わき道をゆく第199回 現代語訳・保古飛呂比 その㉓

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   安政五年八月

一 この月朔日、(土佐)安芸郡奉行・本山氏(※本山只一郎。高行の友人で、かつて一緒に山鹿流練兵の実地訓練を行っていた)より届いた手紙は次の通り。

 七月二十八日付けの貴翰を八月朔日に受け取りました。直ちに拝読しました。ご健勝とのこと、慎んでお祝いします。一別以来、お尋ねもせず失礼しました。次第に秋冷に向かい、和歌を詠むのに適した季節となりました。相変わらず(山鹿流練兵の研究を)やっておられることと察します。安芸郡においても私の頭の中では(練兵の)策が次々と湧いて出てきますが、肝心の先立つものがない(※原文は第一備用の調方片付不申に付。備用は「用心のため、あらかじめ備えておくこと」。調方は「準備、とくに食事の仕度」を意味するので、私は練兵の費用がないという意味に解した。間違っていたら申し訳ない)ので、先人がすでに考え出した策を出ることができません。ゆくゆくは(主君の)恩に報いることの一端にもなるように心懸けております。もはや季節も良くなったので、どうか安芸郡にご来訪ください。さて、徳川家もいよいよの事態に立ち至り、ここ一、二年の露命維持に躍起のようです。かねて思っていた通りの展開で、今さら怪しむにたりません。君公(容堂公)が浪速の警衛を命じられたのは、甚だ好都合のことだと思います。露刃冒弾丸英雄奮起(=抜き身をひっさげて弾丸が飛び交う中を突き進む英雄が奮起する)の世となりました。あまりの愉快さに寝るのを忘れるほどです。これからも飛脚をよこして、珍しい話を聞かせてください。三英主(前月に謹慎や登城差し止めを命じられた徳川斉昭、一橋慶喜、松平慶永の三人を指すとみられる)が隠居を命じられたというのも事実でしょう。このことだけで無論、国家は滅亡するに足るでしょう。君公(容堂公)も、もし譜代大名だったら無事では済まされなかったでしょうが、外様大名ゆえに危急を逃れることができたのだろうと察します。
 将軍(家定)の毒殺説は私も信じません。貴兄のおっしゃる通りでしょう。貴兄が藩の方針変更により急に江戸から帰国された件は、残念でした(※原文は、朝暮急に御帰の段は跋望(ママ)のことに御座候。誤訳の可能性あり)。以上は取り急ぎ、(貴兄からの質問に対する)お答えのみ書きました。擱筆百拝(=筆をおき、幾度も頭を下げて礼をする)。
 八月朔日                      只一郎

  三四郞さま(佐佐木高行の別名)へ
 例の人びと(ともに山鹿流練兵を学んだ仲間たち)へ会われたらよろしくお伝え下さるようお願いします。このたびは無沙汰しておりますので。

一 八月八日、朝廷が幕府および水戸以下十三藩に勅書(注①)を賜った。我が藩に届いた勅書は次の通り。
 先般、アメリカとの条約はやむを得ない事情で神奈川において調印され、(米国の)使節に渡されたとのこと。なおまた(老中の)間部下総守(詮勝)が上京し、(条約締結に至る経緯を)ご説明申し上げるとのことであるが、先日、諸大名の衆議の結果を聞きたいという勅命が下されたのにもかかわらず、まことに皇国の重大案件を調印の後に言上するとは(どういうことか)。将軍が天皇の叡慮を伺うという趣旨もまっとうできず、勅命の内容にも背いた、軽率な取り計らいである。将軍は賢明であるのに、(その周囲の)有志の心得はどうしたものかと、天皇は不審に思し召されている。以上の経緯については、蛮夷(外国人)の件はしばらく差し置き、今の国内の治乱(=世の中が治まることと乱れること)はいかがかと、天皇はことさらに深く叡慮を悩ませておられる。何とぞ公武(朝廷と幕府)が実情を明かしあって、(両者の)合体が永久安全につづくよう、ひとえに念じておられる。天皇は徳川御三家あるいは大老が上京するよう命じられたが、水戸・尾張両家は謹慎中と聞いた。これはどういう罪状によるものか理解に苦しむが、水戸・尾張両家は将軍家を補佐する柳営羽翼の面々である。近頃、外国勢は次々と入港し、容易ならざる時節であり、現に人心の動向にもかかわる事柄なので(天皇は)それについても御心を悩ませておられる。かねて御三家以下諸大名の衆議の結果を聞きたいと仰せられたのは、永世安全の公武合体によって、叡慮を安んじられるように思し召されたからである。外国勢への対応ばかりでなく、国内情勢への憂慮が重なって(天皇は)ことさら深く御心を悩ませておられる。どれもこれも国家の大事なので、大老・老中、そのほか御三家・両卿・家門、列藩、外様・譜代の一同が群議評定を尽くして、忠義一筋の心をもって問いただし、国内の太平、公武の合体がいよいよ長くつづくよう、徳川家を助け、内を整え、外国勢の侮りを受けぬようにと思し召されている。早々に評議をせよ。これは勅命である。

  安政五年八月八日

 御製(天皇の和歌)
  すましえぬ吾身は水に沈むとも
     にこしはせしな萬国民

[別紙]
 勅命が発せられた。右は国家の大事はもちろん、徳川家を援助しようという思し召しである。会議を開いて、国の安全を計るよう検討せよと、異例の思し召しなので、なお同列の御三家の方々ならびに両卿・家門衆以上から隠居に至るまで、列藩へも(天皇の)御趣意を伝えるよう、諸方面へお達しすること。
    八月八日

近衛左大臣忠熈
鷹司右大臣輔熈
一条内大臣忠香
三条前大臣實満
二条大納言齊敬
近衛大納言忠房

 右の内容はとりわけ水戸中納言(徳川斉昭)に対して申したものだが、その他の者に対しても、心構えのために申しておく。
[右の文書は九月二日夜、(江戸の水戸藩邸に)到着した。京都からの飛脚便で来たものを写した。もっとも御製の和歌は江戸へは来ていないとのこと]。
 右の勅書伝達について『無聲洞日録』の抜き書きに曰く。
  先日、水戸へ勅書が到来した経緯は次の通り。薩摩藩士・日下部伊左次(注②)という者が上京し、近衛家ならびに三条家に働きかけた。そのうち近衛家へは、以前から出入していた僧月照(注③)という者を通じてかくかくしかじかと申し入れた。三条家は、伊左次がどういうわけか数年来、懇ろにしてもらっているそうで、(伊左次は三条実万卿に)面会を許され、逐一情勢を報告している。現に勅書(戊午の密勅)の写しも直に見せてもらっているとのこと。もっとも前述の勅書の現物は近衛家より渡され、水戸藩の京都留守居役・鵜飼吉左衛門(注④)の息子・幸吉と伊左次等が守護して江戸へ届けたとのこと。その際、勅書写し二通を幸吉と伊左次に託し、近衛家より薩州侯・越前侯へ送られた。土佐藩には三条家が(勅書の写しを)回す手筈になっていた。ところが、薩摩藩の有馬新七(注⑤)[築地の長門復太郎方に仮住まい]という者が上京して、公家衆に接触した[月照を通じて専ら近衛家に接触]。新七は先日の勅書が水戸藩どまりで他藩に行き渡っていなければ、せっかくの機会を失うので、勅書の内容を諸藩に速やかにご披露なさるようにと(近衛家に)申し立てたらしい。そこで(近衛家が三条家に)さてこの間の勅書の写しは土佐藩に送られたであろうかと問い合わせたところ、まだそのままになっているというお答えだった。それではどうしようもないので、片時も早く送ったほうがいいと(近衛家は)仰せられた。それでようやく土佐藩への勅書写しの送達が実現した。新七が近衛家に頼んで懸案が解決したので、新七は御礼を言って江戸に戻った。(※誤訳の恐れがあるので原文を引用しておく。近衛家ヘ御頼ニ相成ヨリ、新七義握手シテ罷下ル)。この一件については、近衛家は三条の決断力のなさを内々嘆かれたとのこと。詳しい経緯は次に。
 ――有馬新七は今月十二日[九月]京都を発ち、同十七日夜、江戸に帰着した。翌十八日に勅書を差し出し、(土佐藩への)手づるを探し求めたが、小南五郎右衛門は土佐に帰っており、他につてが見つからなかった。やむを得ず越前藩の橋本左内・三岡石五郎(注⑥)等を招いて相談したところ、越前侯は当時謹慎中で、土佐への(勅書送達に関わると)嫌疑を受ける恐れがあるのでよろしくない、かわりに伊達家(注⑦)に頼めばよいという話になり、同藩の吉見長左衛門と申す者と内談の上、勅書を託したとのこと。
 先だって薩摩藩に届いた勅書は、西郷吉兵衛(隆盛)より家老の島津豊後へ届けられた。豊後は(薩摩藩の)高輪邸に行き、勅書を(亡くなった斉彬の跡を継いだ忠義?に)差し出したところ、もっともだと承諾され、江戸から帰国する際、伏見から近衛家に受諾の返事を伝える使者を出す手筈になったとのこと。
 新七が京都にいる間、所司代の酒井若狭の方針で、公家衆に周旋する者どもを厳しく取り調べし、さらには召し捕りになる者も出てきて、すでに僧月照にも探索の手がのびている情勢だったので、近衛家より内々のお指図があって、同十一日、月照は京都を立ち去ったということである。以上。

【注①。情報日本大百科全書(ニッポニカ)によると、この勅命を「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」という。「幕末期の1858年(安政5)8月8日付けで幕府および水戸藩に下された勅諚(ちょくじょう)。戊午は安政(あんせい)5年の干支(えと)で、前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられたので「戊午の密勅」という。幕府の将軍継嗣(けいし)問題の決定や安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった孝明(こうめい)天皇は、幕府および水戸藩へ勅諚を下した。水戸藩へは8月7日深夜左大臣近衛忠煕(このえただひろ)から水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交され、諸藩へ伝達せよという添書が付されていた。この異例の勅諚には、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、水戸藩の攘夷(じょうい)の推進を促していたが、これを知った幕府は、水戸藩に諸藩伝達を禁じた。水戸藩ではこの勅諚伝達の可否をめぐって藩論が分かれ、翌年、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を沙汰(さた)するに及んで政治問題化した。しかし、この「戊午の密勅」は、天皇の幕府・諸藩に対する政治的所信の最初の公的な表明であり、朝廷が積極的に政治干与の姿勢を示したものとして注目される。また、この勅諚は、大老井伊直弼(なおすけ)をして安政の大獄の弾圧を決意させる一因ともなった。[田中 彰]】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、日下部伊三次は「没年:安政5.12.17(1859.1.20)生年:文化11(1814)幕末尊攘派薩摩(鹿児島)藩士。諱は信政,翼。伊三次と称し九皐,実稼と号す。深谷佐吉,宮崎復太郎と変名。父は,元薩摩藩士で水戸太田学館幹事海江田(日下部)訥斎連。父の跡を襲って太田学館幹事。弘化1(1844)年,水戸藩主徳川斉昭の隠居謹慎に際して処罰解除運動に参加,安政2(1855)年,斉昭のとりなしで薩摩藩に復帰。5年,井伊直弼政権が日米修好通商条約を無断違勅調印するや水戸藩尊攘派と連絡,井伊政権批判の密勅降下を企図,上京して水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門らと三条実万らに入説し成功,木曾路経由で密勅(戊午の密勅)の写しを水戸藩江戸屋敷に伝えた。安政の大獄で獄死。拷問に抗し絶食したためという。(吉田昌彦)」】

【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、月照(げっしょう。1813―1858)は「江戸末期の志士、僧。讃岐(さぬき)(香川県)出身の大坂の町医玉井宗江の子に生まれる。幼名宗久。1827年(文政10)叔父清水寺(きよみずでら)成就院(じょうじゅいん)住職蔵海(ぞうかい)の下で得度。中将房忍鎧(介)(にんがい)、のち忍岡(にんこう)と改名、字(あざな)は月照、無隠庵(むいんあん)・一鋒(いっぽう)と号した。35年(天保6)成就院住職となり同院の復興に努めた。青蓮院宮(しょうれんいんのみや)、近衛忠煕(このえただひろ)ら堂上に出入りし、ことに忠煕に和歌を学ぶ。54年(安政1)住職を弟信海に譲り国事に奔走、58年梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと交わり攘夷(じょうい)の勅諚(ちょくじょう)を水戸藩に下すことに成功した。安政の大獄に際し西郷隆盛(たかもり)とともに鹿児島に行くが、薩(さつ)藩当局にいれられず、同年11月16日西郷とともに錦江(きんこう)湾に入水(じゅすい)。西郷は助かったが、月照は没した。墓は京都清水寺にある。[芳 即正]『友松円諦著『月照』(1961・吉川弘文館)」】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、鵜飼吉左衛門は「没年:安政6.8.27(1859.9.23)生年:寛政10(1798)安政大獄で刑死した水戸藩京都留守居役。諱は知信,字は子熊,拙斎と号す。尾張国(愛知県)中島村の生まれ。父は水戸藩士鵜飼真教,叔父知益の養子。天保14(1843)年京都留守居役,大番組,弘化1(1844)年,藩主徳川斉昭の隠居謹慎に際し処罰解除を公家に訴え,免職。斉昭藩政復帰後の嘉永6(1853)年に復職,水戸藩の朝廷工作に従事。日米修好通商条約勅許阻止に一応成功したが,井伊直弼ら南紀派のために徳川慶喜の将軍継嗣擁立の勅命獲得には失敗。安政5(1858)年8月,水戸藩あての密勅(戊午の密勅)を朝廷より受領,息子幸吉に勅書を斉昭のもとに運ばせた。密勅降下を工作したなどのかどで死罪。死に際し斉昭の安否を問うたという。(吉田昌彦)」】

【注⑤。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、有馬新七(1825―1862)は「江戸後期の薩摩(さつま)藩尊王攘夷(じょうい)の志士。諱(いみな)を正義といい、武麿(たけまろ)と号す。文政(ぶんせい)8年11月4日薩摩国(鹿児島県)伊集院(いじゅういん)郷に生まれたが、父の坂木正直が城下士有馬姓を継いだので加治屋(かじや)町に移る。幼少より文武に励み、東郷流弓術、神影(しんかげ)流剣術に達し、のち江戸に出て山口菅山(かんざん)に学び、崎門(きもん)学の精髄を極める。1845年(弘化2)京都に上り、梅田雲浜(うんぴん)らと交遊。1858年(安政5)幕府の無勅許条約調印の非違を正そうと画策したが、藩命により帰国。大久保一蔵(いちぞう)(利通(としみち))ら同志40余人と脱藩挙義を謀ったが、藩主の慰諭により中止。1862年(文久2)3月島津久光(ひさみつ)(藩主忠義(ただよし)の父)の率兵上京に従うが、激派の真木和泉(まきいずみ)、田中河内介(かわちのすけ)らと挙兵討幕を策し、4月23日同志と伏見寺田屋に会したところを、久光の放った鎮撫使(ちんぶし)に上意討ちされた。享年38。墓は京都市伏見(ふしみ)区鷹匠(たかじょう)町の大黒寺。尊王論を説いて友人から「今高山彦九郎」とよばれた。[原口 泉]」】

【注⑥。三岡石五郎は、後の由利公正(ゆりきみまさ)。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、由利公正は「(1829―1909)幕末・明治の政治家。福井藩士。初め三岡(みつおか)石五郎、のち八郎と改め、維新後由利公正と名のった。1857年(安政4)藩の兵器製造所頭取となり、造船事業に携わるとともに将軍継嗣(けいし)運動(一橋(ひとつばし)派)に関係し、藩主松平慶永(まつだいらよしなが)が隠居謹慎を命ぜられると大老井伊直弼(いいなおすけ)を除くことを計画。一方、福井藩に招聘(しょうへい)された横井小楠(よこいしょうなん)の指導のもと物産会所をおこして財政整理、物産振興にあたり、長崎に蔵屋敷を設けてオランダとの間に生糸などの特約を結ぶなど活躍。1861年(文久1)末には輸出物産300万両に上り、藩金庫には黄金50万両蓄蔵の成果をあげた。維新後、新政府の徴士・参与となり、会計基金300万両の調達、太政官札(だじょうかんさつ)の発行など明治政府の財政面を担当、五か条の御誓文の起草にも関係した。その後大阪府知事御用取扱、福井藩大参事心得、東京府知事を歴任、代書人、巡査の創制などにあたる。1872年(明治5)岩倉具視(いわくらともみ)一行と外遊、1874年民撰(みんせん)議院設立建白書に署名したが、まもなく運動から手を引き、翌1875年元老院議官となる。その後、貴族院議員、有隣生命保険社長、日本興業銀行期成同盟会長を歴任、子爵に列せられる。彼が世に出たのは慶永の推輓(すいばん)と小楠の教導によるところ大であった。[山口宗之]」】

【注⑦。伊達宗城(だてむねなり)は日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「(1818―1892)幕末・明治時代初期の政治家。文政(ぶんせい)1年8月1日、旗本山口相模守(さがみのかみ)直勝の子として江戸に生まれる。1829年(文政12)伊予(いよ)国(愛媛県)宇和島(うわじま)藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、1844年(弘化1)襲封。藩政改革に努めて殖産興業に成績をあげ、また高野長英(たかのちょうえい)や大村益次郎(おおむらますじろう)を招いて洋式軍備の充実を図った。安政(あんせい)期(1854~1860)将軍継嗣(けいし)問題の際には、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)らと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を画策したが成功せず、安政の大獄を期に隠居し、封を嗣子(しし)宗徳(むねのり)に譲った。1862年(文久2)の島津久光(しまづひさみつ)の公武合体運動に呼応して中央政界に進出、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、松平容保(まつだいらかたもり)、山内豊信(やまうちとよしげ)らと朝議参与に任命されたが、横浜鎖港問題で慶喜と衝突し反幕色を濃くした。1867年(慶応3)12月新政府の議定(ぎじょう)に就任、外国事務総督、外国官知事として政府発足当初の外交責任者を務めた。1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任。1871年4月欽差(きんさ)全権大臣に任命され清国(しんこく)差遣、7月29日大日本国大清国修好条規(日清修好条規)を締結した。帰国後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)、外国貴賓の接遇にあたった。明治25年12月20日没。[毛利敏彦]『兵頭賢一著『伊達宗城公傳』(2005・創泉堂出版)』▽『楠精一郎著『列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで』(朝日選書)』」】

【注⑧。この「戊午の密勅」の前後の動きについて高行が『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』で語っているので、引用しておく。「前に述べた通り、既に水戸其他の諸侯は、それぞれ処分せられた。けれども京都に於ては、鵜飼だの、日下部だの処士の遊説の結果、八月八日を以て、幕府及び水戸へ前問題に関する内勅を下された。この内勅の江戸へ着したのは九月二日であつたが、既に時機を逸して、志士の苦心も全く画餅に帰したのである。井伊は断然暴威を以て京都を圧倒するより外に策はないといふので、間部下総守に旨を授けて、翌三日に江戸を発して、上京せしめた。
 間部の着京は九月十七日であつた相だ。先是所司代酒井若狭守をして、梅田源二郎[雲浜]、僧月照を捕縛せしめ、さうして上京するに及び、秋霜烈日といはうか、毫も仮借する處なく、勤王一橋派を一掃して終つた。即ち鵜飼吉左衛門父子、賴三樹三郎、吉田松陰を始め、縉紳(=主だった者という意味か)家臣等数十人を捕縛し、追て江戸へ檻致した。江戸でもまた、日下部伊左次、橋本左内等を捕縛し、眞に中外目を仄てゝ見るといふ有様。太守公も、事件の重大なるを察し、小南の身の上を御心配なされて、俄に国許へ御差帰になつた。何でも八月下旬か、九月上旬頃であつたろうと思ふ。
 かくの如く、間部は、有志輩の手入をなすと同時に、夫々堂上方の進退を行つて、佐幕的の朝廷をつくり、さうして世子慶福公を征夷大将軍とするの宣旨を受け、翌年二月江戸に帰つた。この際勤王派の堂上方は夫々御咎めを蒙つたのである。事態が既に迫つて来て、太守公も御嫌疑があるといふ處からして、安政六年正月、若殿豊範公は御出府となり、二月二十六日、太守公は御隠居なされ、容堂公と御唱へなさるゝ事になり、同時に若殿様が御家督をお嗣ぎ継ぎになつた。是は幕府からの内諭があつたのださうだ。
 三月になつて、国許に於ても、昨年来の事件に関係した人々の當罪があつた。勿論幕府に対して、――其の人々の重なる者は家老の福岡宮内、同桐間将監を始めとし、小南父子だの、寺田左右馬[御側御用人]父子だの、大脇與之進だのである。中にも小南は、最も機密に立入つて運動したのであるから、其の罰も従つて重く、後には、幡多郡佐賀村に追放せられた。さて、曩(さき)に捕縛せられた有志の面々は、この年[安政六年]八月から十月にかけて、夫々処刑せられ、殆ど打首磔等の極刑であつて、実に千古の惨事を極めた。夫から、諸侯の中で、水戸の烈公が、再び水戸城に幽閉せられ、是と前後して、一橋派の役人等が致仕謹慎を命ぜられ、其の十月十一日に、容堂公にも、伊達宗城公と共に謹慎を命ぜられた。依て公には鮫洲の御屋敷で御蟄居といふ事になり、爾後数年間、此処に御出でになつた。
 ツマリ此の大獄は、人も云ふ通り、実に徳川幕府をして国民の怨府ならしめ、徒に末路を早めたに過ぎない」】

一 八月八日、十三代の公方さま(将軍・家定)が薨去(こうきょ。貴人が死ぬこと)された。戒名は温恭院さま。実は七月四日に亡くなられていた。
 ただし八月二十二日、使者が(土佐に)着き、その事実を承った。これまで(将軍の死を告げる)使者が着いてから五十日間、喪に服するよう藩からお達しがでていたが、このたびは薨去から五十日後に事実を公表し、(喪に服すことなく)平常の通り過ごすよう仰せつけられた。これは幕府の権威が衰えた兆しである。(注⑨)

【注⑨。参考のため、嘉永六年に十二代将軍・家慶が亡くなったときの『保古飛呂比』の記述を再録しておく。「八月七日、急ぎの伝令使・中山右衛門七郎が(江戸から)到着、先月二十二日、将軍が亡くなったとのこと。(実際に亡くなったのは六月二十二日。発喪つまり死亡の事実公表が一カ月後の七月二十二日になった)よって切に慎しむようお達しが出た。市中の家々は門戸を閉じた。
(将軍逝去の)凶報の正式な使者が到着する前、非公式の使者が着き、(将軍の死を伝えた)。(喪の期間に入ると)米つき・薪割り等(ができなくなるので、そうした)日用に差し支えがないよう、(今のうち)内々で用意しておくよう注意喚起がなされた」】

[参考]
一 同二十八日、老中の間部詮勝と太田資始が水戸邸に行き、勅書を諸侯へ回示するのを止めさせた。

[参考]
一 同月、フランスと和親互市(=交易)の条約を結ぶ。

[参考]
一 同月下旬ごろ、太守さまが小南五郎右衛門を(江戸から)帰国させた。小南の身に禍が及ぶのを恐れてのことと思われる。

[参考]
一 七月から八月にかけ、「コレラ」病が流行、死者が極めて多く出た。

   九月

[参考]
一 この月三日、間部詮勝が江戸を発って上京し、公家衆を問いただして思いのままに動かし、在京の志士を捕らえて江戸に送った。

   十月

[参考]
一 この月六日、太守さまが伊達遠江守(宗城)の招きに応じて、彼の屋敷に行ったところ、遠江守は老中の内意を伝えて、太守さまを隠居させようとする。

   十一月

一 この月十九日、太守さまが長らく体調不良のため引きこもりのご様子につき、家中一同身を慎んで日々を送った。

一 同月二十一日、世子・慶福公が朝廷により将軍に任じられた。以後、公方さまと称する。
一 この月十二日、太守さまがご病気につき、追々若殿様へ家督を相続させたい旨を御用番さま(※精選版 日本国語大辞典によると、江戸幕府の老中・若年寄が、毎月一人ずつ順番で執務の責任にあたったこと。月番)へ伺ったところ、思召無之(※おぼしめしこれなくと読むが、それが家督相続を許すという返答がなかったという意味か、それとも特段の反応がなかったという意味か、それとも相続を許可されたのか、よくわからない)。よって若殿様は明くる正月九日、江戸を発って国許に向かうと仰せられた。
(※念のためこの項の原文全体を引用しておく。是月十二日、太守様御病症ニ付、追々若殿様ヘ御家督御相続御願被遊度旨、御用番様ヘ御伺ノ處、思召無之、依テ若殿様来正月九日御発駕被遊候御旨被仰出、)

[参考]
一 十二月二十七日、朝廷が間部詮勝に勅命を下し、その中に次の一節があった。
 …………大樹公(=将軍)以下大老・老中の重役たちも、いずれ蛮夷については(天皇の)叡慮の如く遠ざけ、以前からの国法通り、鎖港の良法に引き戻すことに合意されと聞かれ、天皇はまことにご安心されている。こうなったうえはいよいよ公武合体のため何分早く尽力され、以前のごとくに引き戻すよう…………

 安政六年己未(訓読みでつちのとひつじ、音読みできび)   佐佐木高行三十歳

  正月

一 この月九日、若殿様の御一行が高知を出発。いつもの場所へ行き、お見送りした。

[参考]
一 同十二日、孝明天皇(注⑩)が宸翰(天皇の自筆書)を九条関白(尚忠)(注⑪)に下さる。曰く、
 蛮夷(外国勢)の件につき、去年十二月晦日(※この日、老中・間部詮勝が参内)、幕府に対する心中の疑惑が氷塊したのは(既に)返答した通りである。いよいよこの上は関東(=幕府)と合体して、早く夷狄を遠ざけたいと願うのみ。だが左右大臣・三条内府等が昨年より所労(=疲れ、病気)と称して出仕していない。左府(=左大臣・近衛忠熈)には何か武辺(幕府のことか?)に差し支える事情があるのだろうか。右府(=右大臣・鷹司輔熈)は所労で引きこもり、三条前内府(=三条実万・前内大臣)も同じで、しかも遠方に退去したと聞いていたが、このたび三人とも辞職を願い出た。これはどういうことなのか。元来、神州の瑕瑾(夷狄の要求に屈したことを指す)を深く憂慮して、夷賊を遠ざけたいという忠憤の志から、大臣をはじめとした人々が辛苦しているのであって、幕府に対して何らかの野心を抱いているわけではない。それなのに遠方に行くとは、関東がそれをどう思うか、(朝廷に対する)疑念はまだ消えていない。去年の十二月晦日に言った通り、いよいよ関東と合体することに決定した以上は、他事は打ち捨て、関東の幹部たちも早々に疑念を解き、国内を平穏にする措置が肝要ではないか。朝廷においても大臣数人が永く引きこもっていては、かれこれ公事等に差し支えるので、速やかに出仕するよう、よろしく関白が取り計らってもらいたい。

   二月

一 この月三日、(高行の)祖母上が病死された。
 祖母上の病気は脳卒中だった。祖母上は朝七時前後、屋敷の下段の用水のところに何かを洗いに出られた。そのとき、大きな音とともに大地震が起きた。祖母上は子供たちに「気をつけよ」と声をかけられ、一同が祖母上のもとに駆け寄ったところ、そのままお倒れになった。自分ら一同で祖母上を抱き上げ、屋内に寝かせたが、当初から意識がなく、しきりに鼾をかかれ、未の刻(午後二時前後)ごろ絶息された。城下から医師を迎える間もなく、新井口町医師澤田太春・北川省吾の両人がとりあえず診察してくれたが、何の手術もできなかった。御年八十二だった。平素はいたって達者で、今朝までも何かとお世話なさっておられたのに、こんなことになり、家族一同驚き、嘆き悲しんだ。ご高齢ではあったが、少しも病気されなかったので(起きたことが信じられず)夢のような心地がした。さて、お墓は(もともと住んでいた)長浜村にしようかと思ったが、いまは困窮しており、遠方への葬送は雨天の場合、その用意もしなければならない。それのみならず、相当な費用もかかるので、中島参平[祖母の甥]さまの意見で、(自宅の)近辺ということに決定した。拙宅より三丁ばかりの字箕越の墓地に葬り申し上げる。ここは一般の墓地である。

【注⑩。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、孝明天皇は「(1831―1866)江戸末期の天皇(在位1846~1866)。仁孝(にんこう)天皇第4皇子。天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。名は統仁(おさひと)。1846年(弘化3)2月、16歳で践祚(せんそ)、翌年9月即位式をあげる。1846年8月、対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書(さたしょ)を出した。その後も幕府に外交問題で遺憾(いかん)のないようにとの指示を与え、幕府も朝廷の意向を無視できなくなった。1858年(安政5)日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際にこれを拒否、井伊直弼(いいなおすけ)の決断による調印を「専断」と非難した。退位の意向も示したが、攘夷(じょうい)強硬派の公卿(くぎょう)に動かされ、8月水戸藩に幕府改革を求める密勅を発した。1860年(万延1)井伊暗殺後、幕府は朝廷との妥協によって実権を回復しようとし、天皇も、攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断、妹和宮(かずのみや)の江戸降嫁(こうか)を認めた。1862年(文久2)には、将軍家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を求め、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)の登用による幕政改革を指示、さらに攘夷の布告発布を迫り、翌1863年「攘夷断行」を幕府から上奏させるなど、かねてからの攘夷の立場で幕府を強く指導した。しかし、「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」(1863)にあたっては、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。一橋慶喜、松平慶永、山内容堂(ようどう)ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目ざし、岩倉具視(ともみ)ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的であった。1866年(慶応2)7月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示し、幕府の統制力の崩壊は決定的となったが、第15代将軍慶喜の就任直後の12月25日急死した。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復をねらい、薩長(さっちょう)による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。享年36歳。墓所は京都東山(ひがしやま)泉涌寺(せんにゅうじ)の後月輪(のちのつきのわ)東山陵。[河内八郎]」】

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、九条尚忠は「没年:明治4.8.21(1871.10.5)生年:寛政10.7.25(1798.9.5)幕末の公家。二条治孝と信子の子に生まれ,九条輔嗣の嗣子となる。安政5(1858)年日米修好通商条約の締結が朝幕間で問題化するなか関白として幕府との協調路線をとり,攘夷派廷臣と疎隔。将軍継嗣問題では徳川慶福(家茂)擁立を図る南紀派につく。幕府擁護の態度が孝明天皇や廷臣の不信を買い,同年9月内覧を辞職。のち幕府の援助により復職。和宮降嫁に当たってはこれを積極的に進め,公武合体に尽力。ために尊攘派志士の糾弾激しく,文久2(1862)年6月には関白・内覧をともに辞し,久我建通,岩倉具視らと落飾・重慎に処せられ九条村に閉居。慶応3(1867)年1月謹慎・入洛禁止を免除され,12月8日還俗を許される。(保延有美)」】
(続)