わき道をゆく第200回 現代語訳・保古飛呂比 その㉔
一 (安政六年)二月十日、若殿さまが首尾良く江戸に着かれたとのこと。
[参考]
一 同十七日、[三十年史によれば同二十八日]、次の通り。
青蓮院宮(朝彦親王のこと。注①)が謹慎された。
つづいて近衛殿、鷹司父子、三条実万卿が仏門に入られた。
【注①。朝日日本歴史人物事典によると朝彦親王は「没年:明治24.10.29(1891)生年:文政7.1.28(1824.2.27)幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の第4子に生まれる。天保7(1836)年仁孝天皇の養子となり奈良一条院門跡,同8年親王宣下,同9年得度を受け尊応入道親王と称す。嘉永5(1852)年京都粟田口の青蓮院門跡となり尊融と改称,同年12月より天台座主。広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。安政5(1858)年2月条約調印の承認を求めて老中堀田正睦が上洛して以来,諸藩の京都手入れが活発化。水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,条約調印反対の姿勢を示し,将軍継嗣を徳川慶喜に期待して活動。翌6年2月謹慎,12月には隠居・永蟄居に処せられた。文久2(1862)年4月処分を解除され,青蓮院門跡に復した。時に39歳。同年12月国事用掛。翌3年1月還俗の内勅を受け中川宮と称す。 公武合体論を唱えて尊王攘夷運動に対抗。孝明天皇の意を受け8月18日の政変を指導,長州藩・尊攘派勢力を京から追放。その直後に元服し,名を朝彦とした。尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ,皇位簒奪の異図を含み呪詛の密法を行っているとの讒誣を受け,以来この種の風評に悩まされる。当初は薩摩藩と協調していたが,元治1(1864)年より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。慶応2(1866)年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。翌3年12月9日の王政復古の政変に際して参朝停止の処分を受ける。翌明治1(1868)年8月徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により親王の位を剥奪され,広島に幽閉された。同3年京都帰住を許される。同8年5月親王の位を回復し,一家を立てて久邇宮と称す。7月神宮祭主に任命される。神宮の旧典考証に没念,22年遷宮の儀式に従事した。著書に『朝彦親王日記』がある。(井上勲)」】
[参考]
一 二月十九日、土佐藩において御目付役より口述書が渡された。次の通り。
口述
太守さまが隠居された。若殿様が江戸に到着され、そのうえで(幕府に)家督相続を願い出て、認められた。家督相続の手続きが済んだので、もろもろの屋敷の家臣たちはじめ一同神妙に受け止めるよう江戸より通達があった。
[参考]
一 同二十日、間部下総守が京都を発ち、後事を酒井(若狭守)・内藤(老中の内藤信親のことか?)に委ねた。在京、百五十余日である。
一 同二十六日、太守さまが隠居なされた。お名前を容堂さまとお呼びするよう通達があった。早速、新たな太守さま[豊範公]が家督を継がれた。
三月
一 この月二日、土佐藩において次の通り処分が決定された。
御奉行
福岡宮内
勤務中、太守さまの意向に反する、ある事情につき、三谷村へ蟄居を仰せつけられる。(※誤訳の恐れがあるので原文を引いておく。勤役中被當思召子細ニ付、三谷村ヘ蟄居被仰付)
御近習御家老
桐間将監
右と同じ理由で惣領職(一家の当主を相続する権利)を取り上げられ、(父親の)蔵人の知行地である改田へ蟄居。
定府御留守居役
廣瀬傳八郎
品川の藩邸に蟄居、後日、国許へ帰ることを許す。
御側御用役中老職
生駒猪之助
勤務中、太守さまの意向に反することがあったのみならず、勤務中に不品行があったため、家格・禄高を取り上げ、城下ならびに周辺四カ村への立ち入りを禁ずる。
猪之助の惣領
生駒源太
知行高として四百石をさずける。格式は馬廻りに仰せつけられる。
小南五郎右衛門
江戸での勤務中に太守さまの意向に反する、ある事情につき、片坂東への立ち入りを禁ずる。
(※片坂東の意味がよくわからない。これから先は私の当てずっぽうだと思って読んで欲しいのだが、当時、小南は安政の大獄で幕府の追及を受ける立場にあった。容堂はそれを避けるために先手を打って小南を高知に送り返したのではないかと言われている。坂東は関東を意味する。もしも、片坂東がより狭い範囲の関東、つまり江戸を指すとしたら、なんとなくだが、話のつじつまが合ってくる。容堂は小南の江戸立ち入りを禁じることで、逆に幕府の手が及ぶのを防ぎ、小南の身の安全をはかろうとしたのではなかろうか)
養育躮(せがれ)
小南孫八郎
七人扶持の切米二十四石を下され、格式は馬廻り。
御側御用人
寺田左右馬
右と同じ処分、そのうえ(城下周辺の)四ケ村への立ち入りを禁ずる。
左右馬惣領
寺田典膳
禄高のうち百十石を下され、格式は馬廻り。
御近習目付
橋本伊曾江
右と同じ。ただし、四ケ村への立ち入りを禁ずる。
伊曾江惣領
橋本辰吉
禄高のうち七十石を下され、馬廻りを仰せ付けられる。
惣領御近習目付
同 栄三郎
布師田川(現在の、高知市を流れる国分川か)の西側にかぎり立ち入り禁止を仰せつけられる。
御納戸役
大脇興之進
しばらくの間、小目付(藩政の監査や情報収集にあたる役職)として京都へ派遣されたときのことに関連して、太守さまの意向に反することがあったため、きつく遠慮(注②)を申しつけ、後日、役職を免ずる。
【注②。精選版日本国語大辞典によると、遠慮とは「江戸時代、武士や僧侶に科した軽い謹慎刑。居宅での蟄居(ちっきょ)を命ぜられるもので、門は閉じなければならないが、くぐり戸は引き寄せておけばよく、夜中の目立たない時の出入は許された」】
[参考]
一 三月十一日、奉行職一同よりの惣触(注③)、次の通り。[江戸より飛脚到着]
太守さま(容堂公)・若殿さま(養嗣子豊範)はますます御機嫌よく、ことに二月二十六日、太守さまの名代の佐竹壱岐守さま(義堯。第十二代秋田藩主)と、若殿さま病気療養中の届けを携えた名代・稲葉伊予守さま(観通。第十四代豊後臼杵藩主)のお二人が江戸城に登城されたところ、白書院(注④)の控えの間で、願い通り太守さまの御隠居が認められ、若殿さまが御家督を継がれた。大坂表の警衛も太守さまの時の通り仰せつけられた。ありがたき仕合わせ、大慶の至りである。よって大老・老中への挨拶も、これまた壱岐守さまにより万端首尾良く済んだとのこと。恐悦至極である。
右の知らせのお使いとして花井彦之進が(国許に)遣わされたとのこと。近々到着するはずだが、とりあえず第一報を知らせる。なお前記の通りの事情につき、二十六日より太守さまを御隠居さまとお呼びするよう通知があった。
右の内容を同じ組の者にも(伝えるように)云々は決まり文句なので略する。
深尾弘人
柴田備後
口上の覚え
今般、御隠居さまの名を改めることについてのお伺い書を先月二十七日に差し出したところ、即日認められ、容堂さまと改められた。ご安堵なされたとのこと、恐悦の至りである。
右の内容云々は決まり文句につき略する。
三月十一日 右両人名
【注③。惣触は世界大百科事典の解説によると、「江戸では,老中から出された御触を〈惣触(そうぶれ)〉,町奉行が管轄内の事項について発した御触を〈町触〉といった」。おそらく土佐藩でも行政トップの奉行職(執政)から出された触れを惣触、それより下の官僚が管轄内の事項について発した御触を町触といったのではないか】
【注④。精選版日本国語大辞典によると、白書院は「江戸城本丸御殿では一番主要な大広間の次にあり、表向きの部屋として儀式を行なったり、来客と対面したりするのに用いた」】
四月
[参考]
一 この月二十六日、我が藩が幕府より、東叡山(=上野の寛永寺)の防火を命じられる。
四月、東叡山の火の番を上杉弾正大弼(上杉斉憲。出羽国米沢藩12代藩主)の代わりに勤めるよう仰せつけられたので、そのつもりで勤めに励むよう。以上。
四月二十六日 老中連名
松平鹿次郎(豊範のこと)殿
八月
[参考]
一 この月十六日、幕府が鷹司・近衛・三条の三公を譴責した。
一 同二十七日、一橋(慶喜公)が隠居慎み(注⑤)、水戸侯父子が蟄居差控え(注⑥)を命じられる。
徳川刑部卿(慶喜)殿について(将軍家の)お考えがあり、隠居謹慎となった。今までの(一橋の)領知(土地を領有して支配すること)はそのまま、ならびに付き人・お抱え入れの者どももそのまま一橋付きとするよう命じられたので、そのことを諸方面に伝えられたい。
上使(幕府の使者)松平左京大夫・松平左兵衛督がこのたび水戸前中納言殿(徳川斉昭)へ次の通り伝達するよう命じられた。水戸中納言殿(徳川慶篤)へも右に同じ。
水戸前中納言殿におかれては、国家のためを思って主張なさるのは当然のことだが、御建白になった事柄を幕府に採用されなかったといって、自分の家来の者を介し、京都の(お公家衆に)いろいろな自説を吹き込まれた。(※この一節は誤訳の可能性大なので、原文を引用しておく。水戸前中納言殿御事、国家之御為筋之儀被仰立候ハ、御當然之儀に候得共、御建白之次第御取用無之迚、御家来之者ヲ以テ御見込筋之品々、京都エ被仰遣、)これに加え、将軍跡継ぎ問題についても、軽輩が公家衆に工作する始末。関東(幕府のこと)御暴政といったことを吹聴して人心を惑乱し、讒奏(=天子に幕府の悪口を吹き込むこと)のようなことをして、ついには重大な勅諚を軽輩がもてあそび、さらには綸旨(=天子の命令文書)を懇願するに至った。これは公武(朝廷と幕府)の確執を生み、国家の危機を招く行為で、容易ならざる事態である。たとえ家来の者どもが(前中納言殿の)心中を察し、私的に周旋したことであっても、もともとの心得方が良くなかったために、右のような次第にいたったのであって、これは御公儀に対して後ろめたさを感じざるを得ない処置である。これにより、急度(きっと。一段厳しい処罰の意か)を命じられるべきところであるが、重要な法会も無事済まされたこともあり、格別の思し召しをもって、水戸表に永く蟄居されるようお命じになられた。
(水戸前中納言殿は)同夜、水戸表へ発たれた。警固の人員も八つの大名家がそれぞれ負担し、特段の異常なく(身柄を)引き取った云々。
水戸中納言殿におかれては、前中納言殿が京都へいろいろ内通していたこともあり、家来の者どもが(中納言殿の)内意を察して容易ならざる企てに及んだ次第である。公儀に対してもすべて後ろめたい事情もあり、(それは前中納言と)父子の間柄で仕方がないと言っても、他にやりようがあったはずだが、そうしようとした形跡もない。家来の者どもを厳重に取り締まるべきであったはずなのに、そうしていない。それどころか家来の末端の者にいたるまで多人数が(京都に)出張した。そうした者たちの動きを抑えず、不行き届きのいたりである。急度(きっと)も命じられるべきところであるが、(※以下は意味がよくわからないので原文を引用)[追々御配慮モ被為有之候上之御事ニ而、御情実止ム事ヲ不被為得御場合ニ相聞]、これにより格別の思し召しをもって、(刑を減じ)差控えにするようお命じになった。
八月二十七日
これと同時に、水戸家の家老以下で罰せられた者が多かった。
【注⑤。デジタル大辞泉によると、隠居は「江戸時代の刑罰の一。公家・武家で、不行跡などを理由に当主の地位を退かせ、俸禄をその子孫に譲渡させた」。また慎みとは、「江戸時代、武士や僧侶に科した刑罰の一。家の内に籠居ろうきょして外出することを許さないもの。謹慎」】
【注⑥。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、蟄居は自宅の一室に謹慎させる刑で、謹慎・閉門の刑が門を閉じて出入りを禁じたのに対し、蟄居は閉門のうえ一室に籠(こも)ることを命じた。また、世界大百科事典 第2版によると、差控は「江戸時代,武士や公家に科せられた制裁。勤仕より離れ,自家に引きこもって謹慎する。門を閉ざすが,潜門(くぐりもん)から目だたないように出入りはできた。比較的軽い刑罰ないし懲戒処分として,職務上の失策をとがめたり,あるいは親族・家臣の犯罪に縁坐・連坐せしめる場合などに用いた」】
[参考]
一 この月、幕府より、九条関白殿に千石の加増があった。その千石のうち五百石は現職に在職中のみ支給される。また廣橋前大納言に白銀五百枚を下された。
九月
[参考]
一 この月二十五日、幕府において武家法度を発表した。次の通り。
武家諸法度
一 文武忠孝に励み、礼儀を正すべきこと。
一 参勤交代については毎年所定の時節を守るべし。従者の員数を必要以上に多くしないこと。
一 人馬・兵具については身分や財力に応じて用意すること。
一 新規の城郭の築造はこれを堅く禁じる。居城の堀や石垣が壊れたときは奉行に届け出て指図を受けること。櫓・塀門の補修は先規に従うこと。
一 大船製造については(幕府に)言上すべきこと。
一 新規の企てや、徒党を組むこと、あるいは誓約をなすこと、ならびに私的な関所をつくることや新法による津留(物流の制限・停止)を禁止する。
一 江戸ならびにどの国においても、不慮の事態が生じたとしても、みだりに群集すべからざること。国許にある者はその所を守り、幕府の指図を待つべし。どの国においても刑を執行するとき、担当役人の他は出向くべからず、検使の指図に任すべきこと。
一 喧嘩口論は慎むべし。私の争いごとはこれを禁ずる。もし、よんどころない事情があるなら奉行所に届け出て、その指示を受けるべし。何事によらず、争いに加担せし者の咎は本人より重くなるはずだ。元の主人のもとで差し障りがあった者は抱えてはならない。
補足。主人のある輩が百姓から訴えられた訴訟は、その支配(主人のことか)に談合させよ。もし解決しなかったら、評定所へこれを差し出し、指図を受けること。
一 国持ち・城持ち・一万石以上の大名、近習ならびに諸奉行、諸物頭は(公儀の許しなく)私的に婚姻を結んではならない。総じて公家と縁組みする者は奉行に届け出、その指図を受くべきこと。
一 音信(手紙や訪問によってよしみを通じること)・贈答・嫁取りの儀式・饗応あるいは家宅の築造等、そのほか万事倹約すべし。総じて無益の道具を好み、私的な贅沢をせぬこと。
一 それぞれの身分ごとに定められた衣裳のしきたりを守ること。白地の綾織物は公卿、白地の小袖は諸大夫以上に許すこと。
補足。従者・若党の衣類は、羽二重・絹紬(絹織物の一種)・布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、その下にいたってはすべて布木綿を用うべきこと。
一 輿に乗ることは、徳川一門の歴々、国主、城主、一万石以上ならびに国持ち大名の子息、城主および侍従以上の嫡子、あるいは五十歳以上の者にこれを許す。医師・僧侶は特別扱いとする。
一 養子は同姓の中からふさわしい者を選び、もしそれがいないときは由緒をただし、存命の内に届け出ること。五十歳以上十七歳以下の輩が末期に及んで養子を立てるといっても、よく調べたうえで立てること。たとえ実子といえども、筋目違いの者は養子に立ててはならない。
補足。殉死は今まで以上に厳禁する。
一 領地の統治は心清く行い、国郡の勢いを衰えさせないこと、道路・駅馬・橋船等を断絶させることなく、往還せしむること。
一 諸国に散在する寺社領は、古より今にいたるまで所有するものは、これを没収してはならない。もちろん新たな寺社の建立は今まで以上にこれを止める。もしよんどころない事情のあるものは奉行所に届け出て指図を受けること。
一 万事江戸の法度に従い、それぞれの国々それぞれの場所において規則を遵守すること。
右の各条を堅く守るべきものなり。
安政六年未年九月二十五日
十月
一 この月七日、橋本左内・賴三樹三郎が死罪となり、つづいて吉田松陰も処刑された。梅田雲浜・日下部伊左次は獄中で死んだという。
一 同十一日、御隠居さま(容堂)が幕府により慎みを仰せつけられる。
諸家の筆記に曰く。十日の夕、幕府より老中の連名で奉書が届いた。御用の儀につき明十一日、山内家一門の一人が登城せよとのこと。
右の件につき、藩邸の役職者らが協議のうえ、麻布さま(山内家分家の山内遠江守)に名代を頼んだ。同十一日、麻布さまが名代として登城されたところ、やがて大目付が御入来との知らせがあったため、(速報要員の下級家臣?)御歩行(おかち)七人がお城に上がった。どういう処分が言い渡されるのかと恐れ多く、甚だ心配しながら時を待ったが、やがて麻布様が大目付同道でお城を退出され、(太守さまがいる)品川藩邸にお出でになった。
また飯沼氏の筆記に曰く。
一筆啓上。御用の儀があるので、今日四ツ時、一門のお一人が登城されるよう、昨夜老中の連名による奉書が到来したので、今朝六ツ半時、遠江守がお供をつれて登城されたところ、(江戸城の)黒書院溜まり(注⑦)で大老・老中が列座され、御奏者番(注⑧)・大目付一同が出席され、御目付の大草主膳殿の差配により、御用番(注⑨)の内藤紀伊守より別紙の通り言い渡された。遠江守が大目付とともに品川藩邸にお越しになった云々。
(罰文)
松平容堂
その方は、藩主の座にあったとき、京都の公家衆へ容易ならざることを内通したとの話が聞こえてきた。京都への内通はみだりにしてはならぬことであるはずなのに、右のような始末になるのは公儀を憚らぬ仕打ちなので、急度(きっと)も仰せつけられるはずのところ、現在は隠居の身分であるので、寛大な心をもって慎みを言い渡す旨を仰せになった。
山内遠江守
大目付
平賀駿河守
別紙の趣を、その方どもが容堂方に行って申し渡すように。
右の件について十月二十三日、早追いの使者・高屋○馬が高知着。
【注⑦。溜間(たまりのま)はブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、「江戸城黒書院にある控えの間。彦根の井伊家,会津,高松の両松平家,姫路,庄内の両酒井家などは世襲的にここに座席をもち,その他の家門,譜代の大大名が出仕して,将軍,老中の諮問に応じるならわしがあり,これらの大名を溜間詰または単に溜詰といった】
【注⑧。奏者番(そうじゃばん)は日本大百科全書(ニッポニカ)によると「江戸幕府の職名。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の創置。員数20~30人(諸大夫(しょだいぶ)、芙蓉間(ふようのま)詰)。万石以上の譜代(ふだい)大名のなかから補任(ぶにん)された。大名、旗本などが年始、五節供、朔望(さくぼう)などに将軍に拝謁するとき、その姓名や進物(しんもつ)を披露(ひろう)し、将軍の下賜品を伝達した。また御三家(ごさんけ)および諸大名家へ上使を勤めることがあった。当番、助(すけ)番、非番などがあり、交替で勤めた。言語怜悧(れいり)、英邁(えいまい)の人物でなくては勤まらぬ役職といわれ、1658年(万治1)以降寺社奉行(ぶぎょう)(定員4人)はこのうちから兼帯することを例とした。譜代大名はここを振り出しに、寺社奉行を経て若年寄や大坂城代、京都所司代(しょしだい)あるいは老中などの重職へと上った。1862年(文久2)廃止。職掌は詰衆、詰衆並(なみ)、寺社奉行、大目付、目付、進物番、高家(こうけ)などに分属した。翌年再置。[北原章男】
【注⑨。用番(ようばん)は精選版 日本国語大辞典によると、「江戸幕府の老中・若年寄が、毎月一人ずつ順番で執務の責任にあたったこと。月番。御用番】
[参考]
一 十月十二日、昨日十一日に御隠居様が慎みを命じられ、その件で、太守さま(現藩主・豊範)・少将さま(第十二代藩主・豊資)が差控え(出仕せず、自宅謹慎すること)の儀について御伺い書を差し出されたところ、この日[御付添ヲ以](※幕府の使者により、という意味か)太守さまは(将軍への)お目通りを差し控えるように、少将様は差し控えに及ばずとのご指示があった。
[参考]
一 同十七日の夕七ツ時、江戸城本丸で火事があった。
[参考]
一 同二十九日、公儀の書き付けの写しは左の通り。
大目付
西洋の書籍については、かねてご指示があったが、今般、神奈川・長崎・箱館が開港したので、右の場所において外国商人どもより直接買った書籍は運上(注⑩)役所に差し出し、改め印を受けるようにせよ。もしも心得違いで改め印がなく、ちょっとでもご禁制の宗門のことに関わるような書籍類を取り扱う者がいたら、厳罰に処す。
【注⑩。運上とは、世界大百科事典第2版によると「江戸時代における雑税で,小物成(こものなり)の一種。商業,工業,運送業,漁業,狩猟などに従事する者に対して課せられた」】
十一月
[参考]
一 この月十二日、我が藩の御目付方のお触れに曰く。
太守さまのお目通り差し控えの処分は今日解除された。諸事平常の通り。もっとも御隠居様が御慎み中につき、楽器の演奏は停止。
[参考]
一 同二十七日、幕府、外国人と直接、刀剣等を売買することを許す。
覚え
外国人どもが刀剣・長刀を買い入れる際、これまで役所の監督下で取引させていたが、これからは商人どもが相対で直売するのを許すので、刀剣類の売買を生業とする者たちへその旨を申し渡すように。
外国御用に立ち合いの面々
外国奉行
神奈川奉行
長崎奉行
箱館奉行
十二月
一 この月十六日、太守さまは五ツ時に(江戸城へ)登城、土佐守に任じられ、四位に叙せられた。御附使(※任官叙位を伝える使者のことか)が帰り、太守さまは退出後に大老や老中へ挨拶回りをされたとのこと。
[参考]
一 十二月二十四日、間部下総守が老中をやめた。
この年、大老の専横非道が甚だしく、親王・公卿および諸藩士を罪に問い、罰した。刑死あるいは追及の手を逃れて流謫した者ほとんど数百人。世の人々はこれを戊午の難と称した。その罰せられた者はおおむね憂国の士である。ここにおいてか幕府はますます人心を失い、怨府となるに至った。
(続。ちょっと体調を崩して入院していたので記事の更新が遅れました。今回も解読の難しい個所がいくつかあって難渋しました。引き続き来年もよろしく)