わき道をゆく第195回 現代語訳・保古飛呂比 その⑲
[参考]
一 (安政三年)十一月十二日、我が藩において藩士を長崎に遣わし、砲術ならびに海陸戦法をオランダ人から学ぼうとする。これを幕府に申し出た。その書に曰く。
拙者の家来の者六、七人ばかりを長崎表に派遣し、砲術ならびに海陸戦法等に関係する現在有用の事柄をオランダ人と面談して直伝を受けたいと考えています。外国人と日常的に接して、その感化を受けるのは容易ならざることですが、よんどころない事情がございますので、どうかお聞き届けくださるよう、これにより御内慮を伺い申し上げます。以上。
十一月十二日 松平土佐守
御書取(藩からの内慮伺いに対する老中の返事)に曰く。
伺いの通りに心得られてよろしい。もっとも、彼の地(長崎)において長崎奉行や木村図書(注①)の指図にしたがい、不届きな行為がないよう注意すべき旨を申しつけられたい。
さまざまな藩の家来たちが長崎に派遣され、オランダ人の海軍伝習を受けるので、オランダ人教師に伝手を持つ者の奪い合いとならぬようにすべきは勿論のこと、通訳そのほかへの伝手を持つ者への私的な贈答・飲食の振る舞い等があったとしたら、もってのほかのことである。なので、もしも今後不行き届きな振る舞いがあったら、伝習を差し止め、その事実を(幕府に)届け出るように。もっとも現在伝習を受けている諸藩の家来ならびに通訳等にも(同様のことを)必ず申し渡されることになっている。
右の通り長崎奉行ならびに岡部駿河守(注②)・木村図書に通達したのでそのように心得られたし。
【注①木村芥舟(図書)は朝日日本歴史人物事典によると、「没年:明治34.12.9(1901)生年:天保1.2.5(1830.2.27)幕末の幕府官僚。実名は喜毅。微禄の旗本木村喜彦の子。嘉永1(1848)年昌平黌の学問吟味に乙科及第,阿部正弘の人材登用政策により安政3(1856)年目付,長崎で海軍伝習生の監督に当たる。同6年軍艦奉行,翌万延1(1860)年,提督として咸臨丸に乗船,勝海舟,小野友五郎,赤松大三郎,福沢諭吉らを伴って太平洋を横断。諭吉との交友はこのときに始まる。文久3(1863)年9月,海軍の拡張を建議し容れられず辞職。翌年開成所頭取,次いで目付。慶応1(1865)年11月,貿易の取り締まり強化に反対して辞職。翌年軍艦奉行並,明治1(1868)年2月海軍所頭取,同年3月勘定奉行となり,江戸開城の善後処理に当たる。新政府に出仕を勧められたが応ぜず,6月辞表提出。7月隠居して芥舟と号した。以来,野にあって詩文に親しみ,同25年,幕末の政治,外交を内容とする『三十年史』を世に送る。福沢が序文を寄せ「木村旧軍艦奉行の従僕福沢諭吉」と自署した。<参考文献>『木村摂津守喜毅日記』(井上勲)」】
【注②岡部長常(駿河守)は朝日日本歴史人物事典によると、「没年:慶応2.12.1(1867.1.6)生年:文政8(1825)幕末の幕臣。太田運八郎の子,岡部氏の養嗣。将軍徳川家慶・家定の小姓を務め,嘉永6(1813)年使番。安政1(1854)年西丸目付となり,翌年目付に就く。安政大地震のとき,江戸城内を冷静に指揮し混乱を最小限に抑えたという。同3年海防掛として長崎に赴任。赴任に際し,はじめて妻子随伴が認められる。帰府後長崎奉行に累進。5年,日蘭通商条約交渉のほか,飽之浦製鉄所建設,英語伝習所設立などに努力。またオランダ人医師ポンペと松本良順の意見を容れ,長崎養生所開設,死体解剖,コレラ防疫など医学の普及に深い理解を示す。文久1(1861)年外国奉行,同2年大目付,道中奉行,翌3年幕政の改革気運のなかで将軍徳川家茂上洛御用を務めて供奉,のち作事奉行。元治1(1864)年神奈川奉行,次いで鎗奉行,さらに慶応1(1865)年軍艦奉行となる。ポンペは長常を「日本人の中における文明人」と評した。<参考文献>「幕府名士小伝」(『旧幕府』1巻2号),『長崎県人物史』(岩壁義光)」】
一 十一月十五日、手島氏が次の通り仰せつけられた。
手島八助
右は同年十一月十五日、当分、操練御用掛を仰せつけられる。
ただし、職務の内容については佐佐木三四郎と相談し合うこと。
手島氏が「右の通り仰せつけられたのでお届けに参りました。なにぶん不案内のことなので、諸事よろしく願います」と言ってきた。八助は、読書は少々しているので兵学書も研究しているが、練兵等は経験がないので大いに心配している様子。もっともふだんから入魂の間柄なので、遠慮なく語り合った。
一 このころ、馬場源馬[馬場辰猪の祖父]が『製楯論』を著した。その緒言(前書き)は次の通り。
西洋諸国の銃弾の勢いは強く、鉄板も防ぐことはできないという。それゆえ、人々はあるいは兜を脱ぎ、楯を用いなくなった。自分は、従来の兜や楯による方法と、最近の兜や楯を捨てるやり方の中間に位置する良策がないものかと思い、長年工夫を試みた。近ごろ、江戸の谷左近という人がひとつの防弾具(弾楯)を作った。我が藩の齋藤某がつてを得て、その谷氏が実地試験をするところを間近に見た。このとき西洋銃の弾はわずかのところで弾楯を貫くことができず、我らがふだん使う拾文目銃の弾は弾楯を貫通した。このため、別に考えるところがあり、ある日、蚕綿を厚さ三、四寸ほどに縮めたものを的にして、拾文目銃に火薬四文目を詰めて二十余間ほど離れたところから撃ってみた。弾は一寸ばかり蚕綿の中に入って止まった。その後、最も多くの火薬を装着した西洋銃を、七、八間ほどの間隔をあけて同じ的を撃ったところ、弾は四分の三までしか入らず、貫通することはなかった。さらにその後、土佐の安芸郡等で実験した者がいて、やはり蚕綿が弾を止めることができるという結果が出たと聞いた。ゆえに、ここに『製楯論』一編を述べ、少しでも兵備の助けにしたいと思う。いま『温史』(中国の史書)を開くと、その明末の部に李自成(りじせい。注③)が綿甲綿(注④)を百層重ねて用いたので、石弓の矢が入ることができなかったと書いてある。自分はいま初めてその暗合に気づき、よってこの論のはじめに付言して参考に供しようと思う。
(以下は高行の追記)右の本文に齋藤某とあるのは、外祖父の齋藤内蔵太さまである。自分もそのとき楯の試験を見た。また明末の李自成という者は、砲声により雨を呼び起こすという説もあり、それを馬場氏に語った。そういう経緯があったので氏はこの緒言を自分に示した。馬場氏は西洋砲術にも種々の工夫を重ねている。
【注③。李自成はデジタル大辞泉によると「[1606~1645]中国、明末の農民反乱の指導者。米脂(陝西せんせい省)の人。1628年、陝西地方に大飢饉が起こると反乱に加わってその首領となり、各地を転戦して、1643年には新順王を称し、西安を占領。翌年、北京を攻略して明を滅ぼすが、呉三桂の攻撃に敗退、湖北で殺害された」】
【注④デジタル大辞泉によると、綿甲(めんこう)は「唐様式を模倣した奈良末期の鎧(よろい)の一。布帛(ふはく)で表裏を作り、中に金属片・真綿(まわた)を入れて石矢を防ぐようにしたもの。綿甲冑」。綿甲綿は綿甲に使う綿という意味か】
十二月
一 この月十一日、少将さま(第十二代藩主・山内豊資)が景翁さまと名を改められた。
[参考]
一 同二十一日、将軍(家定)が松平薩摩守斉彬(島津斉彬)の娘・篤姫をめとる。篤姫は、実は南部信順の娘(注⑤)で、斉彬の姪である。
【注⑤。「南部信順の娘」は高行の事実誤認か。篤姫は島津家の一門で、今和泉(いまいずみ)領主の島津忠剛の娘として生まれ、斉彬の養女となった。一方、デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、南部信順(なんぶ-のぶゆき)は「1813-1872 江戸後期-明治時代の大名。文化10年1月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩主島津重豪(しげひで)の5男。南部信真(のぶまさ)の婿養子となり,天保(てんぽう)13年陸奥(むつ)八戸(はちのへ)藩(青森県)藩主南部家9代。京都御所警固をつとめ,大広間詰め大名となった。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越列藩同盟にくわわったが,同盟と歩調をあわせず新政府軍との敵対をさけた。明治5年2月20日死去。60歳」】
一 同下旬、古河端の山内邸で操練を行った。
このとき百々礼三郎(かなりの家柄の者)が遅刻した。士格の者は練兵を嫌っているので、ズルをきめたのにちがいない、たとえ家柄は良くても、賞罰は明らかにしなければならぬといって、渡邊弥久馬と相談して、百々に謹慎を申しつけた。ところが、その後、段々取り調べてみると、実際(操練の実施を知らせる)触書が本人の手に渡っていなかったようだった。それで大いに議論が起こり、百々の謹慎を解いたが、帰するところは我々の軽挙だということになり、翌年の(藩政の)変革の際に解職される口実となった。[翌年七月朔日の項を参照]
一 同年、平井善之丞(注➅)の随筆中に、江戸との文通集の中から抜粋した密書がある。次の通り。
【注➅。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井善之丞(ひらい-ぜんのじょう)は1803-1865 江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。土佐高知藩士。13代藩主山内豊煕(とよてる)のもとで大目付となり藩政刷新にのりだしたが,保守派の反対で失脚した。尊王をとなえ,15代藩主山内豊信(とよしげ)の参政吉田東洋と対立。文久2年(1862)東洋の暗殺後,大監察となったが,豊信の勤王党弾圧により免職。慶応元年5月11日死去。63歳。名は政実」】
大橋順蔵の話
肥前平戸藩の侍臣(君主の側に仕える家臣)が来て、こう言った。このたび長崎港の平戸藩の御固場(海岸防備のための警固場)が幕府に召し上げられたが、どういう訳でそうなったのか分からなかった。ひそかに事情を調べてみたら、彼の地の利便性が良いというので英人より希望があり、英人へ譲り渡すことが内定したとのこと。(外国の要求を突っぱねられない幕府の弱腰が)心配でならぬと侍臣がため息をついていた。
藤森恭亮の話
先日、川路左衛門尉殿(川路聖謨)の弟子が来て、こう言った。最近の世の中は危篤の病人のようだ。どうにもならぬ。もし劇薬を用いれば急激に病状が悪化するので、何もせずに様子を見たほうがいいという考え方は最悪だ。危篤の病人に薬を与えず、何もせずに死ぬのを待つのは最も仁の道に背くことだ。このような心底で天下の政体を取り扱うのは危ないことである。総じて川路氏は才知のある人で、水野越前(水野忠邦。天保の改革を断行した老中)の抜擢により政府に登用された。水野が厳重な譴責を受けたとき、水野に登用された人はみな役職を奪われたが、川路氏ひとりが残留した。福山侯(水野と入れ替わりに老中になった阿部正弘のこと)もまた川路氏を登用された。慷慨の人(=社会の不正などに怒り嘆く人)に会えば、切歯扼腕して世のあり方を論じ、臆病な人に会えば、一緒に交易や国家安全の基本を説く、結局のところ節操のない人物で、ひどく憎むべき存在だ。
羽倉外記殿(注⑦)の話
ただ今の天下の形勢は、扁鵲(中国の伝説的な名医)といえども治すのが難しい状態になっている。ここで積年の弊を一掃して維新の号令を発しなければならぬ。長崎では英国人が横暴な振る舞いに及ぼうとしたので、佐賀侯(肥前佐賀藩主)が憤怒のあまり発砲しようとした。だが、長崎奉行がそれを承諾せず、(佐賀侯は)ご公儀に訴えて裁可を求めた。伊豆の下田でも米国人が横暴な振る舞いに及ぼうとした。(しかし、)悪いのは我々であって、彼らにあるのではない。他でもない、(日本側の)その場逃れの悪政によって生じた出来事である。そのうえ、天災がしきりに続き、江戸に近い諸国の稲作に大きな損害が出た。旗本侍たちは過分の用金を(領内の民に)申しつけ、外見を飾るための武器を調達した。百姓は困苦に堪えきれず救済を申し出た。百姓が苦しみ、侍も窮し、米価が高騰し、江戸の民は食うに事欠く。こうした情勢を見ると、三年を待たずに反乱が勃発するにちがいない。枕を高くして眠っている場合ではない。
【注⑦百科事典マイペディアによると、羽倉外記(はぐらげき)は「江戸末期の儒者。名は用九,簡堂(かんどう),天則などと号す。若くして古賀精里に学び,また江川太郎左衛門,広瀬淡窓とも交わる。父は旗本で代官を勤めたが,その死後を継ぎ,関東・東海地方の代官を歴任,伊豆諸島を巡察した。天保改革に抜てきされて政務に参与したが水野忠邦失脚とともに隠退。その後《海防私策》を上申。ほかに《南汎録》《駿城記(すんじょうき)》等」】
芳野行蔵の話
下田に留まっている外国人はややもすれば難題をふっかけてきて我々を苦しめる。これは、我々が怒りに堪えきれなくなって戦争を起こすよう仕向けているのだ。クリミア戦争(1853~1856年。ロシアとトルコ・イギリス・フランスなどの戦争)の最中にはこちらにまで戦争を仕掛ける余裕はなかったが、いまは和平が結ばれたので、今度は日本に対して事を起こすことは必定である。幕府のお偉方は(大砲などの)器械のみを頼りにして、十分にそろえれば安心だと思っておられる様子。これは戦機の判断に疎いからで、嘆かずにはおられない。
窪田次郎右衛門の話
拙者は長年、いまの将軍さま(家定)の御徒士(おかち。将軍の行列の先頭に立った武士)を勤めた。そのころからお側にたびたびまかり出て、元服される以前からのご様子を拝見しているが、決して(世間で言われているような)凡庸のお方ではない。幼年のころ、薩摩侯がお慰みにと、立派な鉢に唐菊や島菊(島寒菊のことか?)を植え付けたものを献上したところ、一度見ただけで、その鉢植えをお側衆の新見伊賀守へ下げ渡された。翌日、新見を呼ばれて、昨日そなたにやった鉢植えを返してくれと言われた。新見が早速差し上げたところ、その代わりにと、由緒ある貞宗の脇差しを新見に下された。それから(幼き日の将軍さまは新見から)受け取った鉢をそのまま柱石に打ちつけ、こなごなにしてしまわれた。新見伊賀守がどういう思し召しでそうなさったのかと伺ったところ、次のように仰った。大将たる者は鉢植えのような品を慰みにするべきではないと思ったので、そのままそなたにやったのだ。ところが、自分の愚かしさが恥ずかしいのだが、昨夜ふと鉢植えのことを思い出して、それよりもっと上等なものを見たいものだと思い、心中でひどく恥じ入った。結局、鉢植えが存在するから気にかかるのだ。こなごなにしてしまえば、そのような未熟な考えは生じないのだと考えて、そのようにいたしたのだと仰った。それを聞いて伊賀守は(感心のあまり)涙を流したとのことである。
また(窪田次郎右衛門が)曰く。これは大久保右近衛将監(注⑧)より内々にお聞きしたことだが、昨年の御法会の際、比丘尼[亡くなった前将軍の側室たち]を呼んで御膳を下され、一同静かにいただくようにと仰った。そうしたところ、一人小賢しい比丘尼が口を開き、二、三年以前のように騒がしいと、このような御膳もうまく喉を通りませんでしたが、ことしは静かなのでありがたく頂戴いたしますと申し上げた。すると将軍さまは、その方たち女の身分がそのように思うのはもっともだ。しかし我らは一日も安心せず、いま異国船の件がどうなっているか一向にわからない。それでも異国船がどこかへ行くようなことがあれば、その情報が折々耳に入ってくるであろう。向さま[さきさま。水府老=徳川斉昭のこと]にはたびたびお目にかかりたいと思っているが、これまた思うとおりにはいかぬと嘆き悲しんでおられるご様子。恐れ入るばかりである。(水戸の)老公を親しく思い、さまざまにお慕いされておられるけれど、それを妨害する者もいて、将軍さまのご心中を察すると落涙を禁じ得ない。
また(窪田次郎右衛門が)曰く。将軍さまは生来簡易なものを好んでおられ、植物は皆ダデカラシ(?。あるいは香辛料のたで、からしのことか。ちなみに家定はイモ好きで知られ、イモ公方と呼ばれた)などで、御膳に自らお取り寄せになり、召し上がられたとのこと。また、医業にも志をお持ちで、薬草を多く植え付けられたとのこと。御膳のおかずは、お手許に上がってきた諸国よりの献上物や、干物ばかりを召し上がられるのでお料理番は手持ち無沙汰であるということだ。
ことしの山王祭の際、江戸城内で神輿をご覧になっただけで、そのほかの出し物は何も見ないで馬場へ入ると言われたので、お側女中どもが(将軍は山王祭の)山車や踊り子等もご覧になるのが恒例で、しかも(お側女中)一同も拝見したいと思ってますと申し上げたところ、将軍さまはそなたたち女の身がそう思うのはもっともなことだ。我々がいなくとも見物して構わない。大将たる者はこのようなものを慰みにすることはない。それより馬場で騎射(馬上から弓を射ること)することが、そなたたちの慰みと同様に面白いのだと仰った。
将軍さまは御年二十四、五歳になられる。このような英才であられるのは、今のような世情ではありえないことだが、恐れながら(窪田は将軍の行く末)のみを楽しみにして暮らしているとの話だった。外部では、将軍さまは菽麦不弁(豆と麦の区別もできない、まことに愚かなさま)の資質と言われているが、窪田から聞く話と大いに食い違っている。
右の窪田次郎右衛門殿は、生まれは肥後熊本の藩士。事情があって将軍家の御徒士となり、水野越前守(忠邦。老中)の時分に浦賀の内海防禦の士となって勤めた。その折り、内海一揆が起こり、千人の賊徒を相手に挺身し、十槍(槍を十回突き出すという意味か?)で五、六人をたたき伏せ、首領の源蔵という者を仕留めた。その後、陣屋(兵士の駐屯場所)に帰ると、陣笠の鉢の頂上が銃弾で打ち抜かれた跡があった。また、衣服のそでにも打ち抜かれた跡があり、その後調べたところ、賊徒六人が山上から久保田を見つけて狙い撃ちしたことを白状した。久保田はそれから三年後、登城のうえ将軍に御目見えすることを許され、陣屋頭に抜擢[徒士より十七級も昇進したとのこと]され、それから二カ所ほど転任して、身に余る俸禄を頂戴した。そうしたところ、久保田は、将軍家がこのように場当たり的な取り扱いをしたら、全体がうまく行くはずがない、自分は功績も才能もないのに分不相応な禄を受けていると考え、いまは引退して、巣鴨に一万二千坪の荒れ地を買い求め、畑を耕す日々を送っている。本来は武人であるが、論議快活、ますます意気盛んである。
久保田は羽倉翁や藤森あたりと昵懇であり、川路聖謨は従弟という関係もあって、幕府の情報も耳にしている。(続)