わき道をゆく第198回 現代語訳・保古飛呂比 その㉒

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[参考]
一 安政五年六月二十一日、太守さまが(江戸城に)登城し、次の通り幕府の指示をお受けになった。
(朝廷が)大坂表の海岸警固をお命じになったので、万事厳重に申しつける。持ち場の配置そのほか詳しいことは土屋采女(大坂城代・土屋寅直の別名。注①)に問い合わせるよう。また、松平相模守・松平内蔵頭も同じように(大坂表の警固を)命じられたので、互いに申し合わせをするように。

 この時、朝廷から幕府に内々の勅命があった。次の通り。

 国防問題(つまり開国か鎖国か)の得失について、いまだ諸大名はその本心を語っていない。よって、さらに心の奥底にあるものを吐露するよう(幕府から)下知されたい。
 (天皇は)最近の情勢を不安に思し召され、副将軍をも必要とする情勢ではあるけれど、それにふさわしい人物もなし。このうえは将軍の世子を早く決めるべきだ。
 五畿内(近畿地方の大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国)には交易の場所を開いてはならぬとかねて申し上げておいたのに、この節の(幕府の)処置はどうしたわけか。
 (外国と)交易し、和親したら、たしかに兵端を開かず、天下は無事になるや否や。
 右の四カ条を京都より発せられた。

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、土屋寅直(つちや-ともなお)は「1820-1895 江戸時代後期の大名。文政3年2月24日生まれ。土屋彦直(よしなお)の長男。天保(てんぽう)9年常陸(ひたち)(茨城県)土浦藩主土屋家10代となる。天保の飢饉(ききん)などの混乱に対処し,藩校郁文館を新築して教育制度をあらためるなど藩政を改革した。寺社奉行,大坂城代をつとめた。明治28年11月30日死去。76歳」】

[参考]
一 六月二十一日、関東(幕府)より朝廷の武家伝奏衆に差し上げた文書
 一筆申し上げます。外国への対応策について、使者の堀田備中守を京都に遣わし、詳しい事情を言上しましたところ、(天皇からの)勅答もございました。なおまた御三家以下の諸大名へのお尋ねもありましたので、追々それらのお答えをご覧にいれ、そのうえで(朝廷の)ご処置が決められるはずのところ、もはやアメリカとの条約締結(注②)がなくてはどうにもならぬ事態に至りました。まことにやむを得ぬ事情により、再び(朝廷の意向をうかがう)日数もなくなり、余儀なく(条約締結問題が)決着するに至ったもので、こうした事情は深くご斟酌いただいていると思いますが、先般(堀田備中守が)申し上げた趣旨により、今度条約を(和親条約から通商修好条約へ)取り替えるに至りました。右のやむを得ない事情の詳しいことは別紙の通りです。このことを取りあえずよろしく(天皇の)お耳に入れていただけるよう(将軍が)仰られました。

恐惶謹言(恐れ畏まり慎んで申し上げます)

   六月二十一日

脇坂中務大輔
内藤紀伊守
久世大和守
松平伊賀守
堀田備中守

  廣橋大納言殿
  萬里小路大納言殿
 右の奉書(主君の意を受け家臣が自分の名で出す文書)に添付された文書は次の通り。

 先日、幕府の特使が(事情説明に)参上した際、(朝廷側が)仰られた件について、詳しいことはなお追々ご説明申し上げるつもりですが、まずはこのこと(日米修好通商条約の締結)を(天皇の)お耳に入れておきたいと考えた次第です。
   午六月二十二日

堀田備中守
松平伊賀守

 右の文書が我が藩(土佐藩)に送付されたとき、備前侯(備前岡山藩第八代藩主・池田慶政)による次の副書があった。
 今日、江戸城において久世大和守(老中・久世広周のこと)より伝えられた書き付けの写しを回します。受け取られたら、その旨をお知らせください。さらにまた、(この書き付けの内容に対し)異論がないときは、そのことを申し上げるべきか、藤堂和泉守(伊勢津藩の第十一代藩主・藤堂高猷のこと)より田村伊予守(大目付の田村顕彰のことか)に尋ねたところ、異論があるときは早々にその旨を文書で差し出し、そうでないときは別段申し出る必要はないとのことだったそうです。右は念のため申し添えます。

                   以上。

  六月二十二日                松平内蔵頭(池田慶政)
   松平土佐守さま

【注②。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「安政五ヵ国条約」の解説。「安政5 (1858) 年,江戸幕府が,アメリカ,イギリス,フランス,オランダ,ロシアの5ヵ国との間に締結した修好通商条約。ペリー来航後,アメリカ総領事 T.ハリスのきびしい督促と,朝廷を中心とする尊王攘夷運動の圧力との板ばさみになった幕府は苦慮の末,大老井伊直弼の専断をもって,勅許を待たずに調印を断行した。まず,同年6月19日アメリカとの間で外国奉行井上清直,同岩瀬忠震を全権として,横浜沖の米艦『ポーハタン』号上で調印。次いで同年7月10日オランダ理事官 J.ドンケル・クルチウス,7月11日ロシア使節 E.プチャーチン,7月18日イギリス使節 J.エルギン,9月3日フランス使節 J.グロとの間に,それぞれ同様な修好通商条約が調印された。条約の大要は次のとおりである。 (1) 江戸に駐在代表をおくこと。 (2) 下田,箱館,長崎,新潟,兵庫の5港を開港し,江戸,大坂を開市とし,それぞれ駐在領事をおくこと。 (3) 開港場における外国人の遊歩規程。 (4) 信教の自由を尊重し合うこと。 (5) 輸出,輸入に制限を設けないこと,など。特に,領事裁判権が規定され,関税率の自主的改定権が日本側にないことなどから,この条約は日本の主権を毀損する不平等条約であったといえよう。条約の発効は翌同6年6月5日とされている。この条約締結の結果,尊王攘夷運動が激化し,それが安政の大獄,井伊の暗殺を招くにいたった。慶応1 (65) 年 10月各国公使の圧力のもとに勅許。明治維新後,この条約を改正するため,日本政府は全力をあげたが,その成功は日露戦争後に待たねばならなかった」】

[参考]
一 六月二十三日、堀田備中守と松平伊賀守が老中職を辞められ、太田道醇資始・間部下総守詮勝・松平和泉守乗全が老中となる。この日、一橋卿(慶喜)が登城し、井伊大老を詰問した。

[参考]
一 六月二十四日、名古屋(尾張藩主徳川慶恕。徳川斉昭の甥にあたる)および水戸父子(徳川斉昭とその子・慶篤)ならびに松平越前守が急に登城し、朝廷の許しを得ずして「アメリカ」調印があってはならぬことを論じた。大老以下はその罪を謝した。越前守は一人残って西丸(将軍世子)のことを論じた。が、すでに決まったことであるとして相手にされなかった。

[参考]
一 同二十四日、越前藩の家臣・橋本左内が(土佐藩の)邸内に来た。小南五郎右衛門が応接して、将軍のお世継ぎのことを話し合ったとのこと。左内は越前守の内意を受けて来ている。小南はこれを(容堂)侯に伝える。思うに、(容堂)侯はまさにこの時、諸侯の有志とともに、(天皇の)ご意思に従って、一橋卿を将軍の跡継ぎにしようと謀っておられたのである。

一 同月二十五日、幕府が紀州の公子・慶福公(後に家茂と改名。注③)を将軍の跡継ぎとする旨を発令した。曰く。

 紀州宰相殿(慶福のこと)を御養君(将軍の世継ぎ)にすると決まった。これからは御養君さまのことを宰相さまとお呼びする。御殿は西丸になるが、当分は本丸に逗留される。
  右の通り周知されるように。

【注③。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、徳川家茂は「[生]弘化3(1846).閏5.24. 紀伊[没]慶応2(1866).7.20. 大坂江戸幕府 14代将軍 (在職 1858~66) 。和歌山藩主徳川斉順 (将軍家斉の6男) の長男。母は松平六郎右衛門の娘。幼名は菊千代,のち慶福 (よしとみ) 。院号は昭徳院。嘉永2 (49) 年閏4月斉彊 (なりかつ) の養子となって紀州家を継いだ。しかし,嗣子のなかった将軍家定の跡をめぐって一橋慶喜を推す一橋派と対立 (→将軍継嗣問題 ) 。大老井伊直弼の支持を得た慶福は安政5 (58) 年 10月 25日将軍となり,名を家茂と改めた。万延1 (60) 年井伊直弼が桜田門外で殺害されると,幕府は公武合体の政策をとって文久2 (62) 年2月 11日孝明天皇の妹和宮 (かずのみや) 親子内親王を江戸城に迎え家茂夫人とした (→和宮降嫁問題 ) 。同年6月勅使大原重徳が勅旨をもたらしてからは,慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政治総裁職に任じて幕政の改革を行なった。また同年 10月三条実美,姉小路公知が東下した際には攘夷の勅旨がもたらされた。翌年3月上京し,天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従い,攘夷の期日を5月 10日と奉答し,6月東帰した。元治1 (64) 年7月蛤御門の変 (→禁門の変 ) が起ると薩摩と共同して長州藩兵を退け,続いて長州征伐を命令。第2回の征長役には大坂に本営をおき,みずからも大坂へおもむいて諸軍を統轄したが,敗戦が続き失意のうちに大坂城で病死した」】

[参考]
一 同月二十八日、朝廷で評議があり、御三家ならびに大老のうち一人を上京させることになった。[七月八日参照]

     七月

一 この月五日、尾州侯(尾張藩主徳川慶恕。徳川斉昭の甥にあたる)が隠居謹慎、水戸侯(徳川斉昭)が謹慎を言い渡され、水戸の慶篤侯(斉昭の子)・一橋侯(慶喜)が登城を差し止められ、また松平越前守さまが隠居謹慎を命じられたとのこと。

[参考]
一 同五日、太守さまが越前侯に贈った密書は次の通り。

 忙手開緘(※正確な意味はわからないが、早く読まなくてはと焦る気持ちで手紙を開封した、といった意味ではないか)。書かれた内容の意外さに愕然として血の涙を流すしかありません。僕は貴兄と知り合ってまだそれほど永くはありませんが、古くからの知己よりも真心を尽くした貴兄の心配り、何をもって喩えたらよいかわかりません。僕もまた(幕府の不興を買って)いつどうなるかわかりません。昨日の書き取り(※次に出てくる建白書を指すとみられる)は是非出そうと思っています。七日に登城した際に出すつもりです。ああ、天下がどうなるか。ほかに差し出すべきものはありません。ただいま飲んでおります猪口と、近日差し出す書き取りを僕と思し召してお手許に留め置きください。このとき涙数行不能下字(※下字の正確な意味がわからないが、全体としては涙で字が書けなくなったというような意味ではないか)。頓首。
   戊午(安政五年)七月五日
                      鯨海酔侯山内璋
  呈
    沙量使侯(慶永の号と思われる)
        座下
  なおなおこの書ならびに書き取りが(世に)漏泄しても構いません。ただ貴兄のご判断にお任せします。

一 七月上旬、太守さまの建白書[五枚後に出てくる寺田氏の筆記を参照]は次の通り。

 大坂の地勢は日本で最も複雑に入り組み合っていて、四訳館(※中国・清の時代の外交文書の翻訳を司る役所。さまざまな国の言語が飛び交って混雑するありさまの例として持ち出したのではないかと思う)も顔負けと申すべきでありましょう。(幕府から命じられた大坂表の海岸の)警衛について熟考しましたところ、大坂(の警衛)はすなわち皇居の警衛と同じことであって、我が藩の海防と同様に見なして論ずべきではありません。(私と同様に大坂表の海岸防禦を命じられた)松平相模守・松平内蔵頭はその任務にふさわしい人物でしょうが、小生は拙劣不才で、敵の攻撃を防いで相手を恐れさせる場所の警衛をつとめるのは、俗に言う疲駑重載(疲れ切って動きののろい馬に重荷を背負わせる)であって、深く恥じ入るほかありません。さりながら、これまで京都の警衛が手薄であるということについては、有志の者はひどく憤慨して嘆息しており、小生もことしの早春、老中にしばしば建議しましたので、このたびのご命令を辞するようなことはありません。
 まず第一に、外敵の到来が起きてから五、六年間、世のありさまは浮雲のように変化して今日の状態になりました。今上天皇におかれても深く叡慮を悩ませておられ、不肖ながら天皇の臣下の一員たろうとする者が、一日も早く堅固に警衛をしたいと願うのはひたすら忠義を尽くそうとする者の嘘偽りのない真心でございます。しかしながら、我が藩は海浜に面するところが大きく、海岸線の長さはおよそ百有余里あります。わずか二十万石の国力ではその海防さえ十分に果たすことができません。これに加えて、京都近辺の要衝の警衛を命じられたので、望洋として何から手をつけていいかわかりません。ことに慌ただしく下された命令なので、いろいろと処置する暇もありません。(幕府からの)お手当・ご援助をお願い申し上げます。
 第二、お手当・ご援助については、このごろの幕府も急を要する政務が多方面にわたっているうえ、(土佐藩と)同じような立場の藩もありますので、許可するのも難しいのではないかと推測します。また強いてお願いするのもどうかと思いますので、しばらくの間、大坂警衛以外は、参勤交代その他の公務を免除していただけないでしょうか。そうすれば外敵への防御手段を力の限り強化するよう申しつけようと思います。
 第三、お手当・ご援助の方法と、参勤公務の免除の方法のうち二つのどちらかを許可していただければ、一時的にかかる費用は都合しますが、我が藩の百有余里の海防と(大坂警衛の)両方を同時に行うことになれば、たちまち(土佐の)国力は枯渇してしまうでしょう。ここのところをどう考えたらいいのかお教えください。また、我が藩と上方とは遠く離れていて、その間には南洋風波の険しいところがあります。船の往来が風波によってしょっちゅう遮断され、先代(前の藩主)のとき、このために参勤交代を延期せざるを得なかったことが再三ありました。大平無事なときの参勤延期ならば、やむを得ずとさえ申し出れば済みましたが、万一の緊急事態のときに不都合が生じれば、洋夷(西洋人)の猖獗に恐れをなし、わざと遅れて、実際には退却したのだなどと軽蔑されたら、無念で悔しいことです。そうならぬよう(上方に駆け付けるのに)便利な地を選んで、土佐藩の所領と同様にするよう命じていただきたい。そうすれば平生からその地に藩の船を配置し、南洋風波が険しいときは同所から出帆し、迅速に上方に到着できるよう、あらかじめ方策を立てておきます。
 第四、昨年、出羽守・讃岐守等に大阪警衛を命じられてから一年余りの月日がたっていますが、一カ所の砲台もつくっておられません。廟堂(幕府上層部を指すとおもわれる)の評議の内容はうかがい知ることが難しく、あるいは出羽守・讃岐守等は、孫呉(中国・戦国時代の兵法家、孫武と呉起を指す)の兵法と、賁育(秦の武王に仕えた力持ちの勇者二人を指す)の勇気を兼ね備えているので砲台などは必要としなかったのか。出羽守・讃岐守はこのたび京都の警衛担当に移り、その代わりに相模守・内蔵頭・小生に(大坂警衛を)命じられました。しかし、小生は武門にありながら兵法に暗く、男子に生まれながら勇気に乏しく、山河や土地の形勢に従って、(地勢が険しく守りやすく攻めにくいところに)要塞を設けなくては外敵と戦争は難しいので、砲台等を速やかにつくるようお願いします。もっとも砲台をつくる際には小生に任せていただきたく存じます。
 第五、兵の勝敗は大将が知勇に優れているかどうかで決まるのであって、器械の精粗は論じるに足りずというのは、兵法家が常に言うことです。しかしながら外国の現在の情勢を考えると、器械の効用も決して無視できません。器械のなかでもいちばん重要なのは大砲です。もし、現在すでに用意されておられないのなら、銅で鋳造したものをお渡し願います。
 ただし、今の西洋の夷人は鉄製の大砲を用いていると聞きますが、皇国においては、鋳造する職人たちがいまだにその方法を研究しかねているのか、たとえ反射炉で鋳造しても炸裂の恐れがあります。そのため(銅製の大砲を)お願い申し上げます。
 第六、たとえ長城のような砲台を築き、大砲を何百門も構えたとしても、我が方に艦船がなければ厳重な警衛をすることは難しく、艦船があっても航海術に熟練していなければ操船が難しく、しまいには無用の長物となってしまいます。元来、我が藩は僻遠の地にあって、船頭たちは天性傲岸で我流を主張し、西洋の技芸などは特に導入しがたい悪癖を持っております。軍艦や火船(=爆発物などを積んで敵船に体当たりする船)等はオランダに命じて、(幕府に)納めさせ、それを我が藩に速やかに渡してもらえば、航海術等は厳命を下して厳しく習得させるつもりです。
 第七、大坂の地の様子は大概わかっているつもりです。さすが天下の三都会と称されるだけあって、彌望屋瓦晋楚モ富ヲ失候(※屋根瓦に金を使いすぎて晋も楚も富を失ったという意味だと思うが、正確にはわからないので原文を引用しておく)。しかしながら、大坂に住む人たちはといえば、財利の道に悪知恵の働く富商たちばかりです。大小の両刀を身に帯びた武人に会ったら、生色を失って恐怖するでしょう。このことを考えると、ロシアの帆船やアメリカ船そのほかイギリスやフランス等の軍艦が港の出入り口に押し寄せて、戦を始めそうな情勢になったなら、大坂の人びとは必然に風の音や鶴の鳴き声にも怖じ気づいて逃げ出すことは、誰が考えても明らかです。そしてまた、その騒乱の間に、人家から火が出て、祝融(火を司る神)が跋扈し、その一方で盗賊も蜂起するでしょう。これでは内外の防禦、百万の士卒を指揮しても、小生のような愚将は力が及びません。大坂が潰乱してしまったら、恐れ多くも皇居に賊の手が及びかねません。このため、人家の密集したところは移転を命じていただきたい。やむを得ないところは追々広々とした場所にしたいと思います。世の俗人たちより見れば苛酷な措置だとして物議が沸騰するでしょうが、決してそうではありません。無辜の民を毒煙の中に見殺しにすることこそ、苛酷で仁の道に反することだと存じます。
 第八、我が藩より兵を出すにしても、その足がかりとなる屯所がなくては兵を置いておく所がありません。大坂の土地で相応な所を拝領できませんでしょうか。ただ今の(大坂にある)蔵屋敷は狭く、弾丸・硝薬を置く所まではありません。
 以上の事柄について可否を御評議のうえ、警衛の態勢が整う状況になれば、早々にお暇をいただき、京都・大坂を視察のうえ帰国し、家臣とともに衆議を続けます。まことに不遜の言葉が少なくなく、恐縮の至りではありますが、媚びへつらってばかりいては、いったん事が起きたときに狼狽するしかりません。であれば、廟堂(この場合は幕府上層部の意か)で(信頼に値する)人を選ばないという過ちをおかすことになりましょう。私の取るに足りない誠ですが、やむを得ず真情を吐露して、(幕府の)尊厳を汚しました。伏して処罰がくだされるのをお待ちします。
     七月   日              松平土佐守(注⑤)

【注⑤。この容堂の建白書については平尾道雄著『土佐藩』に解説があるので、それを引用しておく。「その専断を非難する一橋党(※一橋慶喜を担いだグループ)に対して大老は異常な決意をもって断圧を試み、七月五日には水戸斉昭を駒場屋敷に隠居させ、一橋慶喜と水戸藩主徳川慶篤に登城停止、松平春嶽に隠居謹慎を命じた。これを知った容堂は、七月九日大阪警備の幕命に対し爆弾的な要求を提出したのである。条約調印後、大老は六月二十一日土佐・因幡・備前の三藩に大阪警備を命じた。これは京都朝廷の意をうけて近畿防衛の強化を目的としたものであるが、容堂は受命の条件として砲台の建設、銃砲や艦船の供与、七年間の江戸参勤および公務一切の免除をもとめ、作戦要地として伊予[愛媛県]の幕領川の江の譲与を請い、さらに用兵の必要上大阪を焼却すべきことを進言したのである。幕府としてこれに応ずることができないことは承知の上のいやがらせであったが、容堂としては井伊大老の専権に対する憤怒をこれによって吐露しようと試みたものであった。容堂の意見書は反大老の気運の一片を見せたものに過ぎず、島津斉彬は自ら精兵をひっさげて大老に対決する覚悟をかためたと伝えられたが、その鹿児島出発に先立ち七月十五日に病死した。これに多くの期待をかけた一橋党の落胆は大きかったが、なお深く朝廷にむすんで頽勢挽回の策を計画したのである」】

[参考]
一 七月八日、幕府より(朝廷の)武家伝奏への文書、次の通り。
 貴翰を拝見いたしました。六月二十一日に奉書で言上した件(日米修好通商条約の締結)につき、御三家ならびに大老のうち(一人が)早々に上京するようにという(朝廷の)ご意向を公方さま(将軍)に伝え、(天皇の)叡慮を申し上げたところ、了承あそばされたという旨を仰っしゃいました。詳細は別紙でご報告させていただきます。恐惶謹言。
   七月八日

太田・間部・松平・内藤  連署

  武家伝奏の両卿へ

[別紙]
一 アメリカとの条約の件、先般申し上げた通り、余儀ない事情により、条約調印が済みましたが、そのころロシア船も渡来し、昨年、仮条約を取り交わしたそれぞれの個所を拡張し、条約を締結したい旨を申し立てました。ロシアについては交易を許可されているということもありまして、先方の申し立てについていちいち精一杯談判したうえで、アメリカとの釣り合いを考えながら条約を結びました。先だって仰られた(天皇の)叡慮の内容についていまだお答えをしていない内にそのように取り決めたことについてはご不審があろうかと思いますが、近いうちに使者を上京させて事情を説明させていただきたいと存じます。以上の内容をまず(天皇の)お耳に入れていただくよう、(武家伝奏の)両卿にお伝えする旨、(幕府の)年寄りどもより告げ知らせ申し上げます。

(以下は高行による付記)この書が京都に達するやいなや公卿はみな憤り、あちこちでまた流言が大いに起きたという。

一 七月十六日、[一本七日、又ハ二十日(※この注釈の意味は不明。一説では七日、または二十日という意味か)]島津斉彬公が逝去されたとのこと、賢君として聞こえた方で、(土佐藩山内家の)ご近親であり、養徳院さま(第十三代藩主・山内豊熈)とは昵懇の間柄だった。太守さま[豊信公]が藩主になられたときも万事お世話になっており、生きておられれば太守さまのお力になってもらえる頼もしき存在だったのだが、残念な次第となり、恐懼の至りである。

[参考]
一 (土佐藩江戸詰めの御用役)寺田(左右馬)氏の筆記に曰く。[太守さまの建白書を参照]
 同月[七月]二十四日夕刻、内藤紀伊守さま(老中・内藤信親)の公用人より(土佐藩江戸藩邸の)留守居役が呼び立てられたので、廣瀬傳八郎(注④)がすぐに参上して公用人に面会したところ、(土佐藩江戸藩邸の)重役がたの姓名を紀伊守が知りたいと申しているのでお尋ねしたいと言われた。よって御近習家老[桐間将監殿]・役場[御用役]両人[小南五郎右衛門と寺田左右馬]の姓名を申し入れたところ、「明日二十五日の六ツ半時(明け六ツ半時とすれば、午前七時前後か)より重役一人お出でいただきたい。紀伊守がお会いしたいと申しているので」という内談があった。傳八郎が藩邸に戻って、一同は委細を承知した。先日、(太守さまが)紀伊守さまにお会いになった際、御伺書(建白書)を差し出されたので、その件であろうかと推察したが、(重役の呼び出しは)いまだかつてないことなので、一同心配した。ことの次第を御目付より御家老たちに伝え、上(※この場合は容堂のことを指すと私は解釈した)へよくよく言上すると、すぐ役場両人(御用役の小南と寺田)が召しだされた。(二人に容堂公が)仰せつけられたのは、「明日、紀伊守方へ(土佐藩の)役人が呼ばれた理由は、他でもない、先日差し出した書き取り(建白書)の仔細についてだろう。二人で相談して(どちらか一人が)使者をつとめるよう」ということだった。「もしも明日、紀伊守から不審点について問い質されたら、土佐守よりお答えいたしますと述べ、別段申し開きをしないよう」とも仰られたが、これについては使者をつとめる者に御委任いただきたいと申し上げ、両人は退出した。その夜、家老たちをはじめ一同が評議したが、紀伊守さまがどういう不審点について問い質されるのか判断が難しかった。[だから、あらかじめ答え方を決めておこうといっても、もとより方針がまとまらなかったが、だいたいこういう質問があったらこう答えよう、この筋についてお尋ねがあったら、こういう意味であると釈明しようということになった。それ以上のことは使者の臨機応変に任せようということに決まったものの、不測の事態に直面して、みな心配した。しかしながら紀伊守様より重役が来るようにと命じられたので、御家老が行くのが当然だと、御用役としては思っていたところ]御家老を使者として派遣する必要はないという(容堂公の)思召しめしで、御用役二人の間で(どちらが行くか)相談するよう命じられたので、月番の小南五郎右衛門がつとめることになった。
 小南は同二十五日、六ツ半に藩邸を出た。宮井守衛が同行した。紀伊守は自邸のお勝手で人払いをしたうえでお会いになり、次の通り述べられた。
 今日、そこもとにご苦労をかけたのは他でもない。先日、土佐守殿がお出でになられ、このたび大坂表の警衛を命じられた件につき、箇条書きの文書でお尋ねがあった。その際、(要点を列記しただけの)箇条書きでは熟慮するのが難しいので、(文意や背景事情を説明した)書き取りの文書であればお受け取りしたいと申し上げた。すると、(容堂公は)幸いなことに書き取りを持参しているが、ご覧に入れるほどの書き取りではないので、あなた様かぎりでご覧になるために差し上げ、(正式に差し出す書き取りは)なおまた(文面を)熟慮なさりたいと仰られた。その後、(書き取りを)二、三度拝見して熟慮したところ、文書中にただ今の情勢では実行しがたいことが相当多かった。このまま幕府にお伺いをしたら土佐守殿のためによろしからず、公儀に対し不都合なことになるにちがいない。しかしながら(幕府に対する)お伺いを厳しく差し止めるつもりはなく、警衛に関してためになる方法について意見があれば、何度お伺いをされても差支えない。そこもとをはじめ重役の面々がよく検討して、土佐守殿の腹によくよく入るように言上してもらいたい。もしも書き取りの文書でお伺いをすることになっても、(幕府の見解を記した)付箋をつけてつき返せば問題はないのだが、結局、土佐守殿のためにならないことになるので、重役の者たちはよく検討するように。
 別紙(※何を指すか不明。あるいは容堂の建白書につけられていた別紙の意か?)で言及されていた幕府の政事向きの件、そのような政事のことを取り扱うとみなが迷惑すると思うので、一同熟慮して都合よく(容堂公に)言上してもらいたい。
 よって(容堂公からいただいた)書き取りはそこもとに返上する。今日、土佐守殿をお招きして、今述べたことどもについてご相談しようと思っていたが、かえって(容堂公の)ご都合がいかがかと思って、そこもとにご苦労をかけた次第である。返す返す重役たちの間で評議し、都合よく言上してもらいたい。と、(紀伊守さまが)仰ったので、まことに懇切な心遣いがあり難く、仕合わせなことで、ご趣意を土佐守へお伝えしますと申し上げた。私としてもあり難き仕合わせと御礼を申し上げ、その場を退いて、次の部屋で公用人に御礼を申し上げ、追而御礼御留守居御使者ヲ以被仰入候(※この部分は正確に訳せないので、原文を引用した)。
 小南五郎衛門は藩邸に帰るとすぐに紀伊守さまとの面談の次第を報告し、(太守さまは内藤紀伊守の配慮を)かたじけなく思召された。御家老たちに(事の次第を)伝え、一同安心した。(※以下の数行はうまく訳せないので、原文を引用する。ご容赦を乞う)然上ハ、右御書取ヲ以再御伺ハ被遊間敷御筈ニ候ヘバ、備前様エ彼是御示合之御伺被遊御旨被仰出之事、
  被仰出候處、當幾日御人数可被差出旨御達有之、依之、因州様・備前様・長州様・立花様被仰合、追々御手順立候義ハ、即別紙ヲ以及御掛合候、先者右一條、云々、
(以下は高行の所感である)。筆記者の寺田左右馬は腹黒い人物で、小南をよく言わぬ人だから、小南の内藤紀伊守殿に対するお答えの部分は疑わしい。後に細川潤次郎(注⑤)が撰んだ小南の碑文こそ穏当だろう。

(前略)公慨然上書幕府、(中略)閣老内藤紀伊守召君、到第對有所為幕府回護、君申以前意辨論不屈、紀伊守不得終其説而止。(※正確に読み下せないが、大意は次のようなことと思われる。容堂公は憤慨して幕府に建白書を出した。老中の内藤紀伊守は小南を召し、幕府を弁護しようとしたが、小南は反論して屈しなかった)。(注⑥)

【注④。本文の安政三年十一月の項に廣瀬傳八郎のことが記載されているので再録する。「そもそも我が藩で北条流が御家流になったのは、御□(欠字)代□旗下福島某の門人である廣瀬傳太夫を千石の中老身分で江戸藩邸詰めに召し抱えたのがはじまりである。同家は兵学師範のみならず、代々留守居役を勤め、江戸藩邸では権力のある家柄である。当代は傳八郎といって、とにかく他流を厭い、ことに山鹿流は亡くなった師匠が破門した者の流派だとして忌み嫌った。いま傳八郎は御留守居役を勤めていて、練兵には関係しないけれども、北条流の本家株で、身分の高い門人が多数だから、とにかく陰で(高行らが主導する操練に対し)異議を唱えている」】

【注⑤。「朝日日本歴史人物事典「細川潤次郎」の解説細川潤次郎没年:大正12.7.20(1923)生年:天保5.2.2(1834.3.11)幕末の土佐(高知)藩士,明治大正期の法制学者。儒者細川延平の次男。幼名熊太郎,諱は元,のちに潤次郎,号は十洲。幕末土佐藩の三奇童のひとり。生来頭脳明晰。博覧強記。藩校で学力抜群,安政1(1854)年長崎に赴き蘭学を修業,高島秋帆 に入門して兵学,砲術を学んで帰郷,5年藩命で江戸に出て海軍操練所で航海術を修業し,同時に中浜万次郎から英語を学んだ。文久年中(1861~64),吉田東洋政権の藩政改革の根幹である法典編纂事業に松岡時敏らと従事し「海南政典」「海南律例」を完成させた。維新政府に出仕,学校権判事として開成学校の基礎を固めた。明治4(1871)年米国出張,左院の諸役を勤め法制整備に広く関与した。9年元老院議官,23年貴族院勅選議員。26年から没年まで枢密顧問官。その間に女子高等師範学校長,華族女学校校長,東宮大夫,学習院長心得あるいは『古事類苑』編纂総裁を務め,33年男爵。<著作>『十洲全集』全3巻(福地惇)」

【注⑥。この容堂の建白書問題のいきさつについては高行が『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』でも述べているので、それも引用しておく。「井伊は勅許を経ずして、(日米修好通商条約などを)調印したのであるから、諸侯は違勅の罪を詰責し、有司益々憤慨して、事態頗る不穏となった。而も其等の人々の全力を濺いだ世子問題も、六月二十五日紀州公子慶福公を立つることになつて、折角の尽力も全く画餅に帰した。太守公の御気質としては、最早不平で堪らぬ。そこで七月、大阪警衛の事に関して、幕府に建白書を呈し、遠慮会釈なく時弊を論じ、万丈の気炎を吐かれた。幕府に於ては、これを接手すると、大に驚いて、内藤紀伊守[正縄]から重役を召喚されたに依つて、小南五郎右衛門が出頭すると、これに就て諭告する所があったが、小南がなかなか屈せず、大に言論を戦はしたとの事、藩邸詰合の者も非常に心配し、殊に俗論家などは、色を失つたそうだ。處で、これはマア何やら無事に済むだけれども、後に公が処罰せらるゝに與つて力あるものであつた」。つまり高行が強調したいのは、小南は紀伊守に対して迎合的な態度をとったのではなく、言論を戦わせたのだということである】

[参考]
一 七月、ロシア[七月八日の別紙に記載あり、再出]・イギリス・オランダの仮条約が結ばれる。
(続。今回も私の勉強不足で訳せないところが何カ所かありました。辞書を引き引き頑張ってはみたのですが、申し訳ありません)