わき道をゆく第196回 現代語訳・保古飛呂比 その⑳

▼バックナンバー 一覧 2022 年 10 月 11 日 魚住 昭

安政四年丁巳(訓読みでひのとみ・音読みでていし)
                   佐佐木高行 二十八歳

  正月

一 この月元日、上屋敷に参上して、太守さまに御祝詞を申し上げる。

  二月

一 この月三日、国許で女児誕生、馬と名づける[江戸表で知らせを受けた] 

一 同二十二日、下許武兵衛・手島八助の両人を箱館に派遣される。
 ただし、箱館港の外国人の動向、警備の状況を探索するため、両人だけを派遣するという思し召しだが、この二人だけで大丈夫だろうかという内談が渡辺彌久馬殿よりあった。自分は「不十分ではあるけれど、いまの藩邸には他に人物もおらず、まあ大丈夫でしょう」と答えた。その後、両人に命令がくだり、今日出立した。

一 春ごろ、練兵のため大森に出張した。
 未明に家を出て、騎馬で品川の入口まで行ったところ、徒歩で行く人がいた。見れば(同藩の)乾作七だ。乾は当方の騎馬をうらやんで、尻馬に乗せてくれと言う。それならば乗りたまえと答えて、鞍の後ろに乗せてやった。そして品川宿の中ほどに至ったとき、馬がその重さや具合の悪さに耐えかねて激しく暴れ出した。人びとはこれを見てはやし立てたので馬はますます狂い、乾も自分も困り果て、ようやく乾に下りてもらって乗り鎮めて大森に着いた。帰途、夕暮れ時に鈴ヶ森あたりまで来たとき、細井半之進[江戸常駐の土佐藩士で、人物である]がひとり徒歩で帰るのに出逢った。半之進はふざけて馬の後ろに回ってしきりに障泥(あおり。馬が蹴上げる泥を防ぐ馬具で、馬の横腹に垂らす)をつかまえて引っ張った。自分はそれを見て一鞭を加えた。半之進はたまらず障泥を放し、尻餅をついて倒れた。馬は驚いて風を切って飛び出した。往来の激しい札之辻・金杉橋あたりは危険きわまりなくて冷や汗で背中がびっしょりになったが、幸いなことにふとした拍子に馬がおとなしくなり、無事に帰り着くことができた。

一 春ごろ、練兵のため鼠山(現在の豊島区目白付近。将軍家の鷹狩り場があった)に出張した。
 鼠山の練兵に藩邸から人員を出した。もっとも他藩も同様である。ただし(土佐藩が出したのは)オランダ流の小銃隊である。早朝から馬を借りて鼠山に出張、友人の山川左一右衛門は自分の馬に乗って同行した。自分は操練御用をつとめているので、時々いろいろなところに出張するが、そのつど馬を拝借して、ようよう乗馬にも慣れ、口取り(馬を引く奉公人)を連れていかなかった。鼠山に着いたら、足軽など操練掛の者に馬の世話を頼むつもりでいた。ところが鼠山に着いた途端、砲声に馬が驚き、非常に暴れ出して大困難に陥った。ようやく下馬したが、馬はいよいよ暴れ回り、山川の口取りと足軽の瀬内、そのほか二人がかりで馬を綱で縛り、立木に結びつけてはじめて安心した。帰路は夕方になり、そのときは馬は鎮まっていたので、無事に藩邸に帰り着いた。
 馬に乗る際、口取りを召し連れていくときは二百文をやるのが慣例になっている。自分の小遣いは一日五十文であるから、二回もつづけて二百文をやったりすれば、(計四百文の出費となって)八日間の小遣いがなくなってしまう。(口取りを連れていかないのは)実は倹約のためというより、そっちを心配しているのであって、(情けなくて)笑うしかない。

  三月

一 この月十五日、太守さまが江戸城に登城され、将軍から江戸にとどまるよう命じられた。本来なら今年は国許に帰る時期なのだが、江戸滞在の諸侯の数が少ないためだという。

一 同十七日、太守さまが江戸藩邸の家臣たちに(文書で)説諭された。その書に曰く。
 (将軍の命で)江戸にとどまることになった件についてかれこれ心配する者もあると思う。しかしながら、長いこと父母妻子と離れて迷惑するのは、誰も同じである。交代要員が着き次第、残らず暇を与えるので、安心して、ひきつづき文武等に精励するよう。
                      三月十七日

  閏五月

一 この月二日、箱館より下許・手島の両人が帰ってきた。種々の模様を聞いた。まずもって格別のことはないようだ。土産にホタテ貝をもらった。

一 同二十七日、岡本頼平という者が自分と交代の命を受けて国許からやってきた。
 岡本氏は老学者である。今日の時勢には遅れ、海防とか練兵とかには迂遠の人で、学者ではあるが俗流である。このような人が文武に関係する任にあたるに至ったのは、昨年、自分たちが江戸へ派遣されたときとは大いに状況が変わったからだ。結局、藩の要路の人びとの大幅な更迭があったのである。もはや望みはない。平井善之丞からきた手紙にも、いずこも同じ秋の夕暮れ、とあった。ああ、詰まるところ、何事も藩の財政難が原因でこうなったのだ。そうはいっても、徹底した倹約を行い、外国勢力の恐ろしさを藩内のすべての者が理解するよう仕向けていれば、海防のことは応分のことができただろうに。とにかく長年の太平の弊害が積もり積もって、要路の面々はいずれも肉食だから、少しも目覚めず、やはり昔の夢の中にいる。
 平井善之丞は大監察の職にあるときは海防等に力を入れ、西洋流の銃砲の世話はもちろん、わが兵術の世話もしてくれた。昨年、自分と同役の谷村才八は長沼流の兵学を学んだということで、次男でありながら、(藩の役職に)登用され、また小原與一郎も、老人ではあるけれども慷慨家であり、互いに奮発し合った。それなのに先述の事情で平井も免ぜられ、同役の顔ぶれも次第に替わり、何事も水泡に帰してしまった。

   六月

一 この月二日、江戸を出発、木曽路を通って帰国の途につく。[ただし、昨年九月一日に国許を出て、江戸在勤・帰国までの日記があったが、散逸した]

一 同十七日、老中の阿部伊勢守が逝去されたとのこと。同侯は当初、相当な人物だと評価されていたが、アメリカ船渡来後は人望を失った。同侯も自分でしてはいけないことをしていると知り、自分の命脈を縮めるためにすこぶる不摂生となり、ついに世を去られたのだという風聞があるが、果たしてそうなのだろうか。

一 六月二十九日、高知に着いた。

一 同月、藩において、今年(巳年)の七月より来年(午年)の六月まで、半知(注①)召し上げを仰せつけられた。また、来年(午年)の七月より亥年の六月までの五年間、二斗立出米(※斗立とは、年貢米一俵三斗五升につき、さらに二升を加えて納めること。二斗立出米も同じような意味だと思うが、正確にはわからない。ご容赦を)を仰せつけられた。よって操練等は一切差し止められた。藩の通達は次の通り。

               申渡覚(もうしわたすおぼえ)
 近年、臨時の出費が莫大となり、藩の財政状況が窮迫するに至った。そうした折、今度は幕府から防火対策のため江戸滞在を命じられてますます難渋を極める事態となった。太守さまは不安を募らせられ、いろいろ御詮議を尽くされたが、他に融通の手段も見つからなかった。このため今年七月より来年の六月まで半知借り上げを仰せつけられた。もっとも一カ年、半知借り上げをしても決して財政窮迫は解消しない。しかしながら数年続ければ家臣一同が難儀するのは明らかなので、来年七月より亥年の六月まで五カ年の間、二斗立出米を命じられる。しかしながら、一同の積年の窮迫を考慮して、去年、借財の整理を仰せつけられ、いまだ整理中のところに、このような半知借り上げを命じるのはまことにもって不本意であり、とりわけ気の毒に思われておられるが、やむを得ざる事情により、右の通り仰せつけられた。万事倹約によって苦境をしのぐようにという思し召しである。なお、半知借り上げに関する委細は御仕置役より伝えるので、そう申し聞かせるようにと仰せつけられた。以上。
     巳六月

【注①半知は精選版日本国語大辞典によると、「「江戸時代、藩財政の窮乏を補う手段として、領主が家臣に対し、借上(かりあげ)・上米(あげまい)などと称する知行・俸祿の削減を行ない、甚だしい時には俸祿の半分にも達したところからの称」】

  七月

一 この月朔日、(高行自身が)文武小目付役を解任された。
 江戸表で練兵を行ったとき、物頭の百々礼三郎が遅刻したので、お咎めを受けた。そうしたら、百々に練兵開始の時刻の知らせがまだ届いていなかったことがわかり、そのことを申し出たところ、不注意を理由に、御近習目付の渡辺彌久馬が帰国後、退役を仰せつけられた。自分も右の件に関し、本文の通り解任された。[昨年十二月の項を参照]
 ただし表面はそのような事由であるけれども、内部は(藩内の)新党と旧党の軋轢により起こったことである。

[参考]
一 同月、幕府が長崎に製鉄所を設けた。

[参考]
一 同、土佐で二回大洪水があった。

[参考]
一 この月十九日、太守さまが松平大和守・立花飛騨守・松平右近将監を(江戸の)邸中に招き、ともに時事を語り、その後しばしば往来した。

[参考]
一 同二十二日、老中首座の堀田備中守(正睦)より直渡しされた文書。

                          評定所(注②)一座
                          海防掛
                          長崎奉行へ
                          下田奉行
                          箱館奉行
(アロー戦争(注③)で)英国人が(中国の)広東を焼き払った一件につき、オランダのカピタン(長崎・出島のオランダ商館長)が話したがっているというので再び面談を許可したところ、オランダ人の申し立ては時期遅れの不必要な話などではなく、切迫した国際情勢を伝えていると思った。オランダの国情により、その願いを遂げるために自分の都合のいいようにねじ曲げたものとも思えなかった。まことに現在の外国人への対応ぶりが時宜にかなっていないということは、我が国人もそのお粗末さが分かっている。このままでは、外国人の怒りを招くようなことが積み重なり、広東の轍を踏むかもしれない。それは最も警戒すべきことである。すでに(鎖国を決めた)寛永以来の祖法(=先祖が定めた法)を変え、和親条約を取り結んだ以上、寛永以前との釣り合いもあるので、外国人への対応ぶりも改革しなくてはなるまい。にもかかわらず、とかくしきたりに拘って、些末なことまで難しくして拒み、年を追って外国人の怒りを醸すのは無謀の至りである。万々が一砲声が響いたりすれば、もはや取り返しのつきがたいことになるので、外国人の取り扱いを緩やかにして、かつ長崎・下田・箱館の三港は万事同じような扱いにし、文書のやりとり、応接の礼節等すべて外国人どもが信服するよう、真心のこもった処置をしなければどうにもならぬ時勢になった。すでにイギリス評判記、アメリカ官吏の申し立て、なおまた今回のオランダ人の申し立て等、いちいち事態は切迫しており、このうえこれまでのやり方をしていては、永くはもたないことははっきりしている。無事なうちにこれまでのやり方を早々に変革し、そのうえで外国人の取り締まりを行うよう取り計らうことが良策である。そういう心得でもって今後の処置をとくと熟慮し、早々に実態を調べて、部下たちに指示を出すようにされたい。

【注②評定所(ひょうじょうしょ)は、日本大百科全書(ニッポニカ)によると「江戸幕府の中央機関。三奉行(ぶぎょう)(寺社奉行・町奉行・勘定(かんじょう)奉行)が合議によって事件を裁決し、かつ老中の司法上の諮問に答える幕府の最高司法機関。江戸城和田倉(わだくら)門外の竜ノ口(たつのくち)にあった。2代将軍秀忠(ひでただ)のころからあったと考えられるが、制度的に整備されたのは3代家光(いえみつ)の1635年(寛永12)である。三奉行によって構成される評定所一座と、勘定組頭など三奉行所から派遣されて実務を担当する評定所留役(とめやく)からなっていた。寄合(よりあい)(評定)は毎月2、11、21日の式日(しきじつ)と4、13、25日の立合(たちあい)の6回行われた。式日には三度に一度は老中が出席したほか、大目付(おおめつけ)・目付や側用人(そばようにん)など将軍の側近も臨席したが、一座以外には評議権はなかった。裁決は多数決によったが、決着がつかないときはそれぞれの意見を書いて老中の裁決にゆだねた。評定にかかる事件は、民事(出入物(でいりもの))では原告・被告を管轄する奉行が異なる場合であり、刑事(詮議物(せんぎもの))では重要事件と上級武士が被疑者である場合であった。諮問を受けるのは、各奉行や大名から老中に呈出された仕置伺(しおきうかがい)で、一座は書面審査によって判決を老中に答申した」[高木昭作]】

【注③アロー戦争はブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、「咸豊6 (1856) 年,イギリス船籍の『アロー』号の中国人船員を,清朝官兵が逮捕したことに端を発した,清とイギリス,フランスとの戦争。「第2次アヘン戦争」ともいう。南京条約以後のイギリス綿布の中国輸出は急増したが,その量はイギリスが期待していたほどではなく,伸び悩みをみせていた。このためイギリスはさらに大きな通商上の権利を獲得して,華北,華中への進出をはかろうとして,広西省で宣教師を殺害されたフランスと共同して出兵した。英仏軍は同7年広東を占領,同8年天津に迫ったので,太平天国の鎮圧に苦しんでいた清朝は天津条約を結んだ。翌年の批准使砲撃事件で戦闘は再開され,同 10年英仏連合軍は北京を占領,円明園を焼打ちし,清帝は熱河に避難した。同年の北京条約で英仏の要求を認め,さらに和議の仲介をしたロシアとも条約を結んで落着した」】

  九月

[参考]
一 この月十七日、太守さまが老中・堀田備中守を訪ねて時事を痛論したという。

  十月

[参考]
一 同十六日、阿州侯(徳島藩主・蜂須賀斉裕)・越前侯(福井藩主・松平慶永)が、一橋公(後の将軍・慶喜)を世子に擁立することについて、老中・堀田備中守へ建白書を差し出す。

[参考]
一 同二十一日、米国公使「ハルリス」が初めて江戸城に登った。

[参考]
一 同二十六日、堀田備中守が自宅で米国公使「ハルリス」と談判した。

[参考]
一 この年、秋冬の候、江戸表において薩摩藩士の日下部某(注④)が梶橋の土佐藩邸に来て、(土佐藩幹部の)小南五郎右衛門に面会した。このときが我が藩の勤王論のはじめとなる。小南氏の名声は他藩において響いたが、かえって我が藩内にはその名声を知る者は希だった。水戸烈公(徳川斉昭)は小南を召して密旨(=秘密の命令)を伝え、そのとき老公が小南に与えた和歌があるという。[本山茂任談]

【注④。日下部某とは、水戸藩と薩摩藩の使者として朝廷工作を行っていた日下部伊三次のことか。日下部はこの翌年、安政の大獄により橋本左内、吉田松陰らと共に獄死した】

  十一月

[参考]
一 この月十三日、(太守さまが)側用人の小南五郎右衛門に機密のことを命じ、急いで土佐に行かせた。
 五郎右衛門は人となり果毅深沈(=決断力があって意志が強く、ものに動じない)にして、書を読んで大義を明らかにする人物だ。太守さまの側用人として厚い信任を受けた。太守さまはかつて老中の内藤紀伊守(越後村上藩主の内藤信親)に時事を建白したことがある。その時の太守さまの心情はいい加減なものではなく、痛切なものだった。その後、老中は(太守さまの代わりに)五郎右衛門を召して説諭しようとしたが、五郎右衛門は太守さまの意を受けて屈しなかった。
 五郎右衛門は太守さまの命令を受けて土佐に急行し、翌年、(謹慎中だった)吉田元吉を登用した。当時の土佐藩には党派の確執があって、元吉を登用[元吉は進学派で、当時禁足中だった]するのはとても難しかった。五郎右衛門は周旋して使命を全うした。

[参考]
一 同月、幕府よりオランダ・ロシアの両国人に対し、長崎・箱館において交易を許可する旨を通達した。

  十二月

[参考]
一 この月八日、幕府が林大学頭(林復斎・昌平坂学問所長官)と津田半三郎(幕府の外国貿易取調掛)を京都に派遣し、外国の事情を説明して開港がやむを得ないことを奏聞して、勅許を仰がせた。

一 同十一日、(土佐の)朝倉村の火薬庫が破裂し、その近くの杓田の自宅が震動した。

[参考]
一 十二月十一日、小南五郎右衛門が太守さまの使者として帰国、このとき急用といえども到着まで時間がかかったのは、京都に重要な用事があったからである。

[参考]
一 同月、我が藩の江戸表において次の通りのお触れがあった。
  一 御公務をはじめ、(上司の)お供をするとき、使者として赴くとき、代参するとき等、また自分の用事で外出するときももちろん、一切絹(の衣服)を着ることは禁止する。もっとも中着(なかぎ。下着と上着の間に着るもの)・下着はこれまでの通り。
  一 熨斗目(注⑤)を着用する件については、従来通り。(※原文は「爾来之通」、つまり、「その時以来の通り」なので、過去のある時点で熨斗目着用に関して変更があったと思われる。その時以来の熨斗目着用のルールを維持するという意味にとれる)
  一 羅紗雨羽織(=雨の時に着るラシャの羽織)は着用を禁じる。
  一 非常時の際の服装は従来の通り。
 ただし、火事の際に伊賀袴(注⑥)を用いても構わない。
  一 藩邸に常時詰めている面々や、女の衣服はこれまでの通りだが、悪い習慣が根付かないようにこころがけること。
  一 太守さまが駕籠に乗って出発されるとき、お城に到着されるとき、あるいはその道中で、お供をしたり、仲間(ともがら)たちと同行したりするときも同じで、絹(の衣服)を着ることは禁じる。
  一 (意味がよく分からないので原文を引用する)御士曁御用人類以下、惣而外輪向タリトモ、御屋敷内同様可相心得候事。(※曁はおよびと読む。士格分の者および御用人の類い以下は、総じて外部に対応するけれども、藩邸内にいるときと同様に心得るべきだという意味になると思うが、自信はない)
  一 御家中の者や又者(=家来の家来。陪臣)は看板(注⑦)羽織等に一切絹物を使ってはならない。
    右のことを各人に通達すること。
    巳十二月
 右のお触れは、高知では翌年二月十八日に出た。

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、熨斗目は「腰の部分だけに縞(しま)や格子模様を織り出した絹織物の小袖(こそで)を熨斗目小袖、あるいは単に熨斗目という。これは元来、武士が大紋・素襖(すおう)あるいは裃(かみしも)の下に着用した小袖で、室町時代に始まったものといわれている。なお、こうした熨斗目のほかに染熨斗目とよばれるものがある。これは白生地(きじ)に後染めで熨斗目風な模様を染め出したもので、明治以後、男子の産着、または七五三の祝い着などに用いられているものである。今日、熨斗目といえば染織に関係なく、広く腰替りの意匠をさすようになった。[村元雄]」】

【注⑥。精選版日本国語大辞典によると、伊賀袴(いがばかま)は「袴の一種。裾(すそ)を狭くして脛(すね)に当たる上下に紐をつけ、脛にくくりつけて脚絆(きゃはん)のようにしたもの。仕事着や旅行着として伊賀者が用いたところからの名といわれる。たちつけ。かるさんばかま」】

【注⑦。精選版日本国語大辞典によると、看板は「武家の中間(ちゅうげん)、小者(こもの)などが仕着せとして貰った短い衣類で、その背に主家の紋所などを染め出したもの」という意味がある】

   安政五年戌午             佐佐木高行 二十九歳

   正月

一 この月元旦、登城。御祝詞を申し上げる。

[参考]
一 同九日、容堂公が堀田備中守宅で、将軍家の世子の件につき大議論された。その際、岩瀬修理(注⑧)とも非常なる議論があった。

【注⑧。世界大百科事典によると、岩瀬修理(忠震)は「幕末の政治家,外交家。通称は修理。伊賀守,肥後守を称し」た。「旗本設楽貞丈の三男。旗本岩瀬家の養子となる。1851年(嘉永4)昌平黌教授となった。54年,阿部正弘に抜擢されて目付となり,同年軍制改正用掛を命じられ,品川台場築造や講武所,蕃書調所の設立などに当たった。ロシア使節プチャーチンの来航に際して,日露和親条約修正交渉に加わり,次いで57年(安政4)日蘭・日露追加条約の交渉に当たり,調印した」】

一 同十七日、(謹慎中だった)吉田元吉が召し出され、御馬廻りを仰せつけられ、(奉行職に次ぐ重職である)御仕置き役に指名された。
 右に関連して、この年、藩の年季夫(年季を限って奉公する雇兵の意か)の年継(一年ごとの契約更新の意か)の際、四十何人が御用済みによりお暇を仰せつけられた。実に目も当てられず、一同の難儀は筆舌に尽くしがたい。
 高行が言う。吉田元吉は再び召し出された際、新しい知行高として百五十石をもらい、格式は御馬廻りを仰せつけられたと記憶している。吉田の本来の知行高は二百石だったが、寅年(安政元年)にお咎めを受けた際、跡取りの長男に百五十石を下されたように思う。再び召し出された後、本来の知行高と合わせて三百石となったが、文久二年に暗殺された際に断絶となった。

[参考]
一 同二十一日、老中の堀田備中守が江戸を発った。

[参考]
一 同二十五日、小南五郎右衛門が土佐より江戸に帰る。容堂侯は小南がその使命を全うしたことを賞し、手ずから紋付きの陣羽織を与え、かつ赤心報国の四字を自書してそれを与えた。
 五郎右衛門はこの時君公に親任され、つとに藩政に力を尽くしたのみならず、君公の意を受けてしばしば越前(福井藩)に使いし、広く有志の士に交わり、尊攘の説を唱え、時事に忙しく立ち働いた。それから幾ばくもなく君公が罪に問われると、小南もまた禍を受けた。

  二月

[参考]
一 この月五日、堀田老中が京都に着いた。

[参考]
一 同十八日、高知において次のお触れがあった。
 昨年十二月、江戸表において別紙の通り[昨年十二月の項にあり]仰せられ、在勤のお侍一同をはじめ末端に至るまで厳守するよう通達があった。これから(江戸など)他国勤務の輩はいよいよ太守さまの御趣意を守り、もちろん国許においても同様に厚く心得、万事、さる卯年(安政二年)の三月のご指示により、古風質素に基づき、いささかも流弊に陥ることのないようにすべし。ところが、服装の決まりについては年々藩からの指示があったにもかかわらず、とかく時流に流される輩もあるという噂も聞く。不埒の至りである。これからは心得違いがないよう心せよ。
   午二月十八日
                   中村與市
                   渡邊彌久馬
                   渋谷権左衛門
                   高屋友右衛門

       三月

[参考]
一 この月二十日、京都において武家伝奏の廣橋大納言殿が渡された文書。(注⑨)
                 御老中 堀田備中守へ
 墨夷(アメリカ)のことは神州の大患であって、国家の安危にかかわり、まことに容易ならず。伊勢神宮をはじめ奉り、代々の天皇に対し恐れ多く思し召されている。東照宮(徳川家康)以来の良法を変革することは、国を閉ざす人心の趨勢にもかかわり、永世の安全をはかりがたく、深く叡慮を悩ましておられる。もっとも往年の下田開港の条約(日米和親条約。注⑩)が容易ならざるうえ、今度の仮条約(安政五年六月に結ばれる日米修好通商条約。注⑪)の趣旨では国威が立ちがたいと思し召されている。そのうえ諸侯の群議にも、今度の条約はことに国体にかかわり、後患が測りがたいという指摘があった。なお御三家以下の諸大名に命じて、再び衆議のうえ、言上するようにと(天皇は)仰られた。

【注⑨。百科事典マイペディア「条約勅許問題」の解説。「1854年の神奈川条約の調印で,幕府は朝廷に対して事後報告にとどまったが,日米修好通商条約では締結反対派を抑えるため勅許を得ようとした。1857年から翌年にかけて二転,三転はあったものの朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚(ちょくじょう)を下す。京都情勢はこの頃条約勅許問題(開国か攘夷か)に将軍継嗣問題も絡んで複雑な様相を呈した。1858年6月大老井伊直弼は勅許を得ないまま調印を断行,尊攘派の幕府攻撃は激しさを増したが,井伊は安政の大獄で応えた。その後幕府は朝廷との融和策をとり,1862年には兵庫などの開市開港延期を列強に認めさせた。列強はこうした幕府の鎖国主義を警戒,幕府に対して条約勅許と開市開港を繰り返し求めた。しかし朝廷は勅許を与えず,1866年幕長戦争の終結,孝明天皇の死去などによる情勢変化を受け,1867年5月兵庫開港の勅許が出され,問題は決着した」】

【注⑩。旺文社日本史事典 三訂版によると、日米和親条約は「1854(安政元)年,江戸幕府がアメリカとの間に結んだ条約、神奈川条約ともいう。1854年に再度来航したペリーが,武力を背景に神奈川で幕府と交渉し,調印。その内容は,下田・箱館の開港,漂流民の救助,寄港船への燃料や食糧などの供給,片務的な最恵国条項,領事の日本駐在など12条からなる。貿易の規定はないが,日本開国の第一歩となり,幕府はついで同様の条約をイギリス・ロシア・オランダと締結した」】

【注⑪。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、日米修好通商条約は「幕末期、日米間に締結されたいわゆる安政(あんせい)五か国条約の最初の一つ。日本側全権は井上清直(きよなお)(下田奉行(しもだぶぎょう))、岩瀬忠震(ただなり)(目付)、アメリカ側全権はT・ハリス(初代駐日総領事)、1858年(安政5)6月19日(新暦7月29日)神奈川沖の米艦ポーハタン号上で調印、全14条、付属貿易章程七則、2年後ワシントンで批准書交換。公使(首都)・領事(開港場)の駐在、両国民の自由貿易、神奈川・長崎・箱館(はこだて)・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、内外貨幣の同種同量通用、関税率の協定、外人居留地の設定と遊歩区域、領事裁判権、アメリカ人の信教の自由などが規定された。この条約は、日本の欧米列強への対外従属的な開国開港、すなわち、領事裁判権(居留民の事実上の治外法権)、関税自主権の喪失、日米和親条約以来有効とされた片務的な最恵国条款という不平等な条件下に国交・通商関係を強いられる画期となり、同年のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとのほぼ同様な通商条約の調印の発端となった。しかもこの条約は、アロー戦争で清(しん)国を破ったイギリス・フランスの大艦隊がそのまま日本に来航して通商条約の締結を迫る、とのハリスからの情報に大老井伊直弼(なおすけ)が恐れ、鎖国主義の孝明(こうめい)天皇の勅許を待たずに調印に踏み切ったもので、2年後の桜田門外の変をはじめ尊王攘夷(じょうい)運動の台頭と幕末維新の激しい政争の展開の契機ともなった。1899年(明治32)日米通商航海条約の発効まで存続した。[芝原拓自]」】

[参考]
一 同二十二日、堀田老中より、交易を許さなければ戦争が急に起こることが考えられるので、はっきりと天皇の意思を決めてもらいたいと求めたところ、翌日、武家伝奏から、やむを得ない事態になれば戦うべきである旨が伝えられた。

    四月

[参考]
一 この月、(武家伝奏の)廣橋さまより楼閣(この場合は老中を指すか)に送った口上は次の通り。
     御口上
  先日のご返答をかれこれ引き延ばしておられるが、早々に江戸に引き揚げ、大樹公(将軍のこと)に申し入れをするよう(天皇は)仰られた。
     四月
                        伝奏 廣橋前大納言

[参考]
一 四月五日、堀田老中が京都を出発。

一 四月二十日、堀田老中が江戸表に帰着。
  右に関連して、堀田氏は朝廷より譴責を賜って帰ってきたという風説あり。

一 同二十三日、井伊直弼、大老職となる。

[参考]
一 同二十五日、将軍が諸侯を江戸城に集め、勅諭(天皇の命令)を示して意見を言わせた。
(続。今回は十日間ほど熊本に出張取材していたので、記事の更新が遅れました。ご勘弁を。また例によって誤訳がいろいろあるかと思いますが、それもご勘弁を)