わき道をゆく第194回 現代語訳・保古飛呂比 その⑱

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一 (安政三年)八月十七日、藩において操練の手順に関する法令を定めた。次の通りである。

口述

このたび諸組(注①)による操練を仰せつけられたので、その手順を定めた法令を記した別紙を役場より渡すよう、お目付役一同がご指示を受けた。それゆえ、別紙の内容をお仲間と共有し、配下の者たちにも示し聞かせていただきたい。

【注①。土佐藩の兵制は、十二の組を基本単位として成り立っていることを思い出していただきたい。諸組とはその十二組を指しているのだろう。ただし、十二組のうち、十組は家老身分の大頭に率いられ、残りの二組(一明組と二明組)は、家老職より格下の者に率いられていることは既に述べた】

八月十七日

操練の式日(しきじつ。儀式を執り行う日のこと)

一 操練の際の兵員配置や、役決めについては、さしあたり各組の大頭の判断に任せるよう(太守さまが)仰せつけられた。もっとも、各組のやり方の中から適切なものを太守さまが追々選び出し、各組に共通した方式をお取り決めになる。足軽大将は本来、太守さまが選んで任命されるものだが、(今回は実戦ではなく)操練であり、かつまたさしあたりの措置なので、組頭の配下の組子のうちから適宜選ぶようにされたい。また、操練の式日の度に役決めが変更されても構わない。

ただし兵員配置ならびに役決めの名簿等は、操練の式日の前の月内に御目付役場へ差し出すように。

右の通り、仁井田浜において、組順の通り、二組ずつ操練を実施するよう命じられる予定である。

一 毎月十四日の午前六時ごろまでに雨が降っていれば、順延とする。もっとも、午前六時過ぎても大雨の場合は、適当な時期を検討し、改めて式日を決める予定である。

操練の式日は四月にかぎり十三日とし、正月・七月・十二月は行わない。

右の通り、仁井田浜において組順の通り、二組ずつ操練を実施する予定である。

一 それぞれの組は、操練式日にあたる月の二日から十二日までのうち、六回ばかり八幡雑喉場(ざこば。魚市場のこと)の西川原で下操練(予行演習)を仰せつけられる。当日、小頭(こがしら。大頭の下に属し、小集団をまとめる長=デジタル大辞泉)ならびに足軽等を船で対岸に渡らせる予定である。

なお、当月に操練式日にあたる組以外の組が申し合わせて、毎月、下操練をするのは構わない。自力で発砲演習することも同じく構わない。

一 大砲や銃は当代の海防第一の利器なので組子たち一同は銃隊に組み入れられる。もっとも、発砲した後、それぞれが取扱を得意とする道具に持ち替えることの可否は、頭分(=その集団で支配的地位にある者)の判断に任すべきである。

ただし芸家(兵学・砲術・弓術・剣術・馬術などの師範)の扱いは別とすること。

一 海防軍役についての藩の方針は、一昨年に太守さまがおっしゃった通りで、今もって変更するところはないが、操練については、藩での詮議の結果、十七歳より五十歳までの者が参加することになる。

右の年齢のほかは当分(参加義務を)免除される。もっとも、十七歳~五十歳の枠外の者でも参加したいという面々はそれぞれの志に任せる。

ただし、中老・組頭ならびに操練役掛りの面々は年齢にかかわらず勤めること。

一 お侍たちが自分の末子や養育人を従者として(操練に)連れて来るのは構わない。もっとも、それらの者が相当な手並みを持っていれば(※誤訳かもしれないので、原文を引いておく。尤業前ニ掛リ候節)、士隊の一員に加えてよろしい。かつ、それらの者が自分ひとりひとりで操練に出ても構わない。

一 藩の役職にある者が、勤務の合間を縫って操練に参加するのは構わない。

一 小銃の製造義務をかねて免除(注②)されている輩や、末子養育人等は、願い出れば、式日ならびに操練の際に銃を藩から拝借するよう仰せつけられる。

ただし、扶持(注③)をいただいていて、切符(藩発行の手形。現金に近い役割を果たした)を持たぬ輩や、末子養育人等は式日にかぎり、火薬の支給を願い出れば、ただで相応の火薬を渡される予定である。

【注②。既に紹介した嘉永六年十二月の達しでは、知行高百石以上の藩士たちに大砲や小銃の鋳造を命じている。記憶喚起のため、その達しを再録しておく。

一 中老はもちろん、物頭・平士で知行高二百五十石以上の面々は各自、重さ百五十匁(一匁=3・75グラム)以上の弾を放つ行軍砲を再来年の卯年中までに備えるよう仰せつけられる。

ただし、現在行軍砲を所持している者、ならびにこれまで(行軍砲を藩に)寸志として差し上げた者は、このたび新たに(行軍砲を)鋳造しなくとも構わない。(行軍砲の)鋳造ができた者たちはその都度(藩に)届け出ること。

一 平士で知行高百石以上二百五十石未満の面々は、十匁より五匁までの(重さの玉を発射する)小銃二丁以上を再来年の卯年中までに備えるよう。もっとも百石に満たない者たちはこの限りではない。

なお、自分の意思で軍砲を備えている者は小銃を備える必要はない。ただし(小銃を)すでに所持あるいは寸志として(藩に)差し上げた者たち、ならびに新たに(小銃が)できた者たちは前文の通り(藩に届け出ること)】

【注③。扶持の解説を再録する。日本大百科全書(ニッポニカ)によると「主人から家来に下付した給与米の一種。1人1日玄米5合を標準に、1か月分(30日で1斗5升)を支給するのを一人扶持といい、身分や役職により何人扶持と数えた。大名が家臣に土地を与える(地方知行(じかたちぎょう))かわりに蔵米(くらまい)を支給することは戦国時代からおこり、近世に入って武士の城下町在住が一般化して兵農分離が進むにしたがい、蔵米知行の一部として普通に行われるようになった。三季に支給される通常の蔵米取より下級の御家人(ごけにん)や藩士、御用達(ごようたし)町人らに給せられ、月俸とよぶこともあった。二十人扶持が1年(350日)分で35石となり、3斗5升入りの蔵米の100俵取の実質収入と同じとみなされた。なお、本来の禄高(ろくだか)に加えて役料(職務給)として扶持若干を給される場合もあった。[北原 進]】

一 一隊につき行軍砲四挺分の火薬を支給するので、組子のうち、かねて行軍砲を所持している者たちに配り、その火薬を使って打つように。もっとも、役決めの都合でやむを得ず、打てない場合、大頭の指図により、自砲を持たない者が打ってもよろしい。また、所定の四挺のほかに行軍砲数挺を組み合わせて、自力発砲することも構わない。

なお、組により行軍砲が四挺に足りないときは藩から不足分を渡す。

一 右の四挺に足りない分を補足するために配られた行軍砲ならびに器械に損傷がある場合、願い出があれば藩の方で善処する。また、火薬を渡す際、玉目(玉の重量・口径)や砲の種類が必要なので、その詳細を記し、式日の前の月内に操練方に差し出すこと。

一 仁井田浜の式日の際は行きも帰りも、藩の船を手配するので、組頭以下の御家中・又者(=大名に直属していない陪臣。家来の家来)・人夫等に至るまで、その内訳と総計人数を詳しく記し、式日の前月中に御仕置き役場へ差し出すこと。もっとも、定数(一隊につき四挺)を超過して、独自で準備した行軍砲の運搬は一切自力で行うことになっており、人夫・船等の手配はされないのでそのつもりで。

一 軍役の際の従者については、かねて定められた規則があるが、(今回は実戦ではなくあくまでも)操練であり、しかも現在は経費節減や生活規制緩和の年限内(注④)であるので、なるべく減らすよう仰せつけられ、平士(ひらざむらい。馬廻組以下の上士)は従者として僕を召し連れなくても構わない。

【注④安政二年二月、山内容堂は向こう七年間にわたる徹底的な経費節減と、分格差略(それぞれの身分に応じた厳格な生活規制の緩和)を命じた】

各組の式日の服装は次の通り。

中老

陣笠、遠馬笠(馬で遠乗りするときにかぶる笠)、裾の細い裁付(たっつけ。股引(ももひき)に脚絆(きゃはん)を付けた形で,ひざ下がぴったりした袴=百科事典マイペディア)、分裂羽織(左右が分離する羽織のことか)の類。

組頭平士

陣笠、遠馬笠・カミヨリ笠(?)、裁付、分裂羽織の類。

与力騎馬(注⑤))は右に準じる。

白札郷士以下

陣笠、カミヨリ笠・笋笠(たけのこがさ)、裁付・股引の類。

右の者たちやそれ以下の身分の者たちが、ふつうとはちがう怪しい服装(※原文は異形之出立)をしてはならぬこと。

一 袖印(戦場で敵味方を見分けるため、鎧の袖につけた印=デジタル大辞泉)はかねての決まり通り、各組が用いなければならない。合印(注⑥)を用いるかどうかは大頭に一任される。

【注⑤世界大百科事典第2版によると、与力(よりき)は「本来,力を与(とも)にして加勢する人を意味する語で,鎌倉時代から見られ,寄騎とも書いた。戦国時代,大名が家臣団を編成するにあたり,有力部将を寄親とし,これに寄子としてその指揮に従う武士を付属せしめ(寄親・寄子),これを寄騎(与力),同心などと称したが,このうち与力は,何騎と数えられるように騎乗の武士であり,地侍・小領主層の出身者であったと考えられている。このほか郡代,奉行などの役職にも,与力,同心が付属せしめられ,これが江戸時代の与力,同心の前身であったとされている」】

【注⑥。合印。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「戦陣において敵と味方を的確に把握するため、武具などにつけて目印としたものをいう。相標とも書く。夜襲の際、また乱戦などが予想される場合に、味方の同士討ちを避けるため、合いことばとあわせて用いた。白だすきをするとか、白布を刀の柄(つか)に巻くなど、適宜にいろいろなものを使ったが、取り付け箇所によって呼び名も異なる。たとえば、小旗を兜(かぶと)の前とか後ろにつける笠標(かさじるし)、鎧(よろい)の左右の袖(そで)につける袖標、または腰につける腰標などがあるが、笠標がもっとも多く用いられた】

一 「分限入之輩」(注⑦)は別として、軽輩の御家中・又者や自力送夫(家臣が自力で運搬するために使役する人夫)等の営門の出入りを取り締まる腰牌(=鑑札。出入許可証)を使うかどうかは各組の判断にお任せになる。もっとも、藩が手配する送夫については操練方に腰牌を渡すので、営門の番人たちが改めるはず。

大砲掛りは軽卒(=身分の低い兵)八人

一挺につき定員二人。もっとも、藩士が召し連れた従者がこれに加わるはず。

(※以下は誤訳の恐れがあるので、まず原文を引用して、その後、私がわかる範囲で補足する)

 小銃隊小組八人軽卒四十人。(小銃隊は士格八人と軽卒四十人で一つの小組を構成する、という意味か?)

 但病気指合等ニテ出役不相調者、拾人迠ハ捨ニ被仰付候事(ただし病気差し障り等により操練に出られない云々、というところまではわかるのだが、後は意味不明)

右の通りの編成となるが、大砲・小銃掛りの人数割り当てについては、なお大頭の指図に従うこと。また、諸方面で人数の増減等もありうること。

大小銃の火薬等の宰領(取り仕切り役)四人

ただし(式日以外の)下操練の際は火薬類を支給しない。

送夫(運搬人)二十八人

右に同じ。

【注⑦。世界大百科事典第2版によると、分限は「平安時代末から江戸時代にかけて,その人の社会的身分,地位,財産等を示す語。〈ぶんげん〉ともいう。時代と境遇とにより,何によって示されるかは違うが,鎌倉時代までは所領の広さや家人,郎従の数で示され,室町時代以後は所領の高が中心で,江戸時代の農民は持高,商人は広く財産をもって示される。武士はその分限に従って軍役を勤めることが求められ,分限相応に行動することがよしとされた。そこから分限の語は〈身の程〉とか,〈分際〉とかの意味でも使われた」

次にブリタニカ国際大百科事典小項目事典によると、分限帳は「ぶげんちょう」とも読み、「戦国時代以降,大名が領国内の家臣団成員をその身分,家格別に列挙した名簿。江戸時代にはどの藩も行政,財政上の必要からつくったが,しばしば民間にも写しがつくられ職員録としての役割を果し,幕府中心の武鑑と並んで利用された。知行高,扶持高も記されているので,藩内の構造を知るのに便利」とある。

これは私の推測だが、「分限入之輩」は分限帳に氏名が記されるような身分の確かな者という意味ではなかろうか】

一 操練式日の当日朝、七ツ時(午前4時ごろ)の鐘が鳴ったら追手弘小路へ集合。

ただし、二組が南北に分かれ、両組の居所を定め、双方の組の者たちが入り交じらぬように区分を明確にすること。

一 一番目のホラ貝が鳴ったら、到着人数を改め、それぞれの組の頭に届け出ること。

一 二番目のホラ貝が鳴ったら、出動の態勢をとること。

一 三番目のホラ貝が鳴ったら、すぐに太鼓を打ち、順序通り前進すること。

ただし、三番目のホラ貝は六ツ時の鐘を聞いてすぐに吹くこと。

一 当日朝の六ツ時の鐘が鳴った後に出てきた輩は貴賎にかかわらず、その場より引き返させる。また、その輩の名前を記しておき、仁井田浜で御目付役に届け出をすること。

一 病気のため参加できないという輩は、厳重に取り調べられ、御目付役に届け出をすべきこと。

一 士大将(さむらいたいしょう。この場合は大頭もしくはその次の位の指揮官か)が病気で差し障りがあるとき、またその長男等も同じく病気で差し障りがあるときは、組頭(徒組・弓組・鉄砲組などの諸組の長=デジタル大辞泉)がかわって指揮をとること。

ただし、手勢(その人が直接ひきいている軍勢。てしたの兵卒。手の者=精選版日本国語大辞典)ならびに道具等は(士大将)自身が指揮を執るときと同様に配備すること。

一 仁井田浜までの道筋は、追手筋・蓮池町・播磨屋町・種崎町を通り、船の渡し場まで進んで乗船することになる。

ただし時として道が替わっても構わない。

一 二番手の兵たちは、一番手が行き過ぎて二、三丁隔てて進みだすこと。もっとも、三ツ頭(現在の高知市農人町付近)で乗船することになるはず。

ただし、乗船・上陸ともに、ホラ貝や太鼓の合図にしたがって前後を正し、混雑がないよう各組が気をつけること。

一 右のように行軍の順序を定めておいたので、(実際の運用にあたっては)さしあたり大頭の考えで適当に取りはからって構わない。

一 (高知城内の)陣営はかねてから二カ所設けてある。双方の場所に札を立てておくので、三つの門から整然と入門すべし。

ただし兵たちがすべて陣営中に入ったら、各門を閉めるよう徹底すること。

一 火薬の保管場所は定められているので、警固の者を配置して厳重に守らせること。

一 便所は用意しているので、(それ以外の場所で)みだりに大小便をせぬこと。

一 食事をする時間は、合図によって知らせる。

一 一組ずつ入れ替わったり、または二組を同時に前面に出したり、あるいは別に設けた隊を本隊に合流させたりするのはそれぞれの判断で行って構わない。

一 操練が済んだら人数を確認し、順序立てて追手筋の弘小路まで引き返し、合図のホラ貝を吹いて帰宅すべきこと。

以上。

式目法令

一 身分の貴賤にかかわらず行列や持ち場を離れ、他の隊に入り交じることは禁止する。もし、よんどころない事情があって列を離れる者は、上司の指図を受くべきこと。

さらにまた、従者等がみだりに列を離れ、あるいは不作法な振る舞いがあったときは、その主人の落ち度とみなす。

一 日常の立ち居振る舞いや、鳴り物や旗の使用についての約束等、士大将の命令を守り、それぞれの頭の命令に従い、立ち居振る舞いの節度を誤らぬことが肝要である。指図に従わず、すべて人を侮り、無礼の挙動がある輩がいたらすぐに届け出すべきこと。

一 隊伍を組み、前進後退をしようとするときは、頭分や、責任ある地位についている者たち以外はみだりに言葉を発してはならない。

一 頭分の輩に不当な指図があった場合、自分の考えを申し出ることは、たとえ親戚であってもみだりに言うべからざること。(※誤訳の可能性大なので、原文を引いておく。頭分ノ輩不当ノ指図有之、存慮申出ル輩、縦令親戚タリ共猥リニ不可謂事)

一 喧嘩口論は言うに及ばず、大声で雑談するようなこともしてはならない。

一 頭分の輩はことさら礼儀を正し、下情を察し、目下の者に対していささかも非道の挙動をしてはならない。

一 大砲や小銃の器械の具合や火薬の状態を油断なく点検すること。もし、いざというときに故障があれば(当人の)落ち度とみなす。もっとも、頭分の者より(落ち度のないよう)常々注意すること。

一 組内で非常事態が起きたときはホラ貝を吹いて合図し、担当責任者以外は猥りにその場に集まることは堅く禁止する。

一 馬をうっかり逃がしたときは、(その馬の)主人の落ち度とみなす。

一 酒・煙草は禁止する。

一 火の用心は当然のことながら、今回は火器をもっぱら用いるので、なおまた厳重に火気に注意すること。

右の各条を厳守すること。以上。

辰年の八月

[参考]

一 西村源吉が持参した書簡は次の通り。

八月二十五日夜、江戸で大風雨(台風と、それによって引き起こされた高潮・洪水により約十万人が死亡したといわれる大災害。江戸では前年十月に大地震が起きたばかりだった)があった。藩邸は大破した。午後七時ごろから風雨が強まって烈風・急雨・大雷になり、非常な凶変となった。藩邸はほとんど大破し、(藩士たちが住まう)長屋の矢切屋根は大風に吹き飛ばされ、御殿のまわりをはじめ、(前年の)大地震の後始末で畳などの張り付けを済まし、かれこれ出来上がったところを大風雨に襲われた。屋根まわりはとりわけ大破し、雨漏りが激しくなったので、藩邸詰めのお役人たちを初め総出で修理にかかったのだが、そこに烈風・騒雨が吹き付け、雷まで激しくなって、お手上げ状態になった。そのほかの土佐藩のお屋敷も同様だった。もっとも築地・品川の辺りは津波で、お屋敷内は潮が腰の高さまで押し寄せた。そのうえ夜半より、丸の内(=江戸城郭の内側で、大名屋敷が立ち並ぶ)ならびに市中(=江戸城郭の外側で、その中心が日本橋)より出火、雨中といえども烈風にあおられ火勢も激しくなり、数カ所から火の手が上がったが、追々消火するに至った。一方、中芝口辺りから大火となり、宇田丁というところから芝神明前まで燃え広がった。この火事は明け方に鎮火し、そのころには天気も快晴になった。

御前さま(藩主夫人)は屋敷から立ち退かれることもなかった。智鏡院さま(第十三代藩主・豊熈の妻)は洪水のため船で屋敷から退避された。詳しい調査の結果はまだだが、まずは災厄が一段落し、(御前さまが)立ち退かれずに済んだことは恐悦の至りである。家臣たちにも格段のことはなかった。ただ、築地のお屋敷詰めの御小人(主人の雑用をする者)が四、五人怪我をし、その中の一人が即死した。

公儀も(昨年の大地震の修復)工事の最中だったところ大災害に見舞われ、

一 築地浜川側へ津波が入ってきて、五百石以上の廻船がお屋敷前に打ち上げられた。

一 門跡(この場合は築地本願寺を指すと思われる)が倒壊した。

一 永代橋が洪水に押し流された。

[右は九月十二日に着いた飛脚便の知らせである]

[参考]

一 八月、(老中首座の)阿部伊勢守さまより海防掛りへ次の通り。

蒸気船の運用そのほか伝習のため、長崎にオランダ人を呼び寄せ、追々伝習を受ける者を派遣しているが、同所(長崎)においては従来のしきたりもあって、かれこれこと難しくて窮屈なことばかりで手広く修業をするのも難しい。稽古をする者においても日数がかなりかかるため、故郷へ帰りたいと思う気持ちを抑えきれなくなり、とても十分に修業が行き届く状態にはなっていない。航海術等を学ぶ者はなおさらである。そこで、もっぱら年少で壮健の者たちを選び、総督が一同の者を引き連れてカルパ(当時オランダ東インド会社のアジアにおける本拠地であったバタヴィア=現ジャカルタ=の古名)へ派遣すれば、その者たちも心を決め、航海術をはじめ十分に修業できるようになる。そうすることによって生じるであろう弊害を心配していては際限がない。いつまでも居竦まり、委縮していては、成長の機会が失われる。もはやかれこれ議論をするのではく、伝習を受ける者たちをカルパに派遣するべきか、その利害得失をとくと考えて、答申するように。

九月

一 この月朔日、北山通りから江戸表へ向けて出発した。

伊勢路・東海道経由である。

このとき(親類の)本山氏が自分に送別の文をくれた。曰く。

佐佐木賢兄を送る序(※以下は漢文体の原文をまず引用し、次いで私があてずっぽうで読みくだしたものを補足する。私には漢文の素養がないので、間違いが多々あることを御承知おきいただきたい)

弓甚剛即為凡射者所棄(弓はなはだ剛ければ、即ち、凡なる射手の棄つるところとなり)

馬甚良即為凡御者所悪(馬はなはだ良ければ、即ち、凡なる御者の憎むところとなる)

人亦然(人またしかり)

甚剛直孤立即為世俗所毀(はなはだ剛く、直に孤立するは即ち世俗の毀つところ)

自然之勢也(自然の勢いなり)

兄三四容貌猛威心亦不曲(三四郎兄は容貌猛威にして心また曲がらず)

素所俗不容也(もとより俗の容れざるところなり)

況在正人可否明賞罰之任(いわんや正人ありて賞罰の任を明らかにするを否むべきか)

而行于江戸(しこうして江戸に行く)

反覆華美流弊之風俗乎(華美反覆して流弊の風俗か)

雖欲無毀可得哉(毀つ無きを欲すといえども得べきや)

自古當時所毀人者(いにしえより當時人の毀つ所の者は)

後世必有豪傑之称(後世必ず豪傑の称あり)

伯夷一受天下之毀(伯夷=中国の古の賢人=は一受天下の毀)

遂得義夫之名(ついに義夫の名を得る)

雖有讒謗邱山之積又何怪(讒謗ありて邱山の積をなすといえどもまた何をか怪しまん)

所謂毀誉窓外之雨耳(いわゆる毀誉は窓外の雨のみ)

兄忘弓剛與馬良(兄、弓の剛きと馬の良きを忘れ)

勿入敢俗吏域(あえて入るなかれ俗吏の域)

本山茂任再拝

[参考]

一 九月五日、藩による借財整理を願い出た輩は、俸禄の半分を召し上げられる関係で、大砲・小銃の製造年限が延期されていたが、(来年の)巳年中に備えるよう仰せつけられた。

一 同十八日、太守さまが江戸に到着されたとのこと、(高行自身が江戸に向かう)道中に拝承した。

一 同二十三日、箱根宿の石田方に泊まった。

東海道を上っていって、駿州地方(駿河の国)箱根に近づくにしたがって松並木等が風のため折れたのが多く、また山に登るにしたがって、大木が多く倒れていた。同夜、箱根宿の石田方に泊まり、「先日、大風が吹いたのか」と尋ねたところ、「さる八月二五日夕の七ツ時から南風が吹き、終夜大風でした。相武地方(相模の国と武蔵の国)は鎌倉幕府以来の暴風ということで、当地も御覧の通り、大木が数知れず吹き倒れました」と答えた。

一 九月二十六日、江戸着。築地邸に己屋(自室もしくは自宅)が用意されたので、同邸に入る。

先日、江戸も大変な大風だったようで、みんなが大いに困難な目に遭っていると聞く。近来、天変が続くのは恐るべきことである。

[参考]

一 同月二十七日、太守さまが操練を命じられた。

一 同月、会津藩長沼流の兵学者・黒小路松齋先生のところに入門した。

北条流の師匠である原傳平、北条流の高弟である乾作七も同じく入門した。黒小路先生は芝金杉の会津邸におられる。よって、会日(=集まりのある日)には出席し、講義を聞いた。そのうち芝綱坂の会津邸で長沼流の練兵が行われるというので、お願いして拝見に行った。その際、軍事奉行の海老名軍八が懇切に案内してくれた。

会津藩は長沼膽齋先生が始めた御家流の練兵を絶えず行ってきたので、諸侯の中で同藩のみ、所謂、治に乱を忘れずとして評判がよろしかった。

十月

一 この月朔日、(高行自身の)昇進の御礼を(太守さまに)述べるため、土佐藩上屋敷に行った。

[参考]

一 同十七日、老中・堀田備中守が外国貿易御用取扱となる。

十一月

一 この月十二日、土佐藩の麻布御屋敷で初めて操練を仰せつけられた。

兵法は御家流、すなわち北条流である。操練役掛りは御近習目付・御軍備御用兼任の渡邊弥久馬と、自分[小目付役・御軍備御用兼任]、北条流の師匠・原傳平、北条流の高弟・乾作七等である。

北条流はふだん築城の修業はするけれど練兵はしない。自分は北条流の原氏の門人だったが、その後山鹿流を学んだ。そのわけは次の通りだ。北条流は兵学であるけれども、三代家光将軍が北条安房守に内命して治国平天下の趣意に基づき、士鑑用法(注⑧)を編集させて直属の家来たちに学ばせたものだ。東照宮(家康のこと)は林道春(林羅山。江戸初期の儒学者)を召しだされ、儒道によって五倫の道(注⑨)を直属の家来たちに学ばせようという考えだったが、戦国時代の古い習慣が残っていて、三代将軍の時代も、(家来たちは)林氏にしたがって学問を習うことを嫌い、長袖者流(公卿や僧侶などのたぐい。また、それらの人々の流儀=小学館デジタル大辞泉)と賤しんだ。北条氏は兵学家だから誰もが競って入門してみたら、もっぱら五倫の道を教えた。これは兵学に託して人倫の道に入らせようという策であった。しかしながら山鹿素行先生は、北条門下でありながら意見が違い、今はこのように(五倫の道を学んでいれば)よいだろうけれど、太平の世が長く続いた末には兵学の本意を失うことになると、もっぱら兵学のことに注意されたという。そうして北条安房守と山鹿先生との間柄に不幸な出来事が起き、山鹿先生は破門となって、遂に山鹿流の一派を起こした。果たして今日、北条流は固陋に陥った。よって自分は山鹿に改流し、もっぱら練兵のことを修業した。また会津藩の長沼流は、長年にわたって練兵しているそうなので黒小路へ入門した。原傳平・乾作七も山鹿流を忌避したものの北条流では練兵のやりようがないため余儀なく長沼流を学ぶに至った。またそのころ越後流といって、青山大膳守さまの藩中に山脇弥次右衛門という人が練兵をすると聞き、一日青山邸に行って見物したが、練兵の体をなしておらず、それゆえ越後流は学ばなかった。

そもそも我が藩で北条流が御家流になったのは、御□(欠字)代□旗下福島某の門人である廣瀬傳太夫を千石の中老身分で江戸藩邸詰めに召し抱えたのがはじまりである。同家は兵学師範のみならず、代々留守居役を勤め、江戸藩邸では権力のある家柄である。当代は傳八郎といって、とにかく他流を厭い、ことに山鹿流は亡くなった師匠が破門した者の流派だとして忌み嫌った。いま傳八郎は御留守居役を勤めていて、練兵には関係しないけれども、北条流の本家株で、身分の高い門人が多数だから、とにかく陰で(高行らが主導する操練に対し)異議を唱えている。であるならば北条流だけで操練の方法が整うかというと、前述したように、どうにもならない。山鹿流にしたがえば、ともかく操練ができるのだが、その点には(傳八郎らは)不快の念を持っている。また最近、土佐藩邸では佐久間修理(象山のこと)の門人である有川堅之助を雇い入れて、オランダ式歩兵運動の訓練を行ったが、それは初歩の初歩のありさまで、万一太守さまが来られて、御覧になったとしても、みっともないことになる。のみならず、士格の者たちは(オランダ式歩兵運動を)忌み嫌い、ごくわずかに熱心な者がいても、まずもって足軽隊が中心で、士格の面々は銃隊の一員となるのを快しとしない。そうだからといって、今日の時勢で銃隊の組織でなくては役立たないのは明らかなので、まずもって山鹿流等にして、長柄隊(槍の部隊)等を省くようにしたいけれども種々議論があって、その末にようやく山内遠江守さまの麻布古川の御屋敷で行うことが決まって一同が出かけた。しかし誰もが不慣れで大いに困却した。これも結局のところ基本方針がきちんと立てられていないからである。追々実地で試行錯誤しながら、操練を繰り返していかねばならぬと考えた。

【注⑧士鑑用法(しかんようほう)は日本大百科全書(ニッポニカ)によると「北条流の祖、北条安房守氏長(ほうじょうあわのかみうじなが)(1609―70)38歳の著作で、1646年(正保3)成稿、53年(承応2)刊行。氏長は甲州流小幡景憲(おばたかげのり)門下の逸材で3代将軍家光(いえみつ)の兵法師範として、45年『兵法雄鑑(へいほうゆうかん)』52巻を完成し、献上している。本書はこれを簡約し、一般士人向きに編成したもので、治内・知外・応変の3綱各10か条、計30か条、それに城取の1編からなり、同流の講義用テキストとして使用され、普及した。[渡邉一郎]】

【注⑨。五倫。 精選版 日本国語大辞典によると儒教で基本となる五つの対人関係。父子・君臣・夫婦・長幼・朋友。人倫。また、その間にあってそれぞれ守られるべき道。上から順に親・義・別・序・信。五常。五教】

(続)