わき道をゆく第197回 現代語訳・保古飛呂比 その㉑
[参考]
一 安政五年四月、[この件につき後年板垣退助伯爵の書類あり。追って記す]容堂侯が納戸役の大脇興之進[大橋渡之助と変名する]を京都に派遣し、(公卿の有力者の)三條實萬にひそかに接触させた。事の経緯は大脇の略歴に詳らかである。次の通り。
大脇興之進順若
嘉永二年五月、藩主・山内豊信[容堂公]の納戸役となり、嘉永五年九月、勘定奉行に転じ、藩用のため大坂に行く。同年、山奉行・作事奉行を兼務する。安政三年八月、容堂公が江戸詰めになると、また納戸役として付き従った。当時、海外各国が貿易を乞い、武力で幕府に迫った。朝廷、列藩は鎖港・攘夷を主張し、また幕府の役人らは開港・和親を主として唱え、議論が入り乱れた。容堂公はこれを大いに憂い、水戸景山(徳川斉昭のこと)・越前春嶽(松平慶永のこと)等をはじめ同志の藩侯とともに、国是をめぐって盛んに議論した。安政五年春、なお深く考えるところがあり、武家伝奏の三條實萬邸に密奏しようと、大橋順若にその使いを命じた。大橋が京都へ発つ際、容堂公は書家・荒木寛畝(注①)の筆になる「藺相如(注②) 劔璧背抱の図」に公の自賛を書き、それを大橋に賜ってこう言った。「道中深く潜行し、生死を賭けて任務を全うせよ。またこの書幅は永く子孫に伝えて記念とせよ」。その賛文に曰く。
士有気而後可以使於四方矣(士は気ありてのち以て四方に使いすべし)
藺相如之完璧且使秦王撃缶皆気之所為( 藺相如の完璧、かつ秦王に缶を撃たしむはみな気の所為)
方此時無斯人則趙其危乎(まさにこの時この人なければすなわち趙の危うきかな)
孟子曰自反而縮雖千萬人吾往矣(孟子いわく自らかえりみてなおくんば千萬人といえども吾往かん)
相如亦可謂養浩然気矣(相如また浩然の気を養うと謂うべし)
また容堂公曰く。越前公(松平春嶽)よりは橋本左内(注③)を使者として派遣するとのこと。京都に着いてからの行動は、機に応じて適切に判断し、十分用心せよと。それから大脇は大橋渡之助と変名し、脱藩浪士の姿となり、木曽街道を潜行した。その時、会所(藩の役所)の吏員・岡崎某が用金を携えて同行し、必要な費用を渡した。この時、江戸の藩邸においてはおよそこの旅行を知る者はなかった。当時は京都大坂間に浪士が横行し、容易に入れなかった。ようやく三條殿(武家伝奏の三條實万。養女・正子は容堂の正室)の邸内にある某の家に潜り込み、三條殿のそばに仕える富田織部の手引きで間隙をうかがって拝謁することができた。大脇はついに三條殿の寝殿に召され、ここにおいて、容堂公の密命を口頭で述べた。その大意は次の通り。
一 今の将軍家はその任に堪えざる者。
一 早く人選して西丸儲嗣者(将軍の後継者)を定めるべき。
この件につき、もし豊信(容堂)の見込みはどうかと聞かれれば、一橋慶喜がふさわしい。
一 公武合体のために(将軍が)早く上洛。
一 一朝国家に事あるにおよび、錦旗が翻るとき、当分は列藩、親藩を問わず、朝廷に不信の徒は討ち取り、国力が尽きるまで王事に尽くす。豊信の赤心を万々お疑いのないよう、安心していただきたい。
一 粟田宮さま(注④)のご様子、それから平常の御性質を承りたい。
一 御朝議の密議の内容を、なるたけ承知いたしたい。
一 薩長等より申し出の主旨はどういうものか。
一 越前よりも使者を派遣したと聞くが、これは徳川家門(注⑤)が(公武合体の動きを)心得ているという(重大な)ことを意味する。
右の詳細を大脇が申し上げたところ、三條殿のお答えの大意。
一 使者(大脇のこと)の口上の主旨を内々、天皇に奏上したところ、ご満足云々と仰られた。また、これまでに薩長等よりの申し出もあったが、いまだ満足に及ばず、やっと今その人を得たという思いだと仰られた。しかしながら、現在の朝議の内容を伺う件は極々秘密の事柄である。(議奏(注⑥)の)徳大寺公純は親類の間柄なので、内々に相談しておくから、追って(使者が徳大寺に)参謁し、別して申し述べられよ。
一 今の将軍家のことについては甚だ心を痛めており、寝ても冷めても心配でたまらない。越前侯よりも密使があって、同様の意見を伝えてきたようなので、(容堂と慶永の)双方とも深く憂慮しているのだろう。越前は徳川家の支脈云々のことゆえ、深く思案しているところだ。
一 西丸(将軍の世子)のことはよくよく評議されるべきだ。なお土佐守の意図は深く承知している。
一 (粟田)宮さまは平常の御性質から、最も馬術その他の武芸を好まれ、いま関東より集まってきている役人どもはそのことに大いに注目しているようだ。この旨を(宮様に)たびたび申し上げた経緯もあり、大いに心配しているところだ。
一 薩長および諸藩より申し出の事柄は、各藩がそれぞれ関係の深い筋から(個別に天皇に)内奏しているようで、(情報を共有できる)ひとつ場所に出ていないのでまだ詳らかではない。
一 現在の時勢につき、列藩のうち大禄(禄高の多い大名)のしかるべき者四、五名を京都の警衛にあてる件について評議中である。この件が決まったら土佐守も満足するだろう。この口上は肝要である。なお、やがて事が明らかになる密議は追々内通するつもりだ。
一 京都所司代のほか、現在入京している者は川路某(川路聖謨のことか)・岩瀬某(岩瀬修理のことか)・津田某、そのほか十人目付(注⑦)たち数人が(京都に)集まっている。下タ手通年賦キビシク(※この個所にはママというルビが振られており、意味不明)、鷹司関白家へ出入りして探索しているという。深く心の痛む凶事である。
大脇は右のことを承って宿所に帰った。その後、徳大寺殿へ参謁し、(朝議の件を)別してお願いし、次いで江戸に帰った。そして太守さまに報告し、六月(土佐に)帰国した。十月、大脇は幡多郡奉行となり、十二月、その職を辞した。また山奉行・金奉行・国産奉行・勘定奉行等に従事し、文久二年に仕置役に抜擢され、軍備御用を兼務した。文久三年、罪を問われて格禄を取り上げられ、城東数里に蟄居した。慶応三年、御小姓格に召し出され、明治元年四月、仕置役となり、大坂へ藩用で派遣された。当時土佐藩は東北に兵を出し、藩用が多岐にわたり、金銭と穀物が欠乏して困難をきわめた。また軍需物資の運輸に至っては、一軍の興廃に直結するとあって、昼夜心を休めることができず、大いに苦慮し、軍役や米の搬出等をはじめ、臨時に金銭・穀物を融通する仕組みをつくり、土佐藩の東北出兵に貢献した。明治二年三月、藩の参政の一員となり、開成館(注⑧)の殖貨掛りを兼務した。ここにおいて大脇はまた藩士の食禄削減に取りかかる。これは先年、容堂公が大脇にこう言ったことから始まっている。「ああ今日、家老等をはじめすべて人物がいない。勝手向き(藩財政)が難渋云々、何年にもわたって節約策を講じているのに、それでも好転しない。万一、事が起きたとき為すすべがない」。大脇が答えて曰く。「困難なのは平常の対応だけです。もし、ことが起きたら為すのはやさしい。その時になったら必要なのは、ただ衣食の用だけですから、どうして費用がいりましょうか」。いま大脇を蟄居から引き戻して、再び要路に用いたのは、いささか(大脇に)前言の通りに実行してもらおうという意味を含んでいた。(大脇が)ついに削禄の令を発すると、ある日、国家老の安藤某の家臣の林有造(注⑨)・竹内綱(注⑩)・立田恭一の三名が、大脇が役所から帰るのを道で待ち受けて後をつけ、大脇宅に乗り込んだ。そして大いに削禄の非をるる論議し、こう言った。「主家祖先の功績により賜った禄を理由なく削られると、家臣もまたそれにつれて力を尽くすことができなくなる。どうか考え直して欲しい。もし、考え直すことができないときは、我々は主人に暇をもらい、浪々の身となって、やるべきことがある(※つまり大脇を殺すという意味か)」。彼らの弁論が最高潮に達したとき、大脇は「削禄はもとより好むところではない。しかしながら」云々の主旨を詳しくのべたうえで「あなた方の主君(つまり国家老・安藤某のことか)には、また藩主に対し尽くすという忠義立ての義務があるはずだ。これはあなた方の主君だけでなく、大小の禄をもらっている者は皆同様であるはず。いったん退いて考え直してもらいたい」。林ら三人は言葉のないまま去った。十二月、大脇はその勤労ぶりを賞された。そのときの文に曰く。
(大脇は)数カ年にわたって懸命に働いた。時勢が変動するなか要路にあって、とりわけ苦労を重ね、かつ、(土佐藩の東北出兵中)金銭と穀物の運輸に功があった。(藩知事は)それを満足に思し召され、永世切符二十名(※切符は家来に与えられる俸禄の一種。二十名はひょっとしたら二十石の誤植ではないか。いずれにしろ、なにがしかの俸禄を生涯にわたって与えるという意味だろう)を下された。
大脇は明治三年正月、高知藩の少参事・度支局(注⑪)の租税主務を申しつけられる。以来、会計掛・衆議所掛・権少参事等に従事し、明治四年九月、免官となり、以後なお健在である。
右は明治二十六年に取り調べた原稿である。
松野尾がこれを記した。
【注①。朝日日本歴史人物事典によると、荒木寛畝は「没年:大正4.6.2(1915)生年:天保2.6.16(1831.7.24)明治期の日本画家。江戸芝赤羽生まれ。旧姓田中,名は吉,幼名光三郎,別号達庵。天保10(1839)年谷文晁系の荒木寛快に入門し,のちその養子となった。安政6(1859)年土佐藩の絵師となるが,維新後,洋画に転向し川上冬崖らに学ぶ。しかし再び日本画に復帰。明治20(1887)年設立の日本美術協会の重鎮として活躍し,31年東京美術学校(東京芸大)教授,33年帝室技芸員となる。また33年パリ万博で銀賞,37年セントルイス万博で2等賞を受賞。南北合派に洋風を加味した花鳥画を得意とした。代表作「孔雀図」(1890,宮内庁蔵)など。門下生によって読画会が組織された」】
【注②。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、藺相如(りんしょうじょ)は「中国,戦国時代の趙の政治家。初め趙の繆賢 (ぼくけん) の家来であったが,秦の昭王が 15城をもって趙の恵文王が所持していた名玉,楚の「和氏の璧 (へき) 」と交換したいと要求してきたので秦に使いし,その謀略をはね返して無事玉を守った。また秦王と趙王の会にあたっても,趙の立場を守りきったので上卿となり,名将廉頗 (れんぱ) より上席となった。しかし剛直な廉頗は彼を軽侮した。これに対し藺相如はあえて逆らわず,私闘を避けて国家の安泰を願ったので,のちにこれを知った廉頗が謝罪し,親交を結んだという」】
【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、橋本左内(1834―1859)は「幕末の開明派志士。福井藩士。名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)。左内は通称。25石五人扶持(ぶち)奥外科医の長男。1848年(嘉永1)『啓発録』を著す。翌年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に学び、1854年(安政1)江戸遊学、蘭学(らんがく)研究を続けるとともに英語、ドイツ語にも理解をもった。この間、藤田東湖(ふじたとうこ)、西郷隆盛(さいごうたかもり)らとも交渉し内外情勢への識見を深め、1855年藩医から御書院番に起用され、1857年藩校明道館学監となり、政教一致、経済有用の学を鼓吹し洋書習学所を設けるなど治績をあげた。同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を擁する将軍継嗣(けいし)運動に携わった。彼は近い将来における国際連合的機構の出現を予想し、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現するとともに、英明の将軍のもと親藩、譜代(ふだい)、外様(とざま)にかかわらず有為の大名、藩士、浪人、学者、さては庶民層までも網羅した幕府規模における統一国家体制の樹立を考えていた。1858年上京して公家(くげ)に遊説、あわせて通商条約への勅許を勧めたが、紀州慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を推す井伊直弼(いいなおすけ)大老の出現により一橋派は敗北、安政(あんせい)の大獄で捕らえられ、翌年処刑された。彼は西洋学への深い理解をもったが、実用の学としてより以上の価値を認めることができなかった。また、軽輩の身分から抜擢(ばってき)し藩・国政の枢機へ参加させた慶永への誠忠の念強く、在獄中も終始主家へ災いの及ぶことを恐れた。[山口宗之]『景岳会編『橋本景岳全集』上下(1935・畝傍書房)』▽『山口宗之著『橋本左内』(1962・吉川弘文館)』」】
【注④。朝日日本歴史人物事典によると、粟田宮こと朝彦親王は「没年:明治24.10.29(1891)生年:文政7.1.28(1824.2.27)幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の第4子に生まれる。天保7(1836)年仁孝天皇の養子となり奈良一条院門跡,同8年親王宣下,同9年得度を受け尊応入道親王と称す。嘉永5(1852)年京都粟田口の青蓮院門跡となり尊融と改称,同年12月より天台座主。広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。安政5(1858)年2月条約調印の承認を求めて老中堀田正睦が上洛して以来,諸藩の京都手入れが活発化。水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,条約調印反対の姿勢を示し,将軍継嗣を徳川慶喜に期待して活動。翌6年2月謹慎,12月には隠居・永蟄居に処せられた。文久2(1862)年4月処分を解除され,青蓮院門跡に復した。時に39歳。同年12月国事用掛。翌3年1月還俗の内勅を受け中川宮と称す。 公武合体論を唱えて尊王攘夷運動に対抗。孝明天皇の意を受け8月18日の政変を指導,長州藩・尊攘派勢力を京から追放。その直後に元服し,名を朝彦とした。尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ,皇位簒奪の異図を含み呪詛の密法を行っているとの讒誣を受け,以来この種の風評に悩まされる。当初は薩摩藩と協調していたが,元治1(1864)年より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。慶応2(1866)年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。翌3年12月9日の王政復古の政変に際して参朝停止の処分を受ける。翌明治1(1868)年8月徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により親王の位を剥奪され,広島に幽閉された。同3年京都帰住を許される。同8年5月親王の位を回復し,一家を立てて久邇宮と称す。7月神宮祭主に任命される。神宮の旧典考証に没念,22年遷宮の儀式に従事した。著書に『朝彦親王日記』がある。(井上勲)】
【注⑤。精選版日本国語大辞典によると、家門には「 江戸時代の大名家格の一つで、徳川将軍家の親族、尾張・紀伊・水戸の三家、田安・一橋・清水の三卿のほか、越前・会津の二家、また、それらの支流」という意味がある】
【注⑥。デジタル大辞泉によると、議奏は「江戸時代、朝廷に置かれた職。天皇の側近として口勅を伝え、上奏を取り次いだ」】
【注⑦。世界大百科事典内の十人目付の言及によれば、「江戸幕府の職制。慶長・元和期(1596‐1624)より置かれ,人数ははじめ十数名から二十数名に及んだが,1732年(享保17)以降10人に固定され,十人目付と称された。若年寄に属して江戸城内外の査察,非常時の差配,殿中礼法の指揮,評定所立合,万石以下急養子の判元見届などの職務を務めた】
【注⑧。旺文社日本史事典 三訂版によると、開成館は「幕末,土佐藩に置かれた富国強兵策の中心機関1866年,後藤象二郎が企画運営し,貨殖・勧業・税課・鉱山・捕鯨・鋳造・火薬・軍艦・医・訳などの各局を設置。しかし重税や藩専売に反対する農民や勤王党の抵抗にあい不振であった】
【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、林有造は「明治時代の政治家。土佐藩士。天保(てんぽう)13年8月10日土佐国幡多(はた)郡宿毛(すくも)(高知県宿毛市)に生まれる。岩村通俊(みちとし)の弟で、林家の養子となる。倒幕運動に参加し、1869年(明治2)高知藩参事となり、翌1870年政府の命で渡欧し、1873年外務省に出仕。この年征韓論に敗れて下野した板垣退助(いたがきたいすけ)に従い辞職。1874年4月土佐立志(りっし)社設立に参画し、1877年西南戦争に際し西郷(さいごう)軍に加担しようとして逮捕され、翌1878年8月禁獄10年の刑に処せられ1886年出獄。1887年三大事件建白運動に参加したため保安条例で東京を追われる。1890年高知県から衆議院議員に当選。1898年逓相、1900年(明治33)農商務相となり、1902年千葉県から代議士に当選し立憲政友会総務委員となるが、党内抗争で脱党。1908年政界を引き、余生を高知に送る。1914年(大正3)宿毛で真円真珠の養殖業を始めるなど、郷里の発展に尽力した。大正10年12月29日死去。[後藤 靖]」】
【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、竹内綱は「明治大正期の実業家。土佐国幡多郡宿毛村(高知県宿毛市)生まれ。土佐藩家老伊賀氏の重臣。理財に才あり,伊賀家の財政を扱う。戊辰戦争で宿毛軍に属し東北に出征。明治3(1870)年大阪府出仕,6年大蔵省6等出仕に進んだが,間もなく辞職。後藤象二郎の蓬莱社に参画,高島炭鉱の経営を担当。西南戦争(1877)に際し立志社の挙兵策謀の銃器購入に関与,発覚して禁獄1年。出獄後は板垣退助を助けて自由党創設に奔走,第1回総選挙(1890)で衆院議員に高知県から当選,29年朝鮮半島の京釜鉄道の専務理事となり実業界に転じた。40年以後は東京の実業界で活躍。昭和期の名宰相吉田茂は綱の実子。東京で没す。<著作>『竹内綱自叙伝附竹内綱獄中日記抄録』(『明治文化全集』25巻)(福地惇)」】
【注⑪。度支局。『岩崎彌太郎伝』によると、土佐では明治二年五月の改正で「執政府の下に民政局、開成局、會計局、軍務局、刑法局が置かれた。次いで版籍奉還後、執政府を知事府と改称し、度支局(たくしきょく)[民政、開成、會計三局を統合す]、軍務局、刑法局、東京邸務局、西京邸務局、川之江度支局の諸局が置かれた」という】
寛畝の画幅に関する顛末書
この画工・寛畝が描いた「藺相如 背劔抱璧の図」に、容堂老公の数語を親書した一幅は、公が(大脇)順若にくださったものである。安政戊午(五年)の春、順若は納戸役の職にあって、公に従って江戸にいた。このころ海外諸国が我が国に貿易を乞い、武力で幕府に迫っていた。朝廷や列藩は鎖港攘夷を主として唱え、幕吏は開港和親を主張し、激しい論争が交わされて歳月が過ぎていた。公は大いにこれを憂い、水戸の斉昭公や越前の春嶽公等の各侯とともにあらゆる方面から討論し、公武合体の国是を謀った。なお、そのかたわら深く考えるところがあり、武家伝奏の三條公[實萬]は姑の夫だったので、それを幸いにこれ(公武合体策)について数件を密奏した。そのとき順若に命じてその任に当たらせた。順若は(あまりの任務の重大さに驚いて)自分が卑小な地位にあることと、知力がないことを理由に再三辞退したが、許されなかった。(順若が京都に)発つ際、公は特に命じて曰く。「この任務については生死を誓って他に漏らすべからず。道中の騒々しさを深く忍耐して、ただ使命を達成する、それが汝の仕事であると十分に心に記せ」。そして、公は相如の図に自ら「士有気而後可以使」云々の数節を書き、(順若に)与えて曰く。「永く家に伝えて記念にせよ」と。順若は「□□(二字不明)奉命はいまこの時である。ただ恐れるのは気の緩みだけである」と思った。ここで順若は大橋渡之助と変名し、脱藩の浪士を装って、木曽街道を通って上京した。浮浪の侍たちはあちこちに横行し、幕吏は非常時の監視態勢を厳重にしていたので、たやすくは通過できなかった。ようやくにして三條邸に入り、富田織部の家に潜り込み、隙を見て三條公の寝殿に入り、公に拝謁した。そうして口頭で容堂公の命を述べた。その概略は次の通りである。
一 現将軍家[家定]はその任にふさわしくないこと。
一 早く人選して西丸[将軍の跡継ぎの常居]を決めるべきだ。もし豊信(容堂)の見込みはどうだと聞かれれば、一橋慶喜がその任に当たるべきである。
一 公武合体、将軍が上洛して後事を執る(※政務を司るの意か)こと。
一 薩長そのほか各藩の内奏の主旨を承りたい。
一 粟田宮殿下の御性質や御行状を承りたい。
一 豊信は一朝ことあって錦旗が翻るときは、列藩・親藩を問わず、(朝廷に)従わぬ者を討ち、国力を尽くして朝廷のために働くつもりだ。この、いつもと変わらぬ赤心を万が一にもお疑いなきよう。
一 越前の慶永からも使者を出している。参考にしていただきたい。
三條公の答えの概要は次の通り。
一 (使者の)口上を内々天皇にお伝えしたところ、これまでの(他藩からの)奏上には満足できなかったが、いまはまことにその人物を得た思いだという御沙汰があった。
一 将軍家の件は越前からも同様の意見があった。越前は将軍の支脈でもあり、深く熟慮するつもりだ。
一 西丸のことは評議されるべきだ。土佐守の主旨は承知した。
一 薩長等の主旨は、各藩がそれぞれの縁をたどって(個別に)内奏していて、本来の順序を経ないで内奏している。ゆえに詳らかではない。
一 (粟田)宮はもっぱら武術を好まれ、なかでも馬術を最も嗜まれている。幕吏等はこれに注目している。私は憂慮するところがあって、その都度(宮に自分の意見を)申し上げた。
一 列藩のうち大禄の適任者四、五名を選んで京都の守衛を命ずる評議の結果がそのうち表に出るはずだ。土佐守も深く覚悟して(もらいたい?※原文は土佐守モ深ク覚悟ス)。
一 今後もし通商貿易を許すことになっても、神奈川に限定し、京都の十里四方の地に、西洋人が足を踏み入れないようにするという評議が行われている。
一 目下、所司代のほかに川路某・岩瀬某・津田某および十人目付等数人が臨時に入京し、関白鷹司家(政通)に出入りし、また探索等を極めて密にしており、これには大いに心を痛めている。
一 このほかの密事は追々通知するつもりだ。
また(三條公が)こう言われた。「このことは我が国の最も重大な問題だ。さいわい徳大寺[公純]は縁戚だから、行って詳細を説明しておけ」。(順若は)最後に三條公の命を奉じて(徳大寺公に)お目にかかって説明し、そうして後、江戸に帰り、容堂公に復命した。六月、ありがたいお言葉によりお暇を賜り、かつ若干の金銭をいただき、国許に帰った。翌年春、容堂公は(安政の大獄に)連座し、鮫洲の別邸に隠居された。三條公もそれに次いで亡くなられた。ああ、過ぎ去った昔を追懐すれば四十有余年、嘆きや悲しみが入り交じり、ひそかに涙を拭いながら、ほんの少しその顛末を記し、後世の人に伝える。
明治三十二年二月吉日
大脇順若記す
五月
[参考]
一 この月、太守さまが、松平因幡守[因州]・松平内蔵頭[備前]・松平大膳太夫[長州]・立花飛騨守等とともに幕府に建言した。その文書に曰く。
前月二十五日に渡された勅答(天皇の返答)の書き付け等を拝見しましたところ、天皇のありがたきお言葉に、恐れながら敬服感泣し、かつ恐縮しました。
それについてまたまた建白するよう(幕府に)命じられましたが、愚劣で底の浅い議論はすでに返す返す申し上げており、今さら別段献策するほどの事柄もございませんが、沈黙したままというのも恐れ入りますので、私どもの見解を次に申し上げます。
先年、横浜で(米国との)和親条約を取り結ばれ、その後、下田条約(注⑫)を締結された。旧臘(昨年十二月を意味するが、実際には十一月末)は(米国総領事のハリスに江戸城への)登城を許され、ハリスからも心を込めて申し上げたところ、このたびの条約(安政五年六月に結ばれる日米修好通商条約)になりました。(米国の要求を)突然拒絶されたなら、種々の差し支えが生じることになるので、今回の条約締結を許すほかなかったかと存じます。さりながら、もともと予想外の変事が起きることは測りがたく、かつその後の処置次第では必ず後日の憂いが生じます。これは容易ならざる事態と憂えていますので、第一に京都の警衛を充実させるのはもちろん、あらゆる方面の(幕府の)政務ならびに軍制の実用化を進めて大変革を行い、戦艦をはじめ航海術等の研究や、諸侯のこれまでの疲弊を救うことまで迅速に命じられるべきでしょう。富国強兵が実現したら、地球上の五大陸までも制御するよう、いざとなったら神国の武威を海外までも輝かせるよう、気を引き締めて盛んにすることが緊要と希望しております。そうなれば、ついには天皇のお心をお休めすることができるようになりましょう。このほか当面の問題は種々雑多ありますが、概略のところはここに名を連ねた面々が同意しましたので、この文書により真心をこめて意見を申し上げます。敬白。
月 日
【注⑫。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、下田条約は「嘉永7 (1854) 年5月,および安政4 (57) 年5月 26日伊豆下田で調印された日米和親条約の付属協定。前者は 13ヵ条から成り,先に締結された日米和親条約の規定に基づく下田,箱館2港の開港にあたってその細則を定めたもの。後者は,安政3年日本に着任したアメリカ総領事 T.ハリスと下田奉行井上清直らの間で結ばれ,下田,箱館の開港細則をさらに拡大して,居留地の権限について定め,特に領事裁判制度が樹立された。さらに両港のほか長崎開港に関する同様の細則もこの協定で定められ,全5ヵ条から成っている。 M.ペリーの圧力によって結ばれた和親条約が日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) に結実する過渡を示す」】
一 五月、(太守さま)御自筆の書き付けは次の通り[国許でのお触れは六月二十八日に出された]。
半知借り上げ(藩財政の窮乏を補うため領主が家臣に対し行う、知行や俸禄の削減)ならびに出米(同じく藩財政の窮乏を補うために命じる米の供出。だが、対象が藩士から農民に至るまでの広範囲なのか、それとも藩士限定なのかわからない)を申しつけておいたが、追々武備を無視できない時勢になったので、出米は免除することにした。一同、相応の武備を油断なきよう心がけてもらいたい。
五月
御名
六月
[参考]
一 この月朔日、将軍が自分に実子がないため養子を立てようとして老中・堀田備中守等に命じて、そのことを評議させた。四日、(京都の)所司代は老中の命を受けて文書を(朝廷の)武家伝奏に提出した。将軍の跡取りになるべき者は、紀州徳川氏と一橋氏の二人のうち、どちらにすべきか天皇の判断をいただき、決めたいと申し上げた。(注⑬)
【注⑬。将軍継嗣問題。日本大百科全書(ニッポニカ)の解説。「ペリー来航直後に就任した13代将軍徳川家定(いえさだ)(在位1853~58)の継嗣決定をめぐる政争。一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)・紀州徳川慶福(よしとみ)両擁立派が対立して政治問題化し、安政(あんせい)の大獄の一原因となった。家定は生来虚弱で子がなく政務も老中任せであったため、継嗣決定を望む声が強く、水戸前藩主徳川斉昭(なりあき)の子慶喜と家定の従兄弟(いとこ)にあたる慶福の2人が候補者に擬せられた。松平慶永(よしなが)は島津斉彬(なりあきら)ら有志大名と図り、海防掛の旗本岩瀬忠震(ただなり)らの支持のもと、年長で英明な慶喜をあげて幕府の基礎を固め、そのもとに雄藩明君を結集した統一体制を樹立して内外多難の問題を解決せんと図り、老中阿部正弘(まさひろ)の暗黙の了解を得ていた(一橋派)。一方、譜代(ふだい)大名の筆頭井伊直弼(いいなおすけ)は、将軍相続に第三者が介入することは秩序の破綻(はたん)を招くとの考えのもとに、血統近く家定自身も支持する慶福こそふさわしいとして一橋派に激しく対抗した(南紀派)。1858年(安政5)両派ともそれぞれ謀臣橋本左内(さない)、長野主膳(しゅぜん)(義言(よしとき))を京都へ送り、朝廷の有利な言辞を得ようと奔走したが、4月井伊大老の出現によって6月25日慶福(家茂(いえもち))決定の発表がなされた。7月5日慶永ら一橋派大名は隠居謹慎となり、海防掛の幕吏も次々に処罰された。この問題は、これまで国政の動向にかかわりをもたなかった親藩・外様(とざま)有志大名が発言権を求めた運動として評価される。[山口宗之]『文部省維新史料編纂事務局編『維新史』(1939~41・明治書院)』▽『渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(1918~31・竜門社)』」】
[参考]
一 六月十九日、(朝廷が)武家伝奏を通じて(京都)所司代に、将軍のお世継ぎには賢明、かつ年長の者を立てるべきだと命じた。これはこの日、江戸に達した知らせである。
(続。またまた解読の難しい個所がいくつかあって難渋しています。いずれは専門家のチェックを受けて正確な訳にしたいと思っていますが、現時点ではあくまでも素人の仮訳にすぎません。誤訳がたくさんあると思います。どうかご容赦を)