仁井田浜で大砲の試し打ちをご覧になり、また同浜の震災被害を不憫に思われ、鳥目(お金のこと)を下された。
浦戸大庄屋 吉本元助
その方が管轄する桂浜の住民たちは、一昨年の大災害で居宅を流され、とりわけ困窮して暮らしている者たちがいる。このたび、太守さまが磯崎御殿(浦戸にある山内家別邸)に入られる際、通りがかりにその困窮ぶりをご覧になって気の毒に思し召された。このため太守さまのお手許銀の内から鳥目を下されることになった。
辰年の四月
一人に鳥目五百文ずつ、(それとは別に)水死者が出た家には八百文を与える。
一 四月下旬、(高行自身が藩に)逼塞願いを差し出す。
積年の困窮・借財がかさんで、どうにもならず、やむを得ず逼塞入り願いを正月中旬に差し出す心づもりで、昨年十二月からいろいろ心を配り、(借金の整理に)奔走していたが、いろいろな借財が錯綜していてうまくいかなかった。それでも日々奔走して、ようやく逼塞願い書を差し出すところまでこぎつけ、このとき差し出した。借財は(自分の身分に)不相応なほど莫大で、完済するのにおよそ四十年ばかりかかる見込みだ。もっとも(返済の)方法はいたって難しく、それがために借財もかさんだ次第である。
一 手島八助(注①)、江戸より萩原静安(土佐藩医。萩原三圭の父)への書状に曰く。
一筆啓上いたします。(略)さて伏見に思ったより早く着き、その日は大津に泊まる予定だったので、内々に京都に立ち寄り、先年、山口菅山(注②)の塾で一緒だった大澤雅五郎を訪ねました。大澤は菅山の跡を継ぎ、そのうえ儒学や文学に堪能で、このごろは京都の大家と呼ばれているそうです。彼はもとより朱子学の学識が豊かなので、高貴な身分の方たちのお相手をしています。当の中山大納言さま(中山忠能。明治天皇の外祖父)・久我さま・三条さま(三条実美。後の太政大臣)はまことに正統な学問に熱心で、中山卿は根源的な決断力をもって生まれた方です。内裏の造営もこのお方の果断さによりようやく落成し、去年霜月(十一月)に御遷幸(天皇が他所へ移ること。嘉永六年の内裏炎上で孝明天皇は仮御所に移っていた)にこぎつけたとのこと。
三条卿は学問が相当身についていて、もちろん夷虜(=野蛮人)などに交易を許されることには反対しておられ、幕府に対して反発しておられるとのこと。さて今上皇帝[孝明天皇]は日々読書され、抄読会も開いておられる。不意に三位、あるいは四位の公卿たちを呼び立て、論語の御侍講(君主に対して講義すること)を命じられるので、公卿たちも油断ならない模様です。雅五郎もことのほか用いられているとひそかに承っており、まことに感涙に堪えません。このたびは、内々に雅五郎と打ち合わせ、彼が江戸に来たときに詳しいことを報告してくれる手筈にしておきました。帝都では程朱の道(=朱子学)が行われています。これで思い残すことはありません。(※以下十五字は意味不明のため、原文を引き写す)御国抔のちんきんぼり言ぬがよし。田所氏も相変わらず貴兄の安否を尋ねます。いつでも不機嫌の様子です。不一。
四月二十八日 八助
[萩原]静安さまへ
なおなお留守をよろしくお頼みします。
帝都の模様は同志のほかには口外されぬように。私に少し考えがあります。八月に君公(容堂侯)が(江戸に)お着きになってからのことにしたいと思っています。
【注①。手島八助=手島季隆(てしま-すえたか)はデジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、1814-1897 江戸後期-明治時代の武士,神職。文化11年10月16日生まれ。土佐高知藩士。弘化(こうか)元年おこぜ組の事件に連座し,文武調役を免職。安政4年藩主山内豊信(とよしげ)の命で箱館を調査,「探箱録」をあらわす。明治5年鳴無(おとなし)神社祠官となる。明治30年9月4日死去。84歳。通称は八助。号は約軒」】
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、「山口菅山 やまぐち-かんざん1772-1854 江戸時代後期の儒者。安永元年生まれ。若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩士。西依(にしより)成斎・墨山父子らにまなんで藩校教授となり,江戸,小浜でおしえる。嘉永(かえい)6年のペリー来航時,尊攘(そんじょう)を主張。小浜藩士梅田雲浜(うんぴん),薩摩(さつま)藩士有馬新七らをそだてた。嘉永7年8月5日死去。83歳。名は重明(しげあき),重昭。通称は貞一郎。別号に近斎。著作に「王学駁議(ばくぎ)」「近思録詳説」など」】
五月
一 この月朔日、小南五郎右衛門が御側御用役と兼任御用役をともに解かれる。
一 同十八日の夜、(高行の)逼塞入りが聞き届けられた。これにより、七人分の扶持(注③)を七月以降いただけるはず。その間のつなぎの扶持米の拝借を願い出たところ、吉米(良質な米)二石を願い通り拝借することを許可された。
逼塞入りは借財の支払いができず、やむを得ず処置を願ったことであって、遊び事はもちろん、外出の際にも袴羽織を着ることができず、勤めごとも一切しない、いわゆる閉居である。もっとも文武の修業は構わないけれども、他の者たちは(逼塞入りしたら)修業等はしない。自分は無袴・無羽織で往来して文武の修業をしたため、他人はそういう自分を奇人視した。
借財高が多く、およそ四十年後に完済する見込みである。よって終身閉居の覚悟だったが、祖母上・母上が窮屈な暮らしで、余命も長くないことを考えれば、甚だお気の毒なことである。また、子供も何の遊び事もできず、肩身の狭い思いをしており、これには心が痛んだ。
【注③。精選版日本国語大辞典によると、「ふち‐まい【扶持米】 主君から家臣に給与した俸祿の米。中世、土地の給与に代わって米を給与することが起こり、近世に一般化した。幕府の場合は下級の旗本・御家人、諸藩の場合も下級藩士に多く、一人一日五合(約〇・九リットル)を標準に一年間分を支給するのを一人扶持と呼んだ」)
六月
一 この月二十八日、太守さま自筆の(文書の)写しは次の通り。
家臣たちが困窮しているのはそれぞれの日頃の覚悟が足りないためとは申しながら、畢竟、我らが未熟なためであると自省してみると、その責任は我らにある。このまま打ち捨てておくわけにいかないので、私の心づもりを奉行職一同はじめ重役たちに申し聞かせた。以後、家臣一同誰もが志を立て、我らの役に立つなら、大慶の至りである。
御奉行職一同の添え書き
このたび太守さまが御自筆の文書をもっておっしゃったことの御趣意は次の通りである。外敵の動静はいまは平穏の極みにあるが、すでに(日本沿海の)測量をしたいとの要請も來るなど、外敵の動きは計りがたく、武芸に専心すべき時である。しかしながら、その一方で、震災後、困窮する家臣たちが急増した。それは詰まるところ、覚悟の足りない家臣たちが少なくないためとはいえ、太守さまはかえって自省され、相当の援助を命じたいと思われたが、近来、海防・天災等で莫大の出費が重なり、困っている者たちを助ける方法もないありさまである。しかしながら決して手を拱いている時勢ではないので深く心を痛められ、、格別の手段により、お侍一同からそれ以下の身分の者たちに至るまで借財の整理を命じられた。これから各自の生計を立て直し、身分や能力に応じて武士としてのお役に立つようにとおっしゃった。太守さまの思し召しを拝承のうえ、借財のある者たちは取りまとめてお仕置き役場まで申し出るように。これから追々さまざまな操練も命じられるので、各自倹約を守り、かならず戦いに対する備えを怠らぬようにせよ。もし太守さまの御趣意に背き、文武の備えを怠り、奢侈安逸を好んで風俗を堕落させる輩がいれば、決して許されないので、家臣一同ひとりひとりの覚悟が肝要と心得よ。以上。
辰年六月二十八日 五藤内蔵助
深尾鼎
(以下は高行の所感)右の通り、太守さまが借財の処置をなされ、操練等を命じられたこと云々は、大目付の平井善之丞が大いに主張したことから始まっている。そもそもさる嘉永六年にアメリカ船が渡来したことにより、太平の夢が覚め、藩政が大いに改革された。太守さまは人材登用を進められ、ことに吉田元吉(東洋)を信用して、着々と改革を進められた。そうしたところ、翌寛永七年、元吉は江戸藩邸で松下嘉兵衛さまに無礼をはたらき、罰を受けたので、吉田派の勢力が衰えた。そこに大地震が起こり、安政二年、太守さまが帰国され、文武を奨励されたけれども、操練のことはただ足軽たちによるオランダ流銃隊の操練があり、そのほか古流の小銃隊が前進後退するぐらいだった。土佐藩のお家流兵学である北条流にはすべて操練等はなかったので、我々は大いに練兵をすべきだと主張してきたが、ようやく本文の通り操練の実施を命じられることとなった。
[参考]
一 下元勇馬よりある人に送った書状に曰く。
先日は(日向飫肥藩士の)安井仲平(安井息軒のこと。注④)というただいま日本一と名高い人物から話を聞きました。これまでにも二度ほど彼の家に伺ったことがあり、心やすい間柄です。たまたま鉄砲洲(注⑤)へいっしょに行きまして、いろいろ話を承りました。右の仲平の話では、箱館奉行の堀織部というお方と仲平は昵懇だそうです。織部という人はまことに勇者で、今年四月、(他の者と)交代で箱館詰めになったところ、ちょうどその時分に「アメリカ」船一艘が入港してきたそうです。これは琉球で交易の条約を結んだ船だということで、すぐに出帆しました。その後に「フランス」船が来て、これもすぐに出帆。さらにその後、「イギリス」船三艘が碇をおろし、五十人ほど上陸し、町内を行き来するうち、薬店の中で大いに乱暴を働いたそうです。早速、その知らせが織部殿のもとに届いたので、同心を出動させ、四人まで打ち倒して生け捕りにしたところ、残った「イギリス」人は皆(船に)逃げ帰ったといいます。織部殿はそれから使者を派遣して「イギリス」へ掛け合い、甚だ無礼かつ不届きの行状だときつく申し渡したそうです。それ以来、一人も上陸できず、再び船を港に繋ぐことも許さないということを申し聞かせたところ、「イギリス」一同は恐れ入り、何分堪忍してもらいたいと申し入れてきたといいます。そして乱暴の償いとして夥しい金子(きんす)を差し出し、生け捕りした「イギリス」人の命乞いをするので、ようやく許してやったそうです。その翌日、織部殿は「イギリス」船に乗り移り、四階づくりの船の三階に上がり、いろいろ御馳走を振る舞われて大酔したといいます。織部殿はそのまま「イギリス」船に一泊し、翌日になって下船するとき、「イギリス」人たちは音楽を奏でて見送ったそうです。(織部殿の大胆さに)なかなか「イギリス」人も肝を潰したようです。右の件は仲平のところに織部殿の手紙が来たので詳しい事情を承りました。(事件の概略を記した)御届書は(江戸藩邸の)御留守居方のもとに来ているそうですが、詳しい事情は知られていないとのこと。私は安井より直に承りました。仲平という人は有能な人であります。先だって太守さまからたびたび招請されたのに一度も応じたことがないような大器量の者です。仲平が言うには、必ず五、六年より十年間のうちに世は乱れるだろう。どうあっても生きていて、合戦の様子を見てみたいと申しております。前述の箱館に入港した「アメリカ」・「イギリス」どもは「ヲロシヤ」に味方するために来たもので、これまで何度も和解しかけたのに、またまた合戦が始まったとのこと。そうなってはいよいよ油断がならぬと話しています。また大橋順蔵が話すには、「フランス」船が琉球に参り、交易条約を結ぼうとしたとき、朝鮮人に邪魔をされ、その恨みがあって朝鮮と大争奪戦になっている様子。そのため琉球も(戦に)備えなくてはならなくなり、薩州に対してにわかに援軍を願い出たので、薩州より人員が派遣されたとのこと。これは薩州より先日、飛脚が着いて承った話です。もはや油断ならぬ情勢です。
六月二十九日
【注④。安井息軒はブリタニカ国際大百科事典小項目事典によると、「[生]寛政11(1799).1.1. 日向[没]1876.9.23. 東京江戸時代後期の朱子学派の儒学者。名は衡,字は仲平。安井朝寛の次子。日向飫肥藩士。初め大坂に出て篠崎小竹に学び,次いで江戸へ出て昌平黌に入り,松崎慊堂に師事した。昌平黌や飫肥藩の儒官として活躍。漢唐の古注疏を重んじ,考証にすぐれ,名文家として知られ,軍備の必要を論じるなど現実政治にもかかわり,洋学にも関心を示した。著書『海防私議』『論語集説』『左伝輯釈』など」】
【注⑤。ブリタニカ国際大百科事典小項目事典によると、鉄砲洲は「東京都中央区東部,江戸時代の地名。現在の湊,明石町に相当する。地名は徳川家康の入府当時,鉄砲の形をした洲の島であったことに由来。また寛永の頃,この洲で鉄砲の試射をしたことによるともいう。鉄砲洲稲荷などに名称が残る。隅田川西岸にあり,江戸時代は港として栄えた」】
[参考]
一 六月晦日(三十日)、御仕置役が発したお触書は次の通り。
藩士たち以下に困窮する面々が少なくないので、このたび厚い思し召しをもって各人の借財の整理を世話するよう太守さまが命じられた。近年、海防や天災のために莫大な出費があって、藩の財政状況は逼迫し、(借財に苦しむ者たちを)助けるすべはないものの、格別の手段をもって借財整理を仰せつけられた。それだから、代官が裏書きした証文・目録・抵当はもちろん、そのほか確かな始末書等のある借財で、独力で処理するのが難しいものは、藩に願い出れば、詮議のうえ整理してもらうことができる。借財の返済については、今年支給する俸禄米の半分を徴収し、残額については、ゆくゆくは年賦で支払う方法を藩が具体化することになるはずである。
もっとも、質物や抵当ならびに始末書等の確かな書証のないものについては、藩が整理の対象にすることはない。借財の額や年月等を厳密に調べ、別紙の案文の通り書式を整えて、来る七月二十日までに我々の役場に届け出られるようにされたい。なお詳細については、追って書式を記した文書をもって通達することにする。
辰年六月晦日 御仕置役
村田仁右衛門
渋谷権左衛門
[別紙]
一 ○銭○貫○百目也
○町 ○屋 ○某
但し書きに、借り入れている年月、ならびに元金・利息を区別して記入すること。代官が裏書きした証文・目録、御蔵知物成米(※正確にはわからないが、藩士に支給される年貢米という意味か)・切付(※これも正確ではないが、藩から現物の米のかわりに渡される手形という意味か)・御扶持米(注⑥)、そのほか抵当ならびに確かな始末書等を差し入れた経緯を記入すること。
一 ○百目也 ○村の○某
一 同○百目也 ○村の○某
但し書きは前と同じ
一 [吉・太」米○石也(吉米は上質な米・太米は古来から伝わる赤稲か) 右に同じ
但し書きは前と同じ
○貫○百目也
〆拾石也
右の通りである。
以上。
辰年 月 日
御組頭の氏名ならびに分限高
格式肩書きを記入
姓 名
【注⑥。扶持とは日本大百科全書(ニッポニカ)によると「主人から家来に下付した給与米の一種。1人1日玄米5合を標準に、1か月分(30日で1斗5升)を支給するのを一人扶持といい、身分や役職により何人扶持と数えた。大名が家臣に土地を与える(地方知行(じかたちぎょう))かわりに蔵米(くらまい)を支給することは戦国時代からおこり、近世に入って武士の城下町在住が一般化して兵農分離が進むにしたがい、蔵米知行の一部として普通に行われるようになった。三季に支給される通常の蔵米取より下級の御家人(ごけにん)や藩士、御用達(ごようたし)町人らに給せられ、月俸とよぶこともあった。二十人扶持が1年(350日)分で35石となり、3斗5升入りの蔵米の100俵取の実質収入と同じとみなされた。なお、本来の禄高(ろくだか)に加えて役料(職務給)として扶持若干を給される場合もあった。[北原 進]」
一 六月三十日、藩が次の通り家臣一同に通達した。
覚
(歴代の太守さまは)武芸学問の奨励について常に心を配っておられ、さる弘化二年(1846年)には、文武の制度を設置されたところ、いつの間にか虚名に流れ、実用に適さぬ側面も出てきたので、このたび(現太守さまの)思し召しで、次の通り、若干改正することにした。
一 家臣たちの中で、満二十五歳になった者は(藩校の)教授館の素読席で読書するよう仰せつけられていたが、しばらくこれを差し止め、これからは儒者の宅で指導を受けるようにすること。いずれも幼年のころから志を立て、努力をつづけるよう。もっとも、実学に基づくことが肝要である。
ただし十五歳になれば、師匠に入門の届け出をすることは従来の通り。
一 十七歳以上の者は病気の差し支えや、やむを得ない要件のある場合を除いて、文武ともに油断なく励み、かつ武芸は若年時にはなるべく手広く修行し、追々自分が得意とするところを取り決め、必ず実用に役立つようにすることが肝要である。もっとも、砲術はいま海防にいちばん必要なものゆえ、全員が勉強するよう仰せつけられた。
これまで砲術を修行していない者も、このたび砲術の師匠に入門して学ぶよう命じられた。もっとも老年の輩は別である。かつ、病気等によりやむを得ず、文武ともに修練することが長くかなわぬ輩は、その旨をその都度支配頭に届け出ること。
一 四十歳以上の輩は、壮年のように武芸に励むことは難しいので、例外とする。ただ昨今の外国勢の形勢に鑑みて決して油断できない時節なので、怠惰に流れないよう心懸けよと(太守さまは)仰せつけられた。
一 藩の勤めにつく者も、勤務の合間の時間を利用して文武の修業に励むよう仰せつけられた。
右の通りこのたび仰せつけられた。ことに昨年春、太守さまが重大な思し召しを示された以上、その御趣意を家臣一同が重く受け止め、必ず研究□(一字欠)よう。なおまた若年の輩は、それぞれの親や親族より適切な指導を受け、放埒にならぬよう心懸けよ。
六月
七月
一 この月六日、母上[実は姉上]が安産され、男子出生、軍八郎と名づける。
軍八郎出生のとき、(佐佐木家の借金完済に四十年かかるので)この子も四十歳にならなくては、袴羽織を着ることができず、まことに可哀想だと家族の内輪で話し合った。
一 昨年、江戸表より帰国して、かねてから学んでいた山鹿流の練兵を時々やった。逼塞中もたえず勉強した。今年になり、本町にある山内豊矩さま(第十三代藩主・豊煕の弟)の空き屋敷を平井善之丞が拝借しているので、そこの屋敷内広場で月に三、四回、小規模の練兵を行った。
このごろ平井は大監察(=大目付。藩政の監察役)の要職に就いていて、とりわけ軍事に心を配っているので、非常にお世話になっている。もっとも平井は西洋流兵学もしきりに研究している。同人の長男三十郎・次男剛蔵も時々練兵をしている。このころの同志は本山只一郎・山川久太夫・前野源之助・同悦次郎・渥美小藤次・前野久米之助・林亀吉。
右の練兵は八幡の川原でも月々行っているため、(それが目立って藩の)お家流である北条流の連中から大いに憎まれたようだ。またいつのまにか、奇を好む人目を驚かしたので次のような俗謡も出てくるようになった。
土佐で流行のは下段[剣術]に小ぼたん[槍術]、貝太鼓、軍山鹿流、馬調息に若木屋春吉[美人]さんに江戸の歌(注⑦)
山鹿流の(練兵に参加した)者の氏名
佐佐木三四郎 | |
本山只一郎 | |
長屋助五郎 | |
軽格 | 山本恕平 |
軽格 | 大比久助 |
軽格 | 伊藤達馬 |
軽格 | 小畑孫三郎 |
以上は若山壮吉の直弟子である。
勝瀬源兵衛 | |
小泉務右衛門の養子 | 志賀清治 |
内村某 | |
武市某 | |
横山某 | |
高屋勇次郎 | |
佐々木覚七郎 | |
森勝作 | |
上倉熊太郎 | |
高畑耕作 | |
佐藤源蔵 | |
本山貫之助 | |
軽格 | 岩松武蔵 |
軽格 | 島新次郎 |
軽格 | 島浪馬 |
軽格 | 藤田栄馬 |
軽格 | 高橋虎太郎 |
軽格 | 川田門蔵 |
軽格 | 下村仁助 |
軽格 | 横田市郎 |
軽格 | 和田義何 |
[追加] | |
軽格 | 竹本悦次 |
士格 | 田中門太 |
軍貝 □ |
右の面々はいずれも熱心な者たちである。練兵に参加した者は他にもいるが、それらの人びとは(来たり来なかったりで、必ず練兵に参加する)常連ではなかった。
【注⑦調息とは、精選版日本国語大辞典によれば「端座して呼吸を正しくととのえること。身心をおちつけるため、また養生や修養のために行なう」。この場合の馬調息とは、馬の息を整え、速く疲労を回復させる術のことと思われる。
ちなみに高行は『佐々木老候昔日談』でこう語っている。「(そのころ土佐では)剣術も他流試合などからして下段と云ふ事になり、槍術も以前は古流で、ボタンの大きい、樫の柄のを用ゐて居たが、此の頃からは、重に軽い柄でボタンの小さいのを用ゐることになった。處が其の意義が変つて来て、一寸した咄に迄、アレは『大牡丹』だといふと、頑固の人といふことになり、『小牡丹』だと云ふと、活発で開けた男といふ意味に用ゐる様になつた。―調息流は源家の古流で、後に板垣伯[当時の姓は乾]などが、頻にこの流の馬術の稽古をやつたが、何でも、この頃[安政二、三年ごろより]より流行し始めたのだ。―若木屋春吉といふは、朝倉町辺の蕎麦屋の娘で、当時美人の噂が高かつたのだ。
右の次第で悪口されながらも、大分人気を引立て、軍学に山鹿流といふものがあるといふ位は、一般に知らしむることが出来た。其の当時の人数が飛入りの人などがあつて、ハッキリは定まつては居らなかつたが、マア其の大部分は軽格であつたのである」】
一 当時、操練のことについては、しばしば(江戸の)若山壮吉先生に問い合わせをした。このときの返事は次の通り。
貴兄の手紙を拝見しました。追々秋冷の兆しが見え始めている折、いよいよ変わらず暮らしておられるとのこと、まことに喜ばしい限りであります。この愚かな老人は今も昔のように教授していますので、ご心配なさらないように。(※このくだりは誤訳の恐れがあるので、原文を引いておく。愚老仍舊教授罷在候、御放意被下度候)さて山鹿流の調練をお仲間衆とともに月々励んでいらっしゃるとのこと、大慶の至りです。(貴兄が調練に励んでおられることは)窪田老師にも話したところ、殊の外喜んでおられました。真心をこめて修業に専心することが第一と存じます。本山君にもよろしくお伝えください。江戸では長沼流の軍学(注⑧)は会津藩のほかは一向に普及しておりません。長沼流は采配(注⑨)は用いず、三器旗のみで軍勢を前進後退させます。最近、各流儀を講究したら、とても得るところがありました。山脇[※原注に青山之助ノ家大膳臣越後流とあるが、意味がよくわからない。越後流は上杉謙信の流れをくむ軍学]も相応に重用されておる様子です。西洋流の(軍学は)このところ大いに勢いが挫けています。結局はいつか(学ぶ者がいなくなって)消えてしまうのではないかという風説が流れています。オランダ人直伝の調練は大略承知したしました。これまでの様子とは雲泥の相違です。結局、異国が我が国より進んでいるのは器械・製薬の精妙さのみです。本邦は本邦なりの軍制を整備すればいいと存じます。(異国の軍学をありがたがっていたのは)ただただ物珍しさを好む童心のようなものだと一笑するしかありません。貴兄の疑問点を列挙した書き付けにはそれぞれ(私の回答を)書き入れ、送り返しました。(他に疑問点があれば)なおまた追々お尋ねください。どうかくれぐれもご自愛のうえ、お勤めに励まれるよう祈っております。 不一
七月二十一日 若山壮吉
佐々木三四郞さま
[右の書き入れの書は散失した]
【注⑧長沼流軍学。精選版日本国語大辞典によると、「兵法の一流派。寛文(一六六一‐七三)頃、信州松本藩士長沼長政の子、長沼宗敬澹斎が甲州流軍学をもとに、孫呉七子の兵法などを参酌して創始したもの。「兵要録」などの伝書を伝える」】
【注⑨采配とは、デジタル大辞泉によれば、「 紙の幣しでの一種。昔、戦場で大将が手に持ち、士卒を指揮するために振った道具。厚紙を細長く切って作った総ふさを木や竹の柄につけたもの。色は白・朱・金・銀など」】
八月
一 この月七日、逼塞明けを仰せつけられた。
ただし、このたび御家中の士格をはじめそれ以下の者たちまで借財の整理を仰せつけられ、それぞれの属する組による練兵も追々仰せつけられることになる旨を(太守さまが)おっしゃった。逼塞入りの面々は(借財の保証人として)親族を差し出すように言われたので、本山慶馬(注⑩)に頼んだら引き受けてくれた。
【注⑩『保古飛呂比』天保十四年の項に「この年、二番目の姉上が同藩士・本山勘蔵の惣領・慶馬に嫁した。ただし、同家は五十石を領する小身で、家事は楽ではないが、婿になる人の人柄がよいというので結婚した」という記述がある。その縁で本山家は佐々木家の親族となったと思われる】
一 同八日、御奉行職の五藤内蔵助殿のお宅で、文武小目付役と操練調べ役を兼任するよう仰せつけられた。
練兵がこのたびより始まったので、その御用を仰せつけられたのである。そういうことなったのは、自分が先年から山鹿流練兵(の採用)を主張し、同志たちとしばしば実地訓練を行ったことがあったからだ。自分の同役は小原與一郎・谷村才八である。
[参考]
一 細川潤次郎(注⑪)が長崎からある人に送った書簡に曰く。
「このたび渡来した英国人たちが長崎市中を遊歩したいと願い出て、士官の者だけ今度に限り許可され、警護の者が付き添って、遊歩することになった。もっとも、人家には立ち寄らず、売店等でやかましい騒ぎにならぬよう、市中においても多人数が見物に来るようなことがないよう、末々の者まで漏らさず申し渡しておくようにせよ」
八月七日の御触書は、右の文面でしたが、実際には、英国人たちは時として人家に立ち寄り、お茶を乞い、一眠りした後で出て行くこともあり、また、売店では果物をみだりに取って食おうとしたこともあり、あるいは婦女を追い散らすような振る舞いがあったとのことです。
一 八月五日、右の英国船三艘が入港、その中の一艘は「フレカット」といい、大砲四十挺、乗組員数千人もあり、三艘あわせて士官の数は六十人ほどだそうです。英国船が初めに乗り入れたとき、かねがね長崎港では(港の入口の両岸にある)番所の間の水中に鉄の鎖を張り、それを番船で繋いで規制線を張っていたのですが、検使(=事実を見届けるために派遣された使者)が(長崎港に入ろうとする英国船を)制止するのが間に合わず、英国船が規制の鉄鎖を乗り過ごしたため、番船等が転覆し、番人三人が即死、そのうえ番人頭の者一人が自殺したそうです。しかしながら、肥前侯(肥前佐賀藩主・鍋島直正)からは、一人も怪我人は出なかったと(幕府に)届け出られたとのよし。
一 同七日、上陸応接のあらましを承れば、イギリス側より申すには、なにとぞ市中遊覧を許していただきたいとのこと。鎮台(長崎奉行のこと。天領・長崎の最高責任者で、幕府から派遣された)はそれに対し、この件は江戸の幕府に伺いを立てなければならないと答えた。するとイギリス側はそれならば江戸へ通達するに及ばない、おのおの勝手に上陸するので、そのように心得てもらいたいと申したとのこと。
一 (イギリス人たちは)以前から設けてあった御英館(注⑫)に上陸して、いろんな品物を取り寄せ、金銀銭をもって買い取り、魚類などの値段を負けさせた。(代価を払う前に)長いこと手許に置いていた物が天日にさらされて腐敗すると、この品は不要だからなどと申して返品することもあったとのこと。端物(※反物の誤記か?)等も何尺何寸を切ったすえに、これは不用などと申すこともあったよし。
一 高島秋帆先生(注⑬)が(江戸から長崎の家族にあてた)手紙のなかに、下田港に「アメリカ」船が渡来した。「アメリカ」船は(幕府への)お願いあり、それは長崎に関係することなので、先月の某日、新鎮台(新任の長崎奉行)が江戸表を発って長崎へ向かうはずだったのが延期になったそうです。これすなわち、またまた墨夷(アメリカ)も(イギリスにつづいて、長崎に関し)何ぞお願いごとをするのかと思われます。
八月十四日
【注⑪朝日日本歴史人物事典によると、細川潤次郎は「幕末の土佐(高知)藩士,明治大正期の法制学者。儒者細川延平の次男。幼名熊太郎,諱は元,のちに潤次郎,号は十洲。幕末土佐藩の三奇童のひとり。生来頭脳明晰。博覧強記。藩校で学力抜群,安政1(1854)年長崎に赴き蘭学を修業,高島秋帆 に入門して兵学,砲術を学んで帰郷,5年藩命で江戸に出て海軍操練所で航海術を修業し,同時に中浜万次郎から英語を学んだ。文久年中(1861~64),吉田東洋政権の藩政改革の根幹である法典編纂事業に松岡時敏らと従事し「海南政典」「海南律例」を完成させた。維新政府に出仕,学校権判事として開成学校の基礎を固めた。明治4(1871)年米国出張,左院の諸役を勤め法制整備に広く関与した。9年元老院議官,23年貴族院勅選議員。26年から没年まで枢密顧問官。その間に女子高等師範学校長,華族女学校校長,東宮大夫,学習院長心得あるいは『古事類苑』編纂総裁を務め,33年男爵」】
【注⑫御英館。日英和親条約が締結された安政元年、幕府は長崎港入口のねずみ島を外国人の休養地とした。御英館はそこに設置したイギリス人向けの施設かと思われる。なお百科事典マイペディアによると、日英和親条約は「1854年(安政1年)締結された日本と英国の条約。日英約定とも。和親の条文はないが,同年の日米和親条約と同様,下田・箱館の開港,難破船乗員の救助,必需品の供給,最恵国待遇の承認,領事駐在権の容認などが規定された。この不平等条約は1858年の日英修好通商条約にも受け継がれた」】
【注⑬】デジタル大辞泉によると、高島秋帆[1798~1866]は江戸後期の兵学者・砲術家。日本近代砲術の祖。長崎の人。名は舜臣きみおみ。通称、四郎太夫。オランダ人に蘭学・兵学・砲術を学び、高島流を創始。ペリー来航を機に講武所砲術指南役となる】
一 八月十五日、太守さまが江戸に向けて国許を発たれた。いつもの場所に行って、お見送りをした。
(続。これまで何回もお断りしていますが、私の現代語訳は不十分なもので、誤訳がいくつもあるはずです。いずれは専門家のチェックを受けて修正したいと思っていますので、どうかご容赦ください)